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2014年11月09日

【知道中国 1130回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野15)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1130回】        一四・九・念四

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野15)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宇野の子息である宇野精一が「父は旅行好きだったから、北京滞在中にも、半年ぐらいして山東半島へ旅行をし、一年半余の後、帰国の途次に長安(今の西安)から南の都市に旅行したようである」(「学術文庫版刊行に当たって」『清国文明記』講談社学術文庫 2006年)と綴っているところからして、長安を目指した旅は、北京留学の卒業旅行だったのだろうか。ちなみに宇野は、帰国直後の明治41(1908)年5月には前後2年余のドイツ留学に旅立っている。中国から即ドイツ留学へ。宇野の視界は、格段に広がったことだろう。

 宇野が「畏友桑原學士」、つまり後に中国における人肉食いの歴史に注目した桑原隲蔵京都帝国大学文科大学助教授(当時)と共に長安に向けて北京西駅を旅立った明治40(1907)年9月前後の出来事を簡単に綴っておくと、4月には日本の満州経営の柱である満鉄が開業した。中国国内では清朝打倒の運動は加熱の一途。7月には日本留学生の秋瑾女史がテロに失敗。「秋風秋雨、人を愁殺す」の一言を残し刑場の露と消えた。9月1日、革命派は5回目の武装蜂起を決行したものの失敗している。

 「畏友桑原學士」は宇野との旅を「長安の旅」として記録したが、現在は『考史遊記』(岩波文庫 2001年)に収められている。そこで、必要に応じて桑原の感想を加えながら、宇野の旅を追ってみることとする。

 宇野は旅行準備の様子を、『考史遊記』の「序」に「余の山東旅行の経験により、寝具は二枚つづきの毛布二枚をズックの細長き袋に入れ、食器・茶器・炊事用具・?燭・蚤取粉・大和煮・福神漬等缶詰類、茶、米数升等を楕円形の竹籠(いわゆる考籠?)に入れ、旅費は馬蹄銀及び穴錢入れの頭陀袋を用意することとした。因みにこの馬蹄銀は、行く先々で、適当に切りてその土地用の穴錢に替えて、支払いに当てたのである」と記した。

 中国は銀本位制であり、かつ地方によって貨幣制度が複雑微妙に異なる。そこで旅人は必要に応じて馬蹄形の銀貨を切り分け、各々の地方で通用の小銭に両替したわけだ。全土で通貨が統一されていない。もちろん、ことばも千差万別。これでは、とてもじゃないが近代的な意味での統一国家とは呼べない。つまり当時、彼の地は明かに国家の態をなしてはいなかったのだ。

 清朝という統治主体の配下の、膨大なる老百姓(じんみん)が住む境域を自らの支配が及ぶ版図と見做す清国は、政府・国民・国土を柱とする近代的な国家システムによって動いていたわけではなかった。だが日本は、明治維新を経て近代国家への脱皮を急いだ。かくて日本は近代国家ではない彼の国を清国と呼び、国家として扱ってしまった。そこに、あるいは後々の対中関係(戦争、外交、通商、文化など)におけるボタンの掛け違いが生まれ、やがて満州事変以降の“矛盾”へと繋がり、結果として上海事変から支那事変へとまっしぐらに進んでしまったのではなかろうか。

 1840年のアヘン戦争敗北をキッカケとする清朝衰亡期――それは易姓革命を繰り返しつつ栄枯盛衰を繰り返して来た中華帝国の黄昏でもあるが――から辛亥革命を経て中華民国建国へ、さらには軍閥割拠の時代の後の蒋介石による国民政府時代まで、中国と呼ばれる広大な境域には統一された中央政権は存在してはいない。中央政権とは名ばかりで、文字通り名存実亡でしかありえない。中国と呼ばれる境域の全体を統一的に統治する中央政権は存在しなかった。日中戦争末期をみても、重慶に蒋介石を指導者とする反日政権があれば、南京には汪精衛を首班とする親日反共政権が存在した。加えて延安には毛沢東の共産党政権である。まさに乱七八糟(ムチャクチャ)としかいえない情況だったのだ。

 だが日本を含む諸外国が国家と見做し対応したところに、大錯誤があった。《QED》
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2014年11月08日

【知道中国 1129回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1129回】        一四・九・念二

