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2015年02月23日

【知道中国 1189回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1189回】         一五・一・念一

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田2)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』中牟田武信 大正八年)
 
 なにせ物見高さにかけては誰にも負けない中国人である。一行を取り囲んで、「あれ、克原額アルヨ」、「違うあるのことヨ。あっち、広真子のことアルネ」などと喧々諤々・甲論乙駁・議論百出・噴飯至極・抱腹絶倒で暇つぶしを愉しんだはずだ。林語堂が『中国=文化と思想』(講談社学術文庫)で語るように、中国人は有り余る暇を潰す名人なのだから。

 上海投錨翌日の5月7日、一行の動向は早くも上海の新聞紙面を飾ったとか。「英夷、日本製空飛ぶ殺人マシーン投入/太平天国軍皆殺し」と「東京スポーツ」のノリだったのか。はたまた「英夷、日本で3万の無辜の民を強制連行/太平天国軍掃討戦に」などと「朝日新聞」風の似非ヒューマンタッチで報じたのか。

 翌8日、幕吏は従者を引き連れ、オランダとフランスの領事館職員に先導され「上海を預かる奉行」である道台の呉照(峯、名倉、納富、日比野は共に呉煦と記す)を訪問し、上海入港の目的を述べた。もちろん従者であるからには、中牟田も高杉も日比野も名倉も峯も同道している。

 先ず幕吏は、@商人を帯同したのは、上海での貿易の可能性を探るため。A上海滞在中の便宜供与を願いたい。B千歳丸には石炭、人参、煎海鼠、乾鮑、干藻、昆布、塗物などを積んできたが、上海の貿易担当者に善処を願いたい――と申し出た。

 これに対し道台は、@要求はオランダ領事より聞いている。A上海の商人が貨幣鋳造用に銅を輸入するなど日本との間に長い通商関係はあるが、日本からの来航は初めてだ。Bゆえに、日清両国の間で通商条約が締結されるまでの間、オランダとの通商規約に準拠し、一切はオランダ領事に任せ、日本からの通商物資をオランダのものとして扱う――と返答している。

 幕吏と道台との遣り取りを中牟田は、次のように綴った。

 「彼問ふ。御出張の方々の官名を伺ひたし。我答ふ。政府の錢糧金銀の出入を扱ふ官なり。彼言ふ。然らば中國にていふ布政司・便司參議といふ官に同じ。我問ふ。滯在中、從者に至るまで市中其外散策、見物差支なきや。彼答ふ。其儀苦しからず。但、方今、長髪賊、處在に出没して人を殺し、家を焼き、狼藉甚し。仍て英佛二國の軍隊に依頼し、防禦の配備をなす有様なり。遠路の徘徊は御無用になさるゝ方然るべし云々」

 一方は新しい国を掲げながら「處在に出没して人を殺し、家を焼き、狼藉甚し」い。一方は甚だしい「狼藉」を鎮圧することができずに「英佛二國の軍隊に依頼し、防禦の配備をなす有様」――長かった太平の世も終幕に近い。武力によって新国家建設を図ろうとする太平天国軍の攻勢は続く。これに対し、清国政府は外国軍隊を迎え入れることで混乱を収拾し、太平天国軍の制圧を目指そうと考えた。
このような清国の姿は、勤皇か佐幕か。攘夷か開国かに揺れ動く当時の日本と重なって見えたことだろう。上海滞在は中牟田らにとってまたとない学習の好機を与えた。であればこそ道台からの「遠路の徘徊は御無用」などという忠言は、「御無用」だったに違いない。

 ここで「英佛二國の軍隊に依頼」するに至った経緯を、簡単に振り返っておきたい。

 洪秀全が太平天国を名乗り反清の兵を挙げたのは1851年。曽国藩・李鴻章ら将軍麾下の清国軍を蹴散らし、53年には南京に入城し長江以南を制圧した。英仏両国は56年にアロー号事件(第2次アヘン戦争)を口実に戦端を開き、広州を攻略した後、一気に北上して天津を陥し、千歳丸上海行きの2年前の60年にはロシアも加えて北京条約を結ばせ、中国全土におけるフリーハンドに近い行動を確保した。かくて清国政府は英仏両国の力で太平天国打破を狙ったわけだが、逆に両国の専横を許し、亡国への道を走りはじめる。《QED》

