
【知道中国 1125回】 一四・九・仲三
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野10)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
北京郊外の旅を終えた宇野は、明治39(1906)年9月、天津を経て山東への旅に出た。
この年の1月には乃木第三軍司令官が東京に凱旋し、7月には日露戦争勝利の最大の功労者であった児玉源太郎が55歳で死去し、9月1日には関東庁が発足し、10日に満鉄株式の募集が開始され、日本の満州経営が始まっている。
当時、中国利権をめぐって繰り広げられた列強間の動きを簡単に振り返っておくと、日清戦争に勝利して日本に対しフランス、ドイツ、ロシアは1895(明治28)年、三国干渉を行い遼東半島の返還を勧告した。太平洋艦隊の寄港地として膠州湾に着目したドイツは、1897(明治30)年11月に山東省西部で発生したドイツ人宣教師殺人事件を口実に「ドイツ人宣教師保護」を掲げて膠州湾を占領し、翌98年3月に独清条約を結び、99年期限で膠州湾を租借。以後、膠州湾総督府を置き、山東省全体を支配下に収め利権の網を広げていった。その膠州湾総督府が置かれたのが、宇野が訪れた青島だった。
広州湾を占領してから「まだ數年にしかならぬが、金を費やすこと既に十二億マルク、第一着に道路・水道・下水道を完成し、漸時其他に及び、大小二個の港には棧橋が三つあり、〔以下、要約すると、浮きドック、砲台、兵営、鉄道、総督府、裁判所、警察署、ホテル、娯楽のための競馬場、劇場、海水浴場、電燈、電話、ドイツ人になくてはならないビール醸造工場、病院、寺院など〕、一切の設備整はざるは無い、さすがに山東に於ける獨逸の策源地として其力を盡して居る跡、歷々として見ることが出來る」。だが、当時の山東は石炭は採掘できたが、貿易は不振だった。「然るに獨逸がかくの如く不生産的事業に巨額を投じて惜しまざるは、其の志決して小で無い」と見た宇野は、「我等は深く之に着眼せねばならぬ」と、用意周到なドイツに対する警戒心を喚起する。
当時の日本は三国干渉から臥薪嘗胆の時代を経て、日露戦争勝利に湧いていた。日本もまた清国をめぐって激しい火花を散らす列強間のグレート・ゲームの火中に勇躍と参加していったのだ。
ドイツが敷設し経営する山東鉄道で、宇野は青島から済南まで旅するが、その車中の様子を、「宣教師の一群の外は皆支那人で、自分を珍しがつて一時英語と支那語との包圍攻擊を受けたが、支那人の例によつて先づ戸籍調からはじまり、我國に就ての愚問、果は我が服を手にとりながら、露骨にもこれは何程するかなどと甚だうるさい。然し彼等は失禮だとは思つて居ない様である」と綴る。
どうやら宇野も、有り余るほどの好奇心を秘め、何にでも口を差し挟み、相手の都合や迷惑を顧みず、薀蓄を傾け、一家言を弄し、暇つぶしに興ずる彼らの「包圍攻擊」に悩まされたようだ。彼らを相手にする時には、この種の「包圍攻擊」には予め覚悟しておくべきだろう。とにもかくにも物見高い彼らに対するに、なによりも沈思黙考は避けるべきだ。
他省のように産物に恵まれているわけではない山東人気質について宇野は、「天與の恩惠を受くること乏しいから、却つて奮發心を起こさしむるものと見え、一體に進取の氣象に富み最も商業に巧である。北京天津に於ける有力なる商人は多く山東人である。滿洲に於ける支那人の多くは山東出身である。馬賊の大部分も山東人である。山東人は體質も強壯且つ偉大で」あるとする。
因みに当時の北京において山東出身者は、豚肉、屠殺、白油(豚の油)、胡麻油、古着、飲食、鞄、水、糞尿、米穀業など、まさに生活に密着した職業は概ね山東出身者の独占状態であることが判る。出身地を同じくする者(同郷)が特定の職業(同業)を独占することで異郷でも生き抜こうというカラクリには、一応は頭を下げておきたいと思う。《QED》