
【知道中国 1165回】 一四・十二・初五
――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉12)
名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)
「頑固ニ乄西虜ヲ悪ム」が余りに西洋を「厭フモノ」も困るが、やはり忌むべきは「本朝ニアリナカラ本朝ヲ尚フノ意モ無」い「西虜ヲ称誇」する輩だろう。名倉の時代から150年余が過ぎた現在では「西虜」に加え「米虜」「中虜」「露虜」「韓虜」などなど様々な「虜ヲ称誇」し得意然と糊口を鬻ぐ輩が後を絶たない。だが、この種の振る舞いの根底に、日本人が気づかぬままに刷り込まれてしまった屈辱的思考方法が潜んでいるはずだ。
その「虜」について名倉が問うと、上海の西門守護役人の陳汝欽は「佛則模英則驕魯則泰ト云ヘリ」。そこで名倉は「是亦吾輩所見ト相符セリ」と。つまり名倉もまたフランス人は「模」、イギリス人は「驕」、ロシア人は「泰」と見做していたということになる。イギリス人は態度がでかく、ロシア人は物事に動じない。さてフランス人の「模」だが、極く普通に考えれば標準的で当たり障りがないとなるが、洞ヶ峠タイプとも考えられる。
名倉は太平天国軍との戦いに臨んだ武将の話に耳を傾け、練兵場に足繁く通っては清国軍の操練からも何かを学び取ろうとする。
「許多ノ戎行ヲ経歴シ来タル武功将軍(中略)等」の考えは、「実戦ニ臨テハ陣法隊名等ノヿハ論スル所ニ非ス只兵卒ノ先ス奪敗セサル者勝ヲ得ㇽナリ」と共通していた。だから過去の戦歴を考究し具体的に陣形を動かして実戦さながらの演習することはもちろんだが、やはり実戦と訓練は違う。「両陣會戦ノ際只虚々実々ヲ以テ勝敗ヲ決スト云ヘリ」。戦場での勝敗は、指揮官による用兵の巧拙・優劣にあるということだろう。
混乱した戦場で隊伍を機能的に動かすにために日本でも「金鼓旌旗」が使われるが、清国軍の操練をみるに極めて簡素化されている。「実戦ニ馳シ用ユル真操ノヿナレバ如此簡易ニ乄形容ヲ粧ヒ飾ㇽ等ノヿナシ」。戦況が時々刻々と変化する戦場においては、命令伝達は簡単明瞭・緩急自在・周知徹底が肝要だ。ところが太平の世に慣れ実戦から遥か離れた日本における用兵法は巧緻を競う余り指揮官の意思が伝わり難く、兵卒を自在に動かせない。
じつは名倉は「是マデ実戦ニ施ス所ノ真操ヲバ看タルヿナ」かった。彼が日本で学んだ兵法は精緻に過ぎる。だいいち兵卒だって覚えにくい。戦場で兵卒が動かなければ敗北は必至となる。「今本朝ノ操法ノ如クニテハ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒亦甚タ六ケ敷乄無益ノヿニ工夫ヲ費ヤシ力ラヲ用ユルヿアリ又士卒モ学ヒ難ク覺ヘ易カラズ」。やはり「今本朝ノ操法」は実戦向きではなかった。「只甲越長沼流杯云ヘル兵法ノミ骨折テ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒等マデ之ヲ善シト思」っていたが、清国軍の「操法ヲ看ルニ及ンテ大ニ発明セシヿアリ」と。やはり「本朝ノ操法」に革命を起こさなければダメだ。名倉は大いに悟る。
上海の街を好んで「徘徊」した名倉である。やはり庶民生活への眼差しを忘れない。
たとえば婦女子。女性は貴賤を問わず耳に穴をあけ金銀の環を掛けている。金持ちや身分のある大家の女性にとって外出は稀のことであり、外出の際には必ず輿に乗る。だから街を歩いているのは「賎女下婢等ノミ」だ。纏足に注目しては、「婦人ハ皆足ノ小ナルヲ尚フ故ニ婦人」の履く靴は「甚小ナリ」と。
店先を覗く。店頭に肴は多いが生魚は甚だ少なく、あったとしても川魚の類である。店頭には必ず「真不二價」とか「実不二價」とか大きく掲げているが、なにを買うにも厄介なのは貨幣制度が複雑に過ぎることだ。あそこでもここでも関帝廟に出くわしたことから、上海のみならず「支那一同関羽ヲ尊崇スルヿ極メテ浅カラスト見ヘタリ」と。はたして名倉は、関羽が商売の神様であることを知らなかったらしい。
鎖国最末期、名倉は混乱の上海で世界の現実を垣間見た。千歳丸帰国6年後の1868年、明治の御世が始まり、鎖国を解いた「本朝」は苦難と栄光の新しい時代に船出する。《QED》