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2014年12月14日

【知道中国 1131回】 「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1131回】    一四・九・念七
     
 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野16)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 清朝末期以降から現在までを考えてみると、なにやら近代国家の世界の只中に国家の装いを纏った前近代の中国という“巨塊”がドカッと居座り、しかも広大な版図に身勝手極まりない膨大な人々を抱えるがゆえに大迷惑を周辺に及ぼし続けてきた――おそらく、この辺に中国問題という永遠の大難題を解くカギがあるように思える。

 とはいうものの、この問題は宇野の旅とは全く関係がないだけではなく、果たして正鵠を得たものか。それとも頓珍漢な思い込みなのか。熟考のうえで後日を期したいが、それにしても「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」という述懐を援用するなら、清朝末期から現在まで「実に多くの点において」、国家を「糊塗することの巧みなる」ことに脱帽せざるを得ないのだ。

 それにしても、東京と京都の両帝大に腰を据え、後の日本における「支那学」の屋台骨を支えた両巨頭が、若き日に「寝具は二枚つづきの毛布二枚をズックの細長き袋に入れ、食器・茶器・炊事用具・?燭・蚤取粉・大和煮・福神漬等缶詰類、茶、米数升等を楕円形の竹籠(いわゆる考籠?)に入れ」、北京から長安までテクテクと旅する。なんとも長閑であったことよ。

 確かに2人の文章を読む限り、長閑な旅に終始しているように思える。だが考えてみれば当時の清朝は崩壊寸前の大混乱期。にもかかわらず、宇野と桑原の2人は旅先で、混乱の「こ」の字も、政治の「せ」の字も書き残してはいない。広大な中国である。北京や上海で巻き起こっている混乱や政治的変動が如何に激しいものであれ、その影響は地方にまで及んではいなかったともいえる。あるいは2人は、清朝の行末やら政治的動向への関心を意図的に記さなかったのだろうか。 

 2人が乗った列車は北京西站を離れるや、思う間もなく盧溝橋を過ぎる。驀進する車中で「桑原君の雄辯に耳をかたむけつつ」とあるが、さて桑原は宇野に向かって何を熱く語ったのだろう。当時の中国では、特別急行以外は夜行列車は走っていなかった。だから尺取虫のように進むしかない。

 彰徳府の駅に降りる。「我國と同じ様に家號を記したる提灯を吊し、口々に家號を叫びて群集來る宿引きの中で永陞と云ふに伴はれ停車場前に宿」を取った。「宿引き」の服装は「我國と同じ様」だろうが、その騒がしさには格段の違いがあったはず。おそらく永陞の宿引きが一番強引で声も一番大きかったのだろう。

 翌日早朝に彰徳を発って8時半に到着した新郷の宿では、4人の日本人が泊まっていると告げられた。「日本大學生大竹多積氏外三君」で、彼らは「薬を携へ行く行く之を賣て旅費に宛て」、新郷に1週間ほど滞在の後、北京経由で帰国する予定とのことだった。

 どんな目的で、どのような成算を胸に「日本大學生大竹多積氏外三君」が混乱期の中国を旅していたのか。たんなる個人的冒険心とも思えないが、「薬を携へ行く行く之を賣て旅費に宛て」ようというのだから、あるいは今風にいうなら日本製薬品のマーケッティング・リサーチだったろうか。売薬旅行の真の狙いの詳細を知りたいところではある。「日本大學生大竹多積氏外三君」が記録を残しておいてくれたら有難い限りだが。

 宇野は綴る。「思ひもかけぬ他郷の地で祖國の人に逢ふ、何ぞ必しも舊相識のみならん。この喜はとても身其境に居つたもので無ければ想像も出來ないであらふ」と。だが桑原の「長安の旅」をみると、新郷の宿で「思ひもかけぬ他郷の地で祖國の人に逢」った記述など一切ない。ただ「十二時二十分新郷県を発し、三時半清化鎮に着し、西関外の大和客棧に投ず」と淡々と事実を綴るだけ。感激タイプに実務肌。2人の旅は始まったばかり。《QED》
posted by 渡邊 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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