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2014年08月26日

【知道中国 1119回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1119回】        一四・八・念二

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野4)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宇野は北京の街を歩く。

 大通りは「悉く完成して居」て、「立派な文明的施設をして居る」。だが「一歩路地に入ると昔ながらの惡路である」。雨が降ったら先ず歩けない。「且つ夫れ甚だ不潔ながら、彼等の家屋中に雪隱の設無いでもないけれども、窮屈な臭い處よりも青天井の下を好む性があつて、横町や曲り角などは?々蹲踞して居るのを見ることがある。通りかゝつた人は見て見ぬ振りをせねばならぬ。人々爲さゞる可からざることを爲す何の憚ることかこれあらん、見る人は即罪ありといふ。隨分勝手な習慣では無いか」

 最近、メディアでは中国では公共交通機関や街角で子供に大小便をさせる親の不作法が話題になり、その“非文明対応”を半ば憤り半ば呆れつつ嘲笑的口調で論じる“識者”が見受けられる。だが、そういった風景は昨日や今日に始まったことではなく、宇野の体験に拠れば、1世紀以上昔の北京ですでに日常化していたことが判る。あるいは、それ以前から行われていたのかもしれない。ならば、公衆の面前での悪臭紛々たる振る舞いは、遠い昔から淡々とさり気なく続いてきたものなのか。それとも最近のように生活水準が向上することによって復活したものなのか――こんな疑問を抱いてしまう。やや口幅ったい表現をするなら万古不易の伝統なのか、それとも伝統の復活なのか、ということになる。

 かりに連綿と続く伝統とするなら、「中華文明」は随分と尾籠な要素を含んでいるものだと呆れ返るしかない。こんな「中華文明の偉大な復興」が実現した日には、世界中が悪臭紛々となる恐れ大である。それでもなお「見る人は即罪ありといふ」のなら、確かに宇野のいうように「隨分勝手な習慣」であり、今後のお付合いは御免蒙りたいものだ。

 一方、伝統の復活とするなら、“衣食足りて礼節を知る”という霊長類の長たるヒトとしての当然の進化が認められなくなる。“衣食足りて”いるにもかかわらず「人々爲さゞる可からざることを爲す何の憚ることかこれあらん」というのでは、これまた堪らない。高尚な歴史認識云々などという問題以前の問題だ。習近平は不正取り締まりに立ち上がり、「大トラ」も「ハエ」も許さないと息巻いているようだが、その前に街角に乱舞する蠅の発生原因を徹底して根絶してもらいたいものである。

 宇野は、「所々の横町の壁上には君子自重の四文字を題してある。猥りに放尿すべからずといふ意味である。朝早く街路を過ぐれば、掃除人は桶を肩にして路上を清めて居るのを見受くる。而して左右の人家からは?ゝ馬桶即ちオカワの中の汚水を路上に撒く者をも見受くる」と続ける。

 掃除人は路上で何を拾い肩の桶に入れるのか。路上に撒かれる汚水の正体が何なのか。もはや説明の要はないだろう。1980年代半ば、家族を引き連れ上海の朝の下町を探索した際、家の軒先で「馬桶即ちオカワの中の汚水を路上に撒く」風景に接したが、我が家族のカルチャーショックは想像するに難くなかった。これも伝統の墨守か、復活か。

 これまた香港留学時の経験だが、「君子自重の四文字」で思い当たるのは、当時、繁華街の公衆便所に張られた「壁に塗り付けるな」の文字であった。塗り付けるものが何なのか。これまた説明の要はないはずだ。40数年前の香港ですらこれである。であるなら、中国全土で公衆衛生問題が解決するには尚も多くの時間がかかることだろう。ヤレヤレ。

 北京での街頭探索は続く。
「下層の支那人」がタバコの屋台で「一本ずゝ買ふ」こと「隨分珍ではあるまいか」と驚きつつ、「惡く云へば其のシミッタレ根性、善く云へば其の經濟思想の發達が、こんな事でもよく分かる」と、彼らの「經濟思想の發達」に頻りに感心してみせる。《QED》

posted by 渡邊 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年08月25日

【知道中国 1118回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1118回】     一四・八・二十

