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2014年12月24日

【知道中国 1133回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野17)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1133回】     一四・十・初一 

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野17)
  『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 やがて古代・周を建国した武王の弟に当たる召公を祀った召公祠へ。ともかくも荒れ果てるばかりだった。宇野は「祠堂の内は窮民の寓と化して、不潔筆紙に盡くし難し、又祠前には無頼の徒相集り賭博に耽て居る」と綴り、桑原は「(廟内に)召公の像を安置すれども、その実苦力乞徒住家にて、鴉片を喫する者、賭博を試むる者、各一方に割拠し、塵埃堆積、馬糞散乱、臭気鼻を穿つ。乃ち匆々辞して客舎に帰る」と記す。2人の筆からは乱雑・不潔が目に浮かび、悪臭が鼻を衝く。はて、「散乱」していたのは「馬糞」のみか。

 召公その人は、周代に天下に号令したほどの傑物。祠の西隣には役所があるにもかかわらず、この無様な姿。かくて宇野は「古の陜州召公の遺風、亦何の處にか尋ねん」と嘆くが、窮民やら無頼の徒に「古の陜州召公の遺風」を求めること自体が無理な話であって、これをナイモノネダリというべきだろう。おそらく召公の時代でも窮民やら無頼の徒やらは「相集り賭博に耽て居」たに違いない。

 とどのつまり往時の日本の支那学者は、古代中国がひたすら立派だったという考えに凝り固まり、そこから一歩も抜け出せなかった、いや抜け出そうともしなかった。かくて中国に道徳が行なわれていた時代があったと勝手に思い込んでしまったわけだ。じつにオメデタく、また情けないことこのうえない。孔孟から毛沢東、そしてケ小平まで、彼ら一貫する詐術に引っ掛かったままに、21世紀の現在を迎えたということだろう。

 やがて「京をでゝ已に十有七日、行程千余里。宿志是に酬いて長安に入るを得た」が、すでに長安には数人の日本人が滞在していた。高等学堂の鈴木夫妻、師範学堂の森、田中両氏、さらに足立氏など。鈴木、足立両人は家族連れ。彼らの真の任務は何だったのか。

 宇野は彼らに案内され長安内外に点在する名勝古跡を見物しているが、その多くが管理不行き届きの惨状を呈していた。たとえば前漢の儒学者で儒教の絶対的地位を確立するに大功績のあった董仲舒(前197年〜前104年?)の墓にしても、訪ねてみると「門内はやゝ低湿にして、耕して畠となし殆んど踏むべき道もなし」といった有様である。日々を生きる庶民にからすれば、大学者の董仲舒だろうと、そんなものは腹の足しにもならない。ならば空地は耕して米・野菜でも作ろうか、ということになるのはず。超現実的と云えばそれまでだが。

 長安城内の「滿城」と名づけられた満州人集団居住区域を訪ねる。17世紀中頃、清朝は北京に入城し天下を統一したが、歴史的にも地政学的にも要衝である長安には「特に滿城を此処に設けて、漢族を威壓した。後來滿人は漸く其勢力を失墜し加ふるに禄米は以て一家を支ふるに足らず、且つ邦家の制に官吏は一切商業に從事することが出來ず、愈々久しく愈々窮す。現今に於ては其の房屋は悉く漢人の手に歸し、滿人は殆ど無用の長物として漢人に冷眼視せらるゝやうになつた」というのだ。

 清朝としては、八旗で呼んだ満州人精鋭部隊を駐屯させることで長安を抑え、同時に長安から西や南に続く甘粛、四川などでの反清朝策動を封じ込めようとした。宇野は「天下の背に居りて四方を制す、進んで攻むべく退きて守るべく、形勢天下に甲たり」と、長安の持つ地政学上の重要性を記している。

 清朝が強勢を誇った時代には漢人は平身低頭。だが、その権勢に陰りが見える頃には、満州人を「殆ど無用の長物として」「冷眼視」するようになった。水に落ちた犬に石を投げつけろ、ということだろう。栄枯盛衰は世の常ではあるが、これもまた現実だ。だが満州人女性は、満城を「雄姿堂々たる滿洲婦人の両把児頭」で闊歩していた。両把児頭とは満州女性が装う独特の髪型。「ナメたらあかんぜよ!」・・・満州女も気が強そうだ。《QED》
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2014年12月21日

