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2015年02月18日

【知道中国 1184回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1184回】         十五・一・仲一

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野11)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 以下は、ささやかな経験。

 いまから半世紀ほどの昔、初めての海外旅行が台湾だった。台北の西に位置し、台湾海峡に臨む古い港町の淡水にあった淡江文理学院に1か月半ほど短期語学研修した時のことである。当時の中国は文化大革命の、台湾は?介石政権の独裁の真っ盛り。互いが互いを悪逆非道の政権と非難し、人間以下の生活を強いられている人民を救い出さねばならないと絶叫していた頃だ。台湾解放が大陸側の、打倒共匪・大陸反攻が台湾側のスローガンだった。今から思えば、いや当時ですら、目クソ鼻クソを笑う類のバカ話ではあるが。

 日曜日は教室での勉強は休み。そこで電車で台北に出掛ける。そんなある日曜日、台北の道端での扇子売りの爺さんとの立ち話である。「その扇子は1本、いくらですか」。「1本3元」。安い。それに扇面に描かれた絵が面白いから、土産には適当だ。そこで「3本下さい」というと、すかさず爺さんは「3本なら10元だ」。おいおい、1本3元なら3本で7元か8元に値引きすべきだろうに。そこで「為何(どうして)?」。すると「3本を纏めて買える客は金を持っている。だから10元でも買ってくれる。お前、金持ちだろう」との反応が返ってきた。

 なるほど、そう言われればそうだ。金のある客からカネをふんだくる。些かも商人道に悖るものではない。これが中国式商売というものかと納得した次第だ。変幻自在で融通無碍、即時納得で事後疑問。台北の扇子売り爺さんの御先祖サマが、日比野に桃を投げつけられた上海の桃売りではなかったか。ひょっとして・・・まさか。

閑話休題。

 長崎に向けて上海出港直前、日比野は上海を管轄する道台の役所に別れの挨拶に向かう一行に加わった。道台から茶菓の持成しを受けながら「左右ヲ熟視スルニ(庭の設えは誠に立派だが)、脚服ヲ竿ニ穿チ或ハ襪ヲ岩上ニカク。實ニ不敬ト云フベシ」。小汚い洗濯物を役所の庭に正々堂々と干すなど見苦しい限りだが、それを道台は黙認したまま。まさに綱紀弛緩の極みである。こんな点からも、日比野は清国の黄昏を実感したに違いない。

 宿舎に戻る道すがらも「縱觀スル者堵ノゴトシ」と、相変わらずの人だかりだ。

 やがて上海で知り合った友人知己が別離の挨拶にやってくる。

 ある者は「別ヲ告ゲテ云フ、萬里ノ別離、實ニ両袖ヲウルホス。來春必ズ崎陽ニ遊ビ再會スベシト云フ」。日比野に「勇義」を説いた将軍の華翼綸も「來リ別ヲ告」げた。やがて日比野の乗船時間が迫る。

 「皆余ノ乘船スルヲ待ツテ(宿舎の)門前マデ送リ、別ヲ惜シンデ愁傷ス。ソノ厚情實ニ竹馬ノ友ニマサル。時既ニ當午、杉板ニ乘ツテ千歳丸ニ移ル。蓋シ清國ニアソブ纔ニ三月ニシテ、再遊スル難ケレバ遺憾スクナカラズ。岸畔ヲ看レバ波風拂々涼味溢ルゝモ、船室ニ至レバ炎熱ツヨク夜眠ルヲエズ」

 「杉板」とは中国固有の小型船のサンパンのこと。一行は岸壁でサンパンに乗り、沖合に停泊中の千歳丸に乗船する。わずか3ヶ月ばかりの上海滞在だったが、2度と来ることはないだろう。「遺憾スクナカラズ」。上海での日々を思い浮かべながら岸壁の方向を見詰める日比野の目は、あるいは涙に濡れていたのだろうか。

