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2014年09月14日

【知道中国 1123回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1123回】        一四・九・三〇      

――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野8)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
 
 旅程が前後するが、話のついでに、宇野が洛陽の県役所を訪れた際の記述を綴っておくのも、彼の社会における役人の振る舞いを知る上で参考になるだろう。

 「縣衙門に至る正堂に待つ間に儀門内の牌樓上に記せるものを見れば、/爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌/と題してある蓋支那の官吏には最適切の訓戒である。若官吏皆この心を心としたならば民治まらざるを憂へず國強からざるを憂へず。然れども之を知つて、而して之を行ふもの果して幾人かある。言行相反せること支那官吏より甚だしきはあるまい」

 つまり洛陽の県役所に出掛けたら、目だつ所にデカデカと且つ麗々しくも恭しく「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌(キミ等の俸給は人民の汗の結晶だ。下々の民百姓は適当にあしらえるが、天の目は節穴じゃないぞ。権力を振り回しての不正を天は見逃さないぞ)」と書いた看板が掲げられていたわけだが、これって『党政領導幹部公開選抜和競争上崗考試』(国家行政科学院出版社 2009年)の巻頭に麗々しくも掲げられた江沢民の筆になる「永做人民公僕(永遠に人民の公僕たれ)」の6文字に似てないだろうか。

 宇野が洛陽の県役所で目にした「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌」から毛沢東の「為人民服務(人民のために服務せよ)」を挟んで江沢民の「永做人民公僕(永遠に人民の公僕たれ)」まで、ほぼ100年が経過したわけだが、その結果が周永康の1.5兆円や温家宝前首相の2千数百億円に“結実”したということなら、この国のエライ人は一体全体、なにを考えているというのか。

 ここで毎度お馴染みの林語堂(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)の“至言”を引いておく。

 曰く、「中国人はすべて申し分のない善人であり、〔中略〕中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」――もはや、多言を重ねる必要はない。この百年、やや大袈裟にいうなら太古の昔から、彼の民族にとって官=幹部にとって「『賄賂を取る』は規則動詞」だったわけだ。

 封建中国における官は、口先では「天」に至高の価値を置くものの、腹の中では端っから「天」などは信じていなかった。官にとって最大関心事は如何に「民」から膏血を搾り取り、如何に一族を繁栄させればよいのか、である。これを現代に言い換えるなら、周永康や温家宝を典型とする現代の官たる幹部もまた、「人民」に価値など置いているわけがない。「人民」から搾り取り、一族の栄耀栄華が果たされればそれでいいのだ。

 そこで、現在の幹部の不正に対する痛烈な批判を紹介しておく。

 「幹部らは職権を乱用し、現実からも一般大衆からも目を背け、偉そうに体裁を装うことに時間と労力を費やし、無駄話にふけり、ガチガチとした考え方に縛られ、行政機関に無駄なスタッフを置き、鈍臭くて無能で無責任で約束も守らず、問題に対処せずに書類を延々とたらい回しし、他人に責任をなすりつけ、役人風を吹かせ、なにかにつけて他人を非難し、攻撃し、民主主義を抑圧し、上役と部下を欺き、気まぐれで横暴で、えこひいきで、袖の下を使えば、他の汚職にも関与している」

以上は、改革・開放政策を打ち上げ、毛沢東政治の大部分を否定し、国家の方針を政治から経済へと不退転の決意で大きく転舵させた直後の1980年夏に発したケ小平の“苦言”である。やはり幹部は「永做人民公僕」ではなく、「永做金銭奴僕」でした・・・ネ。《QED》

posted by 渡邊 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2014年09月07日

【知道中国 1122回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1122回】         一四・八・念八

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野7)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
 
