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2015年03月16日

【知道中国 1211回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1211回】          一五・三・初八

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根10)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 中国人と韮やニンニクの関係に、曾根のように激しい嫌悪を示すか。はたまた青木のように前向きに捉えて鷹揚に構えるか。味にも臭いにも個人的に好き嫌いがあるから、どちらが正しいとも間違っているともいえない。だが、中国人と付き合う以上は青木のように身構えるのがいいように思えるのだが。

 『北支那紀行』は前篇を閉じるに当たり、曾根は地勢・民俗・言語などの項目を立てて自らの見聞を改めて綴っているが、興味深い項目を拾っておきたい。

■満州人について:
満州において「滿州人種」は清朝治下の「太平ノ澤ニ浴シ支那人ノ風習ニ流染シタル人民」になってしまい、文字も言語も「元來ノ滿語滿字ヲ用フヿ無ク」、いずれは「硫酸ニ銅ヲ浸シタルガ如ク」に「必ス遠カラスシテ消絶」するだろうと予測する。

■朝廷の泣官について:
「皇帝ノ喪アル毎ニ哭泣スルヲ爲ス」者であり、全満州から選ばれて学校のようなものに入れて「哭泣ヲ學習セシ」めるが、20歳を過ぎてもマトモに哭けないヤツは退学となる。「好ク泣ク者ハ其聲一里餘ノ外ニ聞」こえるほどで、皇帝といえども祖先の霊廟に詣でる際は、泣官の指示に従って東を向いたり西を向いて泣くとか。「此官ニ就ク者多ク榮進スルニ至ル」そうだ。

■その後の棺について:
「上等人ノ棺櫃ハ大概荒原ニ置キ或ハ埋ムルモ有リ埋メサルモアリ」。そこで埋葬されずに置かれ時間が経過した場合は、「棺朽チ腐躰出テ烏鳶ニ啄マレ狗狐ニ食ラハル」。中等以下は「定リタル埋葬地無ク城門ノ内外或ハ壁下ニ投シ又屋後或ハ路上ノ隅ニ置キ更ニ埋ルヿ無ク各人之ヲ蹈モ怪マス豚犬之レニ溺スルモ嫌フヿ無ク馬牛之レニ糞スルト雖モ忌マス」というから、悲惨の極みとしかいいようはないようだが、上には上、いや下には下があるようだ。つまり「棺朽チ白骨見ルヽニ及テ然ル後泥土ヲ塗リ以テ之ヲ藏スモアリ」。

「是レ北地一般葬埋ノ風習」とのことだが、結果として「城壁直下ト諸街後部」というから城壁の基底部分や街路の奥まった所には、「必ス棺櫃縱横シテ外國人ヲシテ眼ヲ病マシメ心ヲ痛マシム」。それだけではなく、「炎天ニ至レバ其臭氣諸溝ノ醜氣ニ交リ大ニ數多ノ人命ヲ害スルノ勢ニ至ルナリ」と。

それにしても凄まじい。昨今はPM2・5なんぞで大騒ぎしているが、当時の方々にかかったら子供騙し。まるで「屁」のようなもの・・・では。

■鴉片毒煙について:
「上天子ヨリ下庶人ニ至ル迄盡ク之ヲ吃シ一醉万病ヲ癒スト公言シ」、役所の応接室にまで鴉片吸引設備が設けてある。いつでも、どこでも鴉片を吸引しては「夢ノ如」く。「顔色憔衰」するだけでなく、体は枯れ枝のようになっても「樂世ニ成佛スト云フノ態」である。

高官や豪商は鴉片吸引用のキセルに贅を尽くし、金や銀の象嵌作り。兵卒なんぞは俸給を手にしたら鴉片宿へ直行する始末。かくて「氣力ヲ失ヒ」、全く役には立たない。貧乏人の場合は、「衣汚ルモ洗ハズ面垢クモ拭ハズ友死スモ顧ズ子死スルモ葬ラズ父母病モ藥ヲ勸ムルヲ忘レ」て、ひたすら鴉片を「愛弄シ房屋諸々器等ニ至ル迄盡ク並呑スルモ尚厭カズ妻或ハ娘ヲシテ淫ヲ賣ラシメ以テ吃煙ノ費ニ供シ」というから、消費量は莫大。かくて外国からの輸入だけでは賄いきれず、満州といわず「内地亦徃々煙草ヲ種ヘテ以テ自ラ製造スルニ至レリ」。なんともはや「甚シヒカナ毒煙管ノ盛勢ナルヿ」である。

