h230102-0340-2.jpg

2015年03月31日

【知道中国 1221回】 「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1221回】          一五・三・念九

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−2)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 アヘン戦争に敗北し大英帝国から南京条約締結を逼られた1842年以後に辿った道を振り返るなら、清国は西欧列強の軍事力を前にして屈辱的な条約を次々に受け入れざるをえなかった。いわば半植民地・半封建への道をまっしぐらであり、その先には亡国の2文字がチラついていた。であればこそ、当時の清国を「現今亜州」で「獨立國ト呼ハル」ことなどできはしないはず。ましてや日清両国が「同文同種唇齒ノ國」の関係を持つ「兄弟」であろうわけがない。21世紀の初頭の現在に至っても、いや未来永劫にわたって、両国は「同文同種唇齒ノ國」ではない。これだけは断言できる。

 曾根の旅とはやや逸れるが近現代の歴史を思い起こすと、日本人は中国人から3度にわたって“言葉の魔法”を掛けられ、金縛りに遇ってしまったと思う。最初が「同文同種唇齒ノ國」であり、次が日本敗戦時の蔣介石による「怨みに報いるに徳を持ってす」であり、3度目が毛沢東の「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」である。

 どだい国家と国家が「同文同種唇齒ノ國」の関係にあるわけはなく、時と場合によって友好関係を保持することもあれば、同盟を結ぶこともあり、時には戦争に立ち至ることだってある。それは古今東西の歴史が厳然と教えているではないか。

 「同文同種唇齒ノ國」などという常套句は、彼らが自らの立場を有利に導くための方便にすぎない。にもかかわらず明治初期の段階で、すでに日本の一部が「同文同種唇齒ノ國」などという“疑似餌”に食らいついていたわけだ。蔣介石は主に共産党との内戦を有利に展開するため、あの台詞を口ずさんだ。にもかかわらず、我が国朝野の一部が“日本の窮状を慮った温情”と思い込んでしまう。なんともお人好しの限りだが、その種の思い込みこそ、蔣介石たちが逃げ込み、「中華民国=自由中国」などと僭称するようになって以後の台湾への対応を誤らせたことはいうまでもない。

 さて毛沢東の台詞だが、その狙いは日本の国論を分裂させよ。日本人に日本の歴史を蔑視させよ。日本人に過去の指導者を断罪させよ。日本人の心に徹底して贖罪意識を植え付けよ――である。毛沢東独特の詐術に引っかかってしまった我が心優しき市民派や心情反戦派、さらに人道主義者は、日中戦争の発端から終結までの全過程の責任を軍国主義者になすりつけることで“免罪符”を得たと思い込まされた。かくて日本人の前で“空前の有徳の指導者”として振舞う毛沢東によって、日本と日本人は翻弄されることとなった。

 中国側からする一連の洗脳工作については、いずれ機会を改めることとし、本題に戻る。

 曾根の主張からして、どうやら当時、すでに日本と清国(=中国)は「兄弟」であり、「歐米ノ凌辱」を跳ね返すためには、「一家ノ爭鬪ヲ釀成スル」ことなく、「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法ヲ求メザルベケンヤ」という考えがあったことが判る。

 2つの国家の関係を「兄弟」やら「一家」と見做すこと自体に極めて強烈な違和感を覚えるが、利害関係が異なる両国の緊張した間柄を、「家庭ニ葛藤」と捉え、さらには話し合いで平穏に収めるべきだなどと、いったい、何を根拠に、こんな世迷い事を口にできるのか。やはり曾根の神経を疑わざるを得ない。

 曾根は続けて、「余ハ是レ漫遊ノ一書生又囁々スルヲ要ス可キニ非ザレハ」と“泣き言”を記しているが、やはり曾根の考えは当時の政府要路に受け入れられず、それゆえに曾根は自らを「漫遊ノ一書生」などと拗ねてみせたのだろう。

 一連の曾根の記述から、当時すでに日本で清国(=中国)に関心を持つ人々のなかに、日清のどちらが「兄」で「弟」なのかは不明だが、「兄弟」が力を合わせることで「歐米ノ凌辱」を撥ね退けようという考えがあったと判断しても強ち間違いはないだろう。《QED》

posted by 渡邊 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年03月28日

【知道中国 1220回】「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1220回】          一五・三・念七