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野3)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
 
 北京の民家の簡単至極な構造に着目した宇野は、「支那家屋の頗る都合好いことは、壁を塗り直し室内を張り代へ塵に汚れた榱桷を塗り代ふれば、全く耳目を一新することが出來ることである。支那國民は實に多くの點に於て物を糊塗することの巧なるものである」と、家屋の構造から民族性を類推してみせた。

 宇野の説くように「支那家屋」から「支那國民」の「物を糊塗することの巧なる」性格を引き出せるものかは俄かには判断しようがないが、香港の農村地帯にあった旧い中国式民家の1室で3年ほど生活した経験に照らせば、構造は確かに簡便に過ぎるほど簡便だ。

 宇野は北京の民家を指して「室内は壁が立つて居る斗」と形容するが然もありなん、である。第一に天井は日本式には張られていない。部屋に立って上を見ると瓦、正確にいうなら瓦の裏側が剥き出しのまま見える。部屋を仕切るものといえば壁だけ。日本家屋のように障子もなければ襖も欄間もない。雨戸もないから戸袋もない。そのうえ窓は極端に少ない。だから障子や襖、それに雨戸を開け放って室内に新鮮な外気を取り込むことは全くできない。床は打ちっぱなしといえば聞こえはいいが、土を固め、そのうえを漆喰状のもので塗ったまま。そんな床にベッドを置いて寝る。だから、床にゴロンと寝転んで寛ぐなどということなど出来はしない。

 おそらく宇野が体験した北京は乾燥しているから湿気はさほど苦にならなかったろう。だが香港の場合、雨期にでもなれば土中の湿気が立ち上り、床に水滴となって浮き出て来るほどの湿気に悩まされる。だから雨期の日課は、目が覚めたらベッドから降りて、先ずモップで床の水滴を拭き取ること。加えるに換気が考慮されていないから、1年中、室内の空気が淀んだまま。これでは精神衛生の上からも問題が多い。いや多すぎる。

 我が香港での経験からして、「壁が立つて居る斗」という宇野の印象は確かに頷ける。どうやら古い民家は、北方の北京でも南方の香港でも、いや東南アジア各地のチャイナタウンでも民家は壁が多く換気がし難い構造が一般的。室内の空気は常にどんよりと黴臭い。

 換気困難な構造、いいかえれば新鮮な外気を家の中に取り込むことができないような家屋構造を、あるいは古くからの中国の姿、つまり超巨大な夜郎自大国の象徴だと考えたなら、或は飛躍に過ぎているだろうか。生活環境や自然環境が家屋の構造を左右し、家屋構造が人々の日常の立ち居振る舞いや精神生活に影響を与えるのかどうかは定かではないが、ああいった壁で遮られ空気が逼塞した家で暮らしていれば、超ジコチュウにもなろうというものだ。

 家の構造のついでに香港で体験した鼠の話でも・・・。

 手元不如意から家賃の安い田舎の民家に移り住んだ当初、鼠には悩まされた。夜中になるとチューチューと部屋の中を動き回る。五月蠅いだけではなく、暗がりで光る眼が不気味だ。そこで日本に手紙を出してネコイラズを送ってもらった。早速、ベッドの下や部屋の四隅に仕掛ける。

 2,3日が過ぎると、管理人の曽バアサンが「こっちへ来い」。彼女の部屋の床に数匹のネズミの死骸。事情を話すと、今度は「その薬をもっと送ってもらえ」と。1週間ほどが過ぎると、ネズミは駆除できたようだ。夜中に安眠を妨害されるようなこともない。それから2,3週間。夜中に足元でガサゴソ。鼠だ。そこで蹴飛ばす。すると鼠は、我が体の足から腹、腹から胸、胸から顔へと駆け上がり、顔の上を三周ほど。爪が口に入ったり、鼻を掻いたり。やがて頭の方からポンと床に飛び降り、暗闇に消える。以後、鼠は現れなかった。 

 果たして、日本製のネコイラズで仲間を皆殺しにされた鼠の仇討だったのか。《QED》
posted by 渡邊 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2014年08月24日

【知道中国 1117回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1117回】           一四・八・仲八