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野14)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 やがて黄河を越えて河南省の省都である開封に入る。規模は北京には遥かに及ばないが、宋代には都だけあって雄大ではある。だが旅の途中で立ち寄った済南などに較べると衛生設備が整っていないこともあって、「到る處不浄が横つて居る」。「我が國の雜貨はボツボツ見受くる」。開封での宇野の宿泊先は小栗洋行という日本商社だった。すでに日本人は、ここまで進出していたのである。

 開封でも宇野は精力的に旧跡を訪れているが、興味深いのがヘ經胡同と呼ばれるユダヤ人街の探訪だろう。宋代に西方から移住してきた彼らは、明代に至って王朝から住宅を下賜され安住の地を与えられた。ユダヤ人街の路地の奥に「猶太ヘの寺があつたが、今は其跡陷没して直徑三十間斗りの池となつて、猶太人の子孫が其の池水に洗濯などをして居る」。あちこち散策していると、「猶太人の子孫」と思われる人々に囲まれたが、彼らにはユダヤ人の面影はない。なぜなら「幾度か支那人との雜婚の結果、容貌などは少しも區別は出來ない。服装も凡て支那人と同様である」と感想を洩らす。

 宋代といえば、いまから1000年ほどの昔である。中国以外に移り住んだユダヤ人がユダヤ人として生き抜いてきたのとは違って、流浪の果てに東方の異邦に流れ着いたユダヤ人は、時の流れの中で漢族の大海に否も応もなく呑み込まれ、とどのつまりは「服装も凡て支那人と同様」になってしまったということだろう。どのような民族であれ、漢族という坩堝に呑み込まれたら最後、個々の民族が生まれながらに秘めて来た特性は溶解され、結果として漢族化してしまう。ウイグル、モンゴル、チベット、朝鮮族のみならず数多の総数民族が直面している民族的惨状を考えれば、その感化力というか漢化力の凄まじさに、改めて脅威を感ずる。

 新進気鋭の人口経済学者の梁建章は「中国の人口の長期にわたる均衡ある発展を保障してこそ、人口と社会経済、資源と環境の調和のとれた持続的発展が保証できる。こうしてこそ、21世紀が真の中国の世紀となりうる。世界の強国に伍し、長きに亘って成長し衰えることのない立場に立てる。いまや中国の人口政策を徹底して解放せよ。いまや多産を奨励する時に立ち至った」(『中国人太多了??』(梁建章・李建新 社会科学文献出版社 2012年)と、声高に叫んでいる。

 また現代中国における華僑・華人研究の第一人者で知られる陳碧笙は、海外に多くの漢族(系)が居住する根本は、「歴史的にも現状からしても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動は停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」(『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社 1991年)とする。

 であればこそ、改革・開放政策の勝ち組である多くの富裕層が莫大な資産を懐に海外に移り住んでいる事実は、船の沈没を予感したネズミが船から脱出する様に似て共産党政権の危機を予感しているからといったレベルで捉えるのではなく、より深刻に考えるべきだ。

 どうやら宇野の開封探索は雨に祟られたようだが、「仲秋に至つて晴れた」。「朝から所々に爆竹の越えが聞こえる」。「月餅の外、柿、梨、桃の類凡て圓形を供へ、今日は皆晴れ衣を着け相往來して賀意を表すること、御正月と同じやうである」。異郷で対した「皓如たる名月」に、宇野は「寂寞の境に在つて、昔ながらの名月に對し、徘徊去るにびず」との思いを綴っている。

 20日余の山東・河南旅行を終え、北京に戻る。次に目指したのは長安。翌年の「九月三日午前七時、畏友桑原學士と同行長安に向かひて北京西火車站を發」したのである。《QED》
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2014年11月07日

【知道中国 1128回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1128回】       一四・九・仲九

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野13)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 だが、山東一帯の住人は孔子の時代は純朴だったものの、時代が下るに従って荒んできたわけではないだろう。有体にいうなら孔子の時代から、いや、そのもっと昔から、「人情唯利を見て義を知らず、浮薄背信至らざるなき」情況だったと考えるべきではないか。