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−1)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 曾根は『北支那紀行』(1201回〜1204回)の著者である。経歴をみると、明治5(=1872)年に日清修好条規批准書交換のための外務卿・福島種臣の清国訪問に随員として参加。帰国後の同年末に海軍中尉に。明治7(=1974)年の台湾出兵に際し上海に派遣されている。その後も度々上海に渡り、時に明治天皇の前で清国事情を進講したこともある。

 この本を出版した明治16(1883)年の翌年に勃発した清仏戦争(1884年〜85年)に対する政府の態度が、曾根には歯がゆく感じられたようだ。アジアに対する関心が低すぎる、というのだろう。そこで著した『法越交兵記』が伊藤博文の逆鱗に触れ、明治21(1888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁された。後に無罪とされ、西郷従動らの支援を受け清国に渡り、清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇をえて景勝地の蘇州に居を構える。

 後に中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持ったということだから、その点を頭の片隅に置いて『清國漫遊誌』読み進んでみたい。あるいは明治8年出版の『北支那紀行』と明治16年出版の『清國漫遊誌』を読み比べることで、この間の日本における清国観や清国政策の変化を知ることができるかも知れない。

 さて冒頭に曾根は「明治甲戌ノ歳」に上海に渡ったら「偶々台湾島ノ役興ル」と記す。この年は明治7(=1874)年に当たり、「台湾島ノ役」とは台湾出兵を指す。曾根の上海滞在が「偶々」であったかどうかはさて置き、やはり日清間の最初の衝突でもある台湾出兵に就いて簡単に押さえておく必要があるようだ。

 明治4(=1871)年、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害される。早速、明治政府は抗議するが、清国政府は台湾原住民は「化外の民」だということを理由に、明確な対応をみせなかった。清国側の振る舞いに業を煮やした明治政府は明治7年4月に西郷従道を司令官とする軍隊を送り込み、台湾を押さえた。かくて大久保利通が交渉を担当することになるわけだが、清国側は台湾を自国領に留めることに成功したものの、賠償金支払ったうえに、従来は朝貢国であった琉球王国の日本帰属を認めることとなった。一面でいうなら明治政府にとっては対清国外交における最初の勝利、ともいえるだろう。

 曾根は当時の「日清騒然タリ」とした情況下での両国国民の対応を、「清人ハ云フ東洋一點彈丸ノ小島、戰ハズシテ降スベシ況ヤ小國ノ大國ヲ侵ス豈ニ勝ツノ理アラザランヤト日人ハ云フ巨礟一擊燕京ヲ陥レテ後ニ止マン師ハ直ヲ壮ト爲シ曲ヲ勞ト爲ス豈ニ國ノ大小ヲ論センヤト」

 ――清国人は、「東洋(にほん)なんて弾丸一粒ほどのチッポケな小島だ。戦争せずとも降伏させてやる。どだい小国が大国に戦勝しようだなどと、ふざけ切った話だ。勝てる理由があるわけないだろうに」と口にする。これに対し日本人は、「巨礮(おおづつ)でガツーンと攻撃して燕京(ぺきん)を陥落させてから矛を納めよう。師(いくさ)は一気呵成を旨とすべきで、曲(ぐずぐず)していては損耗するだけだ。戦いの勝敗は、国の大小では論じられないのだ」と――

 かくして互いが憤激し、相手を罵り、嫌悪するばかで、結局は国土防衛の精鋭数千を戦死させ、清国側は50万テールの賠償を払うことになってしまった。だが「今亜州ニ獨立國ト呼ハル者」は「僅ニ日清ニ過ギサル耳」。加えて両国は「兄弟」だ。昔から「兄弟牆ニ鬩メクモ外其侮ヲ禦グト」いうにもかかわらず、「歐米ノ凌辱ヲ甘受シテ徒ニ一家ノ爭鬪ヲ釀成」するばかり。いまや「外侮ヲ防キ國權ヲ張ラント」する時だ。ならば「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法ヲ求メザルベケンヤ」。曾根は日清不戦を説く。《QED》

posted by 渡邊 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年03月26日

【知道中国 1219回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1219回】          一五・三・念五

