h230102-0340-2.jpg

2015年02月08日

【知道中国 1174回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1174回】          一四・十二・念三

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野1)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 
 
 日比野輝寛(ひびの きかん)。藤原輝寛とも。高須藩士。号は維城、また懽成。天保九(1838)年、美濃下石津郡高須村の原田家に生まれ、後に日比野家を継ぐ。名古屋、江戸で漢学を学ぶ。尾州藩を攘夷に導くべく奔走し、維新後は名古屋明倫堂教授を経て大蔵省官吏に。退官後は世事と交渉を絶つ。彼が没した明治45(1912)年に日本では明治天皇が崩御され、時代は大正に移り、中国では清朝が崩壊し、アジアで最初の立憲共和制という触れ込みで中華民国が誕生している。

 まさに幕末の激動を奔り抜け、明治の御代を生き抜き、日中両国共に新たな時代のとば口に立った年に没した日比野は、一生を二生にも三生にも生きたといえるだろう。

 先ずは長崎から上海までの船中での出来事だ。

 千歳丸での上海行きは「我國遣唐使後初メテ西土ニ渡ル」ことであり、加えて「コノ邊海賊アリト聞ク」からには、やはり想定外の事態に備えておくべきだ。そこで「中牟田、林、高杉、名倉、伊藤」を前に、日比野は「我輩腰間ノ日本刀アリ。滿心ノ勇義ヲ以テコレヲ揮フ。些々タル海賊何ゾオソレン」と決意を披歴した後、「然ルモ不虞ニ備フハ先哲ノタツトブトコロ」と問い掛け、海賊などに襲撃を受けたと想定して甲板上の大砲は誰が操作し、持参した20丁の小銃は誰が持つか。誰が弾丸・火薬を管理するのか、と続けた。

 中牟田は中牟田倉之助、林は血気に逸る会津の林三郎、高杉はもちろん晋作、名倉は予何人、伊藤は「大阪書生」の肩書で乗り込んだ伊藤軍八――いずれも血気盛んな若き恋闕の志士。「議論紛々タリ。書生相聚リ訂論目ヲ過ス」となったことはいうまでもなかろうが、「冷氣強ク衣ヲ重ネ褥ヲ着ス」とあるから、寒さにブルブルと震え、紫に変色した唇で喧々囂々の議論を戦わせていたのかもしれない。やはり燃えるが意気も、寒さには敵わない。

 千歳丸は待望の上海へ。「各国ノ商館相連リ、停泊ノ船ソノ多キタトヘガタシ。(中略)江ハ滿?皆船ナリ。陸ハ家屋比麟、何ゾ盛ナルヤ」と、先ずは繁華な上海に驚く。入船に関する諸般の手続きをしているうちに、「暫クシテ唐人來リ筆語ス」る。その人物が突然に「?送東洋蛋?。我吃。(あなた、東洋蛋?〔かすてら〕、くれる、よろしいアルね。わたし、食べるアルヨ)」と。そこで「辭不敬ニシテ卑劣極マル。余想フニ官吏書生ニ非ズ、商人ナルベシ。故ニ深ク罪セズ。答ヘテ曰ク、猶有餘屑。再來與之」と。

 ――こやつ、文字遣いは不敬にして態度物腰は卑屈、礼儀を弁えない。してみると官吏書生の類ではあるまいに。おそらくは商人ならんか。ならば深く問い詰めても詮なきことゆえ、「いずれ余分もあろうて、再来の折には与え申そう」と応えておき申した――

 じつは日比野は「文事」について尋ねたかった。「文事」とは、前後の文脈から推して上海事情を指すものと思われるが、相手が「辭不敬ニシテ卑劣極マル」商人では、一向に埒が明かない。「わたし、ジェンジェン、判らないアルヨ」。かくて「笑フベキナリ」となる。幸い、暫くして乗船して来た雌ソ順らから、諸事情を聞きだすことができた。