 長崎帰着。上海の濁り切ったそれではなく、清浄極まりない故国の水に、しみじみと感謝するも、「眼孔穴ヲナシ頤トガリ面色土ノ」ような自分の顔を鏡に写し、「愕然タリ」。

 この時から6年後、日本は明治に改元され立憲君主制の近代国家への道を歩み出す。一方の清国は崩壊への坂を転げ落ちはじめた。両国の運命を隔てたものは・・・何だ。《QED》

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2015年02月17日

【知道中国 1183回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1183回】       十五・一・初九

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野10)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 「モシ一年モ滯留セバ」との願いが叶い日比野の上海滞在が長期に及び、あるいは多くの友人知己を得て、アジア蚕食の牙を磨ぐ「洋夷」に対抗すべく共同防衛戦線の構築に取り組んでいたとしたら、その後のアジアで欧米列強が野放図に振舞うことは、歴史に見られたほどには簡単ではなかったに違いない。だが日本は維新に向い、清国は崩壊への道を辿った。であればこそ、その後の日中の関係を考えるうえでも、文久2年の千歳丸一行による一瞬の上海体験が幕末日本にもたらした意味は、決して小さくはなかったと思う。

 日比野らの上海滞在も終わりに近づいた6月も末になると、太平天国軍の敗色は濃厚になる。壊走しつつ略奪を繰り返す姿を「ソノ暴ニクムベシ」とする。一方、清国軍は追撃態勢に移り、英仏両軍が加担するわけだが、「肩ニカケシ物ハ革ニテ、ソノ中ニ玉藥ヲイレ夜ハ棚中ニテ枕ニ用ユ。皆腰ニ一刀ヲオブ」英国軍兵士の姿から、「嗟、獸ヲ以テ獸ヲ驅ル。噫」と、太平天国軍と英仏軍双方を「獸」に譬える。清国の屋台骨を揺るがせ、奪い尽くそうという点からは、太平天国軍も英仏軍も同じ穴のムジナということだろう。

 当時、日比野も悩まされたコレラだが、その流行は猖獗を極めた。そこで問題になるのが、やはり夥しい数の死体処理である。日比野は、どこからか聞きつけて来て、「頃日瘟疫流行、死スル者カズナシ。屍ハ靜安寺ノ大路ニトゞム。盛暑ノ時ユエ醜氣甚ダシク傳染シヤスシ。故ニ屍ヲ積ミ火ヲ以テ焚化ス。蓋シ焚化ハ清國ノ風俗ニアラズ。死人多キ故ニ、ヤムヲエズ便ニ從ツテオコナフ。故ニ官吏ヨリキビシク禁ジ、焚化ノ聖ヘニソムクコトヲ示導セシヨシ。我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ焚化ヲ行フ。實ニ悲歎スベキナリ」と綴る。

 当時、靜安寺は上海の西郊に位置していた。いわばコレラ犠牲者の夥しい数の死体を処理するためには郊外に運んで野積みにし、「焚化ス」る以外に他に便法はなかったはず。たとえ「聖ヘニソムクコト」があったにせよ、緊急事態であり、且つ環境衛生を考えれば「焚化」は早急に取り組むべき作業だろう。にもかかわらず「我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ」などと綴っている点から判断して、日比野にとっては孔子以来の「聖ヘ」を尊びこそすれ、「佛氏」、つまり仏教は否定されてしかるべきものだったのだろう。

 帰国近くなっても、いや近くなったからだろうか。熱心に「市街を徘徊」する。ある時、「人アリ余ノ袖ヲヒク」。何奴かと思えば、「あなた国のヒト、上海、街知らないアルネ〜ッ。私、案内スルあるよ」。日比野は、その男に案内されるがままに「市街を徘徊」してみた。すると艶めかしい建物に。中を覗いてみた。「帷中ヲ窺フニ一美人鏡ニ對シテ粧フ」。そこで日比野は「コレ青樓ニアラズヤ」。すると「導者笑ツテ云フ、然リ」。どうやら親切ごかしの牛太郎だったようにも思える。そこで日比野はUターンだ。