 世に「『論語』読みの『論語』知らず」というが、まさに宇野がそれだ。「人情唯利を見て義を知らず、浮薄背信至らざるなき」社会で、日本人が金科玉条のように読み伝えてきた『論語』が説く道徳律など、まさに屁の役にも立たないはず。それは毛沢東の時代、『毛主席語録』が説くような中国人と中国社会が存在しなかったことと同じということ。

 『論語』が説く社会規範が、昔から「聖人墳墓の地」を統べていたと考えていたとするなら、それは買い被りであり、大いなる誤解だと強くいっておきたい。宇野のような立場の学者がもたらした誤解が拡大再生産された挙句の果てに、日本人は『論語』が説く中国と中国人をホンモノと思い込んでしまった、というわけだ。なんとも間抜けな話ではある。

 山東省を西に抜けて河南省に入ると、そこで宇野は「支那服を着て辮髪を垂れた獨逸人に遇ふた」。なぜドイツ人は、しかも弁髪で河南の田舎を歩いているのか。「獨逸人山東經営の手はかくの如くにして遠く河南の境にまでも及んでいる」のだ。かくて宇野は「志ある人は決して輕々に看過してはならぬ」と警鐘を鳴らすことを忘れない。

 そういえば15年ほど前。ミャンマー東北の中国との国境地帯を歩いていた時、ランドクルーザーで旅行中のドイツ人の地質学者と言葉を交わしたことがある。なぜ、ドイツ人が、こんな場所に。彼は「地下資源探査だ」と。ドイツ人の「手はかくの如くにして遠く」ミャンマー東北までも伸びていたのだ。タンシュエ軍事独裁政権全盛の頃であった。

 さて再び三度宇野の旅に戻る。

 宇野は河南省を歩きながら「由來支那婦人は?にして御し難い。故に孔子も女子と小人とは養ひ難しと云つたのである」と考え、「世人往々支那を稱して男尊女卑の國といふ、成程古來の風習によつて女子の社會上に於ける地位極めて低いのは事實であるが、家庭に於ける婦人の權利は甚だ弱い、外觀は格別であるけれど、實際は案外女尊男卑と云つてもいい位である。女子にも案外人物が少なくない」と続けている。

 そういわれてみれば、良くも悪くも中国の近現代史を彩った女性を思いつくままに拾いあげてみると、孫文の宋慶齢からはじまって、蒋介石の宋美齢、毛沢東の江青、林彪の葉群、劉少奇の王光美、周恩来のケ頴超、ケ小平の卓琳、近くでは温家宝の張培莉、薄熙来の谷開来を経て習近平の彭麗媛まで。彼ら夫婦の歩みを政治的側面から追い掛けてみるなら、やはり「外觀は格別であるけれど、實際は案外女尊男卑と云つてもいい位である」といえないこともない。

 歴史に「もし」はありえない。だが宋慶齢が存在しなかったら、晩年の孫文があれほどまでに左傾化しただろうか。宋美齢が得意の英語を駆使してルーズベルト以下のワシントン要人を丸め込み、アメリカ社会に同情心を喚起しなかったら、蒋介石の対日戦略は大いに違っていたはずだ。江青が政治権力の亡者でなく貞淑な妻だったら、毛沢東の尻を引っ叩いて文革なんぞをおっぱじめることもなかったろう。王光美がハデに振る舞うことなく江青の嫉妬心を逆撫でしなかったら、劉少奇は文革で無残な仕打ちを受けはしなかったに違いない。張培莉が超弩級の金銭亡者でなかったなら、温家宝だって2千数百億円規模の“不正蓄財”に励みはしなかっただろう。谷開来が怪しげな英国人に“籠絡”されなかったら、今ごろ薄熙来は党中央常務委員として北京で権力を恣にしていた・・・かも。

 彼女らは「?にして御し難」く、家庭では「女尊男卑と云つてもいい位」です。《QED》
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2014年11月05日

【知道中国 1127回】「実に多くの点において物を糊塗するの巧みなる・・・」(宇野12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1127回】       一四・九・仲七

 ――「実に多くの点において物を糊塗するの巧みなる・・・」(宇野12)

 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宿に戻った宇野を曲阜の知事が訪ねてきた。日中両国の文化について語り合った最後に、宇野が改めて「魯國の地、孔孟の遺風猶存するものありや」と問うと、彼は「頞蹙して曰く、否、弊國の人士、口を開けば即ち孔孟を説く、然れども唯嘴裏のみ」と。