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添5)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 明治9(1875)年5月2日に北京を発った竹添は、7月20日に「陪都」と呼ばれ、蜀(四川)の中心の成都に次ぐ大都市で、揚子江の本流と嘉陵江に挟まれた要害の街である重慶に到着する。川面から「百八十餘」の石段を登って、やっと城門。さらに「九十餘」の階段を登らないと街には行き着けない。盛夏で水はなく、山の水には瘴気が含まれている。井戸水は飲用には使えない。「烈日赫赫復在洪爐中矣」と綴るが、字面からも夏の重慶の暑熱が伝わって来るようだ。

 とある一日、岩塩を運搬する船に乗った。甲板では年上の男が口角泡を飛ばし、「洪鐘(われがね)」のような大声で叱咤し操船を命じている。手にした太い竹の棒で背中を打ち据えられても、船員は黙って耐える。背中は「紫K色」の傷が層をなしていて、傍から見ても「酸鼻」を極め、気の毒すぎる。

 宿は何処でも「蟲に苦しめられ、安眠する能わず」。薄い紅色で丸く偏平で3つの角を持つ。「臭蟲」と呼ぶとのことだが、「不潔の所に生ずる」。夜になるとモソモソと活動を始め、人の体に纏わりつき、肌に噛み付く。痒くて堪らず、掻くと出血し、化膿する。1ヶ月経っても、傷は治らない。

 生活環境は劣悪だが、自然環境は期待通り。「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」の境地に誘ってくれた四川の山川草木の姿を、竹添は、自らの漢詩文能力のあらんかぎりを尽くして記している。

 ――たとえば山の形状が「雄偉奇状の観」だとか、瀑布の景観の素晴らしさはどんなに優れた画家でも絵に描きえないだろうとか、急流が岩に当たって水が糸のように飛び散りキラキラと陽光に映え玉のようだとか、やっと流れが緩やかになり街らしい街に近づく様を「千軍萬馬の中を出で、あたかも燈紅酒緑の場に入るが如し」とか、ここは三国時代には魏に属していた地だとか――

 確かに漢文としては素晴らしい。今から半世紀以上も昔の高校時代の漢文の授業で『棧雲峽雨日記』のハイライトの部分を暗記させられたが、それが忽然と頭の中に蘇えり、口を衝いて出てきた。だから、それはそれで懐かしい。だが、余りにも定型化したコレゾ漢文デゴザイマスといった調子の表現が続くと、やはりウンザリで鼻白む。ダカラドウナノ、というのは酷評に過ぎるだろうか。

 明治9年5月2日に北京を発ってから8月21日に上海に到着するまでの苦難の旅には、正直言って頭が下がる。だがやはり肝心なことは、当時の中国のありのままの姿を捉え、民度・民力を的確に推し量ることではなかったか。酷評することが許されるなら、自然を眺め悦に入り、「神飛魂馳」の境地に遊び、漢詩文の力を披歴しても仕方がないだろう、に。

 やはり文久二年の千歳丸一行が残した記録に較べ、『棧雲峽雨日記』の行間からは緊張感が湧き上がってこない。かてて加えて、高杉や中牟田らの振る舞いから感じられた清国と「土人」に対する強烈な関心とある種の同情心が、竹添のそれからは受け取り難い。巻末に寄せた勝海舟、井上毅、中村正直などの「跋」、竹添が旅のつれづれに詠じた『棧雲峽雨詩草』の巻頭に掲げられた福島種臣、中村正直などの「序」の行間からは、なにやら功なり名を遂げた成功者の驕りに加え、今風の表現でいう「上から目線」が仄見えてくる。

 千歳丸の上海行きから竹添の蜀(四川)旅行まで、十有余年が過ぎた。この間、幕府から維新政府へと激変した日本に対し、西欧列強の侵食が進み、相変わらず気息奄々と亡国への道を歩むしかない清国とを比較するなら、ある面では致し方ないことでもあったろう。

 西欧列強の跳梁に清国の混乱・・・我が「対支外交」は、いよいよ本格始動だ。《QED》

posted by 渡邊 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2015年03月23日

【知道中国 1218回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1218回】          一五・三・念二