 牛太郎に導かれての上海探索が続く。咽喉の渇きを覚えたので、桃を買ってくるように頼むと、「七ツニテ銅錢五十ナリ」。日比野が支払おうとすると、「姦商導者ノ求ムルニアラザルヲシリ、價ヲ變ジテ銅錢百ト云フ」。そこで日比野は「ソノ狡猾貪婪ナルヲニクミ桃ヲ投ジテ去ル」ことになるが、怒って桃を投げつけても仕方がない。おそらく桃を投げつけられた商人は、「あのヒト、オカシイあるのことね〜」とでも口にしただろうな。

 「蓋シ港邊ハ何國ニテモ貪婪ナルモ、洋夷ノ俗ニ化セラレシ故ニ、コノ甚ダシキニ至ナルベシ」と綴るが、客筋を見て客に判るように値段を変える阿漕な商売をする「姦商」は、「港邊」だからでも、「洋夷ノ俗ニ化セラレシ故」だから存在するわけではない。

 金持からカネをふんだくろうという商法を「狡猾貪婪」と憤る日比野は、やはり日本人。海を渡った異国でも一物一価が通用するという考えは、やはり捨て去るべきだ。《QED》

posted by 渡邊 at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2015年02月15日

【知道中国 1182回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1182回】        十五・一・初七

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野9)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 日比野の体調は芳しくなく、時に清国軍の操練を見る機会を失した。そこで7万の軍隊を率いる華翼綸に戦法を尋ねると、確固たる命令系統の下で臨機応変に対応するのみ。徒に既往の戦法の原理原則に縛られる必要はない。清国軍は西欧の兵器を使わず、重い旧式銃に槍・刀を使う、との答だった。そこで「ソノ意ヲ聞ク」と、華翼綸は次のように説く。

――「洋夷」の火器や軍艦は極めて便利ではあるが、我が清国においては何よりも「勇義」を尊ぶ。戦場で兵士が頼りとするのは兵器ではなく、じつに「勇義」。「勇義」を貫いて戦うのみだ。「洋夷」の兵器なんぞを使ったら、おのずから西洋の「俗」に化し、「勇戰」することを棄てて兵器に頼ってしまう。だから「洋夷」の兵器は「故ニモチヰズ」――

 華翼綸の話を聞いて、日比野は次のように考える。

「コノ言實ニ確乎ヌクベカラザルナリ。我日本國ノゴトキ勇義宇内ニ冠タリ。豈辮髪輩ノ比較スルトコロナカランヤ。ソノ勇義ヲ以テ生氣ノアツマル槍刀ヲフルヘバ、宇内ソノ下ニナビク、言ヲマタザルナリ。然ルニ漢學ヲマナンデウブノ漢人トナリ、西土ヲ戀フテ我タフトキ國ヲイヤシミ、洋夷ノ器械ニ惑溺シ蠏字言語ヲマナビ、甚ダシキハソノ服ヲ用ヰ正朔ヲ奉ズルニ至ル。實ニ皇國ハ如何ナル國、勇義ハ如何ナル物ヲシラザルナリ」

――まことに至言というべきだ。「勇義」をいうなら、我が国は天下第一であり、辮髪輩(ちゅうごくじん)なんぞの遠く及ぶところではない。この「勇義」を五体に漲らせ、「生氣」が形となって現れた刀や槍を持って戦うなら、天下が我らに靡いてくることは疑いない。しかるに漢学を学んだ者は漢人もどきに成り果て、「西土(ちゅうごく)」を恋い慕う余りに尊ぶべき自らの祖国を賤しみ軽んじ、「洋夷」の兵器に迷って自らを忘れ、「蠏字言語(アルファベット)」を学ぶ。甚だしきに至っては異国の服装を身に着け、「正朔(こよみ)」までも有難がる始末。「皇國(にほん)」が如何なる国なのか、「勇義」の何たるかを知らない。不届き至極なことである――

