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2015年02月28日

【知道中国 1195回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1195回】             一五・二・初一    
    ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉1)
高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 高杉晋作。生年は天保10(1839)年で、上海滞在時は27歳。帰国5年後の32歳に当たる慶応3(1867)年に没した。これ以上、敢えて記すこともないだろう。

 『高杉晋作著作集』(堀哲三郎編 新人物往来社 昭和49年)には千歳丸での上海行き関連の著作として、「遊C五錄序」「航海日録」「上海掩留日録」「續航海日録」「獨斷に而蒸氣船和蘭國江注文仕候一條」(以上、第一冊)「支那遊私記草稿」「航海日録」「内情探索録」「外情探索録」「支那與外國交易場所附」「長崎互市之策左之通」「外事探索録巻之貳」(以上、第二刷)などが、一括して「遊C五錄」として収められている。

 それぞれに見られる若干の異同を敢えて詮索することなく、専ら高杉の上海体験を追いかけることとしたい。

 じつは千歳丸乗船時、高杉は中牟田と同じように麻疹が完癒してはいなかった。そこで一行に遅れ、夜に入ってから小舟を雇い杖にすがって乗船している。体調に構ってはいられない。上海行きという絶好の機会を逃してなるものか、といったところだろう。

 乗船してみると幕吏と各藩出身の從者、さらに身の回りの世話をする従僕など誰もが初対面と思ったところ、聞き覚えのある声がする。よくよく見ると、昌平黌で1年間席を並べた「浪速處士伊藤軍八」だった。思わぬところで、と久闊を叙したことはいうまでもない。船内の居住環境は劣悪であり、そのうえ病気だったことから、高杉は「終夜遂不得眠也」。

 千歳丸の上海行きについて、「幕欲渡支那爲貿易、寛永以前朱章船以来未嘗有之事、官吏皆拙于商法、因使英人及蘭人爲其介、所乘之船亦英船、船将英商ヘンリーリチヤルトソン、其餘英人十四名乘船、皆關運用之事」――上海での貿易を計画しているが、役人なんて商売が下手だから、イギリス人やオランダ人を仲介役に立てようとしている。千歳丸はイギリス船(じつは千歳丸は幕府が購入したイギリス製の木造船)であり、操船も英国商らに任せている――とする。だが高杉は千歳丸による上海行きの真相を、「内情探索録」に次のように推測する。その部分を現代風に訳してみると、

 ――幕府は上海で諸外国との貿易を掲げているが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某に賄賂を贈り、ボロ儲けしようと企んでいるのだろう。江戸からやって来た幕吏にしても、多くは高橋某の仲間で、海外出張に伴い手にすることができる高額手当を狙っているのではないか。幕吏なんぞは取引については商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ただ商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけだ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで「外夷」に相談するから、全てが相手にお見通し。かくてイギリス人とオランダ人の好き勝手のし放題ということだ――

 さすが高杉、というべきか。以上は峯・名倉・納富・中牟田の誰も記してはいない。

 乗船したのが4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船(好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない)」と。そして「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と続けた。

 ――日本人というヤツは、どうでもいいようなクダラナイ物事に拘泥し、いざという時に果断な行動がとれない。こんなことだから、外国人にバカにされてしまうのだ。嘆かわしく恥ずかしい限りだ――

 文久2年から150年余が過ぎた現在、「イスラム国」の脅迫を前にして、情報の「収集と分析」を口にするばかり。高杉が現在の日本に生き返ったら、「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と。呆然・憤怒・慙愧。《QED》
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2015年02月27日

【知道中国 1194回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1194回          一五・一・三一

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 中牟田は「『乙(ヲト)』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり」と綴る。すでに長崎でも上海に在住する漂流民音吉が話題となっていたわけだ。

 だが、中牟田が音吉と言葉を交わすことは叶わなかった。妻子を伴い先月上海を離れ外国に向かった。「普魯西亞(プロシャ)人」と結婚し、2人の間に子供は2男1女の3人。長男は8歳前後で、一家全員が西洋人の服装である――これがデント商会の説明だった。どうやら音吉は西洋式の生活を送りながらも、「日本の恩義を忘れ」なかったのだろう。

 後日、中牟田が再びデント商会を訪ね音吉の行き先を問い質すと、シンガポールに行ったとのこと。音吉の弟を称する人物を訪ねたが、日本人であることを隠し、真実を聞きだすことはできなかった。

 かりに中牟田が音吉から話を聞きだすことが出来たなら、アヘン戦争に英国軍兵士として参戦した音吉から、アヘン戦争のみならず英国事情やらデント商会のアヘン商法の一端、さらには上海での交易の実態など多くの情報や知識を得ることができただろう。音吉のシンガポール行きが少し遅く、千歳丸の上海着が少し早かったら、と思うばかり。