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2015年02月22日

【知道中国 1188回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1188回】         一五・一・仲九

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田1)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 中牟田倉之助(天保8=1837年〜大正5=1916年)。海軍中将。子爵。海軍大学校長、軍令部長、枢密顧問官などを歴任。佐賀藩主・鍋島直正の推挙によって20歳の安政3(1856)年に長崎海軍伝習所へ。後、佐賀藩海軍方助役として海軍力発展に努める。中牟田の上海行きは佐賀藩海軍方助役当時だったのか。上海滞在時の中牟田は、なんと25歳!

 慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発するや奥州戦線へ。北越戦争、函館戦争にも参戦。明治2(1869)年秋、慶應義塾入学。後に海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力。日清戦争前、海軍軍令部長。清国の北洋艦隊の戦力を高評価し、開戦に異を唱え、山本権兵衛ら開戦派によって軍令部長を解任された。彼の“敗北”によって、草創期海軍の2大派閥の一方の柱であった佐賀藩勢力は後退を余儀なくされ、以後の海軍主力は薩摩藩出身者が占めることになる。

 千歳丸上海行き前後の長崎で大流行していた麻疹に、中牟田も高杉も罹ってしまった。発熱は止まず、乗船は危ぶまれたが、鎖国の時代に外国を見聞できるという“千載一遇”の好機を逃すわけもなく、2人は無理を押して乗船した。中牟田の資格は「御小人目附 鹽澤彦次郎」の「從者」であった。

 中牟田は長崎抜錨前に幕府側から示された全14項目に及ぶ「乗組員可相守規則(互いに守るべき規則)」を記しているが、火気の取り扱いについて殊に厳しい。これは千歳丸が木造船だったことにもよるだろう。その他、航海中の水の使用制限、船内及び上陸時における自由行動の禁止、異国産品の購入制限などに加え、@「役人之許なくして、外國人え音信すべからず」とA「異宗之儀は、堅御禁制に付、相勸め候もの有之候とも、一切携申間敷く事」の2項目もみることができる。

 上海には中国人のみならず、当然ながら欧米人も多く滞在している。その欧米人は「堅御禁制」の「異宗」の信徒であり、上海に出向いた日本人に対し布教活動に励むことも考えられる――このような事態を想定すればこそ、この2項目を加えたのだろうが、異国においても鎖国の禁を守らせようとする幕府の“苦肉の策”といったところか。

 4月29日早暁、千歳丸は長崎を出港する。海上では台風に遭遇し、一行は激浪に苦しむが、長崎を出てから8日目に当たる5月6日の9時42分、前檣にオランダの、中檣最上部にイギリスの、後檣に日本の、それぞれの国旗を掲げた千歳丸は、在上海オランダ領事館前に投錨し、上海到着となる。

 その時の情景を中牟田は、「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」と記す。「洋船百艘」はともかく、「唐船」の「一萬艘」は些か大袈裟が過ぎるようだが、「誠に存外之振にて候事」という表現からは、想像を遥かに超えた上海港の賑わいに度肝を抜かれ様子が伺える。当時の日本が備えた唯一の“国際港”たる長崎も、天下の台所を誇る大阪も、ましてや将軍の御膝元である江戸も、やはり物の数ではなかったようだ。

 「直に供致し揚陸、和蘭コンスル(チ・クルース)處へ參る」。つまり幕吏は従者を従え直ちに上陸し、上海滞在中に世話になるオランダ領事館を表敬訪問する。

 帰路、一行が「所々徘徊致し候處數多之唐人集り跡より附副來り、暫時にても立止候へば、唐人取巻見物す」となる。そこで中牟田は、丁髷に裃、腰の日本刀という一行の「模様餘程珍ら敷覺候事」だから取り囲まれたと考えたようだが、勘違いだろう。おそらく日比野が綴っていた“雲を駆る殺人マシーンの克原額”と“1日に千里を走破できる広真子”の2人を探していたからこそ、「取巻見物」される羽目になった・・・はずだ。《QED》
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2015年02月21日