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添4)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 苦難の旅はまだまだ続く。

 ある宿では夜盗に衣服を盗まれてしまった。

 時に突然の雨。泥濘の深さは「尺許」に及び、一足踏むと足は泥にズブズブとめり込んでしまい、「不可復抜(復た抜く可わず)」。ならば近道を取ろうと渓流を遡るが、膝まで水だ。輿夫は足で川底の石を探りながら進む。左側が深そうだと思えば右側に移り、右側が危ないと感じたら輿を左側に寄せる。そのたびに輿に坐る竹添は左に揺れ右に傾く。これこそ「正路(ほんどう)」を捨てて却って危難に出くわす典型だ。浅知恵というものだろう。そこで竹添は、「智を以てするも實は愚なるか」と頻りに反省する。

 竹添は北京からの旅を、次のように振り返ってみた。

 北京から西安に入って、辺りの情景は一変した。大地は荒涼とし稲米を口にすることは難しい。「中原秦中(ちゅうごくのどまんなか)」はこんなものだ。「中原秦中」を離れ、いよいよ四川への山道に差し掛かると、山は深く険しく自然は厳しく、そこ此処に狐や山兎が巣を造り、虎や狼が吠え叫んでいる。道は峻嶮このうえなく、布団から食糧までを携行するだけに、旅は辛い限りだ。

 だが、そんな旅を耐えて四川に入れば、米やら食糧に困ることはない。山間の土地ですら見事に耕され、田畠となっている。どこに行っても壮麗なまでの大寺院が珍しくなく、犬や鶏の鳴き声が喧しく聞かれ、牛や羊は道路を悠然と歩き、岩肌の険しい道は鑿で平に削られ、棧道も危険な個所には転落防止用に手すりや囲いが設けてある。そればかりが、棧道とはいえ広い部分では馬が並走できるほどであった。

 周囲の厳しい自然環境が天然の要害となり、昔から「外寇(がいてき)」の侵入に苦しめられることは稀で、その豊かさゆえに四川は「天府の国」と呼ばれてきた。人々は正直で剽悍で、辺境には匪賊やら少数民族が住んでいた。

 一般には仏教が盛んに行なわれていたが、最近になって「妖教(きりすときょう)」がヒタヒタと侵入し、「全省の教會、蓋し數十萬と云う」情況だ。

 四川の人々は「妖教」を好まない。だが、無頼の徒が教会を騙って横暴の限りを尽くしている。ところが宣教師は、そんなことを意に介さない。そこで人々が訴えるが、官は取り合わない。不満を募らせた民衆は「群起し教徒を殺す」ことになる。同治12(1873)年には「十餘萬人」が決起し教会の焼き討ちを決行する。そこでフランス人宣教師が煽動者を提訴するだけでなく、役人は首謀者の逮捕を命じた。

 「妖教」を巡って続いた社会不安について竹添は記しているが、ここで注目しておくべきは、北京に在る日本公使館員である竹添と同僚とが辛苦の果てに辿り着いた四川では、すでにフラン人宣教師が「妖教」を使ってフランスの影響力扶植に努めていたという点だろう。いわば竹添がやっと訪れた四川だったが、フランス人宣教師が省の全域に設けた「數十萬」の教会を拠点にいち早く「妖教」を浸透させていたのである。

 フランスがベトナムに領土的野心を抱いたのは、アヘン戦争勃発直後の1840年代。じつはフランスは竹添の四川旅行から6年後の1882年に占領したハノイを拠点に、雲南省への侵攻を開始するのであった。同じ時期、イギリスはインド・ビルマの両植民地を経由して、同じく雲南省を目指した。四川が雲南の北に隣接することを考えるなら、フラン人宣教師が清国に対するフランスの帝国主義的野心の「先兵」であったと考えても、強ち間違いはないはず。インテリジェンスこそが、かの宣教師の最大の任務だっただろうに。

 衰亡する清国を舞台とした西欧列強による大競争は、とうに始まっていたのだ。《QED》

posted by 渡邊 at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年03月22日

【知道中国 1217回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1217回】           一五・三・二十

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添3)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 北京を発って20日目、洛陽を離れ西に向かう。

