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2015年01月31日

【知道中国 1165回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1165回】           一四・十二・初五

 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉12)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 「頑固ニ乄西虜ヲ悪ム」が余りに西洋を「厭フモノ」も困るが、やはり忌むべきは「本朝ニアリナカラ本朝ヲ尚フノ意モ無」い「西虜ヲ称誇」する輩だろう。名倉の時代から150年余が過ぎた現在では「西虜」に加え「米虜」「中虜」「露虜」「韓虜」などなど様々な「虜ヲ称誇」し得意然と糊口を鬻ぐ輩が後を絶たない。だが、この種の振る舞いの根底に、日本人が気づかぬままに刷り込まれてしまった屈辱的思考方法が潜んでいるはずだ。

 その「虜」について名倉が問うと、上海の西門守護役人の陳汝欽は「佛則模英則驕魯則泰ト云ヘリ」。そこで名倉は「是亦吾輩所見ト相符セリ」と。つまり名倉もまたフランス人は「模」、イギリス人は「驕」、ロシア人は「泰」と見做していたということになる。イギリス人は態度がでかく、ロシア人は物事に動じない。さてフランス人の「模」だが、極く普通に考えれば標準的で当たり障りがないとなるが、洞ヶ峠タイプとも考えられる。

 名倉は太平天国軍との戦いに臨んだ武将の話に耳を傾け、練兵場に足繁く通っては清国軍の操練からも何かを学び取ろうとする。

 「許多ノ戎行ヲ経歴シ来タル武功将軍(中略)等」の考えは、「実戦ニ臨テハ陣法隊名等ノヿハ論スル所ニ非ス只兵卒ノ先ス奪敗セサル者勝ヲ得ㇽナリ」と共通していた。だから過去の戦歴を考究し具体的に陣形を動かして実戦さながらの演習することはもちろんだが、やはり実戦と訓練は違う。「両陣會戦ノ際只虚々実々ヲ以テ勝敗ヲ決スト云ヘリ」。戦場での勝敗は、指揮官による用兵の巧拙・優劣にあるということだろう。

 混乱した戦場で隊伍を機能的に動かすにために日本でも「金鼓旌旗」が使われるが、清国軍の操練をみるに極めて簡素化されている。「実戦ニ馳シ用ユル真操ノヿナレバ如此簡易ニ乄形容ヲ粧ヒ飾ㇽ等ノヿナシ」。戦況が時々刻々と変化する戦場においては、命令伝達は簡単明瞭・緩急自在・周知徹底が肝要だ。ところが太平の世に慣れ実戦から遥か離れた日本における用兵法は巧緻を競う余り指揮官の意思が伝わり難く、兵卒を自在に動かせない。

 じつは名倉は「是マデ実戦ニ施ス所ノ真操ヲバ看タルヿナ」かった。彼が日本で学んだ兵法は精緻に過ぎる。だいいち兵卒だって覚えにくい。戦場で兵卒が動かなければ敗北は必至となる。「今本朝ノ操法ノ如クニテハ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒亦甚タ六ケ敷乄無益ノヿニ工夫ヲ費ヤシ力ラヲ用ユルヿアリ又士卒モ学ヒ難ク覺ヘ易カラズ」。やはり「今本朝ノ操法」は実戦向きではなかった。「只甲越長沼流杯云ヘル兵法ノミ骨折テ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒等マデ之ヲ善シト思」っていたが、清国軍の「操法ヲ看ルニ及ンテ大ニ発明セシヿアリ」と。やはり「本朝ノ操法」に革命を起こさなければダメだ。名倉は大いに悟る。

 上海の街を好んで「徘徊」した名倉である。やはり庶民生活への眼差しを忘れない。

 たとえば婦女子。女性は貴賤を問わず耳に穴をあけ金銀の環を掛けている。金持ちや身分のある大家の女性にとって外出は稀のことであり、外出の際には必ず輿に乗る。だから街を歩いているのは「賎女下婢等ノミ」だ。纏足に注目しては、「婦人ハ皆足ノ小ナルヲ尚フ故ニ婦人」の履く靴は「甚小ナリ」と。

 店先を覗く。店頭に肴は多いが生魚は甚だ少なく、あったとしても川魚の類である。店頭には必ず「真不二價」とか「実不二價」とか大きく掲げているが、なにを買うにも厄介なのは貨幣制度が複雑に過ぎることだ。あそこでもここでも関帝廟に出くわしたことから、上海のみならず「支那一同関羽ヲ尊崇スルヿ極メテ浅カラスト見ヘタリ」と。はたして名倉は、関羽が商売の神様であることを知らなかったらしい。