【知道中国 1187回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1187回】          十五・一・仲七

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野14)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 大平天国に際し、戦乱を避け日本(といっても長崎だろう)に移り住んだ家族がいたのかどうかは不明ではある。だが、太平天国が制圧した長江以南地域の知識人の間に「最安逸東洋(いちばん安全は日本)」という意識があったことだけは覚えておいてもよさそうだ。

 ここで既に言及しておいたが千歳丸一行の上海訪問にまつわる「風説」について、改めてみてくと、

●我が国人による貴邦初訪問に関する「風説」だが⇒あなた方の当地への初来訪について、民間には「英夷」が日本で3万人の傭兵を募り、太平天国軍の守備する萬城を撃滅するとの噂が流れた。日本兵のなかに2人の「法術」使いがいる。この話は萬城の太平天国軍も知っている。だが、こうしてあなた方と会ってみると、全くのデタラメであることが判る。

●あなたが聞いたところの2人とは⇒克原額と広真子という名前の2人で、1人は雲を駆って殺人ができ、1人は1日に千里を走破できるとのことだ。

●噂には困ったもの。我が国では邪教は厳禁で、犯した者は死罪だ。さて我が国と外国とでは、その人となりの違いは⇒貴邦人と西洋人とでは大いに違う。貴邦は「淳厚可風」だが、西洋は全て「覇道」だ。我が国では彼らを「洋鬼子」と呼ぶ。最悪が「黒鬼子」だ。(「黒鬼子」とは黒人、或は素性不明西洋人か。後に中国人が日本兵を「東洋鬼」「日本鬼子」と呼び、日本及び日本人を「小日本」と蔑むようになったことは既に知られたところだが、この当時は中国人の意識の中には「東洋鬼」はなかったということか。因みに「鬼」とは霊魂、魔物を指す)

●鴉片と邪教が共に国を大いに害するにもかかわらず依然として行われているのみならず、飢餓に苦しむ者を多く見る。なぜ、これを救わないのか⇒自らの力不足を嘆くのみ。太平天国の「賊首(頭目)」は「天主」を称し民衆を惑わしているが、西洋人の掲げる「天主教」とは違う。

 ――ここからは中国側の疑問に日比野が答えている。

■尚文の国である貴邦を長く慕っていた。どんな書物を読まれるか⇒四書六経に加え、史書や暦学書の類だ。

■貴邦では官吏任用に際しては文章詩賦の力を試すのか⇒実行力と才略が基準であり、詩文の力ではない。だが詩文を能くする者は少なくない。

■貴邦では孔子を敬うか⇒孔子を敬う点では貴邦に勝る。昨日、上海市街で孔子廟に参詣したが、孔子像は取り払われ、廟はイギリス人に占領されていたではないか。

■貴邦ではどんな神を敬うのか⇒我が国は万世一統であるがゆえに、万国に冠たるのだ。生民は悉く「天照皇太神」の恩徳に浴するがゆえに、最も篤く敬うのである。

■貴邦では天を敬うか⇒万物を生み育むのは天である。であればこそ「大父母」を敬わないわけはない。

■天には有形の「蒼々之天」と万物を生成化育させる「靈明之天」とがあるが、貴邦で敬われる天は⇒天が敬われるのは「靈明」なればこそ。他に何があろうか。

■史書などを紐解けば唐宋時代は貴邦からの往来は多かったが、元明になって途絶えたが⇒明の永楽年間も使節の往来はみられたものだ。

■利のためではなく見識を広めるべく貴邦を訪問したい⇒博学多才の人ならば歓迎だ。

 ――徳川は「天下」を失いつつある。上海にでの見聞と体験によって、日比野における「我國萬世一統。所以冠萬國也」は、確信から信念へと大きく変わったようだ。《QED》

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2015年02月20日

【知道中国 1186回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1186回】         十五・一・仲五