 ここで時計の針を一気に1世紀ほど進めて現代へ。

 「大トラ」から「小バエ」までの一網打尽を狙う習近平政権による不正・腐敗追及は、急であり厳だ。たとえば「大トラ」と目される1.5兆円不正の周永康にしてもそうだが、その経歴を振り返ってみると、頭の天辺から爪先まで全身が徹頭徹尾の党官僚であり、権力の風向きをしっかりと見定め、党官僚としての出世の階段をソツなく勤め上げたからこそ、党トップの常務委員に登り詰め、前胡錦濤政権では14億余の国民に対する生殺与奪の権を手にしたはずだ。

「大トラ」がこれである。ならば「小バエ」も同じようにセッセせっせと日常党務に精励しつつ、派閥の親分に対し忠勤に励む一方で、抜け目なく立ち回って不正を繰り返しているに違いない。

 そういえば先年、天安門広場近くの共産党御用達の書店で、党と政府の幹部に昇進するための受験対策集『党政領導幹部公開選抜和競争上崗考試』(国家行政科学院出版社 2009年)を買ったことがある。背表紙に「2009年最新版 標準模擬試巻」と。編著者は元人事部常務副部長で国家行政学院副院長。表紙を開くと先ず目に飛び込んでくるのが江沢民の筆になる「永做人民公僕(永遠に人民の公僕たれ)」の6文字・・・思わず苦笑デス。

 編著者は「前言」の冒頭で「公開による党政指導幹部の選抜と昇級制度は幹部任用制度に関する改革の重要な成果であり、幹部人事制度改革の柱である。広範に人材を選抜し優秀な才能が頭角を現すことは人事任用上の不正を正すためには多大な意義を持つ」と力説した後、「本教材は信頼性高い内容により各省、自治区、直轄市の組織部門、人事部門から高い評価を受け、広範な受験生の支持をえている。出版以来、全国の20以上の市(区)が参考教材として指定した」と自画自賛・自己宣伝も忘れてはいない。万事が商売なのだ。

 なにはともあれ参考までに日本人にも答えられそうな4択問題を拾ってみると、

A:社会主義道徳建設の核心は、@愛国主義、A集体主義、B社会主義、C為人民服務。
B:中国外交政策の基本目標は、@中国の国際的地位の向上、A世界平和の維持と人類共同の繁栄と発展の促進、B覇権主義と強権政治に反対、C人類解放の実現。
C:現下の世界の最重要社会問題は、@貧困、A失業、B人権、C格差。
D:建国初期、中国を後進農業国から先進工業国へ転換すべく戦略構想したのは、@ケ小平、A周恩来、B毛沢東、C劉少奇。
E:公文書を綴じる位置は、@左側、A右側、B真ん中上部、C左上部。
F:公文書の必要不可欠な部分は、@標記、A正文、B起案者、C公印書名

もちろん、ここに例示したような単純素朴な問題ばかりではない。たとえば「党の執政能力強化の重要性につき述べよ」などといった小論文問題、提示された公文書の誤りを訂正する極めて技術的な問題などもある。だが、どんな問題であれ、正解と解説を読み、共産党政権が掲げるタテマエを一心不乱に機械的に暗記しさえすれば合格可能なようだ。

要するに、現代の科挙試験ともいってよさそうな愚問・奇問・難問が限りなく続く難関を突破しなければ、党や政府の幹部になることも、出世することも覚束ないらしい。

宇野は科挙試験などでは「當世才子」は選べるが、「奇傑」は到底生まれ得ない。にもかかわらず、欠陥だらけで時代遅れの科挙制度で「人材と登庸せんとしたが、徒に官場の陋習を助長したのみで、國勢は漸く萎靡して振はざるに至つたのである」と指摘するが、ある程度は現在にも通ずるように思えて仕方がない。因みに正解はA=C、B=A、C=B、D=B、E=@、F=A。A、B、Cはウソ臭く、EとFは・・・どうでもいいや。《QED》

posted by 渡邊 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年09月04日

【知道中国 1121回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1121回】             一四・八・念六      

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野6)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
 