 鎖国最末期、名倉は混乱の上海で世界の現実を垣間見た。千歳丸帰国6年後の1868年、明治の御世が始まり、鎖国を解いた「本朝」は苦難と栄光の新しい時代に船出する。《QED》

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2015年01月30日

【知道中国 1164回】「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1164回】           一四・十二・初三

 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉11)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 名倉は「余カ同行ノ士中牟田倉之助」の言動を伝えている。同行者中、特に名前を挙げて記しているのは高杉と名倉の2人のみ。それだけ2人とは親しかったと思える。

 中牟田倉之助(天保8=1837年〜大正5=1916年)とは、後の大日本帝国海軍大将で子爵。最終ポストは海軍軍令部長。金丸家から中牟田家の養子に。20歳の安政3(1856)年に佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ。三重津海軍所を経て戊辰戦争に。函館戦争に参加した後、慶應義塾で英学を学ぶ。おそらく三重津海軍所時代に千歳丸に乗船したものと思われる。千歳丸出航時の長崎で流行していた麻疹に、中牟田も高杉も罹ってしまった。だが外国行きという千載一遇の好機を逃すまいと、両人は無理を押して乗船する。

 高杉が英語の使い手と評している通り、中牟田は英語を使って上海在住の英国軍人と接触し、様々な情報の入手に努める。それらを名倉が書き記しているが、当時の日本にとっては余ほど貴重な情報であると同時に、その貴重な情報が「同行ノ士」の間で共有されていたということだろう。以下は「支那見聞録」に残る中牟田の言動だ。なお中牟田は「上海行日記」を遺しているが、入手次第、「支那見聞録」の内容と比較してみたい。

 中牟田が英国の「陸軍ノ将ステユーリイニ逢テ火器ノ談ニ及」んだ際、同将軍は、英国陸軍では従来から使用していた「ミ子ー銃」を廃して「インホルトライフル」を採用することになった。だが陣形やら戦法に変化はない――と語ると同時に、「支那ニテハ現今ニモ古へノ銃砲ヲ用ヒ又弓ヲモ時アリテ之ヲ用ル」が、これは単なる飾りに過ぎないと笑っていたそうだ。

 中牟田の話から、名倉は次のように考えた。確かに英国将軍のいうように、銃器から軍艦に至るまで兵器全般にわたって西洋を真似てもいいだろう。だが「気節ヲ失フ」ことは断じて罷りならん。用兵法については「西法ヲ傚傚フヘカラス」と。つまり戦争遂行上のハードである兵器は高性能なら西洋から輸入しても構わないが、やはり戦場での要諦であるソフト面の「気節」や用兵法に関しては断固として西洋のマネをしてはならない。民族独自のそれがあってしかるべきだ、と。

 某日、中牟田が英軍砲台の見学結果を報告する。

 英軍は製作者に因んで「アルムストロング」と名付けられた「精巧ヲ極ム」る6門の「新奇ノ大砲」を「上海ニ齎シ来レリ」。未だ外国には秘密になっているが、「英人等倉之助ノ為メニ其砲ノ放発手續キヲモ見セシメタ」とのこと。さぞや中牟田は興奮してしゃべったことだろう。想像するに、たとえば、こんな風に。

 ――見たこともないような新奇なアルムストロング砲からは12ポンドの砲弾が速射されるのじゃ。いやはや、拙者、甚く胆を冷やし申したぞ。斯様な新式大砲を放発された暁には、我らが腰間の利刀といえども、最早これは叶い申さんぞ。英虜なぞと蔑み申さず、ここは虚心坦懐に学ぶに如かずではござらんか。これからは断固として佐久間象山先生の説かれる和魂洋才でいかずばなるまいぞ、のう、御同輩――口角泡を飛ばしたかどうかは判らないが、上海の宿舎の一隅で名倉ら「同行ノ士」の輪に中で、興奮して語る中牟田の姿が目に浮かぶようだ。高杉も、十中八九は同席していたことだろう。

 かくて名倉は「本朝ノ人トテモ頑固ニ乄西虜ヲ悪ムノ餘リ」に彼らの製造した武器すらも「厭フモノアリ」。そういった人は大抵が「義気アリテ死ヲ鴻毛ヨリ軽ンスル」もの。一方、「西虜ヲ称誇」して止まない輩は「本朝ニアリナカラ本朝ヲ尚フノ意モ無シ」。どちらも頼りにはならない。ならばこそ「頑固ナルヲノミ悪キト云へカラズ」。だが、ともかくも「人々自ラ思慮乄義気ヲ不失」、彼らの「長ヲ取テ我ガ短ヲ補フベキヿ勿論ナリ」と。《QED》
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2015年01月29日

