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2014年07月19日

【知道中国 1102回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1102回】        一四・七・仲九

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田4)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 8月10日朝8時すぎに広州を発った仁井田は、武漢、鄭州を経て北京入りする。「北京では人民公社、北京大学、科学院の法学研究所、中央民族学院、アジア学生療養院や法院や監獄も見学した。人民公社座談会、法律座談会などにも出席し」ているが、各所で自動筆記装置ぶりを如何なく発揮してくれた。

 先ずは北京に野菜を供給している人民公社だが、「戸数は九千に近く、人口は四万に近かった」。「共同食堂は必ずしも利用しなくてもよいというが、利用する家庭ではかまどはいらなくなる。ある農家に入ってみた。旧来の農家ならあるはずのところにかまどがなかった。かまどの神も祀ってはいなかった」。「今日、人民公社のために、家庭はばらばらに解体され、夫婦も別々に集団生活をしているという説がアメリカの雑誌にも出ており、日本人の中にもそのように考えているものがある。しかし私はそのようなことを発見できなかった」と綴る。

 まあ呆れ返ったゴ仁だが、むしろ仁井田は「そのようなことを発見できなかった」自らの不明を恥じるべきだろうに。

 やはり食事はエサではない。食事を共にすることは家族・人間関係にとって必要不可欠であろう。台所はエサの製造工場ではない。かまどがなければ、かまどの神を祀りたくても祀れないのは当たり前のことだが、台所は家族生活の中心的な場であり、かまどの神は一家の守り神ではなかったか。加えるに共同食堂だ。合理的に見える制度ではあるが、これほどまでに非合理的で非人間的でムダな制度はなかった。だいたい365日、数百人単位の人いきれの中で朝昼晩の3食を口に掻っ込むことに人間は耐えられるだろうか。再度いいたい。食事はエサではない。憩いを伴ってこその食事である。やがて食材と時間を浪費するばかりで不評だった共同食堂は消え去ることとなった――当たり前のことと思うが、その当たり前のことに、仁井田は気づく素振りすらみせない。

 北京を武漢と同じように「労働者と学生の街」と見做す。「名勝史跡に休日に行ってみても、若い人たちが大勢きている。かつては労働者はこのようにゆっくりたのしむ時間と金とがなかった」と。だが「かつては労働者はこのようにゆっくりたのしむ時間と金とがなかった」わけではないはずだ。屋台が並び、種々雑多な大道芸で四六時中賑わっていた天橋と呼ばれた庶民の街があり、京劇やら語り物やら色物の小屋が並び、茶館、料理屋、さらには陰間茶屋まで揃った“吃喝嫖賭抽大烟”に“去聴戯”と、凡そ男の遊びという遊びが愉しめたテーマパークのような前門外という脂粉の巷があったではないか。

 北京大学では「学生は授業料もいらないし、医療費もいらないという。学生はいわゆるアルバイトをしなければならないような状態には置かれてはいない。中国では能力さえあれば誰でも大学で学べる」。「教授は高給をとっている。大学の研究費は請求しただけ交付せられる」と。これが本当なら、学生にとっても教授にとっても、これ以上に恵まれた環境はない。

 だが仁井田は、毛沢東率いる共産党政権下の最高学府であり、独裁政権維持のための人材養成機関であり、ましてや「反右派闘争」の荒波を体験した北京大学と、東大を筆頭とする当時の日本の大学とを同列に論ずるという決定的誤りを犯していた。授業料やら医療費やらアルバイト以前の問題として、学生や教授を含む北京大学の全構成員に、仁井田ら東大教授を筆頭とした当時の“進歩的知識人”が国策に反対し、政府を蔑み楯突く根拠として金科玉条の如くに掲げていた思想信条や学問の自由などありうるワケはなかったはず。仁井田は、その点に言及していない。故意なら犯罪、偶然ならマヌ・・・ケ。《QED》
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2014年07月17日