 それにしても、である。文久2(1862)年の上海における日比野の「漢學ヲマナンデウブノ漢人トナリ、西土ヲ戀フテ我タフトキ國ヲイヤシミ、洋夷ノ器械ニ惑溺シ蠏字言語ヲマナビ、甚ダシキハソノ服ヲ用ヰ正朔ヲ奉ズルニ至ル」との警句は、以後も警句のままに一向に改められることなく、現在に至っているように思えてならない。

 「我タフトキ國ヲイヤシ」むような「ウブノ漢人」や「ウブノ」西洋人を有り難がる愚を繰り返してはならない。「蠏字言語」の習得を否定しない。寧ろ大いに奨励したい。だが、先ず「蠏字言語ヲマナ」ぶ目的を学ぶべきだ。国語の時間を削り、小学生から生半可な「蠏字言語ヲマナ」ばせ、「我タフトキ國ヲイヤシ」と思わせる教育を施し、「蠏字言語」に「惑溺」された若者の粗製乱造を画策するなんぞは、愚行中の愚行としかいいようはない。

 日比野は多くの中国人と知合い筆談によって肝胆相照らす仲間を作っていったようだが、「蓋シ交接スルトコロノ學生武弁畫工醫生皆上海ノ者ニアラズ。〔中略〕我國人ノ滬上ニアルヲ傳聞シ、遥カニ戀ヒ來タルナリ。故ニ上陸ノ初メハ格外ノ人物ナキモ、今ハu友ニ富ム」とし、かくて「モシ一年モ滯留セバ、マタ寸志ヲ達スルノ一端モアルベキニ」と呟くものの、「歸帆近日ニセマル。却ツテ歎ズベキカ」

 太平天国によって引き起こされたが社会の大混乱の中、多くの有為の若者が遠路をものともせず、「我國人ノ滬上ニアルヲ傳聞シ、遥カニ戀ヒ」て上海にやって来て日本人を訪ねる。「交接」を重ねた「u友」の顔を思い浮かべ、せめて一年の上海滞在が許されれば、もっと多くの「u友」との「交接」から亡国の淵に喘ぐ清国の実態を学び、日本の新しい針路を指し示すことができるのに――こんな日比野の悔しさが伝わってくるようだ。《QED》
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2015年02月14日

【知道中国 1181回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1181回】        十五・一・初五

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野8)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 「實ニ惡ムベク又オソルベシ。嗟々」と慨嘆したところで、「速カニ我國事ヲ知ツテ流言」されてしまい国論分裂に至れば、劣勢挽回は至難だ。負けたら一巻の終わり・・・。他国の「國事ヲ」「速カニ」知るためには如何にすべきか。「夫レ洋夷ノ鬼子ラ何ヲ以テ伏見ノ變ヲ知ルヤ」、つまり彼らが「我國事ヲ知」るに至った経緯・仕組を探るだけでなく、徹底して「蠏字」を学ぶこと。教養としての語学でも、グローバル人材教育のための語学でもない。必要なのは、じつに彼らの「國事」を知り尽すための高度で精緻な言葉の習得だ。

 日比野を訪ねて種々雑多な中国人がやって来る。

 先ずは曰く因縁のありそうな書画の売り込み。太平天国軍を避けて上海に逃げて来た地方の名望家や文人が所持していたもので、「亂ヲサケ來ルニ輕便ナルヲ以テ唯コノ書画ヲ帶ス。今ヤ糊口ノ策ナシ。故ニ賣却シテ命ヲツナガントスルヨシ。實ニ泯傷スベキナリ」。売り喰いの竹の子生活を余儀なくされた、ということだろう。

 ある時、「古硯一面ヲ帶シ」た12、13歳の童子がやって来て、「遠ク亂ヲサケ來リ飢餓チカクニアリ、請フワレヲタスケヨト云フ」。かくて「嗟、民ノ塗炭ニクルシム者、ソレ誰ゾヤ」と義憤に駆られることになる。だが、簡単に同情してはならない。古い硯を持参したコ汚い身なりのガキが口にする「ワレヲタスケヨ」は本当なのか。日本人にニセ硯を売り込もうとする魂胆ではないのか。

