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2014年06月28日

【知道中国 1094回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1094回】     一四・六・念七

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上14)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 勝利目前の毛沢東に劉邦の天下掌握を暗示した『覇王別妃』の公演を献ずる。これこそ即位目前の”赤い皇帝“に対する京劇界の必死の拍馬屁(ゴマスリ)である。共産党の天下になって旧中国が完全否定されようとも、旧い封建中国で華盛の時を謳歌した京劇が、これまでと同じように、いや益々盛んに公演できますよう。幹部の皆様に、我ら役者のパトロンとなって戴きたいという懇願のメッセージだったはずだ。

 京劇と政治の因縁は数限りないが、一先ず切り上げ、話を再び野上の見た延安に戻すことにする。

 どうやら野上にとっては、延安の「むっと日向臭い黄土の粉末で肺臓を膨らましている」住民の誰もが純朴で、共産党贔屓でなければならないらしい。そこで、そんな男の代表として「延安地区観察所長」が登場することとなる。

 「日本でこんな職にある人とは全然違った形をしてい」て、「背丈も高く、からだつきも頑丈な大男で、おそらく農夫か労働者であったに違いないが、また、きっとその時のものとたいしてかわらない洗いざらしの藍木綿の服は、膝につぎがあたっている」とのこと。ならば野上の注文にぴったりだったろう。

 そんな「彼はなかなかの雄弁で」、「毛沢東の延安入りになると、からだを椅子から乗りだし、手振り、身振りのおおきなゼスチュアで、このことは言葉では追っつかないといった恰好でまくしたてる」のであったが、通訳泣かせの丸出しの土語。そこで彼女は、延安地区観察所長のことばを敢えて次のように綴った。

 「毛主席がござったのは、年が明けてもう正月でがんした。紅軍の兵隊が百五十メートルから二百メートルおきにつん並ぶ中を、驢馬に乗ってござったが、灰色の綿入れに、同じ恰好でな、赤い星の八角帽をかびって、はいた沓は裂けていましたわ」。延安の街から出迎えが出て、「なにか景気をつけたいにも、急場のこととて間にあわん。そこで嫁取りやお葬式の時の笛、ラッパをかき集めて、毛主席の姿が見えると、ぴいぴい、ぷうぷうやって、わあーっとみなの衆がどなって歓迎したでがす」

 延安地区観察所長が毛沢東の延安入りを目撃したのが22歳。それから12年が過ぎた1947年、ということは彼が34歳の時に胡宗南軍の延安占領があり、さらに10年が経った1957年に野上が延安入りしていることになる。ということは、はたし『1947年春:延安』に収められた写真に、34歳の時の延安地区観察所長は写されている可能性なきにしもあらず、だろう。彼は毛沢東と共産党に対する延安住民の大歓迎ぶりを語っている。だが、だからといって胡宗南軍が歓迎されなかったわけでもないだろうに。じつは『1947年春:延安』の写真からは、胡宗南軍をも歓迎した延安住民の姿が浮き上がってくるようだ。

 たとえば胡宗南軍による占領後の住民大会に向かう1枚。2組の家族連れらしい姿が写されている。全員が綿入れの厚手の木綿地の上着にズボン。着古された様子は、モノクロ写真からも十分に感じられる。生活が豊かでなかったことが偲ばれる。一団の先頭を笑顔の男の子2人が歩き、その後に続くのが晴れ晴れとしたような笑顔を振りまく3,4歳と思しき女の子。彼女の左手がしっかりと繋がれている相手は、たぶん母親だろう。その後ろを子犬が1匹。最後尾を歩くのは父親たちか。ものいわぬモノクロ写真ではあるが、その1枚から和気藹々と歩く家族の軽やかな足音と歓声が聞こえてくるようだ。

 延安地区観察所長の語るように毛沢東と共産党が歓迎されたとして、延安住民は同じように胡宗南軍をも歓迎したに違いない。

 長いものには巻かれろ。ドブに落ちた犬には石をぶつけろ。万古不易の処世訓。《QED》

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2014年06月27日

【知道中国 1093回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1093回】      一四・六・念五