【知道中国 1163回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1163回】           一四・十二・初一

 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉10)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 刀も槍もナマクラばかり。これでは戦うに戦えない。加えて古典の散逸は甚だしく、まともな書籍は「唐国」になく海を渡った「本朝」に伝えられ残されている。先に立つ者としての振る舞いも民族の心柱である古典に対する心掛けも全くなってはいない。尊敬し憧憬して止まなかったはずの孔孟や王陽明の国の惨状に、名倉のみならず千歳丸の一行は激しいカルチャーショックを覚えたはずだ。憧れは一気に消し飛び、やがて知らず覚らずのうちに侮りの心が芽生えるようになった。こんなはずではなかった、と。

 侮蔑の心に火を注いだのが烟毒、つまりアヘン吸引という悪習だろう。

 「吾友王互甫ノ話ニ支那ニテハ近頃復タ鴉片烟ヲ吃スルモノ多クナリタリ」と。アヘン戦争は千歳丸航海の20年ほど昔だ。あれほどまでに国家財政を苦しめ、英仏両国を筆頭とする西欧諸国の蚕食を受けることになったアヘン。人々の財産を奪い、健康と精神を損ねること甚だしいアヘンの吸引が、なぜまた復活・流行しているのか。名倉ならずとも不思議に思うだろう。王が「此烟毒ヲ除クノ良藥有ヤト」問うてきた。そこで名倉は「余レ戯レテ曰ク此ノ烟毒ヲ除クノ良法アリ然レトモ今其藥ヲ求メントスルニ甚タ難シ其良藥名ヲ則除丸化成湯ト云ト答へシカバ互甫一噱ヲ発セリ」と。

 清朝皇帝から全権を授かって欽差大臣として広州に乗りこみ、アヘン取引撲滅に辣腕を揮った林則除の名前を持ち出し「則除丸」とは洒落た、いや悪ふざけが過ぎるが、「一噱」というから、あるいは名倉の当意即妙な反応に「吾友王互甫」は返す言葉もなく呵呵大笑するしかなかったようだ。イヤー、参った、まいった、ということだ。

 やはり「此烟毒ヲ除クノ良藥」はない。清国朝野の深刻な自覚しかないわけだが、その自覚が一向に見えてこない。国家・国民の存亡にかかわる大難題に直面しながら危機感を持たない。烟毒は国家の屋台骨を腐らせ、国民の心身を蝕んでいるにも関わらず、である。軽蔑が同情に勝ったとしても、なんら非難されるものではないだろう。眼前に逼りくる累卵の危機から国家・国民を救い出せるのは自助・奮闘の覚悟。押し寄せる欧米列強勢力を前にして尊皇か佐幕か。攘夷か開国か。名倉は、揺れ動く祖国に思いを馳せたはずだ。

 名倉は「吾友王互甫」に「咸豊中天津役ノ轉末ヲ尋」ねた。

 「咸豊中天津役」とは、咸豊九(1859)年に起こった戦争で、天津沖に北上した英仏軍を清朝軍が砲撃したことからはじまった。じつは英仏軍は咸豊六(1856)年に清国に対し戦争を仕掛けた。これを第2次アヘン戦争とも、アロー号事件とも、アロー戦争とも呼ぶが、咸豊中天津役とは、その一環で、天津から上陸した英仏軍は咸豊十(1860)年に北京を占領し、清朝皇帝が愛でた円明園などを焼き払い、ついに北京条約を結ぶことで戦争は終結する。清朝は莫大な賠償金を求められると同時に、英国に対し南京条約での香港島に続き、その対岸の九龍を割譲させられる羽目になったのである。

 名倉が王から聞かされた戦争の顛末とは、英仏などの「諸虜」に対し自由な貿易を許さず、また北京での教会建設の要求を拒否したから戦争に発展し、結果として北京の一部が灰燼に帰してしまった。それはそれで判るのだが、これからの王の話が興味深い。じつは北京条約締結に際し、彼我双方に不正があったというのだ。王は「(アロー戦争の)和議ニ及ヒシハ彼我共々賄賂流入シテ事成リタル由ヲ語レリ」と。

 国家存亡の瀬戸際に立っているにもかかわらず、「彼我共々賄賂流入」し、結果として賄賂が和議を成立させたとは、なんとも不可解で底なしの恥知らず。

 鈍い刀槍、散逸に任せる古典、押し止めようなき烟毒、和議交渉の場で行き交う賄賂――これでもまだ尊敬すべきだなど、無理というものだろうに。のう、ご同輩。《QED》

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2015年01月28日

【知道中国 1162回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1162回】            一四・十一・念九