【知道中国 1101回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1101回】        一四・七・仲七
 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田3)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 続いて鼠退治の方法だが、「時間をきめて一時にどぶに薬をまいて殺してしまう」とのこと。いやはや凄まじいかぎりだが、かくて仁井田は「私は中国のどこへ行っても雀を見なかった。蠅も蚊も絶無ではないが、みつけ次第退治られてしまう。各地を廻ってから後の感じであるが、都会よりも農村の方にハエがいない」と大いに感心を示す始末である。

 仁井田は、案内役が説明するがままに雀や鼠の退治方法を記すが、いったい、そういった雀退治の方法に駆り出される住民のエネルギーや手間暇を考えたことはあるのだろうか。雀は穀物を食い荒らす害虫を食べてくれる益鳥であることに、あるいは鼠殺しのために「一時にどぶに」撒かれた薬の量と成分に思いを巡らすことはなかったのだろうか。

 仁井田は法律や訴訟関連の古文書からだけでなく、古典小説やら戯曲、芝居などの裁判場面などからより実態に即した法制史研究を開拓したと高く評価される。じつは京劇では恨み辛みだけでなく、金銭目当ての殺人などで登場する劇薬の多くは耗子薬、つまりネコイラズである。であればこそ、耗子薬が古くから人殺しに使われるほどの劇薬であったことを仁井田は知っていたはず。耗子薬から「四害退治」でドブに撒かれた薬の残存薬害を連想してしかるべきだったと思うが、相手の説明を鵜呑みにして疑問を抱くことなく、ひたすらノー天気に自動筆記装置に徹しているだけ。こういう頭脳構造をオ花畑というのか。

 昭和21(1956)年のサンフランシスコ講和会議に臨むに当たって、中ソ両国が激しく世界覇権を争っていた時代であるにもかかわらず、ソ連など社会主義陣営とも講和条約を結べと非現実的な寝言・戯言の類を「全面講和論」と糊塗して力説していた南原繁東大総長を、当時の吉田茂首相は「曲学阿世!」と罵倒し退けたが、どうやら曲学阿世は南原だけではなかった。仁井田もまた正真正銘の、リッパな曲学阿世の一員だったようだ。

 「中国に入って第一日の宿舎は愛群ホテル」である。これも当時の規定のコースだ。ホテルの担当者は「中国国際旅行社に属しつつ『下放』――一定期間、幹部が肉体労働に参加すること――を志願してこのホテルのボーイをつとめている」そうだ。ではなぜ「下放」が行なわれるのか。「中国ではこのような労働を通じて労働者農民に服務する幹部となるような訓練と学習が行われ、このことによって官僚主義――役人や政治家のから威張りや不親切――がとり去られる」とのことだが、「このような労働を通じ」た程度で、“中華数千年”の歴史に“鍛造”された官僚根性が改まる訳はないだろうに。

 台湾生まれで仙台の旧制二高から東北大学医学部に進み、46年には台湾経由で大陸に渡り北京で図書館長を務めた楊威理が共産党治下での悪戦苦闘を綴った『豚と対話ができたころ  文革から天安門事件まで』(岩波書店同時代ライブラリー 1994年)に、「一九六三年、河南省などの農村調査の文献を見る機会があったが、文献が私に与えた印象は、陰惨でぞっとするものであった。富む者は富み、貧しい者は生活のどん底に押しやられている。農村の幹部は悪辣を極め、汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前のこと、投機買占めが横行し、高利貸しが流行り、一口でいえば、農村は生き地獄そのものである」と記されている。

 これに続いて楊威理は、「農村の末端組織の三分の一が既に共産党の手中にな」く、農村には「幹部などで構成されている新しい裕福な農民階級が出現し」たと「毛が断定し」、劉少奇もまた同じような内容を講演していたと綴る。仁井田訪中の数年後のことだ。

この情景は、21世紀初頭の現在の金満中国から伝えられる農村の惨状に酷似している。やはり中国は昔に戻ったのだ。歴史的に振り返れば、中国では、どの時代のどのような政権下であれ、地方権力者のさもしき根性を叩き直すことなど不可能に近いのだ。これは中国社会知識のイロハだろうに。それすら弁えない仁井田・・・じつに困ったものです。《QED》
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2014年07月15日