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野13)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 学校制度、私塾での教育内容、官吏の職務規定、度量衡制度、関羽信仰の実態など多岐にわたって質問しているが、やはり最も強い関心を寄せていたのは太平天国の動向だった。すでに英仏両国は共に5000人の兵を上海に駐屯させ、さらなる増強を目指していた。一問一答形式で筆談の概容を示す。なお原文では太平天国を「長毛」「賊」「長毛賊」と記しているが、ここでは一律に太平天国としておく。

●太平天国軍が恐れるのは英仏のどちらか⇒双方を恐れるが可動式の大砲を持つフランスをより恐れる。彼らは勇ましい宣伝をしているが、上海進攻は出来ない。彼らが悪逆非道をなせば、百姓(じんみん)は力を合わせて撃退する。

●太平天国の指導者とその性格は⇒忠王と英王の2人。前者の性格は「笑裡蔵刀」、後者は項羽のように「拙燥」。(ということは忠王の残忍冷血に対し、英王は短慮激情タイプといったところだろう)

●彼らの出自と混乱醸成の原因は⇒彼らの前身は「小醜(チンピラ)」で無礼者だ。食糧強奪を企てたが県知事に阻止されため、「蟻(無知蒙昧な輩)」を煽り、各所で火を放ち、悪事の限りを尽くした。各地の人民は大いに被害を被ったが、逃げ延びることができなかった人民は酷使され、少女は汚され、富める者は財産を巻き上がられた。中国は広く人民も多い。だから被害は広がった。(ここに示された太平天国の説明からして、なにやら太平天国が毛沢東の共産党に重なってくるようだ。であればこそ、共産党史観では太平天国は「乱」ではなく「農民革命」ということになるわけだ)

●指導者は明の末裔か⇒違う。広西の石炭鉱山の出身で「大明朱氏之苗裔」にあらず。

●賊の害には実に憎むべきものがある。彼らは人肉を喰らっているとのことだが、その罪は許し難い。

●賊は猖獗を極め十省にも及んでいる。上海から十里離れたら悉く賊といった情況にあるにもかかわらず、なぜ討伐の兵を出さないのか⇒我が「中土(ちゅうごく)」は武事(いくさごと)を廃してから久しい。

●「地廣人衆」だから「武将強卒激烈之人」がいないわけはないのに、賊の勢いが盛んだということは、適材を選べないからか⇒現下の役人の関心事は戦での論功ではなく、「財帛(カネ)」だ。文武両道の有為の士は退けられる。(ということは役人――現在でいうなら幹部の関心事が専ら「財帛」にあったとしても何らの不思議はないということになる。伝統だからだ)

●英仏の兵士を借りて太平天国軍を防ごうとする意図は⇒彼らと共に守るだけだ。

●太平天国の頭目は誰か⇒楊秀清と洪秀全で2人は天王を補翼している。逃亡者の言では2人の間に「太平天国天王之位」と書かれた神位が置かれ、7日に1回の礼拝がある。(太平天国のキリスト教と儒教を混ぜ合わせた教義に拠れば最高神は「天王」となり、週一回の礼拝となるわけだ。なお原文では楊秀清について「瞽目占卜の出身。すでに死亡。洪秀全の嫉妬から殺された」と注記)

●太平天国に奪われた地域の民は何をしているのか⇒太平天国の勢力圏と貿易をする際は、フランス兵に守ってもらう。上海人の場合も、また同じだ。

●最も安全な地方は⇒広東・四川・雲南だが、最も安全は東洋で親友の5家族も去年移住した。東洋には唐人会館があり,我が国貿易関係者の多い。英国人も出掛けて行っているし、東洋   
      という地名は憧れだ。(東洋とは、日本)《QED》 