 日比野が甲板に立っていると、「唐船頻リニ我ガ船ニ近ヨリ、我輩ノ頭ヲ指轉シ絶倒ス。余彼ヲ看ルニ、頭ニ數尺ノ尾ヲタレ、ソノ姿容實ニ抱腹ニ堪ヘズ。彼此相笑フ、ソノ愚ナルヲ擧ゲン」と。千歳丸に近寄って来て船の上から、日比野の頭を指して笑い転げている。そういうヤツラの頭を見れば、何と「數尺ノ尾ヲタレ」ている。これが笑わずにいられようぞ。彼らは日比野の丁髷を笑い、日比野は彼らの弁髪を奇とする。かくて「實ニ風俗ノシカラシムルコト、ソノ笑ヒイヅレヲヨシト定メ難シ」と見做す。文化とは《生き方》《生きる形》である。ならば丁髷と弁髪の間に優劣はつけ難いということだろう。

 日比野は、上海第一夜を「數千ノ船皆一燈ヲ點ジソノ景佳ナリ」と綴った。《QED》
posted by 渡邊 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年02月07日

【知道中国 1173回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1173回】          一四・十二・念一

 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富8)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 ほどなく大平天国は幹部間の内紛が表面化し瓦解するわけだが、問題は清国である。納富は、国家運営の根幹である財政・軍事権を英仏など外国勢力に握られていることが、清国衰亡の根本原因だと看做す。

 先ずは財政だが、「上海海關ノコトハ、英人コレヲ司リ、黄浦ニ入船ノ船税ヲ取納ムルナリ。ソノ故ヲ尋ヌルニ、二十年以前コノ地初メテ開港ヲナシ、萬國ノ商客ヲ集メ貿易ヲ盛ンニセシト雖ドモ、洋商清人ノ柔弱ナルヲ侮リ、ヤゝモスレバ制令ニ從ハズ不法ノ行ヒヲナセシヲ以テ、英人ヲ頼ミ海關ノ税ヲ納メシム。然ルニ先年天津ノ戰爭ニテ英軍ニ打負ケ、和約ノ爲メ莫大ノ償金ヲ出スニ決定ス。コレヨリソノ後ハ上海ノ税銀ヲモ償金トシテ年々英人ニ占取ラルゝ由」。

 つまりこういうことだ。アヘン戦争に敗れた結果、清国は英国との間で南京条約を結ばされ、上海・寧波・福州・厦門・広州の南部沿海の主要5港の開港を余儀なくされた。かくて「萬國ノ商客」が蝟集し、上海はアジア最大の貿易港へと大変貌を遂げ、税関収入も莫大なものとなった。だが「洋商」は「柔弱ナル」清国役人などバカにして命令に従わない。密輸・脱税など日常茶飯事だったことだろう。そこで英国人に代行を依頼した。ところが都合が悪いことに、第2次アヘン戦争で清国は再び「英軍ニ打負ケ」てしまい、莫大な賠償金を支払わざるをえない。だが国家財政は火の車。そこで上海港で徴する莫大な税関収入を差し出す羽目に陥ってしまった。ということは、上海が賑わい貿易取引が増加したところで、清国の国家財政を潤すことはないわけだ。やはり戦争は負けたらダメです。

 次は軍事。納富は「或ヒトノ話」から説き起こすが、この「或ヒト」は上海を「徘徊」することが大好きだった名倉かも知れない。その「或ヒト」が「徘徊」を終えて宿舎に戻ろうとしたが、刻限を過ぎていたので城門は閉じられ「往來ヲ絶ス」。ところが日本人であることを知った城門守備のフランス兵が、態々城門を開けてくれた。すると「土人等コレニ乗ジ通ラント」したが、ダメだった。ちょうどその時、清国役人が輿に乗ってやって来て、フランス兵の制止を振り切って城門を通過しようとしたのだが、「佛人怒リテ持チタル杖ニテ速撃シ、遂ニコレヲ退キ回ラシメ」たというのだ。清国人、ダメのことヨ〜ッ。