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上13)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 孔明陣営の3つの城郭を攻め落とした司馬懿の大軍は、勝利に勢いづきながら西城に襲い掛かった。守備兵の出払った西城を守るは孔明と僅かな老兵のみ。これでは雲霞の如く押し寄せる司馬懿の大軍を前にひとたまりもなく、西城陥落は避けられそうにない。かくて死中に活を求めようと空城の計を仕掛けた孔明は、余裕綽々たる様を演じるべく西城の城楼に立って琴を奏で唱いだす。京劇《空城計》のクライマックスである。

 「我正在城楼 観山景 耳聴得城外 乱紛々・・・我いま城壁(しろ)の上に立ち、四囲の山河に目を遣れば、耳に聞こえる軍馬の響き、軍旗大いにはためきて、あれは司馬懿の軍勢か、我いま人を遣わせて、探りてみれば司馬懿の軍、西(ここ)を目指して攻め来る、一に馬謖の無謀にて、二つに諸将の指揮乱れ、かくて街亭敵の手に、我が三城を抜き去るは、げに見事なる戦ぶり、続いて我が西城(しろ)抜こうとは、そが心意気壮ならん、我いま城楼(しろ)に君待つは、共に語らんためなるに、西城(しろ)への道を清めるに、君が手勢に休息を、むさ苦しきが楼上なるも、美酒に肴を整えて、君が勲を寿がん、先ず城内に進まれよ、などて逡巡めさるのか、歩(あゆみ)を留めて悩むなし、我にあるのは琴童二人、兵など伏せてはござらぬぞ、いざそのままに階を、登り来たりていざここに、耳を傾け愉しまん、我が弾く琴の調べなど・・・」

 胡宗南軍の砲撃を聞きながら、毛沢東がこう口ずさんだのかどうか。それは判らない。だが、警護の兵がそう回想すれば、いつしかそれが真実となって、知略溢れ豪胆な現在の孔明としての毛沢東像が出来上がり、増殖しつつ一人歩きすることになる。

 行きがけの駄賃とも、ものはついでともいうから、毛沢東と京劇にまつわる話題をもう1つ。

 時は1949年4月。所は、まだ北平と呼ばれていた頃の北京。京劇関係者たちは毛沢東と共産党中央の北京入城を歓迎するため、毛を筆頭とする共産党幹部を京劇公演に招く。
その日の夕暮時、いつもより早めに夕食をすませた毛沢東は、北京郊外の景勝地で知られる景山の西南にあり、かつて孫文も住んだといわれる双清別墅を出て、警護の部隊に守られながら街の中心に。戦禍を免れた長安大戯院の二階正面中央のロイヤル・ボックスに座った毛沢東の左右には、朱徳、劉少奇、周恩来ら“革命の元勲”が侍る。宿敵である?介石との戦いの勝利は目前だ。中国の大地は、もうすぐ毛沢東の掌に落ちる。

 日中戦争中は、髭を蓄えることで旦(おやま)は演じられませんと日本側からの京劇公演要請を頑なに断っていたと伝えられた梅蘭芳が、日本への抵抗の思いを託した髭をきれいサッパリと剃り落とし、心機一転、何年かぶりに舞台を務めるという。数年の空白は梅の芸を衰えさせたのか。それとも以前にも増して艶やかな舞台を見せてくれるのか。毛沢東の期待も高かったはずだ。この夜、毛沢東に献ぜられた演目は、梅蘭芳が虞姫を、劉連栄が覇王項羽を演じた《覇王別姫》。

 劉邦との戦いの勝敗はほぼ決したうえに愛妾の虞姫をも失う。失意の項羽は気力を振り絞って垓下での決戦に臨む。だが、さすがの項羽であっても「時に利あらず」なら致し方なし。僅かに残った敗残の兵を従え、劉邦の大軍の真っただ中に死地を求め、阿修羅の如き様相で飛び込んでいくしかなかった。

 即位直前の“赤い皇帝”に、なぜ、かくも縁起でもない京劇を献じたのか。じつは項羽は?介石を、虞姫は宋美齢を擬している。ならば項羽を打ち倒して強大な漢帝国を築き上げた劉邦は、もちろん毛沢東を指す。毛沢東帝国の誕生を寿ぐに、これ以上の芝居はない。