【知道中国 1132回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野17)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1132回】       一四・九・念九

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野17)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 「幾度か床蟲に夢を破られ」る一方、時に「雨で道路は泥濘車輪の半ばを没」し、「馬の行きなやむこと甚し」というから、さぞや悪戦苦闘の旅だったに違いない。

 やがて孟津。殷の紂王を征した武王以来、幾多の英雄が勝利の戦に向かい、時に敗残の兵を率いて壊走しつつ、通り過ぎて行った黄河の渡しである。

 宇野の目は、渡し場に張り出された黄河の渡河料金表に注がれた。荷馬車、家畜、轎など細かく示されているが、一番安いのが通行人で1人は「二十文」、一番高いのが「霊柩一千文」。その差は500倍。なぜ、「霊柩」が河を渡るのか。

 かつて出稼ぎ先で死んだ場合、亡骸は棺に納められ、故郷に送り届けられていた。異郷の土にはなりたくない。故郷の母なる土に還ってこそ人生は全うされると考えられていたのだ。「入土為安(故郷の土に還ってこそ心安らかなれ)」である。そこで運柩とも運棺とも呼ばれる専門ビジネス、今風に表現するなら棺の宅急便業者のネットワークが張り巡らされていた。つまり運柩が日常化していたからこその「霊柩一千文」である。

 死者は生者の500倍という料金設定が高いか安いかは別に、時に棺の渡河料金を払えない事態も発生し、かくて棺を置いたまま遁走する業者もあったらしい。引き取り手もないままに、2年、3年と渡し場で風雨に晒されたら、如何に頑丈な棺でも壊れる。壊れたらどうなるか。おそらく宇野も、旅のどこかで、壊れた棺と変わり果てた死骸――凄惨としか形容しようのない情景を目にしたことだろう。

 無事に黄河を渡った先に洛陽の街はあった。

 宿に入る。宇野を案内した下級兵士が寺社の案内料金として1500文を渡してくれと求める。だが、寺社の入場料金は650文ということだから、この兵士は、案内を機に850文(=1500−650)を懐に入れようとした。事情を知った後、宇野は「支那人氣質はこの一端にも現はれ面白し。(河南一帯の人々の)人氣は外人を欺負すること甚しく、北京に比して更に狡詐なることを覺ゆ」と。

 洛陽では朱子などを祀った祠堂を訪ねるが、「祠前は或は耕されて畑となり、或は草茫々たり、甚しきは祠堂内に藁を貯へ、其傍は尿女溺の惡臭紛々たり」。時には篤志家が祠堂の修復を試みただろうが、この惨状を前に「無學無恥の徒、神靈を犯し、靈域を汚すこと如斯、眞に度し難きものと云わねばならぬ」と怒気を強める。宇野と旅を共にする桑原も、「(祠堂の所領は)民人に占侵せられ、塵埃堆積、門扇傾覆、春秋の祭典は、全く没精神・無意味にして」と記している。往昔の大賢人を祀る祠堂も、この始末。全くもって処置ナシ。情けなさを通り越して、呆れ果てるばかりのバチ当たり達であることだけは確かだ。

 確かに中国本土のみならず、台湾、香港、マカオ、はては東南アジア各地のチャイナタウンを訪ねて驚くことは、寺社廟の呆れ返るくらいの汚らしさ。あの汚さに平然としている彼らに、果たして信仰心はあるのか。大いに首を傾げざるを得ない・・・あるわけないとは、思いますが。

 やがて洛陽を発し、さらに西に進む。「途上二人の西洋人に逢ふ。これは此地方に居る宣教師である」。問題は、この西洋人だ。なんでも「數日前一の西洋人あり片言隻語の中國語に通ぜず、何故ありてか其の僕を撲殺し」てしまった。その西洋人が宣教師であったかどうかは別に、宇野は西洋人を指して、「彼等が眼中人なく、亂暴を極むること最も憎むべし。支那人が洋鬼と稱し慊惡するも尤もである」と。