 日本人は特例。清国人は役人も含め、自らの国土に在りながら他国の兵士の指図を受けざるを得ない。当時、上海をぐるりと囲んだ城壁には7つの城門があり、それらを英仏2国の兵士が守備し、朝晩5時を刻限に開閉していた。かくて「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」となる。

 上海港の税収はそのまま英国女王陛下の懐を潤し、街の防衛・治安はイギリスとフランスに委ねたまま。これでは納富ならずとも「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」といいたくもなろうというもの。だが、翻って考えるに、納富が21世紀初頭の日本に蘇えり、国内要所に点在する米軍基地を目にしたとして、肩をガックリと落としながら「嗚呼皇國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」と呟かないだろうか。

 西欧による籠絡の手法の1つにキリスト教の伝道を挙げる。「耶蘇堂」を築き、「愚民」に「先ズ多クノ金銀ヲ與へ」る。「故ニ愚民等ハ宗法ノ善惡ヲ論ゼズ」、キリスト教に靡いてしまう。また病院を建設して「愚民」に医療を施す。「藥劑等」も「上帝」からの施しであり、病気治癒もまた「上帝ノ救助シ玉フ」ところだと思い込ませる。かくて「ソノ教遂ニ天下ニ盛ンナリ」ということになって、民族精神は徐々に蝕まれるという仕組みだ。

 財政権と防衛権は他国に握られ、精神は侵されるがまま。清国の惨状を目の当たりにした納富は、風雲急を告げる祖国に戻って行った・・・尊皇・佐幕・攘夷・開国。《QED》

posted by 渡邊 at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年02月06日

【知道中国 1171回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1171回】          一四・十二・仲七

 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富6)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 例の2人は、折から訪ねて来た「知己ノ書生馬銓」に納富への取次ぎを頼んだ。馬銓もまた「聖書だから読んでみたら」などと悪気もなく勧めたのだろう。いくら「知己ノ書生」の勧めとはいえ、「耶蘇ノ邪教書」なんぞを受け入れるわけにはいくまい。当然のように「我友等倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した。かくて翌日から、この種の勧誘は絶えたようだ。一連の聖書騒動を、「噫、清國書ヲ讀ム者スラ既ヲ尊奉ス。況ヤ愚民等ニ於テヲヤ」と慨嘆した。

 ――清国には孔孟以来の聖賢の著書や歴史書があろうものを、読書人たるもの、なにゆえに「耶蘇ノ邪教書」なんぞを有難がるのか。読書人がこれなら、一般民衆は推して知るべし。嗚呼、何とも嘆かわしい限りだ――

 ところで、「倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した「我友等」の先頭に立ったのは、果たして中牟田か。高杉もまた一緒になって刀の柄に手をやりながら、「そこもとら根性の腐りきった輩の来るところではござらぬ。下がれ、下がれ下郎の分際が」などと大喝したのだろうか。

 日本の若者の剣幕に、さぞや驚き入ったことだろう。おそらく彼らの武勇伝は瞬く間に上海の知識層に広まったに違いない。そこである日、「清人ノ醫師來リ語ツテ曰ク」となる。これまた筆談なのか、通訳が入ったのかは不明だが、とりあえず“雰囲気”をだして翻案してみると、

――あなた方、上海来るある、上海、浮説(うわさ)あるのことよ。イギリス、日本に加勢頼んだあるよ。日本、上海、助ける来るある。清国・日本・イギリス・フランス、みんなさん長毛賊倒すのことよ。日本軍艦、いつ来るあるか。まだ来ないあるよ。待ちどうしいあるのことねェ。日本兵隊さん2人、凄いヒトある聞いたよ。1人、1日千里往って還るある。1人、雲に乗るのこと水の上走るのことよ。アイヤ〜ッ、今見るのこと、みんなサン、普通の人ある。不思議のことあるねェ――