「借古諷今(古を借りて今を諷(かた)る)」・・・芝居がかった政治であることか。《QED》

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2014年06月22日

【知道中国 1092回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1092回】    一四・六・念二

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上12)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 ここからは些か野上から離れるが、万事に芝居がかった中国の政治文化について少し考えてみたい。

 1947年4月の胡宗南軍による占領直後に延安入りした国民党系新聞記者は、それから40年ほどが過ぎた80年代末期の台湾において、「内外の数十人の記者は特別ルートで延安に入り、国軍(=国民党政府軍)が栄光のうちに取り返した共都(=共産党政権の首都)の姿を徹底して捉えようとした。だが西北地域を管轄する胡宗南将軍はじつによそよそしく、一行を宴席に招待したものの、終始沈黙するままであった。〔中略〕名前のみ広く世に知られながら実態が明らかでなく神秘のベールに包まれた街が、空っぽであることを知った。訪ねて問い質すべき相手もいないし、伝えるべき話題にも乏しかった。2日間の延安滞在だったが、記者の誰もが暇を持て余すのみ」と、当時を振り返っている。

 つまり毛沢東を筆頭とする共産党勢力は、胡宗南軍と戦うことを敢えて避けた。戦いの真の目的は延安という街や共産党が本拠を置く建物ではなく、共産党中枢を守ることであり、敵を消耗戦に引きずり込むことだった。そこで共産党は一般住民と僅かな民兵を残し、重要機関の建物の柱と屋根と壁のみを残し、鍋釜の類の日常生活道具を含め他の一切合財を持って延安から退去したわけだ。敵が立ち去ったら、またぞろ家財道具を持って元に棲家に戻るだけ。これまた中国における戦争の一つ形ということになる。

 砲弾を雨霰と撃ち込んだ後、胡宗南軍は延安に突入した。だが延安は空っぽ。なんともお粗末でトンマな話だ。とはいえ胡宗南軍は共産党部隊潰滅の“事実”を招待した内外記者に示さなければならない。そこで胡宗南軍政治部は、隷下の指揮官を共産党軍旅団長に、兵士を共産軍兵士に仕立て上げ、記者団に面会させた。彼らに面談した記者は、「捕虜は誰もが同じような返答しかしない。明らかに想定問答を練習している」と呆れ返るしかなかった。

 『1947年春:延安』には蒋介石の秘書と並んで立つ胡宗南の写真も残されているが、「共都」を殲滅し大軍功を立てた将軍の華々しさは微塵も感じられない。彼の顔には沈鬱の影が射す。それもそのはず。索敵作戦を敢行すれども毛沢東の行方は杳として掴めず、共産党主力は霞のように黄土の山々に消えてしまったのだから。

 毛沢東の護衛の回想によれば、じつは毛沢東は延安を見下ろすことのできる近くの山の頂から、自らが立案した作戦の出来栄えに満足しつつ、胡宗南の延安攻撃の様を観戦し、ドーン、ドーンという砲撃音を伴奏代わりに、京劇の演目である『空城計』の一節を唸っていたという。さすがに戯迷(芝居狂い)の毛沢東である。やはり芝居っ気はタップリ。

 ところで京劇の『空城計』の粗筋だが、

 功を急ぐあまり馬謖は孔明の知略を無視し無謀にも敵陣深く突っ込む。一方、孔明の居城(といっても日本風の城郭ではない。城壁で囲まれた街)に残るは僅かな老兵。やがて司馬懿の大軍勢が雪崩を打って押し寄せる。そこで孔明は奇策にでる。城門を開け放ち、城楼のうえで琴を奏でながら「酒食を備えお待ちした。いざ、城内へ」と誘う。はて、これは孔明の機略。誘いのままに城内に進むと城門を閉じられ一網打尽。それを恐れた司馬懿は「進撃を」と懇願する息子の司馬昭を「小童どもに何が判る」と退け、大軍に退却を命ずる。司馬懿の短慮に命拾いした孔明は軍議の席で馬謖の軍規違反を厳しく問い質す。死罪を免れんと懇願する馬謖。だが軍規の厳しさを示す共に全軍を鼓舞すべく、孔明は自らが育てあげた馬謖の斬首を命じた。泣いて馬謖を斬る、である。