【知道中国 1100回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1100回】       一四・七・仲五
 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田2)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 「中国の旅」の前に、当時の社会情況を象徴するような2つの資料を見ておきたい。
 
 その1は、仁井田訪中の1年前の58年9月2日付で告示された「愛国公約」だ。「整風(=反右派闘争)と総路線の学習を経て高められた政治的基礎の上に、大いに意気ごみ、高い目標を目指し、より多く、早く、立派に、節約して社会主義総路線を建設するために、我われ一家を挙げて以下の各項を達成することを保証します」と冒頭に記された後、「以下の七項目」が続き、末尾に署名欄がある。ということは家族ごとに署名させ、各項目を実践することを誓約させようとしたものだろう。

「一、社会主義政治思想を高めることを努め、断固として社会主義の道を堅持する。
 二、社会主義建設総路線を積極的に学習し支援し、迷信を取り払い、思想を解放し、勇気を持って自ら考え、話し、為す共産主義の振る舞いを体現する。
 三、勤倹努力し家庭を営み、浪費に反対し、食糧、電気、燃料、布を大いに節約し、支出を抑え、余った金は貯蓄し、工農業の大躍進を支援する。
 四、政治理論の技術と文化の学習に励み、刻苦勉励して科学技術を研鑽し、頭を働かせて人々に役立ち、大胆に創造し発明に励む。
 五、国を愛し法律を順守し、社会のあらゆる活動に積極的に参加し、政府の掲げる一切の呼びかけに呼応し、党と政府が指し示す様々な工作任務を指示された期限内に完成させるよう努力する。
 六、近隣と自分の家の固い団結を保証し、他人と自らを批判することに大胆に取り組み、互いに助け合い、共に向上する。
 七、清潔を求め、よりよい衛生環境に努める習慣を養い、四害を消滅させる」

随分と立派なことが書かれているが、そんなことを、あの、超ジコチューな中国人が実践するわけがない。かりに「愛国公約」の拳々服膺を厳命すれば、中国人は“共産主義的聖人君子”に生まれ変わるとでも毛沢東が考えていたとするなら、随分と間抜けな話だ。だが、なにはともあれ、「愛国公約」は当時の中国のタテマエを物語っている。

 その2は、50年代末に使われていた「発展」印マッチのラベルに記された文字だ。「さつま芋は宝の中の宝、値段も安く栄養価も高い。さつま芋をいっぱい食べてコメや麦を節約し、国家の立派な建設を支援しよう」とある。「愛国公約」がタテマエなら、こちらはホンネといえるだろう。当時の人々は、どんな気持ちでマッチ箱を眺めていたことだろうか。

 当時の庶民生活を想像すると、朝な夕なに「愛国公約」を拳々服膺し、その達成を誓い、マッチを擦る毎に、さつま芋の有難さを感じ取ったというのか。これじゃあ毛沢東時代の中国大陸は、冗談ではなく、掛け値なしに超巨大な北朝鮮でしかない。

 以上の予備知識を頭の片隅に置き、仁井田の「中国の旅」を“楽しもう”ではないか。

 香港から深圳を経て広州へ。当時の規定招待コースを辿ったが、一時下車した広州の手前の駅前で「『徹底的に四害を退治せよ・・・・・』(徹底消滅四害云々)という標語が高々と立札に書いてある」風景を目にする。案内役の説明では「四害」とは鼠・雀・蠅・蚊のことであり、「数年も前からこれらを除く運動がつづけられ、蠅も蚊もとっくの昔にほとんどいなくなった」とのこと。雀は「木に止まらせない。とまりそうになると木の下に人がいて追い立てる。雀はしまいには血圧が高くなってふらふらして落ちてくる」とか。ところが雀を取りすぎたお蔭で、害虫が大量発生し穀物が食い荒らされ大被害。そこで雀は「四害」から外された後に、「益鳥」としての名誉を回復されている。