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野2)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 「横濱埠頭に立ちて見送る人の顔もたそがるゝ頃、予は前途の希望を抱いて、郵船會社のチャーター亜遜號に乘り込んだ」。明治39(1906)年初のことである。船は紀州灘、朝鮮海峡を経て、天津への入り口である太沽沖に到着した。

 太沽沖から白河を遡って塘沽に上陸するが、「最初の瞥見は、遺憾ながら決して愉快なものでは無かった」という。なぜなら「白河を夾んで建て連ねた民家は、極めて矮陋なる泥屋?で、壁は勿論家根までも泥を塗つてある。聞けば高梁の幹を壁とも家根ともして泥を塗った者と云ふ。折から冬枯の野は満目荒凉を極めて居る、而して塘沽の家屋は豚小屋では無いかと怪しまれる」ほどだからだった。中国の北の玄関と称されていた太沽沖や塘沽の余りにもみすぼらしい姿に、先ず驚き呆れ果てたようだ。
次いで塘沽から天津を経て鉄道で北京に入る。

 確かに中国は広大で地方によって風俗習慣も大いに異なるが、「北京は亦或る點までは支那の模型と云ふことが出來る。北京を了解すれば支那の過半を了解したものである。先ず北京を熟知して、而して後各地を遍歷すれば、支那の眞相は愈明白となるであらふ」と、先ず「支那の模型」である北京を理解した後に、中国各地を巡る――これが、宇野が考え付いた中国理解の方法だ。

 北京を訪れる者の常として、「先ず城壁に登る。而して一度は此の城壁の壮大なる、眞に金城鐵壁の概あるに驚く」。だが、城壁上の要地にはアメリカとドイツが砲台を構え、「巨砲を皇居に差向け、イザと云わゞ一擊の下に粉碎せざれば止まぬ形勢を示して居るを見ては、二度喫驚せぬものはあるまい」と、驚いている。

 当時、皇居、つまり清朝皇帝の住む紫禁城にアメリカとドイツが砲口を向けているということは、清朝に対する生殺与奪の権は、この両国が直接的に握っていたことを意味するわけだが、ここで、当時の清朝をめぐる国際関係を簡単に振り返っておきたい。

 宇野留学の12年前の1894(明治27)年、朝鮮半島の李朝の取り扱いを巡って戦端が開かれた日清戦争で、日本は勝利を収める。その結果、「眠れる獅子」の実態が内外に明らかになるのだが、日清戦争勝利の果実は、ロシア、フランス、ドイツに掠め取られてしまう。この「三国干渉」に対し、日本国民は「臥薪嘗胆」を心に刻んだ。

 1900(明治33)年、清朝保守派の指導者であった西太后の支持を背景に狂信的排外運動を展開する義和団制圧のため、イギリス、フランスなどを中核とする八カ国連合軍が北京を制圧した。この戦争で略奪を恣にする他国軍隊とは異なり、柴五郎中佐の指揮の下で軍規厳正に戦った日本軍は、北京市民からも好感情で迎えられている。次いで宇野留学直前の1904(明治37)年に勃発した日露戦争は、大方の予想に反し日本の勝利に終わった。

 日露戦争から10年が過ぎて起こった第1次世界大戦の戦後処理をめぐるベルサイユ講和会議を前に、中国では激しい反日運動が起こることになるが、義和団事件における日本軍の振る舞いや日露戦争勝利などから、おそらく宇野留学当時、北京のみならず中国全土における日本及び日本人に対する感情は悪くなかった、いや好ましかったとの記録もみえる。

 宇野は「皇居の壮を見ずんば孰んぞ天子の尊きを知らんやとは古來言ひ傳へられたる格言である。故に皇居は輪たり奐たり壮麗を極めて居る」と綴るものの、北京の街並みを見ては、「軒傾き壁れて隨分ヒドイものが少なくない。これが四百余州の大帝國の帝都とは何うしても首肯かれない。市街は一體に衰亡の色彩を帶びて見える」とする。

「北京は亦或る點までは支那の模型」と考える宇野にとって、北京の街並みが漂わせる「衰亡の色彩」に、あるいは衰え逝く清国の姿を重ね合わせたのかも知れない。《QED》

posted by 渡邊 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年08月18日

【知道中国 1116回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1116回】      一四・八・仲六      

