
【知道中国 1133回】 一四・十・初一
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野17)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
やがて古代・周を建国した武王の弟に当たる召公を祀った召公祠へ。ともかくも荒れ果てるばかりだった。宇野は「祠堂の内は窮民の寓と化して、不潔筆紙に盡くし難し、又祠前には無頼の徒相集り賭博に耽て居る」と綴り、桑原は「(廟内に)召公の像を安置すれども、その実苦力乞徒住家にて、鴉片を喫する者、賭博を試むる者、各一方に割拠し、塵埃堆積、馬糞散乱、臭気鼻を穿つ。乃ち匆々辞して客舎に帰る」と記す。2人の筆からは乱雑・不潔が目に浮かび、悪臭が鼻を衝く。はて、「散乱」していたのは「馬糞」のみか。
召公その人は、周代に天下に号令したほどの傑物。祠の西隣には役所があるにもかかわらず、この無様な姿。かくて宇野は「古の陜州召公の遺風、亦何の處にか尋ねん」と嘆くが、窮民やら無頼の徒に「古の陜州召公の遺風」を求めること自体が無理な話であって、これをナイモノネダリというべきだろう。おそらく召公の時代でも窮民やら無頼の徒やらは「相集り賭博に耽て居」たに違いない。
とどのつまり往時の日本の支那学者は、古代中国がひたすら立派だったという考えに凝り固まり、そこから一歩も抜け出せなかった、いや抜け出そうともしなかった。かくて中国に道徳が行なわれていた時代があったと勝手に思い込んでしまったわけだ。じつにオメデタく、また情けないことこのうえない。孔孟から毛沢東、そしてケ小平まで、彼ら一貫する詐術に引っ掛かったままに、21世紀の現在を迎えたということだろう。
やがて「京をでゝ已に十有七日、行程千余里。宿志是に酬いて長安に入るを得た」が、すでに長安には数人の日本人が滞在していた。高等学堂の鈴木夫妻、師範学堂の森、田中両氏、さらに足立氏など。鈴木、足立両人は家族連れ。彼らの真の任務は何だったのか。
宇野は彼らに案内され長安内外に点在する名勝古跡を見物しているが、その多くが管理不行き届きの惨状を呈していた。たとえば前漢の儒学者で儒教の絶対的地位を確立するに大功績のあった董仲舒(前197年〜前104年?)の墓にしても、訪ねてみると「門内はやゝ低湿にして、耕して畠となし殆んど踏むべき道もなし」といった有様である。日々を生きる庶民にからすれば、大学者の董仲舒だろうと、そんなものは腹の足しにもならない。ならば空地は耕して米・野菜でも作ろうか、ということになるのはず。超現実的と云えばそれまでだが。
長安城内の「滿城」と名づけられた満州人集団居住区域を訪ねる。17世紀中頃、清朝は北京に入城し天下を統一したが、歴史的にも地政学的にも要衝である長安には「特に滿城を此処に設けて、漢族を威壓した。後來滿人は漸く其勢力を失墜し加ふるに禄米は以て一家を支ふるに足らず、且つ邦家の制に官吏は一切商業に從事することが出來ず、愈々久しく愈々窮す。現今に於ては其の房屋は悉く漢人の手に歸し、滿人は殆ど無用の長物として漢人に冷眼視せらるゝやうになつた」というのだ。
清朝としては、八旗で呼んだ満州人精鋭部隊を駐屯させることで長安を抑え、同時に長安から西や南に続く甘粛、四川などでの反清朝策動を封じ込めようとした。宇野は「天下の背に居りて四方を制す、進んで攻むべく退きて守るべく、形勢天下に甲たり」と、長安の持つ地政学上の重要性を記している。
清朝が強勢を誇った時代には漢人は平身低頭。だが、その権勢に陰りが見える頃には、満州人を「殆ど無用の長物として」「冷眼視」するようになった。水に落ちた犬に石を投げつけろ、ということだろう。栄枯盛衰は世の常ではあるが、これもまた現実だ。だが満州人女性は、満城を「雄姿堂々たる滿洲婦人の両把児頭」で闊歩していた。両把児頭とは満州女性が装う独特の髪型。「ナメたらあかんぜよ!」・・・満州女も気が強そうだ。《QED》