 文廟の北に位置し、北京におけるラマ教の霊場であった雍和宮に向かう。清朝の「雍正帝が自邸を喜捨して喇嘛教の靈場としたのは、主として西蔵及び蒙古統治上の政策に本づきたるものである」。つまりチベットや内外蒙古で「神聖にして犯すべからず」と崇められているダライラマの歓心を買えば両地を統治するうえで「非常の便宜があるからである」。とはいうものの清朝は多事多端。財政的理由からか、雍和宮への支援を廃止してしまった。

 だがロシアは、インドを拠点に中国進出を図る「英國の死命を制せんとする大抱負を逞しうせんが爲」に、ダライラマに急接近しているようだ。ゆえに宇野は「達識の士は着眼を忘れてはなるまい」と警告する。

 宇野と仁井田。「達識の士は着眼を忘れてはなるまい」と“志”を示そうとする宇野に対し、我を忘れて(いや、元来が忘れるほどに我はなかったのかもしれないが)中国側に指示されるがままに振舞った仁井田。同じ東大教授ながら、戦前と戦後ではこうも違うものか。感心したり呆れ返ったり、である。それにしても仁井田は酷かった。酷過ぎた。

 雍正宮内の「幾多の殿堂には皆佛像を安置して」り、各殿堂に鍵をもったラマ僧が管理している。だからラマ教の仏像を拝観するには「夫れ夫れ若干錢を與へざれば殿堂内にはいることが出來ぬ」。だからカネがかかるわけだが、外見は「別に我國の僧と變りは無い」が、「僧侶は僧侶でも支那の僧侶は中々慾が深いのである」。僧侶が両替を持ちかけ利ザヤ稼ぎをしようとしたのだ。そこで宇野は「この僧奴は其利を得んとするのである。この通り錢がほしくてそれで出家もすさまじい。いや露骨なだけそれだけ可愛らしいのかも知れぬ」と。

 やはり、ここでも日本的常識は通じないということである。穏やかすぎるほど穏やかな姿の日本の仏像に較べ、中国の仏像は便々たる布袋腹を曝し、いやらしいばかりに脂ぎったニヤケ顔が殆ど。しかもキンキラキンと輝きを放つ。あれを有難いと必死に拝むのだから、中国の善男善女が如何ほどの善男善女なのか。中国のみならず、台湾、香港、マカオ、東南アジアから世界各地のチャイナタウンの中国系寺院を覗く毎に、「錢がほしくてそれで出家もすさまじい。いや露骨なだけそれだけ可愛らしいのかも知れぬ」と宇野の“讃嘆”を反芻することになる。彼我の両民族は同文同種ではなく、やはり良くも悪くも異文異種なのだ。そのことを、日本人は宜しく心得ておくべきだろう。

 宇野は貢院、つまり「科擧試場即ち高等文官試験場」を見学した。当時、すでに科挙は廃止され、「日本及び各國留學生」から高級官吏を任用する制度に改められていたので、貢院もまた旧制度の遺物となっていた。

 貢院は棟割長屋状の煉瓦造りの建物が並び、一棟が数十室に区切ってある。一室の大きさは「間口も奥行きも約三尺で、軒の高さは予の耳迄」というから、相当に狭い。その狭い部屋に留まること二泊。便所に行く以外は、「晝夜に別なく受驗者は一生懸命に答案二篇の文章と一篇の詩を書かねばならぬ」。過度の緊張を強いられ、発狂する者もでるほどだったらしい。だが、一たび科挙に合格し、官吏に登用されれば一族郎党に富と栄誉が舞い込んでくるわけだから止められない。最難関の皇帝直々の殿試合格者は、いまならさしずめ共産党中央常務委員といったところか。1.5兆円のワイロだって可能だ。もっとも周永康のよう狙い撃ちに遭い、晒し者にされてしまっては完蛋(オシマイ)だが。

 「かくの如くして貢院は名利を逐ふ場所となり、天下の俊才を凡化し無氣力とした」。御小賢しき「當世才子はこの間から出たけれども、奇傑はこの卑陋なる室中に容るゝには餘り大である」。けだし宇野は、科挙試験こそが国勢萎靡の元凶だと結論づける。《QED》

posted by 渡邊 at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2014年09月03日

【知道中国 1120回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1120回】         一四・八・念四
      
