h230102-0340-2.jpg

2014年07月10日

【知道中国 1097回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1097回】       一四・七・初九

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 野上は自ら望んでの旅行であると記すが、どう読んでも「延安紀行」は終始一貫して招待者側に意図のままに綴られているとしかいいようはない。

 いわく「日本軍の包囲と、蔣介石の封鎖に対抗するための生産自給運動を」、毛沢東は「身を持って実践した」。「毛沢東が鋤をふるい、肥料をかつぎ、草取りにいそしむ姿は、八路軍の大学生らになによりの刺激になった」。毛沢東は「暇を見つけては百姓たちをたずね、彼らはまた餅粟やじゃが薯を手土産にして、彼の洞窟へ出掛けた」と。

 だが『延安 日常生活中的歴史 1937−1947』(朱鴻召 広西師範大学出版社 2007年)に拠れば、毛沢東は当時から昼夜逆転した生活を送っていたとのこと。ならば毛沢東は夜中に「鋤をふるい、肥料をかつぎ、草取りにいそし」んでいたことになる。毛沢東は夜中に「暇を見つけては百姓たちをたずね」、百姓たちもまた夜中に「餅粟やじゃが薯を手土産にして、彼の洞窟へ出掛けた」というわけだから、さぞや百姓たちは眠かったことだろう。

 一時、延安で流行ったダンスについて、野上は「単なるリクリエーションにはとどまらない。抱いて手を執り、うち連れてともに踊ることが、心の共同の繋がりと睦みあいを深めさせなかったとはいえない」とし、続いて「そのころの延安の人口は男十六人に女一人の割りあいで、ダンスでもたいていは男同士で踊ったという」と記す。

 男女比が16対1で、しかも四六時中の集団生活。革命という“大義”を掲げようが、やはり男女の仲というもの。“恋のさや当て”から刃傷沙汰が起きてしかるべきだろう。

 延安にダンスを持ち込んだアグネス・スメドレーは、16分の1の女性のなかで唯一口紅を差していた呉光偉を秘書兼通訳として使っていた。どうやら毛沢東は「抱いて手を執り、うち連れてともに踊る」うちに、呉に「心の共同の繋がりと睦みあいを」求めたようだ。

 ある時、毛沢東夫人の賀子貞がスメドレーの住まいを訪ねたところ、そこで「心の共同の繋がりと睦みあいを」認め合う毛と呉の両人を目にしてしまった。その後は、もはやいうまでもない。「革命の領袖」であろうが、犬も喰わない夫婦喧嘩に違いはない。

 一件を知った朱徳夫人の健克清を筆頭とする革命幹部婦人連中は、もちろん賀子貞の肩を持つ。他人の夫を家に誘い込み2人きりで、しかも長い時間を過ごすとは不届き千万。男女が夜な夜な群集いダンスに打ち興じ、互いに睦み合う姿などは「公序良俗に反し社会の風紀を乱すブルジョワ階級の腐敗堕落した生活方式」と大反対の声を挙げる。

 かくて37年7月には呉が、8月に賀が、9月にスメドレーが延安を離れた。そして10月、革命幹部養成のための抗日軍政大学で第六隊隊長を務めた26歳の青年が恋愛のもつれから16歳の女子学生を射殺する事件が発生した。もちろん革命法廷が下した判決は死刑だ。

 42年になると毛沢東は王明を筆頭とするソ連留学組を狙い撃ちし、党全権を掌握するための整風運動を展開することになるが、『野百合の花』を著し、“革命聖地”における幹部連中の革命とは程遠い生活ぶりを批判・告発した王実味もまた整風運動の渦中でトロツキストと糾弾され断罪されてしまった。

 「あの壮大な叙事詩的長征と言い、またこの渓谷に営まれた模型的な国づくりといい、なお且つすべての仲間が石の洞窟に軒をならべて困苦を分かちあい、勇気づけあい、労りあった当時の友情、愛、団結をみじんも乱さないで今日に及んでいる中共の生成過程は、世界の革命の歴史に曾つてない珍らかな美しいものだと私は信じたい」と“感動的”に謳いあげる。信じようが信じまいが、それは野上の勝手だ。だが「中共の生成過程」が「珍らか」ではあったとしても、決して「美しいもの」でなかったことは事実が伝えてくれる。