 これまた某日、中牟田は高杉と夜間の散歩に出る。横濱滞在歴を持つと自ら語るアメリカ人に自宅に誘われ、大阪港開港問題について問い質された。大阪港が開かれれば直ぐにも向かいたいところだ。当地の新聞では将軍は開港の意向だが、最強硬派の水戸藩を先頭に多くの大名は開港反対の立場をとっていると伝えられるが、真相は如何に。内政上の微妙な問題であるうえに、相手のアメリカ人の氏素性も質問の狙いも判らない。そこで中牟田は答をはぐらかした。一方の高杉は、犠牲を厭わない大義のために勇猛果敢に邁進する水戸藩の動向を、西洋人が注視するのも当たり前だろう、と。

 またまた某日、高杉と連れ立って清国軍の練兵ぶりを見学した。青竜刀やら火縄銃やら。その旧式ぶりに唖然とする。帰路に南大門を守備する知り合いの所に立ち寄り問い質すと、やはり洋式銃を使って、英仏兵の指導・支援を受け入れた場合には、太平天国軍も恐れるに足らず、と。かくて2人は、やはり中国伝統の兵術は西洋銃隊の前では全く意味をなさないことを知る。西洋諸国の圧倒的軍事力を前にしては、勇ましくはあるが攘夷の掛け声は所詮は蟷螂の斧にすぎないことを悟ったのではないか。

 中牟田の経歴を見ると、長崎海軍伝習所を経て佐賀藩海軍方助役。維新後は海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力し日清戦争前には海軍軍令部長に。栴檀は双葉より芳しいの伝で、上海滞在中、航海術について熱心に学ぼうとしている。

 高杉は「上海掩留日録」に、宿舎に留まって中牟田と共に「航海有益之事」を論じた旨を記し、「運用術、航海術、蒸氣術、砲術、造船術」などの航海学全般の「科課程」を学びたいとの中牟田の念願を書き留めている。この時、中牟田は病床に在り、高杉は看病の傍ら筆録したことだろう。

 尊皇か佐幕か、攘夷か開国か。現在のように即時的でないことは当たり前だが、風雲急を告げる故国の情勢は遠く上海の地のも逐一伝わる。浮足立つ中牟田、高杉ら。一方の幕吏にしても当初の目論見は大外れ。日本から運んだ千歳丸積載の貨物は思うようには捌けない。長逗留すればするほどに損失は募る。そうなったら、責任が発生してしまう。だが責任は負いたくない。逡巡の末、上海出港を決定した。

 かくて再び荷物を積み入れ、外交儀礼に従って道台への挨拶も終えて乗船した。乗船以来黄疸を患い、中牟田は船中病臥したままで、風雲急を告げる日本に戻っている。《QED》

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2015年02月26日

【知道中国 1193回】  「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1193回】          一五・一・念九

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)
「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 凡そ交渉事は、相手を相手以上に知り尽くしたうえで臨むべきものだろう。にもかかわらず、幕吏には事前の周到な準備がなかったようだ。そこで勢い、ぶっつけ本番。かくして無手勝流に奔る。「受太刀もしどろもどろとな」り、結果として口を滑らせ「餘りに正直なる應答」をしてしまい、相手の術策に嵌りこみ、言質を与えてしまうのが関の山。こちらの狙いは相手に見透かされてしまう、という悲惨な結果・・・トホホ、である。

以上を中牟田の評語で綴れば、道台の「辭令巧妙」に対するに、「先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり」。「探らるゝ質問」に、如何せん「受太刀」。「質問益々鋭利」になるばかりで、「受太刀もしどろもどろ」。「追窮少しも緩まず」、答に窮して「赧顔の至り」。「知らんとする要領は皆知りたり」と相手の余裕十分な態勢に引きずり込まれ、思わず「餘りに正直なる應答」に逼られる。そこで背中を冷たい汗が流れる始末。かくて「流石に氣の毒にもあり」と「温顔にて慰め」られれば、冷や汗を拭き拭き「吻とす」・・・これでは外交交渉を有利に進められるわけもなく、外交上の果実を相手に献上したも同然だ。

だが、これだけでは終わらない。次なる舞台が設えてあった。別室での宴席である。

極度の緊張から解き放たれたからだろう。ついつい口が軽くなる。宴席で幕吏は1842年の南京条約で対外開放された上海・寧波・福州・厦門・広州の5港のみならず、天津・漢口への日本船の入港は可能かと尋ねた。道台は「差支えなし」と応じているが、その種の質問は正式交渉の席で問い質すべき事項だろう。酒席での話はその場限りで、公式発言とは見做されない。おそらく道台は幕吏の外交音痴に呆れたはず。

 だが、その続きがあった。道台が去った後、なにを思ったのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道臺は才子と相見え申候(いや〜、道台はデキ申す)」と。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで。主張すべき場で主張すべきを口にせず、いうべからざる席でいわずもがなを話題にする。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、味方は敵に、敵が味方に豹変することを肝に銘ずるべきだ。軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はない。失格!

