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2015年03月21日

【知道中国 1216回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1216回】          一五・三・仲八

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添2)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 北京を発って5日目、街道で乞食に出くわす。旅人とみれば、前に立って進路を遮り、後に廻っては秋の蝉が木に縋り付いて咽び泣くように「啾啾(ちっチィ)」と憐れみを乞う。

 郊外を歩けば強い風が巻き起こり、砂埃が目に飛び込み目を開けていられない。仕方なく同行の津田と毛布を被って馬車の中に蹲るばかり。やがて目的地到着の知らせにソロソロと馬車から這いずりでて車夫の顔を見ると、黒い顔は砂埃で白く変じ、眼光は炯々と鋭く、まるで悪霊のようだ。かくて思わず失笑する始末。

 目を転ずると、周囲一面は見渡す限りの麦畑。丈は1尺ばかり。日照り故に成長していないが、茎は勁そうだ。

 さらに西に進む。こんどは周囲一面が荒沙の地で、米穀類は育たない。かくて人々の命を繋げるのは専ら木の葉となる。薪炭が乏しいから、木の根を薪代わりに暖を取り炊事をする。時には馬糞を拾って乾燥させ、炭の代用にして寒さを防ぐことになる。だから、冬になってオンドルに寝ると、臭くて堪らないという。

 カラカラに乾燥した砂地の道では馬車の車輪が取られ、馬3匹を使っても1台の馬車も引けないほど。とある店で「干子」と呼ばれる白い土塊を売っている。なんでも麦の粉と混ぜ、餅を作って食用に供するとか。

 ある地方では、樹木を大いに育てているが、幹で家を造り、枝を薪とし、根っこを深く掘って馬糞を埋めて肥料とし、根を十分に張らせることで洪水にも耐えられるよう頑丈な土手造りに励んでいる。たくさんの木の実を稔らせて保存し、凶作に備える。

 北京を離れてから18日目、竹添は黄河の岸に辿り着く。

 黄河を目の当たりにした竹添は、「河廣十里、濁浪洶涌、使人心悸、宜矣秋潦一至、汎濫數十里、不復辨涯?(川の幅は十里。濁った波は滔々と逆巻き、人の心臓を揺さぶる。一たび秋の洪水になったら、数十里の幅に氾濫し、どこまでが河やら、その果てが判らないほどだ)」と、感慨深げに綴る。

 竹添は何気なく文字を連ねたのだろうが、漢字・漢文による表現は声を出して読むと調子よく勇ましいが、その分だけ大袈裟になりがちだ。いや漢字や漢文に拠る限り、否応なく大仰な言い回しにならざるを得ないというべき。とするなら、やはり漢文(ひいては現代中国語も)という言語表現は、その内容を相当に割り引いてもよいのではないか。であればこそ、やはり彼らの言い分を、そのまま鵜呑みにしてはいけないということだろう。

 かくて黄河を越えて河南省に入る。

 地味は肥え、穀物・絹・綿花・木材などに恵まれ豊かなはずだが、近年では鴉片が大流行で、一帯では罌粟栽培が盛んだが、西に行くほどに多い。辺境の民は誰もが鴉片を吸っている。隣の山西省では男女を問わず10人中7、8人は吸っている。鴉片は四川、広西、雲南、貴州が最も多く、品質では雲南モノが最上だ。だがインド産の「和潤」さには敵わず、金持ちは必ず「洋舶(インド産)」を口にする。

 聞くところでは清国の人口は4億だが、その10分の1が吸引しているとして4000万人になり、膨大な金額が煙と消えてしまう。鴉片吸引は体に有益とはいうが、実際は精力を萎えさせ命を縮ませる。その害は鴆より甚だしい。100年後、4億の民は悉く衰亡し、中国人は絶滅の危機に瀕していることを恐れる。だから、民の父母たる者は、一日も早く罌粟栽培を止めるべきだ。

 ――書物で学んだバーチャルな中国ではない現実の中国を、竹添は淡々と綴る。それしても竹添の危機感から150年余が過ぎた現在、鴉片禍が再び猛威を振るう。何故。《QED》
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2015年03月20日

【知道中国 1215回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1215回】         一五・三・仲六