 やはり眉にツバして聞いた方がよさそうだが、万事が宣伝戦と考えれば・・・納得。《QED》

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2014年06月20日

【知道中国 1091回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1091回】       一四・六・二十

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上11)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 野上は、「満州事変なるものの頃に遡って考えても、日本軍部の行き方には私は常に否定的であった。それとて、ごまめの歯ぎしりに終わったのであるが、とにかく、この態度だけは失わなかった」と胸を張り、「私の良心のおかげ」と自画自賛してみせる。少女趣味もイイカゲンにしてもらいたいところだ。「この態度」の実態を知りたい気もしないでもないが、まあ知ったところで凡そ屁のようなものと五十歩百歩であり、しょせんは有閑マダム(もはや死語だが)の好尚を装った井戸端会議か白日夢の類だろう。とにもかくにも延安までノコノコと出掛けて行って「私の良心」をひけらかすなんぞ、なんとも腐り果てた根性の持ち主だと呆れ返るしかない。

 これまでみてきた柳田謙十郎を典型例といっておくが、ともかくも野上も含め、この種の手合いを“戦後民主日本の良心の象徴”などと煽て、上げ膳据え膳式で招待し、徹底して丸め込んで洗脳し、対日宣伝工作要員として仕立てあげる。かくして日本に戻った彼らは、共産中国のために嬉々として宣撫工作に邁進することになるわけだから、見事なまでに計算され尽くしたイメージ戦略というしかない。 

 つまり中国側のイメージ戦略に則って野上は延安を歩く、いや正確に表現するなら歩かされたということだろう。であればこそ、毛沢東や共産党に対し悪い印象を抱くわけがないはずだ。

 「福建省の瑞金から出発したえりぬきの紅軍十万の男と、三十五人の女が、到るところに待つ敵との戦い、それ以上に苦しい悪路、荒野、激流、水浸しの大草原、千年の雪の山岳との戦いに、仲間の多くをつぎつぎに失いながらも、二年近くもかかって二万二千マイルを踏破し、あの『出埃及記』ともいうべき偉大な長征記を読むたびに・・・」と、瑞金から延安までを感動的に綴り、毛沢東に率いられた共産党の英雄的な姿を訴えようとする。

 かくして、この部分を、野上の言動にイカれ、自らを“民主日本の良心”と自惚れているようなゴ仁が読めば、瑞金から延安を勇猛果敢に戦い抜いた毛沢東率いる共産党の不撓不屈の姿に大感動してやまないはず。だが、『出埃及記』が聞いて呆れる。あれは共産党殲滅に執念を燃やす蒋介石軍による最後の包囲掃蕩作戦からの命からがらの逃避行だった。『出埃及記』を連想させる大長征物語は、共産党が脚色した実態とかけ離れたイメージ大作戦だったのだ。「えりぬきの紅軍十万の男と、三十五人の女」というが、こんなイビツ極まりない人間集団がマトモに戦闘行動をとれるのだろうか。全員が聖人君子でもあるまいに、敵に立ち向かえるとは考えられそうにない。だいいち「十万の男」の中に僅か「三十五人の女」だなんて、やはり異常だろうに。どう考えても、いや考えなくてもオカシイ。

 じつは蒋介石軍の猛攻を前にして、彼らは根拠地の瑞金を放棄せざるをえなかった。座して死を待つより、ともかくも退却である。当初は最終目的地など考えられなかったようだ。ともかくも逃げて、逃げまくった。雲霞の如く押し寄せる追っ手を逃れ、ひたすら逃げるしかなかった。途中で仲間割れや、離脱逃亡をも経験しながら、ともかくも逃げまくった果てに、乞食同然の姿で延安近くの呉起鎮(現在の呉旗)に命からがら辿りつく。

 最終的に「三十五人の女」はどうなったかは不明だが、「十万の男」は1万人以下に激減している。一説には3千人前後とも。ならば軍事行動としては大壊走と判断するしかない。にもかかわらず共産党は、この大逃避行を革命の大義のために敢えて茨の道を進む英雄どもが躍動する獅子奮迅の物語に潤色し、世間を欺き、「大長征物語」に仕立て上げ、政治的大勝利を?ぎ取ってしまったという次第。これこそが共産党得意の宣伝戦である。