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野1)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宇野哲人(明治8=1875年〜昭和49=1974年)は、東京帝国大学文科大学(現文学部)助教授時代の明治39(1906)年初から約2年に亘って北京に留学した。当時、自らの足で歩き、目で見て感じた異郷の姿を故郷・熊本の両親に書き送る。それが「熊本日日新聞」に連載され、好評を博した。そこで連載を纏め、『支那文明記』と題し世に問うことになる。

 1906年といえば、日本は日露戦争勝利直後であり、中国は清朝崩壊への引き金となった辛亥革命が勃発した1911年の5年前。彼が留学した北京は天子の都である。さぞや物情騒然としていただろう。北京のみならず、全土が混乱の中にあったと思われるが、ともかくも宇野の足は北京だけに留まっていたわけではない。市内を振り出しに、近郊から山東、長安、長沙、武漢、南京、鎮江、蘇州、杭州と名勝古跡を求めて歩く。最期の中華帝国たる清朝の崩壊前夜のありのままの中国から、宇野が「支那文明」をどのように捉えたのか。非常に興味深いところだが、先ずは参考までに彼の略歴を見ておこう。

 熊本第五高等学校から東京帝国大学文科大学漢学科へ。卒業時の成績優秀により明治天皇より銀時計を賜る。大学院を経て東京高等師範学校講師から教授。東京帝国大学文科大学助教授兼東京高等師範学校教授。この間、清国とドイツに留学。帰国後は東京帝国大学文科大学教授兼東京文理科大学教授。定年後、立教大学、警察講習所(現警察大学)、国立北京大学(中華民国)、東方文化学院、実践女子大、国士舘大学、聖心女子大学などで教授や学長などを務めた他、慶應義塾大学、東洋大学、曹洞宗大学(現駒沢大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、日本大学、豊山大学(現大正大学)、大東文化学院などでも教鞭を執る。

 まさに赫々としか形容しようのない経歴。加えるに、これまで読んだことのある何冊かの彼の著作から判断して、さぞや石部金吉で四角四面な道学者であり、であればこそ『支那文明記』はクソ面白くもない中華礼讃の旅行記だろうと、文字通り積読に任せていた。だが、ある時、パラパラと頁を繰っていると、万里の長城に遊んだ際の次の記述に目が止まる。

 「こゝに於て携え來りウヰスキーの杯を擧げ、朔風に向かつて君が代を合唱すること二回、大日本帝國天皇陛下萬歳を連呼すること三回、予は未だ嘗て此の時ほど痛快なるを覺えたことは無い」

 東京帝国大学助教授が万里の長城に立ち、持参したウイスキーを口にした後、北を向き朔風に逆らって「君が代」を2回唱った後、「大日本帝國天皇陛下萬歳」を3回である。おそらく口の中に砂漠の砂が飛び込んできたことだろう。この個所を読んだ時、宇野哲人という漢学者に俄然興味が湧くのを覚え、改めて最初から読み返すこととした。(引用は時に現行漢字体、仮名遣いを使わざるをえないことがあるが、予め了承願いたい)

 宇野は巻頭の「序」に、「千數百年來、我國との交際甚だ密接にして、僅に一衣帶水を以て相距てたる支那の國情は、已に明白でなければならぬ筈で、實は頗る明らかで無い。/古の聖經賢傳を讀みて支那を解するものは、聖賢竝び起り賢良雲の如き支那は、實にこの世に於ける理想郷なりとして居る。支那は果して理想郷なるか。/世人往々にして自己の乏しき經驗を本として、直ちに支那人を漫罵して忘恩背徳度し難いものとなるものがある。支那國民は果して斯の如く漫罵し去るべきか」と記す。

「支那の國情は、已に明白でなければならぬ筈で、實は頗る明らかで無い」。「支那は果して理想郷なるか」。「支那人」は「忘恩背徳度し難」く、「漫罵し去るべきか」――宇野の疑問は宇野留学から百年余が過ぎた現在にも通じるように思える。やはり中国と中国人は永遠のナゾなのか。宇野の旅を追いながら、宇野の説く「支那文明」を考えたい。《QED》

posted by 渡邊 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年08月17日

【知道中国 1115回】 「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田17)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1115回】      一四・八・仲四