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添1)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 竹添進一郎(天保12=1841年〜大正6=1917年)。号は井井。熊本藩士。生年の天保12年には日本では水野忠邦による天保の改革が断行され、中国では前年にアヘン戦争が勃発し、翌天保13年には南京条約が結ばれている。明治維新においては藩の参謀として働いたとか。新政府の大蔵省に出仕した後、天津領事、朝鮮弁理公使、北京公使館書記官、韓国弁理公使などを歴任。清仏戦争(1884〜85年)の間に朝鮮で起きた甲申事変(1884年12月)において日本軍を指揮。その責任を取る形で公使を辞任。以後、東大で『春秋左氏伝』など中国古典を講義。

 明治8(1875)年11月から在北京公使館勤務となった竹添は、四川からの客の誰もが説く四川の天然風土は一度目にしたら「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」との賛辞に居ても立ってもいられず、森有礼公使の許可を得て、同僚の津田君亮と共に四川への旅に立つ。時に明治9(1876)年5月2日。1週間後の5月9日には、明治天皇が臨幸され東京上野動物園の開園式が行われている。

 北京を発って西に向かった竹添は、旧都・西安を経て四川入りし、やがて長江を下り上海に到着したのが8月21日。この間の日々を詳細に、しかも漢文で綴ったのが『棧雲峽雨日記』である。明治12年に出版された版本が手許にあるが、巻頭には三條實美、伊藤博文、「欽差北洋通商大臣太子太保文華殿大學士直隷総督一等・・・合肥」と長ったらしい肩書の李鴻章、清末の大学者兪曲園などが題字やら序文を添え、巻末には井上毅、勝海舟、福島種臣、中村正直など維新の元勲などが跋文やら賛辞を寄せているが、ここからだけでも出版当時の竹添の“立ち位置”が尋常ではないことが判るはずだ。

 日記本文に入る前に、先ず「自序」に現れた竹添の中国認識を見ておきたい。なお『棧雲峽雨日記』は題字やら跋文、賛辞を含め開巻第1頁から最終頁まですべて漢文だが、必要に応じて原漢文を示すが、基本的には適宜意訳しておくこととする。

――中国では大商人は財産を擁し店舗を連ね、「緑眼紫髯之徒(せいようじん)」と巨万の利益を争っている。輸出の倍を輸入しているから、負債が増す。ともかくも海外からの新奇な輸入品を有り難がるが、それはまるで盲人が色を選び、聾唖者が音を求める様なもので無意味だ。

 中国は西欧から戦艦兵器を取り入れ、西洋人が考えた運用法を取り入れて富強を目指しているが、同じく海外から持ち込んだものではあるものの、目下のところは、これが最善の富強策だろう。

 これまで禹域(ちゅうごく)を遍く歩き、多くの人々と交流を重ねてきたが、君子は「忠信好學」で小人は力(つとめ)て利を競い、苦労をものともせず、不撓不屈で金儲けに励む。だが社会の上層は「擧業(かきょ)」に囚われ、下層は「苛斂(あくせい)」に苦しめられてきた。だから社会全体は萎縮し振わない。その有様を例えるならば、藪医者の診断を受けた病人のようなものであり、これでは社会が病状を脱し、健康に復するわけがない。日を重ねるごとに病状は悪化するばかりだ。

 だが、完全にダメになったわけでもない。適切な診断が下され、薬が投与されれば、健康を回復し、起つこともできるだろう。だが世間には「蠱惑(おもいこみ)」という病があって、薬を飲んだら脈拍が上がり興奮し、まるで強健になったように勘違してしまう者がある一方、その姿を見て第三者が慌てだすこともある。どちらがマトモなのか。やはり他国の情況を見るとは、そういうこと。容易いことではないものだ――

 かくて竹添は自らの目と足とを頼りに、四川への大旅行に旅立つのであった。《QED》

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2015年03月19日

【知道中国 1214回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1214回】          一五・三・仲四

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根13)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 その「其狡猾惡ム」べき一例だが、ある村落まで船を進めると、「最初に手渡した費用では、もう先には進めない。いま6元を支払わなければ先には進まない」といって、舟子(せんどう)が櫓を漕ぐのを止めてしまった。そこで最初の話と違うじゃないかと叱り飛ばしながらも「二元ヲ與へ放舟セシメタリ」。かくて曾根は「其狡猾惡ムヘシト雖モ是レ舟子ノ風習ニシテ亦敢テ深ク尤ムニ足ラサルナリ」と述懐している。まあ、相手の足元を見透かしてのブッタクリだが、これもまた「舟子ノ風習」と諦めるしかないのか。

