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2015年02月03日

【知道中国 1168回】 「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1168回】         一四・十二・仲一

 ――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富3)
 「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 「土人等數年狎居ル西洋人ニハサモナク、初テ渡リシ我輩ヲ親シムコト眞ニ舊知ノゴトシ」。その理由を、質談ができるからだろうが、結局は「倭漢ノ人心自然ニ相通ズル故ナルベシ」と考えた。さて、そういえるかどうかは別にして、やはり中国人にとって日本人は新鮮で珍しかったに違いない。同時に名倉が自らの「海外日録」の表紙に態々「室町以来希有」と記しているように、「室町以来」、日本人は渡来した書物の中の中国と中国人としか接してはいなかったわけであり、であれればこそ、頭の中に描いてきたバーチャルな中国・中国人と直に接する生身の中国・中国人との落差に驚いただろう。絶対に。

 それもそうだろう。納富らが居住まいを正して読んだであろう大陸伝来の書物の中に、中国の街では「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナ」く、郊外には「棺槨縦横シ、或ハ死人蓆ナド包ミテ處々ニ捨テタリ。且炎暑ノ頃、臭氣鼻ヲ穿ツバカリナリトゾ」などと書かれていなかっただろうからだ。

 「清國當今ノ風、兒童六七歳ヨリ學ニ入リ」、商家の子弟までも学塾で勉強に励んでいる。それというのも「清國ハ固ヨリ文學無雙ノ國ニシテ、コレニ因テ國家ヲ治ムルコト論ナシ」。「文學」、つまりは儒教古典である四書五経の思想によって国家を治めてきたからだ。だが最近では志は失せ、科挙試験に受かることのみを目的としている。これを納富は「虛騖徒勞スルノ弊」と呼ぶ。そこで現今の中国は「自ラ虛文卑弱ニ落チ、遂ニ自國ヲ治ムルコト能ハズ」。かくて「内長匪ニ苦シメラレ、外夷狄ノ制ヲ受ク。實ニ清國ノ危キコト累卵ノゴトシ。憐レムベキコトナリ」となる。

 かつての「文學無雙ノ國」も今や志を失くし、遂に内からは太平天国軍に揺さぶられ、外からは列強に蚕食されるがままではないか。最も忌むべきは志なき文弱の徒に違いない。
どうやら納富らは知り合った中国人と書の遣り取りをしていたようだ。ある日、詩を書いた扇を持ってきた中国人がいた。その詩に日本を見下す「納貢ノ事ト蠻王云々ノ句」を見つけた会津藩士の林三郎は、「勃然トシテ大イニ怒リ、即チソノ扇ヲ抛ツテ曰ク、我神國ノ天皇ハ萬古一系革命有ルコトナク萬邦ニ比スベキナシ。〔中略〕憎キ腐儒生甚ダ以テ無禮ナリト云」った。
 さて一気に頭に血をのぼらせた林は、顔面に青筋でも立てながら、「我が神国は畏れ多くも万世一系の天皇陛下が治め賜うておられるのじゃ。キサマらの国とは大いに違い申す。どこのウマの骨やも知れぬら下賎の身が権力欲の赴く儘に力に任せて天下を私し、これを革命などと賞揚せしは笑止の沙汰。キサマが如き腐れ儒学徒が、無礼千万。生かしては措けぬ。そこに直れ」などと、あるいは腰間の利刀に手を掛けたかも知れない――こんな展開であったら、その施渭南と称す中国人は林の剣幕に驚き、さぞや胆を潰したことだろう。

 かくて施渭南は、「坐ヲ立ッテ拜謝シ、乃チソノ句ヲ削リ改」めた。素直に自らの非を認めたのか。それとも、ここは謝っておくに如かずといったところか。

 それにしても、この緊迫した情況を、まさか筆談で応酬したわけではなかっただろう。「施渭南コレヨリ日々ニ來リ話シテ逆旅ノ悶ヲ遣ㇽ」というから、人懐っこいのか。忘れっぽいのか。ウマが合ったのか。それとも日本人の真意を探ろうと通ったのか。

 ある日、日本側宿舎を訪ねて来たオランダ商館長を見て、施渭南の「顔色土ノ如ク戰慄シテ立」ってペコペコとお辞儀し、慌て立ち去った。北京では一角の人物として知られた施渭南にして、この卑屈さである。「カクノゴトク異人ヲ恐怖スル國勢ノ情態、歎ズルニ堪ヘタリ」

 蛇に睨まれたカエル。夷狄に国を侵された清国人。負けたら・・・オシマイです。《QED》
posted by 渡邊 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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