 かくて納富は「初メ我船着岸ノトキ皆上陸セシニ、來リ觀ルモノ雲集セシハ、サル浮説ノアリシ故ナラン」と納得した。どうやら中国人は千歳丸一行を日本からの援兵の先遣隊と期待していたようだ。それほどまでに上海は太平天国軍の攻撃に悩まされていたということであり、同時に上海の人々は日本を頼みの綱と心待ちにしていたわけだ。であればこそ、「反日無罪」などと嘯く軽佻浮薄な21世紀の中国人に、この事実を教えてやりたい。

 この「浮説」に一行の哄笑が聞こえて来るようだが、やはり納富が目は自国を守ろうとする気概なき清人の振る舞いが気になって仕方がないらしい

 「清人ヲ見ルニ、凡ソ柔弱ナル躰ナリ」。ある日、上海を管轄する役所を訪問した。役所内で見かける。「ソノ情躰甚ダ賤シ。又禮儀ヲ知ラズ。見苦シキ下僕ト見ユルモ、主客ノ座ヲ憚カラズ立騒ギ見物ス。或ハ應接アル所ノ後障ヨリ數十人窺ヒ見ル。又我輩ノ傍ニ來リテハ、衣服ヲ撫デソノ品價ナドヲ評シ、或ハ草履ヲ取ツテソノ製ノ異ナルヲ笑フ。最モ珍奇トスルハ刀釼ナリ。頻リニコレヲ看ンコトヲ請フ。許サゞレバ窃カニ取ツテ抜カントス。ソノ形様ノ野鄙ナルコト云ワンカタナシ。コノ後到ルコト兩三度ニモ成レバ、庭前ニハ古キ衣服ヲ晒シ、廊下ニハ多クノ便桶ヲスエ置ケリ。更ニ掃除セシテイモナシ」

 上司が日本からの賓客を接待している厳粛であるべき場面を、後障の影から鈴なりになって覗いている。汚い手で裃を撫で、武士の魂である刀を触りまくり、抜いてみようとさえする。役所の庭には着古した衣服が干され、廊下には便器が並び、掃除された様子がみられない。如何に綱紀が弛緩していることか。納富が呆れ返ったのも当たり前だ。《QED》
posted by 渡邊 at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年02月05日

【知道中国 1170回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1170回】          一四・十二・仲五

 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富5)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 難民の多くは「蘇州ノ者ニシテ約ソ十餘萬人モコレアルベシ、且官府モコレヲ救フコト能ハザレバ、餓死スル者日々ニ多シ」。難民をめぐる環境は日々刻々悪化していった。それもそうだろう。政府は手を拱いているだけ。かくて日本への亡命を望む者も現れた。

 日本側宿舎に顔を出し「風流ノ交リヲナスハ、皆難民中ノ人ニシテ、ソノ中ニハ秀才モ有ツテ、清朝ノ衰政ヲ哀ミ頻リニ皇國ヲシタ」う。ここでいう「秀才」は科挙試験上位合格の秀才なのか、一般的に頭がいいという意味を指すのかは不明だが、ともかくも一般難民とは違う読書人クラスの難民がやって来ては納富に向かって、「もう清朝はダメです。救いようはありません。それに引き替え皇国(にほん)は素晴らしい」とでも語ったのだろう。とどのつまりは亡命への支援要請だ。

 「余ニ言ヒテ曰ク、現今多クノ難民去ツテ貴邦ノ長崎ニ在リト。古ヘモ亦コレアリ。貴邦ハ素ヨリ仁義ノ國ト知ル。而シテ我邦ト唇齒ニ均シ。若シ諸侯ニ於テモ我輩ヲ憐レンデ倒懸ノ苦ミヲ救ヒ、召シテソノ民トナシ玉ハゞ、長ク恩澤ヲカフムリ安居スルコトヲ得ント、坐ロニ涙ヲ浮カベケレバ、余モマタ哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」と。