 あるところで休息していると、「不潔ノ土人來看スル者堵ノ如ク拾糞人ノ糞籠ヲ擔フテ四方ヲ圍ミ、甲去レハ乙來リ、孩童ノ滿頭ノ虱白ヲ抹スルアリ」と。物見高いは中国人の常とはいうものの、何処とも判らない田舎町で、「不潔ノ土人」に「糞籠ヲ擔」う拾糞人、頭が虱だらけの子供、ヨチヨチ歩きの纏足女――これだけの人々にワッと取り囲まれたうえに、「嘖々(ピーチクパーチク)トシテ嘈雜(うるさいこと)尤甚シ、加ルニ天熱シ穢ヲ送リ臭來シ其厭フ可キノ狀實ニ筆舌ノ盡ス可キニ非ス」。もはや我慢の限界を超えている。

 3つの「い」――穢い・臭い・五月蠅い――に加えて難儀なのが水だ。水を飲もうと路傍の水売りから買い求めると、「緑色ヲ帶テ臭氣アリ」というからさぞや気持ちが悪かったはず。現在の中国では環境の劣化が甚だしく河川や湖沼が緑色や赤色に染まったなどと報じられるが、日清戦争までまだ10年ほどもあるという時代に、中国内地では「緑色ヲ帶テ臭氣アリ」の水が売られていたというのだから、やはり考え込んでしまう。やはり中国人には環境などという考えは、端っからなさそうだ。

 物見高いといえば、ある「穢塵殊ニ甚シ」い村の宿で夕食を食べていると、「土人來看スル者多ク坐ニ坌入シ、殆ント食事ヲ妨ケタリ」。相手が食事中であろうがお構いなし。ワイワイガヤガヤと曾根を囲んだわけだ。この時、曾根は中国服を身に着けていたから、自分では中国人に見られていると信じ込んでいたらしい。だが、当たり前のことだが、中国服を着たからと言って日本人は中国人にはなれない。とっくに日本人だとお見通しだった。かくて「土人來看」した結果、五月蠅いやら煩わしいやら。ともかくも不味い夕食が終わって粗末極まりない板の床に就くと、「時ニ破窓ヨリ頭ヲ出シテ窺フ者アリ」といった情況。

 曾根は悪戦苦闘の大旅行を、次のように“総括”している。

@:「皆廉耻已ニ絶エ民心殆ント離レ、土人黠詐ヲ尚ヒ唯自己ノ利ヲ計ルニ汲々タルノミ、嗚呼宜ヘナル哉滿清ノ振ハサルヤ、思フニ是レ變換ノ勢ヒ來ル遠ニ非ルノ由縁ナルカ」
――すでに廉耻の心など誰も持っていない。民心は清朝から離れ、中国人はウソ・デタラメばかり。頭の中にあるのは自分の利益だけだ。こんなことだから清朝の弱体化は当然であり、そう遠くない将来、必ずや世の中はデングリ返ることになる――

A:「(山東省は)政体稍存シ風尚樸素ニシテ兵備仍ホ張ル(中略)ト雖モ大廈ノ覆ル一木ノ能ク支ル所ニ非ス、嗚呼區々タル一省ノ山東豈能ク四百余州ノ衰運ヲ挽回スルヲ得ンヤ、東洋慷慨有志ノ徒早ク茲ニ注目シ碧眼ノ猾賊ヲシテ變ニ乘シ毒鋒ヲ亞洲ニ逞ウセシムルヿ勿レ若シ治ニ歸セハ則チ合心合力東洲ヲ振ハシ西洲ヲ壓スルノ急務ヲ策スヘシ」
――ややマトモとはいえ山東省だけでは衰退する中国を救うことはできないことに、「東洋(にほん)」の「慷慨有志」の士は、深く思いを致すべきだ。狡猾な西欧の賊徒による清朝の変事に乗じてのアジア侵略の野望を挫くべし。中国が安定した暁には日中双方が「合心合力」して早急にアジアの振興を図り、ヨーロッパを圧する策を講ずべきだ――