 ついぞ目にしたことのない「あつしく」とルビの振られた「頞蹙」の2文字からは、なにやら忸怩たる思いを胸にした知事の振る舞いが伝わってくるようで面白い。「弊國の人士、口を開けば即ち孔孟を説く、然れども唯嘴裏のみ」とは、やはりタテマエとホンネの乖離は昔も今も、いや、これからも未来永劫に不滅・・・ってことですかねえ。

 やがて曲阜に別れを告げるが、郊外にでた途端、多くの「流氓」、つまり難民に出くわす。彼らは「河南地方の洪水に家を失ひ産を破り、食を求めんが爲に遠く北に移るのである。老を扶け幼を携へて長途の旅路に餓と勞れで見るも哀れな有様である」。自然災害に戦乱を逃れた彼らの多くが目指した新天地は、日本による開発の始まった満州だった。

 宇野の時代より遥かに下った大正から昭和の交の頃、山東人が陸路と海路とで続々と滿洲入りしている。彼らの実態を調査した『山東避難民記實』(滿鐵臨時經濟調査委員会 昭和3年)に拠れば、昭和2年の1年間だけでも100万人を越える山東人が、単純出稼ぎ労働者として、あるいは「兵亂匪賊の人禍や水旱蝗蟲の天災に惱まされ喰ふに糧無く住むに所無き爲滿洲をより容易の生活境として渡來」している。前者は単身で、後者は一家眷属がうち揃って。時代が下るに従って後者が増加している――とのことだ。

 宇野の時代と大正末年から昭和初年の社会情況を一律に論ずることはできなとも思うが、それにしても中国における人々の地域性は、やはり確実に覚えておくべきだろう。

 やがて宇野の旅は山東、河北、河南の三つの省が交わる辺りに差し掛かった。この一帯の「風俗人情最も壞敗し、常に匪徒の巢窟である。特に秋期高粱が未だ収穫されていない時には、賊は屢高粱に隱れて居て突然出でゝ旅客を襲ふ。故に此時期は賊難を恐れて行客殆ど絶ゆるとの事である」。

 かくて宇野は進退窮することとなったが、幸運にも目的地を同じくする「鑣車」があったので同行することにした。「鑣車とは即保險附の車」で、現代風に置き換えればガードマン会社の護送車といったところか。都市のみならず、都市を離れたら尚更に治安は悪く金品の輸送には危険が伴ったから、強盗被害を恐れ予め保険を掛けることが当たり前であった。そこで全国各地の主要都市には、「この保險を引受くる店がある」。こういった店は各地の顔役に用心棒代を支払って輸送の安全を図った。顔役は荒くれ子分どもに最強の武器を持たせ、鑣車を警護させたわけだ。
 「鑣車に同行する」ことで、宇野は危険なく次の目的地に辿りついた。日本でなら「宿に着けば先づ服を更め打寛ぎ、湯に浴して終日の勞を休め、或は一杯の芳醇を汲み、溫かき夜具に寢ぬる」のだが、「支那内地では宿に着ても食ふものも無く、油燈の影暗い處に不潔な床に自ら携へ來つた毛布を纏ふてうたゝねをし、床虫に襲はれて安かに夢結びかぬることが多い」から、宇野も「床虫に襲はれ」ながら寝苦しい夜を過ごしたことだろう。

 じつは宇野は北京で「人情唯利を見て義を知らず、浮薄背信至らざるなきを見て」、それは北京の特殊事情であり、「北京の地は外人に接し誤つてこの惡習に染」まったのだろう。だから北京から全土を推し量ることは「群盲評鼎の誤りがあらふ」し、「廣く内地を見なければ輕々しく論斷してはならぬ」と戒めていた。殊に山東は孔子の故郷であり、「聖人墳墓の地なれば、冀くば遺風猶存し純朴古の如きものあるべしと豫想したるが、頗る失望せざるをえなかった」と。どうやら宇野の儚い期待は悉く裏切られてしまったようだ。《QED》
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2014年11月03日

【知道中国 1126回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1126回】    一四・九・仲五      

――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野11)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
 