 この部分のやり取りは筆談だったのか。それとも通訳を介したのか。それはともかく、「現今多クノ・・・」から以下の部分を翻読してみたい。

 ――ただ今、多くの難民が貴国の長崎に流れ着き住まいしております。こういったことは、その昔にもありました。貴国は古より道義の国であることを承知しておりました。加えて我が国とは唇と歯のように切っても切れない関係にあります。もし貴国の諸侯の何方かが私を哀れに思われ、召し抱えても宜しかろうと恩情を掛けて戴けますなら、末永くご厚情に浴し安居することが叶うことと思います――

 こう涙を浮かべて訥々と語り掛けられたことで、納富としては「哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」である。続けて「因テ思フ」と難民の処遇について記す。これまた翻読すると、

  ――かくて拙者が思うに、これら難民を救い申して皇国の民の列に加え、職人の技術を生かさば国益にもつながり申そうぞ。農民にてあらば、島々や山林を切り開かせ、意欲と能力ある者は挙って使うが宜しかろう。太平天国の賊乱に遭って苦しみ、空しく餓死するなどということ、痛々しく、これまた口惜しきことではござらぬか――

 この時、果たしてどれほどの数の難民が長崎にやってきたのか。そのうちの何人が日本に落ち着き生計の道を確保したのか。それは不明だ。それはさておき、軽々しい同情は禁物だと思うが・・・如何。

 納富は上海の情況から、一向に止みそうにない「賊亂」が清国全体に及ぼす惨状に思いを致す。上海では従来からの住人に加え「十餘萬ノ難民等」が食べなければならない。上海は「幸ヒ廻船便宜ノ地ナレバ米穀」が底を尽くことはない。だが、米価は日々に高騰の一途だ。ならば「難民等ハ買フコト能ハズ。又乞兒トナリテモコレニ與フル者ナケレバ、遂ニハ餓死スルヨリ外アラザルベシ」と。

 手の打ちようのない惨状から、納富は考える。「他ノ地モ亦賊亂ヲ避ケ、ソノ地モシ米粟少ナク又運送ノ便ナクンバ、從令黄金ヲ貯フトモ、飢渇ニセマリ餓死スル者上海ヨリ尚多カラン。實ニ清國當今ノ衰世アサマシキコトゞモナリ」と。最早この国は、手の施しようがない。

 某日、病床の納富を「二人ノ書生來リ訪フ」。友人が応接すると、聖書を持参している。「耶蘇」の布教だ。そこで友人は「大イニ怒リソノ書ヲ抛チ」、追い返した。「然ルニ次日又來ル。「入ルコト許サゞレバ、立ツテ戸外ニ在リ」。どうにも往生際の悪い奴らだ。《QED》
posted by 渡邊 at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年02月04日

【知道中国 1169回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1169回】          一四・十二・仲三

 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富4)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 上海上陸後には各地を歩き、その見聞を記録し、「探偵ノ一助ニ備ヘ奉ラバ官ノ御爲ニ何ゾノ寸uニモナルベキ」と、納富は考えていた。だが上陸直後に病を得てしまい、当初の計画が果たせない。情けなく口惜しいと思っていた。ところが、太平天国の乱を逃れて多くの難民が上海に押し寄せる。「ソノ中ニ書生數多クニテ、皇邦ハ諸外夷ト異ニ聖ヘヲ崇ビ文字明ラカナリト聞イテ、樂シミテ我輩ヲ來リ訪ヒ、詩畫筆語等ニテ自ラ親シクナリ聞出スコトモ少ナカラス」。幸運にも情報が向こうから跳び込んで来た、というわけだ。