 曾根は「東洲ヲ振ハシ西洲ヲ壓スル」ために日中双方による「合心合力」が急務だと語るが、後の歴史に照らしてみるなら、それは儚い理想、いや夢想・・・何故。《QED》

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2015年03月18日

【知道中国 1213回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1213回】         一五・三・仲二

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根12)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 19世紀60年代から70年ほどが過ぎた1935年、林語堂は英語で書いた『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』(邦訳を『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)をニューヨークで発表しているが、そのなかで「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ろうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」と確信をこめて予言していた。

 同じく『中国=文化と思想』において、林語堂は「中国語文法における最も一般的な動詞活用法は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」とも綴っている。

 西湖の破れ寺で僧侶が「時態ノ變遷ハ悲痛ニ堪ヘザルナリ」と嘆いてから現在まで150年ほどが過ぎ、共産党政権の時代になって66年が過ぎた。だが、相も変わらず「廟堂肉食ノ官員苛酷聚斂ヲ以テ偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪ルニ因リ賄賂盛ニ行ハレ」である。

 この間、「為人民服務」を掲げた毛沢東の時代が30年ほど続いたはずなのに、「廟堂肉食ノ官員」の跳梁跋扈は度を超すばかり。ということは毛沢東の政治とはいえ、結局は「古い伝統を打ち砕く」ことはできず、林語堂が確信を持って予言したように、「古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどまでに変質させてしま」った、ということだろう。であればこそ、習近平政権が“不退転の決意”で推し進めていると伝えられる不正摘発・腐敗厳罰の政治も、やがては粉砕される可能性は大だ。

 それにしても、流石に文字の国である。「肉食ノ官員」とはズバリ。絶妙な表現といえる。

 ところで、先ごろ春節海外旅行で日本のみならず世界各地で猛威を振るった「爆買」にしても、果たして「古い伝統」なのか。それは不明だが、少なくとも昨今話題の中国人の海外移住は合法であれ非合法であれ、「廟堂肉食ノ官員」による莫大な隠し財産を持ってのそれであれ、すべてこれ「古い伝統」の復活と見做して間違いない。これは確信を持って断言できる。かくも根強く骨絡みの「古い伝統」。呆れ果てるしかない。

 『北支那紀行』に戻ることとして、いよいよ後編に入る。

 明治9(1876)年4月、曾根は小舟を雇って上海を出発する。江南に延々と続く水路を縫って北上し、山東省を抜けて天津へ向かう旅だった。

 兵要地誌のための地理・自然環境・軍営などに対する観察は愈々精緻になるが、相変わらず悩ましいのが旅館の劣悪さだった。「飯又K色ヲ帶ヒ菜ハ豚肉多油ニシテ臭氣アリ、食房椀箸等ノ不潔實ニ名狀シ難キノミナラス、更ニ定厠無ク、人畜各意ニ任セ隨所ニ兩便セリ、是レ清國内地一般ノ風習ナリ」と。便所というものがない。人畜共に催したい時は随意の場所で、大小便を垂れ流すということだろうが、最早、なにを言ってもはじまらない。

 こういった惨状を前に、曾根は「我輩ハ此ノ如キ客況ニ堪ヘ、艱ヲ蹈ミ險ヲ冒スヿハ即今ノ職務ナレハ、亦別ニ辛苦ヲ説クヲ要セス」と、じつに“健気な決意”を披歴するものの、やはり痩せ我慢の感なきにしもあらず、である。

 旅先で知り合った中国人が別れに際し、餞別だと言って卵や茶葉を持ってきて歓談の後に、「再會ヲ期シテ退歸」した。よほど感激したのだろう。曾根は「實ニ此輩ハ支那人ニハ奇特ナル人物ニシテ傾蓋ノ友情アリシヤ我輩亦深ク別ヲ惜ミタリキ」と。

 「奇特ナル人物」は極く少数。「其狡猾惡ム」べき人物には事欠かないはずだ。《QED》

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2015年03月17日

【知道中国 1212回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1212回】            一五・三・十

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根11)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 『北支那紀行』は前中後の3編に分れ、前篇は明治8年の天津から盛京(奉天)への旅、中編は明治7年の江蘇・浙江の旅、後編は明治9年の上海から北上して山東への旅が主となっている。