やはり“戦後民主主義の良心”とやらの野上も共産党の宣伝要員・・・でしたネ。《QED》

posted by 渡邊 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年07月04日

【知道中国 1096回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1096回】     一四・七・初四

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「愚二アラザレバ誣ナリ」・・・あんな愚かなことを言っているのは、本人が余ほどのバカか世の中をバカにしているんだ・・・困ったことに野上の場合、おそらく「愚」と「誣」の両方、つまりバカであるにもかかわらず世の中をバカにしている手合いとも受け取れる。

 野上は延安を貫く延河を少し遡った辺りに位置する楊家嶺に向かい、毛沢東旧居を訪ねた。

 毛沢東が住んだ「家は三つの洞窟からできている」。黄土層を「幅は一間、高さも一間半よりは高くはな」く掘り抜いて、「八畳より狭くはないかまぼこ型の細長い部屋」に設えてある。部屋と部屋との間は「二尺近い石の壁」で隔てられ、その奥は防空壕に通じている。「風土の極度な乾燥のみでなく、天井も壁もひと色に白く塗ってあるのが、洞窟なる言葉から、私たちが一般に受けとる陰気さはみじんも感じさせない」と綴る。

 数年前、実際に足を運んでみた。延安は江沢民政権時代に全国各地に盛んに建設された反日教育・宣伝のための「愛国主義教育基地」と定められ、「紅色游」と名づけられた反日教育ツアーの重点コースに組み込まれていただけに、毛沢東旧居内にも海外在住の「愛国同胞」を含む内外からのミーハーが溢れ返り、落ち着いて見物することは出来なかった。それでも、毛沢東が住んでいた当時の生活の雰囲気は感じ取れたように思う。

 野上は旧居の印象を、「洞窟に思いもよらず一種家庭的な雰囲気を漂わせ、なにかこころが和ごむのであった」と記し、「いま北京で、毛沢東夫人がいかなる生活をしていられるのか、私は少しも知らない。とはいえ、どれほど簡素に生きることを望んだところで、これだけの家具と、三つの房からなる洞窟に、夫や子供と蜜蜂のようにささやかに暮らした流儀はとれないであろうから、時にはるかに、このすう辺の山麓をなつかしむ日がありそうな気がする」と、最高権力者が雌伏の時代に過ごした家庭生活の質朴な様を描きだす。

 だが、野上は大いに勘違いしていた。彼女が思い描く洞窟時代の「毛沢東夫人」と「いま北京」で暮らす毛沢東夫人とは違っていた。前者は賀子貞。後者は江青。

 毛沢東の護衛だった人物の回想談によれば、彼が任務のために毛沢東の住む洞窟に向かうと、パッと明るくなった部屋から脱兎のごとく飛び出した黒い影が、バタバタと音を立てて裏山の方に駆けあがり暗闇の中に消えていったという。誰あろう。これが江青だった。下世話にいうなら、江青は泥棒猫。賀子貞夫人は夫の毛沢東を寝取られてしまったというわけだ。毛沢東が先に手を出したのか、江青が積極的に秋波を送ったのか。それは神のみぞ、いや毛沢東の腰巾着で「中国のベリヤ」と恐れられた特務の親玉である康生のみが知るところだろう。何せ康生が江青を毛沢東に近づけ、2人の中を取り持ったのだから。

 かくて糟糠の妻は精神に異常をきたし、治療のためにモスクワへ。以後、江青が政治活動には口を挟まないという一札を周恩来ら共産党幹部に差しだし、めでたく所帯を持てた。さて、その江青だが、かいがいしく家事に勤しみ、セーターを編んだり、毛沢東の大好物の湖南料理風の辛い料理を作ったり、毛沢東の心労を癒すべく毛の道楽である京劇のレコードを求めて延安の街を歩き、アメリカ人女性ジャーナリストといえば聞こえはいいが、その実、コミンテルンから派遣された工作員といわれるアグネス・スメドレーの置き土産である蓄音機を回したりしていた。だが、それは新婚当初のことだけらしい。

 やがて毛沢東が“赤い玉座”に鎮座するや、生まれながら体内に住み着いている政治権力への我欲の虫が騒ぎだし、毛沢東を手古摺らせることになる。毛沢東が「あいつが毛沢東夫人でなかったら」と苦々しく呟く様子を、彼の元護衛が回想記に残している。

