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2014年07月29日

【知道中国 1107回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1107回】             一四・七・念九

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田9)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 北京から向かった武漢では武漢長江大橋を見学する。「解放前までは『黄河は治められない。長江には橋はかけられない。もしかけるのができるのだったら一年三百六十五日ぶっ通しで日照りがつづかなければ』といわれ、架橋の不可能が信じられていた」。だが、「今やそれは一つの迷信にすぎないことが実証せられた」そうだ。

 「実証せられた」などと大仰な表現を使われると、「へ、へへへーッ、左様で。さすがに共産党政権でござりまする」と平身低頭で納得せざるをえないようだ。だが、考えてみれば、架橋できるかどうかは土木工学と社会環境、それに費用対効果の問題だと思いたい。

 1840年のアヘン戦争から1894年の日清戦争まで、まさに列強相手に連戦連敗の中国(清朝)に長江を跨ぐような橋梁を建設するだけの先進土木工学があったとも思えないし、ましてや財政的余裕など皆無だったろう。1911年に辛亥革命が起こり、清朝は崩壊する。1912年元旦にアジアで最初の立憲共和制の中華民国が呱々の声をあげるが政権基盤は定まらず、確固とした中央政権を形成することないままに軍閥時代に突入。その後は列強の支援を受けて各地に割拠する軍閥によるバトルロイヤル状態。さらには日中戦争を挟んでの国民党と共産党の間でのデスマッチ――いいかえれば中国はアヘン戦争から1世紀近くも大混乱に責め苛まれたわけだから、政治的にも社会的にも財政的にも長江を跨ぐ大橋など建設できる客観情況になかったということだろうに。

 にもかかわらず仁井田の口から「今やそれは一つの迷信にすぎないことが実証せられた」などといった台詞が飛び出すと、大部分の日本人は、さすがに共産党政権、やることが違う。歴史的な迷信を打ち破った、と勘違いをしてしまう。これまた宣伝戦の一齣。

 次に武漢から上海へ。

 上海における宿舎は、当時としては上海のみならず全国規模でも最上級といていい和平飯店だった。それほどまでに中国側は仁井田を厚遇していたということだろう。対外開放からほどない80年代初期に和平飯店を覗いたことがあるが、ともかくも贅を尽くした豪華な調度品に黒光りするマホガニー製のカウンター・バーの重厚な雰囲気は最高にステキだった。元はといえば、このホテルは魔都と呼ばれた時代の上海に君臨したサッスーン財閥の牙城だった施設。まさに「資本主義の残滓そのもの」であるだけに、文革当時に紅衛兵に襲撃されなかったのかと係員に尋ねると、涼しい顔で「ここは特別ですから。彼らに指1本触れさせませんでした」と。

 ともかくも融通無碍といおうか、無原則の大原則といおうか。中国人の振る舞いの臨機応変ぶりに改めて感心させられると同時に、中国人の千変万化する行動と、百花繚乱たる修辞に溢れた理屈を、自らが抱いた“原則”に縛られたままに飽くまでも生真面目に合理的に解釈しようとする日本人の努力の虚しさを痛感した次第だった。この悪弊を改めない限り、日本人は対中関係で躓きを繰り返す。何度でもいう。彼らの大原則は無原則である。

 話を仁井田に戻す。

「上海の水道の水は泥臭くてまずい。それで最初の日は水にかえてビールを飲んだ。次の日は水を飲むとき鼻をつまんで飲んだ。さらに次の日は息をつかないで飲んだ」そうだ。東大教授による泥臭くてまずい上海の水の一気飲み。なにやら一幅の絵になりそうだが、上海の水道の水は魔都時代から泥臭くてまずかったろうか。その点に言及がないのが残念だ。あるいは、共産党政権になってから泥臭くてまずくなった・・・りして。

 「解放前のいわゆる貧民街、葯水弄を訪れた」が、そこは面目を一新させていた。それもこれも共産党政権による解放の賜物・・・自動筆記装置はフル稼働モードに入る。《QED》

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2014年07月27日

【知道中国 1106回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1106回】       一四・七・念七

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田8)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 戦前、仁井田は学術調査などで北京に長期滞在したことがある。そこで「私は戦時中、北京でタバコやその他の行列買いにしばしば出会ったし、電車にむらがる民衆も見た。配給品を買う行列では、後の人は前の人の背中につかまって途中からの割り込みをふせいでいた。その行列は蛇が歩くようにうねっていた。自分を守るものは自分の実力以外になかった。官憲もこれを守ってくれてはいなかった」と綴った後、北京の街の激変ぶりを次のように記す。

 「バスや電車に乗る人は静かに乗る順を待っていて割り込む者はいない」。「乗客は秩序正しく自分の番を待っていた。誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態を私は見た。それはどろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」と。