 江蘇・浙江へは、「町田海軍大主計」と通訳との3人で旅立った。この地方は水路が四通八達しているところから、ジャンク1隻を買い、船頭3人を雇うことになる。

 中編でも前編と同じように、本来の任務と思われる兵要地志作りに励み、目に入る限りの四囲の地形、川幅、橋の形状、目標物の位置、村落の様子と村落間の方向・距離などを克明に記しているが、「時ニ老若男女貧人貴者ノ別無ク兩岸ニ群集シテ我輩ヲ望見シ交來リ交去リ殆ド市ノ如シ此レヨリ後は到處皆此ノ如シ」などとも記す。曾根の乘る船が進む先々で、初めて見る日本人に好奇の目が向けられている様子はアリアリ。「夜中巡邏スル者有リ砲ヲ發シ鐘ヲ鳴シ盗賊ニ備フ」とか、「徹夜鐘鼓ヲ鳴ラシ以テ盗賊ニ備ヘリ」とか。さらには「(旅館では)夜ヲ守ル者有リ發銃鳴鐘シ不慮ニ備フ」などという記述が散見されるが、それほどまでに夜盗が日常化していたということだろう。

 景勝地の西湖で「先年日本ノ僧侶來リテ留學セシ」寺を訪ねた折、住職は歓待しながらも「慘然トシテ我輩ニ向ヒ」て「時態ノ變遷ハ悲痛ニ堪ヘザルナリ」と告げるのであった。

 なんでも宋代末期の創建になる内外に知られた「杭州第一等ノ名寺」で、かつては常に600人ほどの僧侶が修業していたが、清代の同治帝の治世(1861年〜74年)に入ると「廟堂肉食ノ官員苛酷聚斂ヲ以テ偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪ルニ因リ賄賂盛ニ行ハレ言路閉塞シ政ヘ弛廢シ下情上達セズ上意下達セズ幾億方ノ生靈倒懸ノ苦ニ遇ヒ朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」。全土は「荒蕪荊棘ノ地ニ變シ深夜ハ鬼火青ク狐狸悲ミ白日モ陰雨冷カニシテ迷烏咽ビ詣拜人希レニシテ山門常ニ鎖セリ」と。かくして「愚僧今ニ在テ昔ヲ憶へバ紅涙潜然トシテK衣ヲ濕スニ至ル」と。

 同治年間といえば、アメリカに初の留学生を派遣し、西南地区の回教徒の反乱を平定し、頓挫したとはいえ「同治の中興」と呼ばれる近代化策を果敢に進めるなど、清朝再興に努めたわけだが、曾根が聞かされた僧侶の悲痛な叫びからするなら、同治帝即位の前後には、すでに清朝は国家の体をなしてはいなかったということになる。

 曾根は、この僧侶は太平天国の乱について述べているのだと断り書きをしているが、それしても「朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」とは凄まじい限りだ。だが、振り返ってみれば毛沢東が1958年に無謀にも進めた大躍進政策の結末もまた、やはり「朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」ではなかったか。

 ところで「廟堂肉食ノ官員苛酷聚斂ヲ以テ偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪ルニ因リ賄賂盛ニ行ハレ言路閉塞シ政ヘ弛廢シ下情上達セズ上意下達セズ」の部分を読み返してみると、なにやら開放政策に踏み切ってから35年余り、カネ儲けが国是となった現在の中国が抱えた病理を言い表しているように思える。つまり幹部という名の貪官汚吏(「廟堂肉食ノ官員」)が溢れ、「偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪」り、「賄賂盛ニ行ハレ」、言論は統制され綱紀は弛緩し(「言路閉塞シ政ヘ弛廢シ」)、民意が汲み取られることなく(「下情上達セズ」)、政権の威令は末端まで及ばない(「上意下達セズ」)――ということだ。

 同治年間から150年余が過ぎた21世紀初頭の現在、習近平政権は必死になって党・政府・解放軍の幹部による不正摘発に努めてはいる。だが、そのこと自体が中国では時代は変われども政治は「廟堂肉食ノ官員」が専横し、「廟堂肉食ノ官員」は絶滅することのないゾンビのような存在であることを言い表しているように思える。嗚呼、処置ナシだ。《QED》
posted by 渡邊 at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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