 まさか「哀れじゃ、不憫じゃ。近こう寄れ。そこに硯を置き、この銭を持ってご両親の許へ急げ」などといいながら代金を差し出す。それをコ汚い両手で恭しく押し頂き、泣き顔で「アリアト、アリアト」と地面に額をこすり付けるほどに頭を下げたまではいいが、腹の中では笑いが止まらない・・・日本大人(おとな)、甘いアルネ。バカあるのことよ。あの硯、ニセモノあるよ。大儲けあるね。日本人、買う。中国人、儲かる。ショウバイ、止められないアルヨ・・・ガキであっても安心は禁物。油断も隙もない。

 中には「少シ文才アツテ共ニ語ルニ足ルモ、ソノ人トナリ輕躁浮薄ニテ虚飾多」い者もいて、日比野を訪問する同胞を品定めし、「彼等鬼奴ナリ、共ニ論ズルニタラズ」と遠避ける。そこで日比野は「余オモフニ眞ノ鬼奴」はこいつだ、と。確かに「鬼奴」はいる。

 とはいうものの、時にハッとするような大人(たいじん)に出会うこともあった。

 「大清朝勅授文林郎江西永新縣甲辰科擧人華翼綸端肅拝」と何とも長ったらしく仰々しい「刺ヲ投ズル者アリ」。そこで会ってみると、7人の従者を従えていた。7万の軍を率いて太平天国軍とは40数回戦った大将で、勇ましい佇まい。「文才アツテ筆語甚ダ愉快ナリ」。清国指導者の李鴻章と「軍事ヲ談ジ」、同時に戦傷治療のために上海に滞在しているが、幸運にも日本人の上海来訪を「聞イテ戀ヒ來ルヨシ。至ツテ謙遜ニテ軍事ヲ語ラズ。唯云フ、何モヨクスルナシ」。かくて「敬シテ親シムベキ者ナリ」となる。当時の中国人にはこんなにも謙虚な人がいたかと思うと、やや大袈裟ではあるが“奇跡”としかいいようはなさそうだ。とはいうものの、「戀ヒ來ル」との一言を真に受けてよいものだろうか。

 華翼綸以外に心を許した友人に科挙(秀才)に合格した周士錦がいた。筆談で「洋夷ノ事或ハ長毛ノ事ヲㇳへバ」、秀才は私的に国事を語ることは許されないといい、「我國事モトハズ。清國ノ事務モ語ラズ」。そこで日比野は、「余オモフニ唐人多ク國家ノ事ヲ筆ニマカセテ妄答ス。然ルニ周士錦ハ濂渓先生二十八世ノ末孫ニテ、秀才ノ科ニ登リシ者故ニ、ソノ人品文才交中ノ魁タルヲ覚ユ」と、手放しの褒めようだ。

 それにしても「唐人多ク國家ノ事ヲ筆ニマカセテ妄答ス」とは言い得て妙。21世紀初頭の現在にも当てはまるだろう。彼らの「妄答」に振り回される愚だけは、繰り返すな。《QED》

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2015年02月13日

【知道中国 1180回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1180回】            十五・一・初三

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野7)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 東西交易が盛んな上海には莫大な関税収入があるにもかかわらず、「ソノ利ヲ洋夷ニ奪ハル」る要因を考える。

 「夫レ洋夷ノヨダレヲ流シ萬里ノ波濤ヲ來ル。豈些々タル利上ニアランヤ。ソノ素謀ヲ察スルニ、交易和親ヲ以テ名トシ、ソノ地ヲカリソノ地ニ家シ城郭スデニナル。コゝニ於テ金ヲ以テソノ民ヲナヅケ虛喝ヲ以テソノ民ヲオドシ、コレニ次グニ邪ヘ鴉片ヲ以テソノ民ノ耳目ヲ塗塞シソノ心腸ヲ蕩漾ス。ソノ術既ニオコナハル。コゝニ於テ漸々ニソノ地ヲ蠶食シソノ國ヲ并呑ス。カクノゴトクセザレバアカザルナリ。清國スデニソノ術中ニ陥リ、至ラザルトコロナク邪ヘニ化シ鴉片ニ溺ル。嗟危哉」。