 中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っているところからしても、交渉不首尾の原因は幕吏の能力不足に求められそうだが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えるべきだろう。

 それしても、である。すでに幕末の時代から外交交渉下手だったとは。「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」とはプロ野球の野村元監督が口にする“格言”だが、確かに負けるべくして負けたというのが、道台対幕吏の談判だったように思える。あるいは文久2(1862)年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、現在まで続く日本の対中交渉を縛ってきたのではなかったか。そう“牽強付会”でもしないかぎり、日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうにない。

 中牟田は英語が達者であったからか、イギリス、アメリカ、オランダ、ベルギー、ポルトガルなど上海在住の欧米人と精力的に接触を重ねている。なかでもジャーデン・マセソン商会と同じく鴉片貿易で財をなしたデント商会を2回訪ねているのが興味深い。両商会は開港場となった横浜に最初に支店を置き、阿漕な商法で日本の業者を翻弄したことで知られる。それもそのはず。彼らは海賊の子孫、いや海賊のDNAを持つ商人なのだから。

 デント商会を訪ねたのは、同社で働いていると長崎で聞いた尾張の漂流民の「乙(ヲト)」と面談したかったからだ。「乙」とは、拙稿1147回で話題にした登場した音吉である。《QED》

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2015年02月25日

【知道中国 1192回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1192回】           一五・一・念七

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田5)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 某日、幕吏はオランダ公使の許を訪ね、千歳丸による渡航の当初目的である上海港での貿易の可能性について打診している。石炭やら人参やら、持参した品々が当初の目論見と違って売り捌けそうにない。オランダ側は値引けば売れると助言するが、長崎の相場に較べ安すぎる。かくして、持ってきたものをそのまま持ち帰るしかなかった。残念ではあるが、これが国際貿易の現実だったのだ。

 某日、道台がオランダ公使を訪問するというので、日本側はオランダ公使の許に出向き、道台と会談することとなった。そこで中牟田の記録に基づいて、その場の遣り取りを再現してみたい。なお●は幕吏、■は道台で、それぞれの話を簡略に現代語訳。中牟田の評語は原文のままとし《 》で括っておいた。
 双方の挨拶終わると、

■過日は当方をお訪ね戴きながら、返礼が遅れ申し訳ない。
《呉道台の挨拶也。辭令巧妙、先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり》
●過般は一同過分な饗応に与り感謝致します。
■商売の手応えは如何ですか。
 《探らるゝ質問なり。幕吏受太刀となる》
●あまり捗々しくありません。
■ともかくも初回でもあることですし・・・。
 《質問益々鋭利、受太刀もしどろもどろとなる》
●帰国後、政府に報告したうえで再度の訪問もありますので、その旨をお含み願いたい。
■持参された物資は残らず捌けましたか。
 《追窮少しも緩まず。幕吏赧顔の至りなり》
●残らず捌くつもりでおりましたが、いまだ所期の成果を挙げてはおりません。
■上海には何時頃までご滞在で。
●未定。日本人には芳しくない気候でもあり、持参物資が売りさばけ次第、可能な限り早めに貴国の心算です。
《知らんとする要領は皆知りたり。餘りに正直なる應答にて、流石に氣の毒にもあり、道臺、温顔にて慰めて曰く、》
■上海は貴国と近い。蒸気船なら2,3日で往復できますので、時々、お越し下さい。
  《道臺を免れて幕吏吻とす》
●近日中に道台の役所に参上し、種々ご相談致したく。
■過日は結構な品々を賜り深謝。日々、楽しんでおります。
●つまらないもので恥じ入る次第です。(原文は「些少の品にて恥入候」)
■日本製品は殊に品質に優れており、驚くばかりです。