 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉9)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 物見高いはなんとやらだが、それでなくても好奇心旺盛な「唐人」である。街を歩けば「吾輩形粧ノ異ナルヲ以テ」ジロジロ、ガヤガヤ。行く先々で好奇の目に囲まれ纏わりつかれ堪らない。

 「滬城(上海)ノ人吾輩ヲ見テ琉球人ト目スルモノ多シ」。それというのも、「琉球使臣支那ヘ来騁ノ時」や琉球の「商舶ノ上海へ来ル時」などに、「吾邦人モ竊ニ同行乄此ニ至リ同シク琉球人ナリト偽」ていたからだろうと考えた。ということは、武士か商人かは判らないが、鎖国にもかかわらず、密かに上海を訪れた者がいたことになる。ならば上海以外の天津辺りに潜行した者がいたとしても強ち不思議ではないだろう。

 ところで日本からの武士集団の上海登場は余ほど奇異な目で見られていたらしく、「今般東洋人来リシハ吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」との噂が流れた。上海統治の責任者たる道台の呉氏が「長毛賊(太平天国軍)ヲ討伐ノ為メ」に依頼したというのだ。当然のように噂が噂を呼ぶ。かくて「日本ヨリ援兵ト乄大軍海面ヲ掩テ来ルヿ不日ニアルベシ」となった次第。なかには「余レニ向テ援兵何レノ日ニカ来ルナド問フモノアリ」で、まさに「笑フベシ」と。

 程なく日本からの艨艟が洋上を覆い尽くす。数多の強兵が日本から救援に駆けつけてくれる。こんな「浮説」を耳にしたら、名倉でなくとも「笑フベシ」。だが、「吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」とは、さほどまでに清国朝野は太平天国軍に悩まされていた。だから「日本ヨリ援兵ト乄大軍海面ヲ掩テ来ルヿ」を望むのも判らないわけではない。

 千歳丸は「日本ヨリ援兵」を乗せたわけではなく、江戸幕府が上海での貿易の可能性を探ろうと送ったもの。積み込んだ「本朝ノ物産中支那人之ヲ得テ喜」んだものは、「刀槍 陶器 人参 赤銅 紙類 カンテン 椎茸 葛粉 熊膽 晴雨傘 漆器 銭 鶏 雜薬」など。一方、「唐国物産中本邦へ齎シ来タルベキモノ」は、「薬種 唐紙 紫檀 陶器 書籍 筆墨 折糖」だった。

 最も喜ばれたのが「刀槍」であったのかどうかは判らないが、筆頭に挙げられているということは、それほどまでに喜ばれたということだろう。刀槍については、「唐人吾佩刀ヲ看ント要スルモノ甚タ多シ」とあるから、余ほど興味を持たれたわけだ。そこで名倉は自らの佩刀を2,3の友人にソッと見せた。キラリと怜悧に光る刀身。「吾佩フル處固ヨリ鈍中ノ極」だが、彼らは「嘆賞シテ不已」だった。そこで名倉は「支那ニ利刀ノ有ヿナキ推テ知ヘシ」と。中国に利刀なんぞ有りはしない、と。

 「唐人ノ佩刀」については、長くても「二尺ニ過ズ皆片手擊ノ物」で「刀身甚タ鈍シ」。だから彼らが「利刀」を称するものでも「本朝ノ鈍刀」をどこからか高値で買ったものである。「槍モ亦利カラス」で、「槍刃ノ鈍キハ固ヨリ支那ノ短ナル所ニ乄余カ贅言ヲ待タザルナリ」という。武士の魂である佩刀の鈍さは、魂そのもの鈍さに通ずる。存外、こんなところから軽侮の心が芽生えたのかもしれない。「支那ニ利刀ノ有ヿナキ推テ知ヘシ」の一節が、そのことを物語っているようだ。ナマクラな刀の持ち主は、どだいロクな者ではないわい。マトモな武人であろうはずもない、ではなかったか。

 書籍について、こんな記述が見える。知り合いから「君帰国ノ後願クハ貞観政要一部ヲ代弁乄余ニ送レト云」われた。そこで名倉は『貞観政要』は唐代の書籍であり、「遠ク之レヲ東洋萬里外ニ求ル」こともなかろうと応えると、「此書吾国今在ヿナク只書目ヲ知ㇽノミ」ということだった。名倉は上海で、「唐人ノ著ス所ニ乄唐ニナク乄和ニ伝ハルモノ少ナカラサル由ヲ」知るわけだが、おそらく日本こそが中国文化の精髄たる古典の宝庫であったと痛感したことだろう。ならば名倉が「本朝」に更に誇りを持ったとしても当然のこと。《QED》

