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2015年02月11日

【知道中国 1178回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1178回】        一四・十二・三一

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野5)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 小袴、天公(カサ)、腰に刀。「拳ヲ揮ツテ、意氣揚々市街ヲ歩」く。すると中国人が道を開けてくれる。だが行く先々で十重二十重に取り囲み、前後左右から覗き込むように眺め、「髪ヲ指點シ絶倒ス」。さほどまでに丁髷は珍奇に思えたのだろうが、一方で太平天国に苦しむ上海を救助にやってくる日本からの援軍の先遣隊という噂の真偽を自分の目で確かめたかったのかもしれない。

 ある日、干物屋、八百屋、米屋、綿屋、鶏や鴨を油で揚げて売る油物屋などが犇めき、「路甚ダ狹ク臭氣甚ダシ」く「酸鼻」を極める市街を「迂曲徘徊」した後、上海南西の郊外を歩く。「往々兵卒ニ逢フ」が「ソノ容貌健強ナラズ」。弱兵では戦は出来申さん、といったところだろう。やがて「田間ニ至ル」と、「亂ヲ避ケ假居スル者多シ」というから、乞食同然の悲惨な難民生活を目にしたはずだ。畑に見えるのは「胡瓜・茄・蜀黍・夏蘿葡・冬瓜・大豆・裙帯豆・紫蘇・藜・コウライノ類」で、「田畝ノウユルモノ我國ト異ナラズ」。

 ところが、そこここに「箱アリ。長サ六七尺、ソノ數タトヘ難シ。臭氣尤モ甚ダシ。行人ニ問フニ皆棺ノヨシ。惡病流行ニテ死人多シ。故ニカクノゴトシ」。日比野も罹ったコレラは、さぞや猖獗を極めたのだろう。墓石が立っているものもあるが、「中ヨリ棺ノ露スルアリ。コレ年ヘテ頽破セシナリ。〔中略〕封土短カク土肉至ツテ薄シ」と。

 千歳丸一行の上海滞在は夏。夥しい数の棺から腐敗臭が漏れていただろうから、「臭氣尤モ甚ダシ」となるはずだ。おぞましいばかりの風景に、日比野もまた閉口し困惑の色を露わにする。

 夥しい数の棺が放置された一帯を先に進むと「長毛賊ヲ防禦ノ爲ニ野陣スル」「李鴻章ノ陣營」がみえた。さらに進み、一休みした寺の軒先で「小童書ヲヨム」。覗き込んでみると儒教古典の「中庸論語ナリ」。一緒にいた爺さんに筆談で問い質すと、去年7月、この一帯が太平天国軍に襲撃されたことから、一家眷属を挙げて上海東方の浦東に逃れた。現在の上海国際空港の在る地である。太平天国軍撤収の後に戻ったものの、「家財米粟皆奪ヒ去ㇽ」。その後も戦火は止むことなく、世の中は荒みきったままだ、とのこと。太平天国軍の兵士もまた、戦争に勝てば略奪し放題という中国古来の伝統に倣っていたということだろう。

 ここまで聞いて日比野は、「蓋シ頽破キハマル、然カルモ子孫ニ書ヲヨマセ、且質樸ニテ田舎ノヲモムキ賞スベシ」と。上海の街に出て西洋人に媚び諂って狡猾に生きるよりも遥かに素晴らしいではないか。昼食を見せてもらったが質素そのもの。だが男女の別は厳然として守られている。かくて日比野は「實ニ感ニタへタリ」と、失意の中にも泰然として生きる姿に感嘆の声を洩らす。

 再び市街に戻り、「徘徊シテ聖廟ヲタヅヌ」。やっと探し当てた孔子廟だったが、そこは銃を構えたイギリス兵に守られていた。何とか頼んで中に入れてもらったが、孔子像は撤去され見当たらず、広い廟内はイギリス兵の兵営になっていた。本来そうあるべき学童の勉学の場では、「喇叭操兵ノ聲」が聞こえるだけ。かくて「嗟、世ノ變ズル何ゾ甚ダシキヤ。李鴻章數萬ノ兵ヲヒキヰテ野外ニ賊ヲ防グ。ソレ狐ヲ驅ツテ虎ヲヤシナフカ。何ゾ失策ノ甚ダシキヤ」ということになる。

 狡猾な狐(太平天国軍)を駆逐すべく李鴻章麾下の数万の兵が前線に赴き上海を出払っている間に、上海では獰猛な虎(イギリス兵)が孔子廟を占拠して侵略の牙を磨いでいた。これこそ失策の最たるものだ。