 加えるに「我中牟田倉之助、長州ノ高杉晋作、會津ノ林三郎、遠州ノ名倉予何人、大阪ノ伊藤軍八、尾州ノ日比野掬治本ト書生ナレバ、就中筆語能ク通ゼリ」。「我山崎卯兵衛、深川長右衛門ハ書生ニハアラネドモ、通辯早ク馴レテ、官府ノ事商法等ハ精シク聞取ルコトヲ得ラㇱム」。

 ここで「最モ意外ナリシハ」と「薩州ノ五代才助」に筆が及ぶ。彼は「初ヨリ水手ニ身ヲ窶シ船底ノミニ居ラレタレバ」、誰も気にしなかった。ところがソッと抜け出して遠く足を延ばし、「浦東アタリノ長毛賊ヲ剿攻アリシ合戰ヲサヘ見テ歸ラレシ由、コノコト誰モ知リタルモノ無ク」、長崎に戻って初めて知ったとか。

 かくて納富は、「此度同船數十人ノ銘々見聞セシコトヲ皆集メテ大成セバ、頗ルuアルコトモ多カルベキニ、余ガ微力ノ及ブコトニアラザルハ歎ズベキコトナリ」と猛省する。ともかくも「同船數十人ノ銘々」はそれぞれが得意の分野で情報収集に努めていたということだが、それにしても当時の清国側知識人難民の中には「皇邦」を「諸外夷ト異ニ聖ヘヲ崇ビ文字明ラカナリ」と見做すなど、素直さと謙虚さが認められて些か好感が持てる。やはり横柄で尊大な態度はイケマセン。であればこそ、「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢の実現」などと浮かれ返っている今こそ、「中国は永遠に謙虚であらねばならない」「大国は小国を愚弄してはならない」との毛沢東の訓えを拳々服膺すべきだろうに。判っているか!おいッ、習近平!!!

 上海には欧米諸国から貿易を求めて多くの船舶がやってきて商売は賑わっているが、「タゞ書畫ト文房ノ具ノミハ諸夷ノ目ヲ掛ケザレバ」、書画筆墨商人は開店休業状態だ。そこで唯一「書畫ト文房ノ具」に理解と興味を示す日本人のところに数多くの「掛軸幅古器ナド」を持参し商売に励む。口を開けば「これ本ものアルヨ。安いアルヨ」の連発だったはず。いずれ源頼朝、あるいはナポレオンの幼少時のシャレコウベの類だろうが。

 ところが「固ヨリ僞物ノミ夥シクアルヲ、カツガツ嫌ヒテ退クニ、彼強ヒテ眞物ナリト辯ジ勧メケレバ、日本人ハ皆眞眼ヲ具セリ、汝等欺クベカラズト云ウ」と、最終的に彼らは品物を畳んでスゴスゴと帰って行く。「日本人、敵わないアルヨ」とでもいったのか。それでも「眞物ナラバカクノゴトキ廉價ニ非ラズト、有リノ儘ニ云ヒタリシ」と。さて捨て台詞は「本モノ、こんな安くないアルヨ」だったろう。ニタニタと愛想笑いしながら。

 誰が見てもニセモノと判っていながら、飽くまでもホンモノだと言い張り売りつけようとする図々しさ。一転、ウソがバレルとあっけらかんと白を切る惚けぶり――十年一日ならぬ百年、いや千年万年一日ぶりは民族のDNAとしかいいようはない。かつて周恩来は「中国人はウソをつかない」と大見得を切ったことがあるが、これ程までに信用できない台詞はないだろうに。

 祖先伝来の逸品を売りその日を生きる難民もいる。誰もが「定メタル住居ナク、或ハ路傍ニ佇ミ或ハ船ヲ栖家トシ雨露ニ濡レ飢渇ニ困シミ、タゞ一日々々ノコトヲ計ルノミ。ソノ命懸絲ノ如シ。憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」。嗚呼、「憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」。《QED》
posted by 渡邊 at 07:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/