 畠の畔で一休み。一望千里。何処にも稲は見当たらない。中国西北部のこの辺りの人々は、麦や高粱を食べている。大都市であっても米を食べることは稀だ。おかずといえば油を加えて煮た豚で、胡椒やネギの類も油で調理するから、とても食べられたものではない。醤油は苦く酒はスッパイうえに、なかなか手に入らない。醸造したコウリャンは度が強く、鍋料理の燃料にも使えるほど。田には溝渠が作られていないから、少しの雨でも排水ができずに冠水してしまう。だが、コウリャンは水をものともせず水没しても成長する。茎は束ねて屋根を葺いたり、蓆に編んだり、炊事に使ったり、じつに便利なものだ。

 いよいよ新旧の2つの函谷関にさしかかった。

 そこ此処に堡塁が設けられ辺境の備えをしている。警備のために民間から強そうな者を集め「兵勇」と称して配備しているが、誰もが乱を好む無頼の徒だ。形勢不利となれば逃げだして群盗となり禍を引き起こす。悲惨の限りで、民衆は彼らを虎狼より恐れている。だから自分たちで堡塁を構えて守らなければならない。明代末期に社会を混乱と恐怖に陥れた李自成やら張献忠などがこの類で、逃亡兵ほど始末に困ったものはない。

 北京から29日目の黎明、楊貴妃が浴びたと伝えられる華清池に到着。じつは29日の間、宿には風呂の設備なく、顔は脂ぎったまま。体は垢だらけ。臭くて堪らず、吐き気を催すほどだったから、何回も温泉につかり極めて爽快な気分だ。

 その日の正午、関中平野の中心である古都・西安に。

 周囲を山に囲まれ、大河が流れ、「沃野千里天府之國」と呼ばれ、穀物と養蚕で栄えた関中平野だが、かつて人々が丹精込めて耕した田畑は荒れ果て土地は痩せるに任せたまま。河から水を汲み上げる方法も途絶えてしまった。秦にせよ漢にせよ唐にせよ、王朝を打ち立て、「民を利し國を富ませ」、長きに亘って天下に覇を唱えることができたのも西北があったればこそ。それゆえに、かつては「天下之利、多く西北に在り」といった。ところが宋代以降、歴代王朝が天下経営の基盤を東南地域に移したことから、西北は打ち捨てられたまま。かくして「西北之地は荒れ、民は窮す」ことになってしまった。

 竹添は「自序」で清国の複雑極まる貨幣制度について言及しているが、ともかく全土で統一した貨幣制度がなかった。旅する場合には、どこでも通用する銀を携行し、必要に応じて切り取って目方を計り、その地方の銅貨に換算して使っていた。そこで竹添も北京の両替屋で銀を買って持ち歩いていたが、いざ使おうとすると、銀は外側だけで内側は銅。かくして竹添は商人の悪辣さに呆れ果て、「憎む可し」と。

 西安を発って西に向かうと「山路は峻嶮」となる。車を捨て、これからは時に轎、時に徒歩の旅となる。

 いよいよ「蜀の棧道」だ。切り立った岩壁に穴を穿ち、そこに差し込まれた丸太を繋ぎ道としている。片側は水が滴り落ちる岩壁で、片側は目も眩む千尋の谷。時に谷底まで下り渓流を歩く。危岸を越えると、今度は小径が山肌を縫うようにうねうねと続く。「仰ぎて天光を視れば、井底に在るが如し」。さらに進むと「山は益々峻にして、路は益々險(あや)うし。下は則ち深谷千仭。奔流は激しく射ち、雷は轟き、雲は翻る」。

 「盲雨は忽ちに至り、大きこと彈丸の如し」。小径はいよいよ峻嶮になり、後を歩く人は、まるで前を歩く人を抱き抱えているようだ。山頂に至って見渡せば、まるで肘の下に周囲の峰々が在るが如し。

 頭上からは山肌を縫って水滴が「滴滴と絶えず」、足は渓流に濡れっぱなし。時に「雨、又、絶えず、轎中に在って衣は襦(ぬ)れ」たままでビッショビショ。酷い旅だ。《QED》

posted by 渡邊 at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/