 ――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田17)
 「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 いよいよ仁井田の「中国の旅」も終わりに近づく。

 広州から香港にでた途端、「きのうまで広州のホテルにいたときは、部屋に鍵をかけず荷物もほったらかしで気にしなかった。ところが今日、九竜のホテルに来たときはそうはいかなかった。『人を見たらどろぼうと思え』の世界に入ったからである」と、異なことを口走るから始末が悪いこと甚だしい。

 これではまるで中国本土は善人の天下で、香港は悪人の巣窟とでもいいたげだ。香港の名誉のためにいっておくが、香港だけが「『人を見たらどろぼうと思え』の世界」ではない。人間が日々の生活を営む当たり前の社会というものは、国境や民族、さらには生活程度の違いとは関係なく、凡そ「『人を見たらどろぼうと思え』の世界」というものだろうに。

 中国のホテルで鍵を掛ける必要がないのは、べつに中国人全員が極め付きの聖人君子であり、泥棒ではないというわけではない。水も漏らさぬほどに完璧なまでの相互監視社会である。かりに外国からの客人の持ち物を盗んだところで、他人に(いや家族であろうと)見つかったら即座に密告されただろう。国是である社会主義への道に背く者として断罪され、社会的に抹殺されてしまう。これが社会主義を信奉する新中国の“掟”だったのだ。

 仁井田訪中1年前の58年9月に公刊され全国民に拳々服膺を求めた「愛国公約」に、「地域と自らの家庭とがより良く団結し、相互批判と自己批判を大胆に展開し、互いに助け合い、共に高め合うことを保証します」との一項があるが、これなんぞ徹底した相互監視体制を求めたものだ。国民1人1人の行動は24時間徹底監視・管理である。だから、些か戯画化して表現するなら泥棒がいないのではなく、泥棒になりたくてもなれなかったわけだ。

 にも拘わらず仁井田は寝言を続ける。底抜けのお人好し、いや呆れ返るほどのバカです。

 「どろぼうがなくなる問題をつきつめてゆくと、自国の支配領域をまもって他国の領域を犯さぬ『侵略戦争の否定』というところにまで問題が発展するように思われる。日本で軍備の必要を説く人が、その理由として一家の戸締りの必要を説いている。なるほど日本の国内での戸締りは必要であろう。しかしその必要状態から、中国に対する軍備の必要を割り出すことには、何かわりきれないものを感ずる。北京大学の翦教授をはじめ、中国の人はよく次のようにもいった。『国土は広く資源は多く、建設にいそがしいのに、何もよその国まで侵略する必要はない』と」

 「北京大学の翦教授」といはいうが反右派闘争を経ても北京大学で禄を食んでいられたわけだから、極論するなら“去勢された知識人”でしかない。いわば毛沢東=共産党の知的幇間が説く「何もよその国まで侵略する必要はない」を論拠に中国は他国を侵略することなどありえないから、日本が「中国に対する軍備の必要を割り出すことには、何かわりきれないものを感ずる」というのだから、処置ナシ。当時、中国は東南アジア各地に工作員を派遣し、各国の華僑社会を基盤に共産勢力の浸透を進めていたことは明白な事実。だが東京大学と北京大学――両国の最高学府の権威が中国は他国を侵略などするわけがないと口を揃えれば、そのインチキな主張が独り歩きしてしまう。見事なまでの宣伝工作だ。

 香港で「子供がよごれた手を出して物を乞うたこと」に「今更ながら驚」き、「私は中国の各地で、ことに上海の工人街で、多数の子供にとりまかれた。しかしその子供達は誰一人として、旧い時代の子供たちのようには手を出さなかった。これほどに中国の歴史的諸条件は変わっているのである」と綴り、仁井田は旅を締め括る。中国で接した子供たちが洗脳のための道具であったことに、気づくこともなく。

 仁井田が掘った井戸は真っ赤に汚染されていた。彼の罪も・・・計り難く重い。《QED》

posted by 渡邊 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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