 つまり野上は、招待者が説明のままに自動筆記装置に・・・単純が過ぎます。《QED》

posted by 渡邊 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年07月03日

【知道中国 1095回】 「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上15)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1095回】      一四・七・初二

 ――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上15)
 「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 延安地区観察所長の話を頭から信じ込んでいるであろう野上は、毛沢東に率いられた共産党と延安住民の“水魚の交わり”をひたすら綴る。

 「彼らは略奪しないばかりか、ひとの家にも許されなければ入らないし、ものを借りれば必ず返す」。そんなこんなで「百姓はすっかり紅軍びいきになってしまった」。正月まえには、紅軍の兵士らはすべて民家に行って、年迎えの大掃除を手伝った」。極貧から貰いたい嫁も貰えなかった百姓に「世帯をもつに入用なものをみんな貸してやり、嫁を連れに行く馬まで貸して、女房持ちにしてやった」。手のつけられないほどの「依怙地もので、四十年のあいだ洗ったことのない布団にくるまって、ひどいトラホームにかかっていた」婆さんを、「宥めすかして(布団を)洗濯してやり、トラホームの治療も、軍の医者が拝むようにして治療してやったので」、その婆さんは「あとで清潔運動の先がけになって働いた」。

 ともかくも「毛沢東はじめ党の要人や紅軍がいかに民衆と親しみ、解けあって生きたかの数々のエピソード」を並べ立てる。そして、「これらの話は延安政府の遺跡たる夥しい洞窟とともに、いまはこの山峡の民話の一種になっているらし」く、「到るところできかされたので、ここではこれ以上はならべないことにしよう」と綴るのだが、「山峡の神話」は途切れることなく延々と続ける。

 毎年正月になると、毛沢東は村の老人たちを招待した。「一人一人に手を差し伸べ、秋の収穫はどうであったか、家内に病人はないかをたずね、おたがいに同じ村の隣人なのだから、心おきなく自分のところへ来て貰いたいし、自分からも訪ねたいといった」とか、「食卓にはできる限りの御馳走がならべられ、幹部のものが必ずそれぞれの食卓について、彼らといっしょに食べた」とか、「毛沢東の挨拶は辞令ではなかった。彼は暇を見つけては百姓たちをたずね、彼らはまた餅粟やじゃが薯を手土産にして、かれの洞窟へ出かけた。うんぬん――。」

 だから、野上に説明してくれる人々には、「もとより深い尊敬があふれてはいるが、英雄崇拝といったような他人行儀の気もちではなく、うちのいい親爺のことは、なにに限らず話さないではいられない、といった素朴で、一途な相手かまわずのまくしたてで〔中略〕聴くものにも好ましい印象を与える」ことになる。だが、それって、余りにもウソ臭くないかい。毛沢東と民衆の間の“水魚の交わり”を演出する巧妙なプロパガンダだろうに。

 だが、なにはともあれ野上は毛沢東賛歌を止めようとはしない。

 ある「記念碑的な建物らしい家」に飾られた毛沢東の肖像を眺めた時、野上は「一種苦笑に似たおもいを」抱く。それというのも「肖像の頭部から、リボンよりもっと広い赤いきれを、左右に垂れるように飾られていた」からであり、その様が「北京のラマ寺である、雍和宮の巨大でグロテスクな本尊の飾り方とそっくりだったからであった」そうな。

 ヒットラーやムッソリーニ、さらには「ロシアにおける生前のスターリン」にせよ、ともかくも国中到る所に肖像や彫像が氾濫していたが、そこまでして「権威者への認識を強いなければならない状態は、決して安らかとはいえず、却って底に容易ならぬ危惧を蔵する証拠ではないか。私はそんなことまで感じさせられた」。だが、毛沢東は違うらしい。肖像や彫像として飾りたてられることは「むしろ、当人が誰よりもいやではないかと思われるし、毛沢東の東洋的人柄から察して、現職のあいだは致し方なし眼をつぶっているのかも知れない」と、“毛沢東の心中”まで忖度してみせた。

 だが独裁者は「却って底に容易ならぬ危惧を蔵」していたはずだ。民主派の批判に苛立ち反右派運動を進めた毛沢東は、野上訪中の翌58年、大躍進政策をぶち上げる。《QED》


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/
マニュアルに従って、提供されたWebサイトをPRする在宅ワークです。
詳しくは上記URLより無料資料請求を。
posted by 渡邊 at 06:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/