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2015年02月01日

【知道中国 1166回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1166回】         一四・十二・初七
 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富1)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 納富介次郎(のうとみかいじろう)。天保15=1844年に佐賀藩の支藩である小城藩士の神道家・柴田花守の次男として生まれる。父親の花守に日本画を学んだことが、後の画家、工業デザイナーへの道を進ませたのだろうか。16歳の安政6(1859)年、佐賀藩儒学者の納富六郎左衛門の養子に。3年後の文久2年に千歳丸は上海へ。つまり「上海雑記 草稿」の筆を執っていた頃、納富は19歳前後の若者だったことになる。

 明治2(1869)年には大阪佐賀藩商会の一員として再び上海へ。ウィーン万博(明治6=1873年)、フィラデルフィア万博(明治9=1876年)に参加し、美術工芸品輸出に尽力した後、石川、富山、香川、佐賀などで工業・工芸教育に努めた。大正7=1918年に没。因みに納富がDesignを「図案」と翻訳したとも伝えられる。

 上海に上陸した納富が先ず気になったのが「城門ヲ英佛二國ノ兵卒ヲ請フテ守ラシムルコト」だった。確かに前年に結ばれた「唐西ノ和議」に基づくとはいえ、やはり納得できない。そこで「清人等ニ對シ、中國如何ゾ外夷ノ力ヲ借リテ城壘ヲ守ルヤ」と、のっけから難詰口調だ。歯に衣着せぬとは納富のような人物を形容するのだろうか。いや若者の特権は恐れを知らないことだ。ところが「皆黙ス」。それもそうだろう。海の向こうからやって来た異国の若者に、突然、お前の国はなってないじゃないか。自分の国は自分で守るべきだなどと吹っかけられたら、如何な清人であろうと口籠るしかないだろうに。

 それでも暫くすると、太平天国軍の第一波攻撃を受けた昨年、こちらの防備態勢が整っていなかったので、「止ムコトヲ得ズ英佛ノ兵ヲ借リ」たとの声が返って来た。そこで納富は「然ラバ何ゾ洋人跋扈ノ甚シキヲ制セザル。コレ清朝ノ却テ外夷ニ制セラルゝトコロニアラズヤ」と畳みかける。そうかもしれないが、では何故に西洋人をのさばらせておくんだ。それこそ清朝が紅毛碧眼のヤツラに舐められているからだろう、と。すると「皆答フルコトナシ」。

 以上の遣り取りは筆談で行われたに違いないが、さぞや怒りに任せて殴り書きしたに違いない。それにしても19歳前後の若者ながら、いや若者なればこそだろうが、納富は物怖じということを知らないらしい。

 上海の街を歩いての第一印象を、「上海市坊通路ノ汚穢ナルコト云フベカラズ。就中小衢問逕ノゴトキ、塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ。人亦コレヲ掃フコトナシ」と。街は汚い。殊に裏通りなんぞはゴミやウンコがてんこ盛りで歩けやしない。掃除もしないというのだから、神州高潔の民としてはカルチャーショックのはず。だが、汚さは郊外にも及んでいた。

 ある人のいうには、と続ける。市街を一歩外に出たら一面の広野だが、草が生い茂り道も見えない有様だ。さらに「只棺槨縦横シ、或ハ死人蓆ナド包ミテ處々ニ捨テタリ。且炎暑ノ頃、臭氣鼻ヲ穿ツバカリナリトゾ。寔ニ清國ノ亂政コレヲ以テ知ㇽベシ」と。つまり棺桶は土中に埋葬されることなく地上に放り出されたまま。蓆に包まれた死骸は、あちらこちらに捨てられている。雨風に曝され、棺は壊れ、蓆は破れ・・・夏の日盛りには臭気が鼻を衝き堪えられたものではない。こんなところからも清国がどうにもならないほどにダメになっていることが判る、というわけだ。

 同じ頃に日本の各地を歩いたイザベラ・バードなどの多くの欧米人は、街といわず村といわず、日本の清潔さに讃嘆の声を残している。だから日本からやってきた納富にしてみれば、おぞましいばかりに衝撃的な風景・・・これこそが孔孟が生まれた国の現実である。

 人は腰抜け、街の裏通りにはゴミと人糞、郊外に出れば打ち捨てられたままの棺に蓆に包まれた死骸、そのうえ飲み水は汚れている。いやはや上海は劣悪でゴザルのう。《QED》

posted by 渡邊 at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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