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2015年02月19日

【知道中国 1185回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1185回】          十五・一・仲三

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野12)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 長崎での帰国第一夜。食事を終えて「窓ニヨレバ、燈火マタ山ヲ焼クゴトシ。ソノ景佳ナリ」。折から長崎では、祖先供養の日々が続いていた。暗い夜空に、祖先を祭る灯か赤々と映えていたのだ。日比野の目と心に、祖国の美しさがいっそう深く染みたことだろう。「ソノ景佳ナリ」の6文字から万感の思いが伝わってくる。

 千歳丸での日々を綴った「贅肬録」は、「(七月)十六日 晴 郷書ヲシタゝメ着船ヲ告ゲテ心快然タリ」の一行で終わっている。安着の知らせを故郷に届けたのであろう。

 やがて「眼孔穴ヲナシ頤トガリ面色土ノ」ような面容も旧に復し「西土ノ辛勞」も癒え、気力も体力も回復したに違いない。3ヶ月ほどが過ぎた後、もう一つの上海滞在記である「没鼻筆語」を「文久二年戌十月上幹」の日付で著した。

 冒頭に置かれた「没鼻筆語引」に日比野は、上海で交友を重ねた人物は数十人を下らなかったが、なにせ言葉が通じない。やむを得ないことではあるが、互いに相手を見つめるしかなく、そこで筆談ということになった。意気投合した6人との日々の会話を記録し、まとめた――と記す。

 先ず日比野が、「かねて貴邦の文物を葵向(した)っており、思いがけずに今日という日を迎え素志を遂げ、これ以上の幸せはなし」と。すると相手が「長年、帰国の俊才を仰望していたところ、本日、ここでお会い致し、思慕の心を遂げることができました。長らく滞在され、御教えを願いたい」と。先ずは双方の社交辞令の後、日比野が「万里隔絶した間柄。今日、こうしてお会いでき、幸いこれに過ぎるものはない。私は『日本狂生』にて、同学を求めておりますゆえ、『請戰筆舌(筆舌にての戦いを所望致します)』」と切り出すや、相手は「甚是、甚是(望むところ)」と応じた。

 詩文の交換を手始めにして、互いの教養の程度を探った後、やおら日比野が「いくつか尋ねたいが如何」と問い掛けると、「不敢當(ご随意に)」

 日比野が投げ掛ける様々な質問の内容から彼が何に関心を持っていたのか、いいかえるなら何を探り出そうとしていたのかを知ることができるはず。そこで、以下、日比野が記録した順番に従って主な質問と返答を簡潔に示しておきたい。

●学校教育制度の変遷⇒歴史的経緯を踏まえた詳細に現状を説明

●目下の軍事最高指導者⇒曽国藩

●目下の軍事指導書⇒茅元儀が著す『武備志彙』

●国家にとって第一級の犯罪⇒殺人罪と反逆罪

●官僚の位階の弁別方法⇒被り物が官位の違いを表す

●子育て不能の場合⇒育嬰堂で引き取って育てるが、時に他人の義子となる

●病気の貧乏人に対する支援方法⇒金持ちの寄付金で経営される賜醫賜藥堂が担う

●かつては農業を勧める書籍があったと聞くが⇒現在は失われた

●堤防の修理方法⇒築城方法と同じ。板の中に土を入れ固く固める板築法

●通貨(銀貨)偽造の罪⇒死体を晒しものにする棄市

●貧乏な親に捨てられた子供の養育⇒各州県に設置された育嬰堂に委ねる
――この回答に対する日比野の感想は、「宋朝は慈幼局を設け、貧民の子弟を養育している。実に素晴らしいこと。貴邦の幼童養育の姿は宋朝の如きものだ」

●蝗などの害虫対策⇒官の報奨金を受け、庶民は害虫を捉え地中深くに埋める

●太平天国を避け上海に逃れる役人への処遇・罰則⇒目下は軍事費が膨大で、文官への俸給無配が続くゆえ上海への避難も致し方なく、職場放棄も処罰なし     《QED》
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