 この雀の捉え方に疑問を持たないとは・・・やはり仁井田センセイは奇妙奇天烈だ。《QED》

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2014年07月13日

【知道中国 1099回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1099回】      一四・七・仲三

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田1)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 東京大学法学部教授で中国法制史研究の世界的権威として知られた仁井田陞(明治37=1904年〜昭和41=1966年)は、「一九五九〔昭和三四〕年八月(七日)から九月(四日)にかけて、中国政治法律学会の招待をうけ、中国訪問日本法律家代表団の一員として中国を訪れ」た。野上の延安旅行から2年ほどの後であった。

 野上の「延安紀行」が57年晩秋で、仁井田の「中国の旅」は59年晩夏から初秋。この2年ほどの間の中国社会の変容を概観しておくこともまた、仁井田が野上と同じように招待者側の自動筆記装置に終始した東大教授でしかなく、節穴の目の持った中国法制史研究の世界的権威でしかなかったことを知るうえでは必要なことであろう。

 仁井田訪問時の中国は、前年5月に毛沢東が現実を無視して強引に発動した「社会主義建設総路線」政策による農村の人民公社化と大躍進政策の大失敗によって、全土は飢餓地獄に陥り、餓死が日常化していた。

 仁井田訪中直前の59年7月2日から1ヶ月半ほどの間、景勝地の廬山に共産党幹部が呼び集められた。既に破綻のみえはじめた社会主義建設総路線に関する考え方を統一しておく必要に逼られたからだ。いうならば、たとえ綻びが見え始めたとはいえ、毛沢東の考えに楯突くな、というわけだ。だが、こともあろうに毛沢東に重用され猛将として知られた国防部長の彭徳懐が、「人民公社は始めるのが早すぎた」とか、「民主主義の欠乏、個人崇拝こそが、すべての弊害の根源である」と発言し、毛沢東の個人崇拝を批判した。

 これに烈火のごとく怒った毛沢東は、朝鮮戦争で戦死してしまった長男である毛岸英の恨みもあってか、彭徳懐を解任し粛清するという強硬手段に打って出た。じつは彭徳懐は朝鮮戦争では中国人民義勇軍の総指揮官だった。我が長男を殺したのは彭だ、ということだろう。逆恨みか。ついでにいうなら、後任の国防部長に据えられたのが林彪である。

 彭徳懐に対する処分に誰もが恐怖した。正論であったにせよ、毛沢東の意にそぐわない考えを明らかにし、毛沢東に楯突く者と見做された瞬間に人生は終わり、ということだ。かくて大躍進政策に拍車が掛かり、全土は破滅への道をひた奔ることとなる。

 当時の情況を映画監督の陳凱歌は『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)に。「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつまできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食に出ることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。 三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中からは幼児の腕が見つかった」と綴る。
当局は餓死という断固として事実を認めす、これを「非正常な死」と表現するが、陳は「わずか数年の間に、この非正常なまま死んだ人は、二千万から三千万にのぼった。オーストラリアの全人口に匹敵する人々が、消えてしまったのだ」とも。

 いずれにせよ、58年からの3,4年間、想像を絶する数の人々が餓死している。いわば仁井田は飢餓地獄情況の中国を旅したわけだが、「中国の旅」には飢餓の「き」の字も、餓死の「が」の字も登場しない。いや、それどころか仁井田が捉えた中国は、「政治でも裁判でも産業発展の上でも、大衆の知恵をよりどころにしている」という絵に描いたような理想郷だった。心、此処二アラザレバ見テモ見エズ、聞イテモ聞コエズ、である。

 東大教授であろうが、中国法制史の世界的権威であろうが、招待者側の巧妙で老獪な偽装工作と詭弁の前では、自動筆記装置に徹するよりなかった・・・情けない話だ。《QED》

posted by 渡邊 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年07月11日

【知道中国 1098回】 「支配されながら支配しているのだ」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1098回】          一四・七・仲一