 ならば野上なんぞを騙すことなど、じつは赤子の手を捻るより簡単だったのだ。《QED》

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2014年06月18日

【知道中国 1090回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1090回】         一四・六・仲八

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上10)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 延水の渓谷に沿った延安の街を歩き、四囲の山々を眺めながら、野上は「一帯の向こうの山は、すっぽり皮を剥がれたように茶がかった灰色の地肌をあらわし、樹木はもとより、一ひらの草地もくっ着いていない。ただ山容だけはかわらず段々畑式で、しろじろと尖って重なった層がなにか肋骨めいて見える」と綴る。

 さすがに作家、である。緑のない黄土の禿山の様子を過不足なく描写してみせるが、その先がイケない。「聞くところによれば、もともと樹木の乏しかったこの辺の山を、かくまでもむざんな姿にしたのは、一九四六年、胡宗南の率いる蒋介石軍の侵入であった」と。だが胡宗南軍が延安に留まったのは1年足らず、48年には共産党軍が奪還している。ということは、野上の延安旅行までの10年余の間、共産党政権は周囲の山々を禿山のまま放置していたということになる。

 また中共政権が置かれた当時の主要な建物の1つであった大礼堂に案内されて、「内部ももとのままではない。胡宗南の軍隊の破壊からわずかに免れたのは、天井に近くならんだ両側の高窓のみだとのことである」と記す。だが、胡宗南軍の攻撃による陥落直後の延安を写した『1947年春:延安』を見れば、野上が案内された大礼堂は「天井に近くならんだ両側の高窓のみ」ではなく、建物全体に破壊された様子は見られない。屋根も壁もそのままだ。

 どうやらというべきか。案の定というべきか。野上は案内者の説明をそのまま鵜呑みにしている。だいいち「胡宗南の率いる蒋介石軍の侵入」は「一九四六年」ではなく1947年のはず。「もともと樹木の乏しかったこの辺の山を、かくまでもむざんな姿にしたの」も、「天井に近くならんだ両側の高窓のみ」を残して大礼堂を破壊し尽くしたのも、すべて胡宗南軍の“悪行”にしておこうというのが共産党の宣伝工作の狙いだろうが、どうやら野上は、それに完全に乗せられているようだ。もっとも「胡宗南の率いる蒋介石軍の侵入」と、「侵入」の2文字を使った時点で彼女の政治的立場は明確ではあるが。

「いわゆる南関なる延安の南側」を見て廻る。一帯には通信社、銀行、合作社、売店など中共政府が置かれていた当時の生活機関があっただけに、日本軍の空爆も激しかったとのこと。そこで、右に「堅持抗戦、堅持団結、堅持進歩、辺区是民主的抗日根拠地」、左に「反対投降、反対分裂、反対倒退、人民有充分的救国自由権」と毛沢東の揮毫が刻まれた2本の石柱を目にする。

「政治、外交の解決に残されているものはあるにしても、彼我は十年まえに武器を捨てた。(案内役の)黄さんは日本の爆撃をいい、毛沢東の抗日の檄文を指しながら、相手が当時の敵であることはとんと忘れた風情であり、また私たちは私たちで、戦争の名において自分の故国が彼らに与えた暴虐のあとを、一人の旅行者として客観的に眺め、一つの『過去』としている」とした後、実際に現地を歩いてみると「あらためて、どういう国に来たかを思い知らされる」と綴る。だが彼女が「悪の追想に打ちひしがれるのを免れたのは、戦争中もどうにか保った私の良心のおかげである」そうな。

「満州事変なるものの頃に遡って考えても、日本軍部の行き方には私は常に否定的であった。それとて、ごまめの歯ぎしりに終わったのであるが、とにかく、この態度だけは失わなかった。もしどんな些細なかたちにおいても、彼らに協力したり、同調したりの経験があったなら、中国の客として、今日その国土を訪ねる勇気は決してもてなかったであろう」と戦争中の自らの立場を告白し、だから勇気を持って「中国の客」になれた、と。

それにしても、である。「私の良心のおかげ」とは些か大げさが・・・過ぎませんか。《QED》

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