 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野5)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宇野は街角で「牛豚鶏肉等の煮たものを、俎に載せて切り賣をして居る」店舗を覗き、蠅のたかっている豚の腸詰を目にし、不衛生極まりない様子に「食ふ氣にはなれない」と漏らす。だが一方で、「牛豚鶏肉等の煮たもの」の切り売りは、「細民に取つては頗る便利であらふ」と考えた。それというのも、「細民は終日飯も炊かず副食も煮ず、不經濟な薪を用ゐて烟を上げる必要もなく、其の時間と勞力を省くこと果して幾何ぞや」と感心してみせるが、ここにも「惡く云へば其のシミつたれ根性、善く云へば其の經濟思想の發達」を見て取った。

 街を歩いて最も不便に感じたことは、やはり複雑怪奇な貨幣制度だった。全国共通の貨幣制度が存在しないということは、全国を統べる中央政府が存在しないということを意味し、それはまた中央政府としての権能を失った清朝中枢の脆弱性の現れでもあるわけだ。

 「支那に入つて最も不都合で不便利を感ずるのは、貨幣制度の一定せぬことである」。「擁するの支那の貨幣は一定の本位が無く、凡て制定せられた價格の如何に拘はらず、其の實質の價値によつて引取りせらるゝから、貨幣と云はんよりは寧ろ物品と言ふべきである」。であればこそ速やかに貨幣制度を統一すべきと思うが、それを阻む理由があり勢力がある。「支那に於ける有力な銀行家は此の面倒な間に巨利を博し、官吏も亦此の面倒の爲に尠からぬ利を占める」からだ。

「一般人民は舊慣に泥んで遷ることをしらず」。だが「財界の実力者、官界の人々、悉く此の面倒を以つて私腹を肥やして居るから、貨幣制度の統一などを喜ばない、いつ迄立つても如何に本位貨幣は制定されても、到底改革は思も寄らぬ」というわけだ。この宇野の考えは、なにやら現在の政治改革に共通しないだろうか。つまり圧倒的多数の一般国民は共産党独裁の「舊慣に泥んで遷ることをしら」ない。だが幹部はというと、北京から地方郷村の末端までが現在の権力機構を「以つて私腹を肥やして居るから」、政治改革「などを喜ばない」。政治制度の改革が謳われようが、とどのつまりは「到底改革は思も寄らぬ」ことになる。

 ここまで読んで毎度おなじみの『中国=文化と思想』(林語堂 講談社学術文庫 1999年)の次の一節が頭を過った。いわく「民族としての中国人の偉大な点は」、「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともできるところにあろう」。「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊しあるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできるのである」と。つまり無原則の大原則。みんなは己のため、己は己の爲。身勝手極まりないわけだ。

 北京の街並みを歩き庶民生活を語った後、北京名勝紀行に移るが、さすがに宇野である。先ず北京の城北に位置する文廟、つまり古くから学問の神サマであり至聖と崇め奉られてきた「孔子を祠る處」に出向く。

 「門は鎖してある。之を叩くこと兩三囘すると、番人が出て來て開けてくれる」。廟内を仔細に歩いた後、「辭し去るに臨んで門番に相當の謝禮を贈るのは當然であらう。即ち門を開けて貰らつた勞力に對する報酬(?)である」とはいうものの、「潔癖な我が日本人の考へから云へば、掌を差出して錢を要求する彼等を見ると、唾棄したい様な氣持がする」。そこで「少しは聖賢のヘを聞き恥を知りても可なりと云つてやりたい様な氣持が」したそうであり、かくて「請求せずとも心附けはするものをと云つてやりたい」ということになる。

 文廟の門番だって「掌を差出して錢を要求する」。それが現実というものだ。《QED》
posted by 渡邊 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた
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