清国は亡国の瀬戸際に立ち、上海は英仏両国に守られて僅かに命脈を保つ始末――まさに惨状というべき情況だが、緩急自在で巧妙な外交手腕は健在だったらしい。その姿は、「餘りに正直なる應答」に終始する幕吏とは対照的だ。時にたわいのない挨拶で、時に日本製品の素晴らしさを讃えて座を和ませ、肝心の貿易工作が不調であることを探り出す手腕に幕吏はタジタジ。「道臺を免れて幕吏吻とす」とは、道台に翻弄されるがままに終始した「受太刀」の幕吏の緊張が解けた瞬間の姿が浮かぶようだ。まさにホッ。

だが、これは幕末だけに限るまい。共産党政権成立以後、いや、それ以前にしても、日中交渉に際し、日本側は「餘りに正直なる應答」に終始しすぎたのではなかったか。《QED》
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2015年02月24日

【知道中国 1191回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1191回】          一五・一・念五

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 上海のブザマな姿を、中牟田は綴る。

 「一、孔夫子之廟、當時別所に變じ、英人の陣所と相成居申候由、誠に可憐也。

  一、賊亂を遁れ來り小舟之内、又は土地に蓙を張、雨之防を致し、其内に住居致し居候者多數、地行人數之半も可有之歟。其故平生乃上、猶又キタナク有之候由、右之者共之様子を見候に、誠に可憐也。

  一、所々に英佛兵野陣を張居候事。

    附り、帆木綿にて拵たるものを地上に張り、雨防致し居候事情。」

 ――中国文化にとって至誠・至高であるはずの孔子像すらもが取り外され、別の場所に移動された挙句に、聖域中の聖域であるべき孔子廟は英軍兵士の宿営と化した。太平天国を逃れた無辜の民は、到る所で悲惨極まりない難民生活を余儀なくされている。上は至誠・至高の孔子から下は無告の民まで、「誠に可憐(誠に憐れむべ)」き情況に在る。一方、英仏軍兵士は各所にテントを張って駐屯している――

 すでに清国は清国でありながら、じつは清国ではない。自分の国でありながら、自分の国ではない隣国の姿を目の当たりにして、中牟田は清国側に立つイギリスの狙いを推測してみた。

 「長毛賊、耶蘇を信ずる様子、外國器械を多く用いゆ。大砲なども外國砲を用ゆる様子(小さい字で「英人云亞米利加人與之、或云英人私に與るならん」と注記)/英吉利斯は、表は爲清朝、長毛賊を防ぐと申し、内には長毛賊に好器械などを渡し、私に耶蘇ヘを施し、其實は、長毛賊を以て清朝を破らしめ、己清朝を奪ふ落着ならん。又毛長之方には、豫め耶蘇ヘを信じ、英吉利斯などを己が身方に致し遂に清朝の天下を奪ひ度、落着なり。天下を奪候得ば、英吉利との儀は如何とも可相成と策謀なせし様思はる。」

 ――太平天国はキリスト教を信じているとのことであり、西洋の武器を多用している。大砲なども西洋製だ。(イギリス人はアメリカ人が供与しているというが、イギリス人が秘密裏に渡しているとも伝えられる)イギリスは表面的には清朝のために太平天国の攻撃を防禦するなどといってはいるが、内々に太平天国側に高性能兵器を供与するだけでなく、秘かにキリスト教を布教している。ということは、じつは太平天国によって清朝を敗北させ、清国を奪い取ろうという魂胆ではないか。天下を奪い取ってしまえば、中国は自分のものといってもいい。思うがままだ。これがイギリスの策謀というものだろう――

 おそらく中牟田は、清国における清朝と太平天国の対立と混乱に対処する英仏両国の振る舞いから、英仏両国の日本における策動に思いを巡らしたに違いない。勤皇か佐幕か、攘夷か開国か――終わりなき死闘が繰り返され、社会の混乱と動揺が続くなら、その間隙に乗じた英仏両国が日本を属国化させないとも限らない。今日の清国が直面する悲惨な姿が、明日の日本に重なってきたはずだ。

 かくて中牟田は俄然、太平天国研究をはじめる。6月12日にミューヘッドと称するイギリス人から太平天国について書かれた4冊の本を借り、翌日は「終日寫本」。19日から27日までも宿舎に留まって「賊の書」を写した。「上海滯在中雜録」には『太平軍目』『太平禮制』『太平條規』『建天京於金陵論』などの書名が記されているが、これらを購入したのか。ところで高杉晋作が「外情探索録 上海総論」に「中牟田所寫之書、天理要論、〇太平詔書、太平禮制、天命詔書、〇資政新篇、看鼻隨聞録」と記しているところから判断して、宿舎での同室が関心を抱くほどに、中牟田は太平天国研究に打ち込んだようだ。

 崩れゆく清朝の背後に英仏の侵略の牙・・・中牟田の心は奮える。日本危うし。《QED》
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