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2015年01月27日

【知道中国 1161回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1161回】        一四・十一・念七
   
 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉8)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 「海外日録」とは別に、名倉は「日録ニ載セサルモノ」、「唐人」や「同行諸士ニ聞ク所」を箇条書きにした「支那見聞録」を残している。内容から判断し、上海での日々の心覚えとしてのメモであり、一部は「海外日録」の資料になったものと思われる。そこで「日録ニ載セサルモノ」を中心に、名倉の上海体験をもう少し追ってみたい。

 「海外日録」を読んでのナゾの1つが、名倉が清国役人などと自由に往来し筆談を交わしていたことだった。誰か紹介者でもいたのかと思ったが、「海外日録」に拠る限り、そうでもなさそうだ。いわば無手勝流で相手の懐に飛び込んだように思える。

 名倉によれば、清国の「官員」は位階の上下に拘わらず、「至テ手軽キヿニテ吾輩ヲ待ツヿ甚タ厚」かった。だから「紹介モナク官員ノ家ヲ訪ヘトモ左ノミ怪シミ危フム心モナク直ニ筆話」ができる。これは「支那ノ風ニテ至テ寛大ナル習ト見ヘタリ」と。「唐人吾輩ヲ親シムヿ西洋人(より?)勝レリ」と感じた名倉であるからこそ、虚心坦懐に相手の懐に飛び込んで行く術を心得ていたようにも思える。だが、あるいは清国役人たちは名倉を文明の劣る化外の国から遥々と千歳丸でやって来た珍奇な若者と見做し、酒食でもてなし適当にあしらっておけばいいとでも考えていた。いや、その立ち居振る舞いに加え筆談でみせる深い教養に感服したのかもしれない。

 これを君子の交わり淡きこと水の如し。いや君子は和して同ぜず、というのか。なにはともあれ名倉は、清国役人の対応ぶりを「支那ノ風ニテ至テ寛大ナル習ト見ヘタリ」と、好意的に受け止めた。

 名倉は「唐人ヲ看ㇽニ武者アルモノ少シ」と綴る。「唐人」は文弱の徒というのが千歳丸一行の共通認識だったようだ。だが「只許多ノ戦場ヲ経歴シ来ル者ハ自然殺気アリテ頗ル武骨ヲソナヘリ」と、「唐人」であろうが実際の戦場で命の遣り取りを重ね、血の海を泳ぎ切った者は自ずから「殺気」を漂わせていると綴る。

 ともかくも名倉は、上海を攻撃中の太平天国軍の実態を知りたかった。そこで「同行ノ士ト密語」し、戦争の情況を探索するためには、「廣ク唐人ト交」る必要があり、できることなら「(太平天国軍の)軍営ニ至リ賊将ニ見テ共ニ語ルニシカジ」ということになる。だが幕府役人のお供という日常業務が重なる一方、太平天国軍が駐屯しているとされる地域までは如何せん遠い。だから思うに任せない。ならば、いっそのこと天津に北上し、あるいは広東まで南下し、探索したらどうだろうと語り合いつつ「他事ニ及ヘリ」と。はたして「密語」した「同行ノ士」は高杉晋作だったろうか。「他事」とは何だったのか。興味は尽きないが、彼らの「密語」を万事事勿れ主義の幕府役人が察したとしたら、上海以外の諸港を廻って帰国するという当初計画を反故にして上海から帰国したのも頷ける。

 名倉の上海での情報源の1つが「上海新報」だった。「東洋人来中係欲通商貿易(日本人が通商貿易を求めて中国来訪)」と書き出された同紙五月廿八日付の記事は、日本からの物資はオランダのものとして取引されている。日本が上海で通商を行うことは「属好事」だが、聞くところでは最近日本在住中国人に帰国を求めているとのこと。わが国が日本人の上海での通商を許していることに逆行する措置であり、外交上甚だ公平を欠く――と論じている。名倉は早速、この記事の概要を幕府役人に伝えた。

 じつは「近頃長崎ニ至リ西洋人ト共ニ隨意ニ地ヲ買ヒ館ヲ造ランセシ唐人アリシ故之ヲ禁」じ帰国させた。幕府の禁制を犯したわけだから「我直ニ乄彼曲ナリ」、日本側の処置が正しく、清国側の曲解だ。メディアのミスリードは、故意か偶然か。「隨意ニ地ヲ買ヒ館ヲ造ラン」と・・・それにしても貪欲な土地漁り。三つ子の魂は、江戸末期から。《QED》
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