 一時話題になったTVドラマの「家政婦のミタ」ではないが、北京の街角における人々の戦時中とは打って変わった秩序正しい振る舞いを「私は見た」といわれても、やはり俄かには信じられない。「乗客は秩序正しく自分の番を待っていた」からといって、それがどうして「誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」になり、とどのつまりは「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」ことに一気に繋がってしまうのか。余りの飛躍に驚くばかり。まったく理解に苦しむ。

 だが中国法制史の世界的権威である東大教授から北京で実際に経験してきたのだと力説されれば、余ほどのヘソ曲がりかノーテン・ホワイラ(脳天壊了)、はたまた反中思想の持ち主でない限り、信じてしまうはず。いや、それだけではない。あの広大な大陸全土が「自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」であり、「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」理想的な社会に変貌したと誤解し、かくて日本国内の中国に対する好感度は飛躍的に高まることになる。中国共産党が戦後日本に仕掛けた功名極まりない宣伝・思想戦である。

 仁井田をアゴ・アシつきで中国旅行させたところで、バカ高い経費が掛かるわけではない。いや安上がり。費用対効果バツグンの洗脳工作といっていいだろう。

 かりに仁井田が「見た」そのままに、「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」と説く「自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がいない状態」が現在まで続いていたなら、国内的には幹部による天文学的金額の不正蓄財も、暗闘止まない権力闘争も、ヒトとしての生活の限度を遥かに超えた劣悪極まりない環境問題も、気の遠くなるような格差問題も、対外的には尖閣問題も、南シナ海の領有権問題も、世界の主要都市での不動産の買い漁り問題も、地球規模での資源強奪問題も起こりえなかったに違いない。おっと、腐った肉の輸出の一件を忘れてはいけない。

 結局、アゴ・アシ、ときに小遣い付きで中国側にオルグされた民主派・進歩派を僭称した数多のヤツラと同じように、仁井田もまた自らが気づかないままに、中国側の宣伝工作に乗せられ、その一端を担わされていたということだ。無意識だけに始末が悪い。

 とどのつまり中国社会は万古不易なのだ。にもかかわらず、かつての「自分を守るものは自分の実力以外になかった。官憲もこれを守ってくれてはいなかった」情況が、毛沢東に率いられた共産党政権の誕生によって、「誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」で「それはどろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」情況に激変したと誤解した、いや、させられただけだろう。

 やはり仁井田はオカシイ。仁井田の犯罪的なバカバカしさは、まだまだ続く。《QED》
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2014年07月25日

【知道中国 1105回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1105回】        一四・七・念五

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田7)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 仁井田の妄言は止まるところを知らない。

 当時、「中国内の少数民族が五十一あって」、その「総人口三千六百万人といわれる」人々の「中級高級幹部の養成のための学校」である中央民族学院を訪ねる。少数民族も多種多様。「民族によっては言語はあっても文字のないものがある。それについては文字を作り、また不完全なものについては改革された。「この学院の学生は四七民族二四〇〇名。学生の小遣、服装、医療費もみな国費でまかなうが、学生の服装も食事もその民族の習慣が尊重されている」と、ここまではいい。だが「また学生の信仰は自由であって」と綴った辺りからマユツバものになってくる。だいたい絶対神である真っ赤な太陽、つまり毛沢東を信仰する強固なる“毛沢東一神教”の国で、信仰の自由が許されるわけはないだろうに。

 「学院内を参観しながらウイグル女子学生などと一緒に記念撮影をした」とのことだが、その時、いったい、どのような顔をしたのか。まさか恥ずかし気もなく「ハイ、チーズ」なんて・・・。

 写真撮影とは微笑ましい限りだが、「ウイグルはトルコ系民族であり新彊地方に自治区をもっている」と記すに及んでは、もはや詐術以外のなにものでもない。自動筆記装置のフル作動である。

 確かに「新彊地方に自治区をもっている」。だが、「自治区」とは名ばかり。建国以来、兵団組織を組んだ漢族をつぎつぎに送り込んで実質的には漢族居住区に変容させ、無尽蔵といわれる地下資源(石油、石炭、鉄鉱石、マンガン、クロム、ニッケル、銅、鉛、亜鉛など)を持ち去る一方で、広大な砂漠で原爆実験を繰り返す。だから、新疆ウイグル自治区というカンバンには、大いに偽りがあるというべきだ。

 北京の中央政府は新疆に対し、チベットや内モンゴルと同じ方法で、建国時から現在まで一貫して漢族による漢族のための植民地化工作を続けて来たことを忘れてはならない。その証拠に、自治区主席にウイグル族を座らせることで“ウイグル族の自治区”の体裁は取っているが、最高権力者である自治区党委員会書記は一貫して漢族が押さえているのだ。