 ――「支配されながら支配しているのだ」
 「香港の二日」(野上豊一郎・弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 漱石門下に連なり、英文学者・能楽研究家として知られ後に法政大学総長を務めた野上豊一郎(明治16=1883年〜昭和25=1950年)は、盧溝橋事件発生から1年ほどが過ぎた昭和13年10月、妻の弥生子(「延安紀行」著者)を伴って香港を訪れる。

 台湾海峡を過ぎた船は、香港島と九龍に挟まれたビクトリア港に停泊した。「甲板へ出て左舷の方へ廻ると、香港の島は月明下に高低の多い輪郭を黒々と見せて、山全面に燦爛と灯が輝いている」。翌朝、「朝の光の中に見出した香港は、夢からさめたように、はっきりと、鮮明に、正確に、且つ甚だ手近に横たわっていた」

 夜と朝の2つの香港を目にした野上は、香港は「どうみても東洋ではなく、といって西洋でもない」と呟いた後、ある西洋人の表現を借用し、「『古い東洋の世界に落ち込んだ西洋の断片』であり、『新しいロンドン』であり、『日光と青空のあるロンドン』」だと記す。

 だが、その「新しいロンドン」の「波止場には大勢の支那人がたかっていた。皆つるし上った目を光らしてわれわれを見ている」ではないか。やはり香港も彼らの街だった。

 「東洋進出の足場として認めた」がゆえに、大英帝国はアヘン戦争の戦利品として香港を毟り取ったわけだが、「イギリス人一流の開拓方法として、まず山に植林し、漁村を都市に造り上げ、今日見るが如き美しい『庭園都市』として完成したのである。見たところ、上海より小奇麗にまとまって、山の山腹まで町が這い上がっているので殊に絵画的である」と、絵画のように香港の街並みをスケッチした後、その内実に逼った。

 「――香港は、イギリスが支那から取り上げて造ったイギリス風の町ではあるが、抜け目ない支那の商人は(この際到るところにうじゃうじゃしてる苦力のことは考慮の外に置くとして)イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで(上海としてももちろんそうだが、)支配されながら支配しているのだ」とした後、「イギリスは百年前に戦争で支那に勝ち、その後の百年間に財的に次第に支那に復讐されつつあるのだ」。やはり「恐るべきはイギリスの勢力ではなく、神秘的な支那民族の底力である。香港・上海が今後どうなるかは知らないが、其処に潜入している支那の財的勢力は政治軍事の表面の勢力より一層警戒すべきものではなかろうか。それは単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」と見抜いてみせた。

 また「香港から百五十キロほど北西へ入江を入って突き当たった所に広東があって、これも根強い支那民族の活動の源泉地の一つになっているが、その地の物騒な空気は西洋人をひどく警戒させて、Don’t go to Cantonということが彼等の間で諺になっているそうだ。われわれは行って見たいと思っても行くひまがなかった。それに何だかその方角にはただならぬ雲行きが感じられた」とも。

 野上が「見物をすませて船に帰ると、半時間ばかりして船は錨を上げ」、香港を後にした。

 「ただ香港島を一周してホテルの支那料理を食っただけに過ぎなかった」ものの、香港の佇まいから中国人の本質に逼った。「抜け目ない支那の商人」は「イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで」、「支配されながら支配している」。「支那の財的勢力は〔中略〕単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」と。

 共産党政権に後押しされた中国人が砂上の楼閣のような“経済的繁栄”を鼻に掛け、周辺諸国のみならず地球規模で、野放図で身勝手な自己主張を展開し、迷惑千万を撒き散らしている21世紀初頭の現在であればこそ、野上の指摘は再考されてしかるべきだ。

 それにしても延安旅行に旅発つ前の弥生子に豊一郎の爪の垢でも煎じて飲ませておけば、あるいは「延安紀行」の如きブザマな文章を残さなかったと思うが・・・ムリかな〜。《QED》

posted by 渡邊 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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