 宇野は「滿洲に於ける支那人の多くは山東出身である。馬賊の大部分も山東人である。山東人は體質も強壯且つ偉大で」あるとするが、満州で彼らは「山東棒子」「山東児」と呼ばれ蔑まれていた。「棒子」とは棒のこと、「棒子」とは貧しく妻子もない落ちぶれ者という意味らしい。

 「由来山東人は『支那の面子を毀損する者は山東人なり』と云はれ、流氓又は苦力として支那の内外各地に白蟻の如くに侵入して行き、生きるために如何なる不道徳的手段をも考慮せずして、遂には白蟻の高樓を覆へすが如き破壞をなすため、他省の者より斯く輕蔑せられてゐ」(滿洲國警務総局保安局『極秘 魔窟・大觀園の解剖』原書房 昭和57年)た、とも。そういえば、毛沢東夫人の江青も、「中国のべリヤ」とも「毛沢東の特務」とも呼ばれた康生も共に山東人だった。この2人もまた共産党政権の「面子を毀損」したことにかけては人後に落ちないだろう。とはいうものの、共産党政権の面子そのものがナンボノモンジャイ・・・ではありますが。

 再び宇野の旅に戻る。済南から西して泰山を過ぎれば、いよいよ孔子を祀る曲阜に近づく。さすがに正真正銘の儒学徒である。宇野の心は高鳴るばかりだ。

 「南方遙に/曲阜/を望む。城上高く黄色の甍見ゆるは蓋聖廟である。〔中略〕城北に一帶の檜の森鬱然として廻らすに壁を以ってせるは、まがう方なき至聖林である。予等は譬へばヱルサレムを望見した十字軍の諸士もかくやと斗り歓天喜地、頻りに鞭を擧げて幾もなく曲阜城北吉陞店に着す。時に午後六時、此日行程百里」

 「ヱルサレムを望見した十字軍の諸士もかくやと斗り歓天喜地」とは些か大袈裟だとは思うが、儒学徒を任ずる宇野としては当たり前のことかもしれない。遂に孔子廟の最奥に納まった孔子像に正対するが、中国人への冷静な観察眼は完全に消え失せ、単なる孔子教徒、いや孔子オタクへと変身してしまうのだから、げに“信仰”とは空恐ろしいものだ。

 「予等は馬を下りて〔中略〕鞠躬如として堂に上れば、見よ正面には聖人在ませり。王冠を戴き袞龍の御衣を着し端坐し給ひ、眉目の間には無限の仁愛を表はし口には笑を含み循々として教を垂れ給ふが如し。覺えず頭を垂るれば聖靈髣髴として咫尺の間に來格し、視ずして其神を見、聽かずして其聲を聞き、眇たる此の小?直ちに偉大なる聖靈に攝取せられ恍然として我あるを知らず、又人あるをみず」

 この数行の記述からだけでも宇野の舞い上がりぶりが見て取れるだろう。やがて些かの落ち着きを取り戻し、左右に目を転ずれば、復聖顔子、迹聖子思子、宗聖曾子、亞聖孟子、閔子冉子、端木子、仲子、卜子、有子から朱子まで孔子の教えを伝え広めた聖人像のオンパレードだ。「こゝに古の聖賢と一堂の下に會することを得て、萬感胸に集まり其の緒を知らず」と。まるで憧れ続けた大スターに出会った際の熱狂的ファンそのものだ。

 毛沢東に会った際、周恩来に、ケ小平に、江沢民に、胡錦濤に対し・・・“大物”と世評の高い政治家やら財界人、著名文化人など多くの日本人がほぼ例外なく舞い上がり、孔子像に出会った宇野と同じように、「小?直ちに偉大なる聖靈に攝取せられ恍然として我あるを知らず、又人あるをみず」して、遂には「萬感胸に集まり其の緒を知ら」ざる情況に陥ってしまい、挙句の果てに相手の術中に嵌ってしまう。その顕著な一例が、数年前の胡錦濤を前にした菅首相(当時)のブザマな姿であり、小澤一郎に引率されて北京を詣で胡錦濤に“謁見”を賜った民主党の議員たちだ。

 宇野が孔子像に我を忘れる程度は許せるものの、やはり首相以下が彼の国で、彼の国民の目の前で醜態を曝すことだけは断固として許されないことだろう・・・に。《QED》
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