 康熙、雍正、乾隆、嘉慶、咸豊の清朝歴代皇帝の筆になる扁額は残されているもが、「コノ前ニテ英人無儀無法ノアリサマ、實ニ惡ムベク實ニ嘆スベシ」と、憤慨頻りである。《QED》

posted by 渡邊 at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

【知道中国 1177回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1177回】        一四・十二・念九

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野4)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 日比野も上海での「徘徊」を愉しむ。

 書店を覗く。「棚上ヲ看レバ佩文韻府アリ。塵埃寸餘、ソノ價ヲ問フニ二十五元。我國ノ十三兩ホド。コノ一ヲ以テ書籍多クソノ廉ナルヲ知ㇽベシ」と。『佩文韻府』とは清朝の康熙帝(1662年〜1722年)が行った出版事業の一環で、中国古典を網羅して編纂された語彙集。詩を作る際の参考書だが、出典が明記されているだけに、語彙の来歴を調べるうえでは最も頼りになる工具書だ。

 「塵埃寸餘」の4文字から、当時の上海の混乱ぶりが浮かんでくる。如何に貴重な書物であれ、知識人もまた詩作に耽るなど悠長に構えてはいられなかったことだろう。そんな物情騒然とした上海の書店の書棚で埃を被った『佩文韻府』に着目したとは、日比野の、いや当時の武士の教養のほどが判ろうというもの。治に居て乱を忘れずではなく、乱に居て知を忘れず。いや、乱であればこその知である。

 この一件からだけでは余りにも飛躍した考えのように思えるが、あるいは明治維新という回天の大業をなさしめた原動力は、日比野のみならず、峯、名倉、納富、加えるにこれから読むこととなる中牟田、高杉らの綴る文章の行間から時に迸り、時に染み出るように現れる《知》の力ではなかったか。彼らの《知》は昨今のグローバル人材養成などという目端の利いた官僚サマ、そのツカイッパシリの国会のセンセイ、小利口で弁舌のみの評論家ドノ、立ち回りの上手な学者サマなどが口にする小賢しい知(恥)ではない。己が脳髄を絞り切り、考え尽くす《知》である。おそらく《知》に向っての格闘なかりせば、幕末の日本は清末のようにブザマで悲惨極まりない環境に陥っていたに違いない。

 話は通じないが筆談ができるから「趣アリ」となる。その一例として、墨を求める際の遣り取りを挙げて、「『此墨價若干』ト書スレバ、『一元』ト答フ。『虛價』ト書スレバ、『眞正實價』、或ハ『實價不二』ト答フ。『墨色不好。且無香。想近製』ト書スレバ、『都是陳貨。香在内』ト答フ」と記す。例によって、その場の雰囲気を想像して翻案してみると、

――「この墨の値は如何ほどじゃ」「一元アルヨ」「偽りであろうぞ」「違うアルヨ、ホンとのことあるよ」「ウソのことないアルヨ」「墨の色は芳しからず、且つまた香りが致し申さん。してみると最近の作りじゃな」「ジェンジェン違うアルヨ。じぇんぶ古いのモノよ。香、外側ないよ。中ねーッ、中あるのコトよ」――

「徘徊」しながら筆談で得たであろう太平天国について多くの情報を、日比野は『盾鼻隨聞録』に纏めたと記す。同時代の日本人が綴った太平天国についての詳細な報告だったに違いない。

 ある日、「胸中煩悶シ飲食ヲ絶ツニ至ル」。体が冷え腹痛が起り、やがて「泄痢甚シ」。夜に入って「手足拘攣、舌端固縮シ、脈ノ有無辨ジカタシ」。コレラである。かくて友人を呼んで、「今萬里外ニアツテ溳埃モ國家ノ用ヲナサズ、空シク病牀ニ死スハ、豈遺憾ナラズヤ」と悲壮な決意を伝える。翌日も、ソノ翌日も病状は回復しない。そのうち一人倒れ、二人倒れ、どうやら「我國人半バ泄痢ニテ面色土ノゴトシ」となった。

 数日後、日比野は病も癒え、宿舎を訪ねて来た中国人と筆談を交わすのだが、相手が「蕃王貢使ト書」いた。天皇を「蕃王」と呼ばわりし、その朝貢使節と見下したわけだ。「時ニ林某傍ニアリ。余ト共ニ顔色ヲ變ジ、蕃王貢使トハ何ヲ以テ云フト詰問ス。彼大ニオソレアラタメ書セントス。余輩ソノ紙ヲ寸分ニ破割シ地ニ擲チ刀ヲ撫シテ叱咤」した。おそらく会津の林三郎だろうが、共に刀に手を掛けながら、「キサマ、何を申すか〜ツ」と大喝したことだろう。夜郎自大・尊大無比で無知蒙昧に対しては・・・コレコレ、これです。《QED》

posted by 渡邊 at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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