――西洋人が万里の波濤を厭わずにやって来る最終目的は、とどのつまりは「金」「虛喝」「邪ヘ」「鴉片」などの手段を弄し、物心両面で洗脳し民族の生気を徹底して骨抜きにしたうえで「ソノ地ヲ蠶食シソノ國ヲ并呑ス」ること、つまり殖民地化にある。戦争せずとも、相手を無血開城させたうえで殖民地化してしまう。ロー・リスク、ハイ・リターンである。すでに清国はそうなってしまった。「嗟、コレ實ニ慨以テ歎ズベシ」。なんとも嘆かわしいばかりだ――

 ここで日比野は、1857年に始まった第2次アヘン戦争(=アロー戦争)処理のために英仏連合軍が制圧した天津で、1858年に英仏両戦勝国に加え、ロシア、アメリカの4ヶ国との間で結ばれた天津条約を持ち出す。

 同条約の骨子を示すと、@英仏両戦勝国への莫大な賠償支払い。A外交官の北京駐在。B外国人による中国旅行と貿易の自由の保障と治外法権の承認。C外国艦船の長江通行の権利保障。Dキリスト教布教の自由と宣教師保護。E牛荘(後の営口)、登州(山東)、漢口・九江・鎮江・南京(共に長江流域)、台南・淡水(共に台湾)、潮州(広東東部韓江中流域。後に沿海部の汕頭に)、瓊州(海南島)など10港の開港。F公文書には「夷」の文字を用いず――まともに考えれば、いや考えなくても、4ヶ国は寄って集って猛禽のように清国を骨の髄までしゃぶり尽くそうとしたわけだ。

 この7項目のうちの7項目に、日比野は注目した。

「西洋各夷ノ書簡必ズ漢文ニテ蠏字ハ通達セズ、コレ小事ニ似タルモソノ關係頗ル大ナリ」。この条項に拠れば清国側役人は英仏露語の「蠏字」を学ぶ必要はないが、「洋夷ハ却テ漢字ヲ學ブニ至ル。ソノ國體ニアズカル、豈鮮々ナランヤ」。ここでいう「國體」とは国情とか国の根幹に関わる情報といった意味合いのように思える。これでは清国側の秘密は筒抜けになってしまう、というわけだろう。

 こんな危機感を抱いていた日比野の許に、上海に入港したイギリス船から「日本伏見ニテ大ナル變アリ」との情報がもたらされた。「夫レ洋夷ノ鬼子ラ何ヲ以テ伏見ノ變ヲ知ルヤ」と訝る。日本を遠く離れた上海に身を置いているからには、「伏見ノ變」の真偽を確かめる手段を持たないわけだが、「洋夷ノ速カニ我國事ヲ知ツテ流言スル」ことに対抗しようがない。当然のように上海での交易の可能性探索などといった当初の目的は吹き飛んでしまい、千歳丸一行は浮足立つはず。あるいは、それこそが「洋夷」の狙い目だったのでは。

 千歳丸が上海に赴いた文久二(1862)年に伏見で起きた事件といえば、一行が長崎を出港した「文久壬戌年四月廿七日」の直前に寺田屋を舞台にした島津久光による有馬新七ら薩摩藩尊皇派制圧だろう。これが「洋夷」が速やかに知った「我國事」なのかは不明だが、「流言」の真偽を確かめる手段を持たない一行は浮足立ち、交渉力を失いかねない。

 これをインテリジェンスというのだろうか。「實ニ惡ムベク又オソルベシ。嗟々」《QED》

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