 ここで参考までに統計数字を。新疆ウイグル自治区の人口は1718万人(97年)、このうち少数民族が946万人(90年)。年代は些かズレルが、総人口の約半数を漢族が占めていると考えていいだろう。04年の統計では総人口は1963万人ということだから、漢族の占める割合に変化なしとみるて、1000万人近くが漢族ということになる。

 最近の全国規模に拡大したウイグル族弾圧、漢族によるウイグル族差別事件を考えれば、仁井田の記す「ウイグルはトルコ系民族であり新彊地方に自治区をもっている」がネゴトの類でしかないことに気がつくはずだ。つまり最近になって俄かに独立運動が活発化したわけではないのだ。

 「ラマ教礼拝堂にはダライ・ラマの肖像もラマの仏像とともに安置してあった」とも記す。共産党が「チベット動乱」と称する人民解放軍のチベット進駐をキッカケとして起こった流血の惨事の後の1959年3月に、ダライ・ラマはインドに脱出している。つまり仁井田訪中の5ヶ月ほど前のこと。であればこそ、ここでラマ教礼拝堂にダライ・ラマの肖像が安置してあることの真意を考えるべきではずを、仁井田の言い様ならチベットを去ったダライ・ラマが悪人になってしまう。

 かくて「日本ではチベット問題を信教の自由を圧迫した事件と〔中略〕見るむきもあるようであるが、問題を考えるときは、チベットの内部状勢を、社会経済構造の上から分析検討するようにしたいと思う」と結論づける。これは共産党の詐術と同じだろうに。《QED》

posted by 渡邊 at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2014年07月23日

【知道中国 1104回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1104回】       一四・七・念三

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田6)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 「中国では法院でも事件は少なくなり、犯罪人の数はとしごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくるし、弁護士の数も日本に比べてずっと少なくなっている。北京では専門の弁護士はあまりいない」と記す。

 いやしくも東大教授で中国法制史の世界的権威の発言である。この一節を普通に読んだら、大部分の日本人は毛沢東率いる新中国では犯罪に比例して裁判も減少し法院(裁判所)も手持無沙汰で、獄舎では閑古鳥が鳴き、弁護士は失業している。道義国家・道徳国家に向かってまっしぐらに、そして着実に歩んでいる、と思い込んでしまうに違いない。“日本最高の知性”である東大教授の肩書を使った、中国共産党による巧妙極まりない政治宣伝工作といえるだろう。

 そこで、ある数字を挙げておきたい。すでに述べておいたように、57年に毛沢東によって引き起こされた「反右派闘争」において、当時の知識分子の総数の11%に当たる55万人が右派・反革命と断罪され社会的に抹殺されている。彼らは例外なく「労働改造」を強いられ、投獄されもした。また推定で50万人ともいわれる小学校教師や農村の末端幹部が右派と見做されたが、後に「悪質分子」やら「地主」に改められ、右派分子より過酷な取り扱いを受けた。反右派闘争も後期に入ると、「右派」の外側に「内部統制使用」と認定された50万人前後の「中間右派分子」が設定された。だから仁井田訪中前後、当時の知識分子の30%ほどと推定できる150万人超が社会の片隅に追いやられ、あるいは獄舎で自らの非命や不運を恨み、共産党の非合理・理不尽さを憎悪していたはずだ。

 仁井田は「法院でも事件は少なくなり」とするが、「事件は少なく」なったわけではなく、政治犯罪に限ってみるなら、その数は激増している。ただ政治犯罪を裁くのが法院ではなく、毛沢東の“鶴の一声“であり、共産党の権力ピラミッド構造における力関係であったということ。毛沢東や共産党を批判したというだけで犯罪者とされ、全国各地に設けられた労働改造所(略称は「労改」)で刑期も定まらないままに思想改造を逼られ続けた。もちろん出所の当てのない無期徒刑。実質的には監獄だ。だが労改は監獄ではなく教育矯正施設であるとの詭弁に従うなら、「監房が空いてくる」のは当然のことになる。

「弁護士の数も日本に比べてずっと少なくなっている」というが、絶対不可侵の毛沢東や共産党の力の前に、弁護士などという商売は成り立たない。「右派」の容疑者を冤罪だと弁護しようものなら、その弁護士も「右派」と断罪されるのがオチだ。自らが政治犯になることが判っていながら弁護を引き受ける“奇特な正義漢”などいるわけはなかろうに。

 やはり東大教授で中国法制史の世界的権威の頭の構造は違うと呆れ返るばかりだが、「北京では専門の弁護士はあまりいない」に続く「法律はだんだんいらなくなってきているという」なる一句を目にするに至って、ぶっ魂消た。だが落ち着いて考えれば、仁井田の発言はデタラメのようだが、当時の中国の本質を言い当てていたともいえる。