 さらに西へ。臭蟲の襲来はことのほか激しく、前夜は「殆ど一睡も成し難かつたから疲勞甚しく馬上に眠」る始末。それにしても西洋人といい臭蟲といい・・・迷惑千万。《QED》
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2014年12月14日

【知道中国 1131回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1131回】    一四・九・念七
     
 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野16)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 清朝末期以降から現在までを考えてみると、なにやら近代国家の世界の只中に国家の装いを纏った前近代の中国という“巨塊”がドカッと居座り、しかも広大な版図に身勝手極まりない膨大な人々を抱えるがゆえに大迷惑を周辺に及ぼし続けてきた――おそらく、この辺に中国問題という永遠の大難題を解くカギがあるように思える。

 とはいうものの、この問題は宇野の旅とは全く関係がないだけではなく、果たして正鵠を得たものか。それとも頓珍漢な思い込みなのか。熟考のうえで後日を期したいが、それにしても「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」という述懐を援用するなら、清朝末期から現在まで「実に多くの点において」、国家を「糊塗することの巧みなる」ことに脱帽せざるを得ないのだ。

 それにしても、東京と京都の両帝大に腰を据え、後の日本における「支那学」の屋台骨を支えた両巨頭が、若き日に「寝具は二枚つづきの毛布二枚をズックの細長き袋に入れ、食器・茶器・炊事用具・?燭・蚤取粉・大和煮・福神漬等缶詰類、茶、米数升等を楕円形の竹籠(いわゆる考籠?)に入れ」、北京から長安までテクテクと旅する。なんとも長閑であったことよ。

 確かに2人の文章を読む限り、長閑な旅に終始しているように思える。だが考えてみれば当時の清朝は崩壊寸前の大混乱期。にもかかわらず、宇野と桑原の2人は旅先で、混乱の「こ」の字も、政治の「せ」の字も書き残してはいない。広大な中国である。北京や上海で巻き起こっている混乱や政治的変動が如何に激しいものであれ、その影響は地方にまで及んではいなかったともいえる。あるいは2人は、清朝の行末やら政治的動向への関心を意図的に記さなかったのだろうか。 

 2人が乗った列車は北京西站を離れるや、思う間もなく盧溝橋を過ぎる。驀進する車中で「桑原君の雄辯に耳をかたむけつつ」とあるが、さて桑原は宇野に向かって何を熱く語ったのだろう。当時の中国では、特別急行以外は夜行列車は走っていなかった。だから尺取虫のように進むしかない。

 彰徳府の駅に降りる。「我國と同じ様に家號を記したる提灯を吊し、口々に家號を叫びて群集來る宿引きの中で永陞と云ふに伴はれ停車場前に宿」を取った。「宿引き」の服装は「我國と同じ様」だろうが、その騒がしさには格段の違いがあったはず。おそらく永陞の宿引きが一番強引で声も一番大きかったのだろう。

 翌日早朝に彰徳を発って8時半に到着した新郷の宿では、4人の日本人が泊まっていると告げられた。「日本大學生大竹多積氏外三君」で、彼らは「薬を携へ行く行く之を賣て旅費に宛て」、新郷に1週間ほど滞在の後、北京経由で帰国する予定とのことだった。

 どんな目的で、どのような成算を胸に「日本大學生大竹多積氏外三君」が混乱期の中国を旅していたのか。たんなる個人的冒険心とも思えないが、「薬を携へ行く行く之を賣て旅費に宛て」ようというのだから、あるいは今風にいうなら日本製薬品のマーケッティング・リサーチだったろうか。売薬旅行の真の狙いの詳細を知りたいところではある。「日本大學生大竹多積氏外三君」が記録を残しておいてくれたら有難い限りだが。

 宇野は綴る。「思ひもかけぬ他郷の地で祖國の人に逢ふ、何ぞ必しも舊相識のみならん。この喜はとても身其境に居つたもので無ければ想像も出來ないであらふ」と。だが桑原の「長安の旅」をみると、新郷の宿で「思ひもかけぬ他郷の地で祖國の人に逢」った記述など一切ない。ただ「十二時二十分新郷県を発し、三時半清化鎮に着し、西関外の大和客棧に投ず」と淡々と事実を綴るだけ。感激タイプに実務肌。2人の旅は始まったばかり。《QED》
posted by 渡邊 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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