 それというもの、毛沢東=共産党が50年代初頭から強引に押し進めて来た都市と農村の社会主義化政策によって社会構造の、57年の反右派闘争によって思考の――それぞれの一元的支配が完了し、社会から法治は消え、完全無欠の人治に突入したからである。法律に取って代わったのは、「偉大なる領袖」と崇め奉られる毛沢東の片言隻語だったのだ。

 それにしても東大教授で中国法制史の世界的権威に対し、じつに恐れ多いことながら、非礼を承知で敢えて言わせてもらいたい。いったい、「法律はだんだんいらなくなってきているという」などと空恐ろしいことを口にした時の仁井田センセイは、正気だったのか。それとも“ノーテン・ホワイラ(脳天壊了)”だったのか。「?、?、?別糊塗!」。《QED》
posted by 渡邊 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年07月21日

【知道中国 1103回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1103回】      一四・七・念一

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田5)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 当時、東大教授として仁井田がどれほどの“薄給”に甘んじていたかは知らない。だが、たとえ給与に不満があったにせよ、北京大学の「教授は高給をとっている」と羨望気味に綴るとは、哀しいばかりにさもしい根性の持ち主といわざるをえない。その俗物性に呆れ果てるが、さらに「研究費は請求しただけ交付せられる」と口にするに及んで、最早なにをかいわんや、である。

 ここで、改めて当時の日中両国の政治社会情況を思い起こしてもらいたい。

 57年は反右派闘争で、58年からは大躍進政策という中国に対し、日本では「60年アンポ」は目前。仁井田が訪中した59年前後、日本列島は日米安保改定問題に国論を二分して揺れていた。

 仁井田が教えた東大の学生は当たり前のことだが授業も医療費も払うし、アルバイトをしなければならなかったかも知れない。だが、政府の外交政策に真っ向から反対し、「アンポ反対!」「岸を倒せ!」と声をあげながら授業を拒否し、大学構内から飛び出して、自らの主張を街頭デモで訴える自由は許された。

 これに対し北京大学において、共産党政権が掲げた「反右派闘争」やら「大躍進政策」「人民公社化」に反対の声を挙げることができただろうか。共産党政権に批判的な知識人が嘗めざるを得なかった理不尽極まりない処遇に思いを及ぼせば、そんなことが出来ようはずもない。そんなことを口にしたら、直ちに監獄にブチ込まれ社会的に抹殺されてしまうどころか、情況によっては反革命で即刻死刑という処分だって考えられないわけではなかったのだ。

 かりに仁井田の同僚たる東大教授が、当時の文部省に科学研究費を申請したら、「請求しただけ」の金額でなかったとしても、ほぼ確実に交付を受けることができたはず。それが日米安保改定という当時の岸政権が掲げた外交政策に真っ向から反対するための研究であったとしても、である。だから政府が交付する研究費で、誰憚ることなく正々堂々と政府を批判するための研究が可能だった。

 だが「研究費は請求しただけ交付せられる」と仁井田が羨望止まずに綴る北京大学において、はたして共産党政府が進める反右派闘争や大躍進に批判的な研究への助成金を申請したとして、「請求しただけ交付せられる」わけはないはずだ。いや反対に、直ちに右派・反革命と断罪され、労働改造所という名の監獄に送られるのが関の山だったろう。

 もっとも過酷極まりない反右派闘争を経ることで、毛沢東=共産党に批判的な知識人は社会的に抹殺されてしまっていた。毛沢東=共産党という擂り鉢で知識階層は粉々に砕かれ、残るは郭沫若を筆頭とする知的幇間芸の持ち主か権力に従順な知識人のみ。かくて北京大学においても、毛沢東が指し示すがままに頭脳労働が軽蔑され、汗水流す肉体労働を神聖視する風潮が漲り、肉体労働に対する宣伝が熱狂的に繰り広げられることとなる。

 仁井田訪中の前後から全国各地では「教育と生産労働結合展覧会」なる催しが盛んに行われるようになった。北京大学では、このような運動に勇躍参加し好成績(?)を挙げた学生や教授に対し、「肉体労働は、頭脳労働者にとっては共産主義への巨大な溶鉱炉である。そこでは思想的に真紅に鍛えあげられるばかりか、専門性を増すことができる。思想認識の改造のみならず実践経験と生産技術を学習できる。鍛錬の過程で共産主義にとって不要なものを取り去り、不可欠なものを成長させることが可能だ」と賛辞を贈り、大いに讃えた。労働で肉体を鍛えよ。頭は使うな。頭をきたえてはいけない、ということのようだ。

 この事実を仁井田は知ってか、知らずか・・・それにしてもノー天気が過ぎる。《QED》

posted by 渡邊 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた
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