家庭を破壊し、全身が毒され、廃人と堕しても尚・・・凄まじき哉、煙毒よ。《QED》

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2015年03月15日

【知道中国 1210回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1210回】           一五・三・初四

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根9)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 古来中国では、打ち続く大規模な自然災害による大量の犠牲者や餓死者、さらには行倒れなど、夥しい数の死体を如何に処理するかが時代を超えた難問だった。明代頃になると、篤志家が浄財を醵出し合い善堂と呼ばれる仏教・道教系の慈善団体を組織し、街の郊外に巨大な「坑」を掘って大量の遺体を葬ったのである。多くの人(万人)を埋葬する墓穴(坑)だから「万人坑」であり、決して日本軍国主義による“蛮行の証”ではないのだ。

 さて曾根は地方踏査のある夜、寝床の中で、「余床中熟思スルニ顔色衣装支那人ト同一亦語言モ稍解シ得可ケレバ土人ノ吾ヲ疑フ其理決シテ無ク可シ」と考えた。顔かたちも服装も中国人と同じであり、中国語も少し判るわけだから、日本人と疑われることはないだろうと、案内の中国人を断って独行する。そこで、こんなことがあった。

 ある軍営の前に差し掛かると、警護の兵士に「何クヨリ來リ何ヲ業トスルヤ」と誰何されたので、天津の西洋商社からやって来た者だと応じた。ならば天津人かと問われたので、広東の生まれです、と。こう答えておけば、怪しい中国語も、広東語訛りだと誤魔化せると考えたのだろう。すると今度は、近寄ってきて曾根の被っていた「假豚尾(ニセ弁髪)」を引っ張りながら、なぜ髪の毛を剃って弁髪にしていないんだと詰問する。そこで曾根は自分から假豚尾を取って見せて、じつは外国には「我國ノ剃頭師無」く、「我レ大英國ニ在ルヿ七年ニシテ今春國ニ歸リ髪未ダ長ゼ」ず。だから頭に假豚尾を戴いています、と。

 時に「滿洲騎兵」に出会うが、「本朝ノ騎兵ニ較スレハ壯虎ト衰牛ノ如シ」。

 旅館については、「實ニ如何ナル上等ノ旅店ト雖モ本邦ノ所謂木錢宿ニ比スレバ三舎ヲ避ク可シ」。

 旅館の食事だが、高粱で作った麺や餅、或いは粟を炊いたもので、白米は稀で、ともかくも「咽ヲ過ス可キ者ニ非ス」。豚肉だけは豊富だが、どの旅館でも豚肉に韮を混ぜたものだけ。中国人にとってはご馳走だろうが、「我輩ニ至リテハ臭氣厭フ而已ナラス途上豚ノ糞汁中ニ起居シテ汚穢ヲ極メタル所ヲ見シ眼ニハ箸ヲ下スニ堪ヘス況ヤ之レニ加フルニ煎蒜ヲ以テスルヲヤ總テ支那人蒜臭ヲ好ムヿ甚シ」。加えるに「下等社會ニ至リテハ終年沐浴セズ身上ニ垢ヲ以テ造リタルガ如キ衣ヲ着シ臭蒜ヲ食フ故ニ一種特別ノ臭氣ヲ帶ヒ人ヲシテ嘔氣ヲ發セシ」と。

 いわば「汚穢ヲ極メタル所」で糞尿塗れに飼われた豚に食欲が湧くわけがないが、さらにさらに焙ったニンニクだから、とてもじゃないが我慢がならない。「下等社會」の住民は一年中体を清めることもなく垢だらけの服を纏い、臭いニンニクを口にしているから、「一種特別ノ臭氣ヲ帶ヒ」ている。だからもう、もう我慢ならぬ。

 曾根は余ほど韮・ニンニクが嫌いと見えるが、京都支那学派の異端児ともいえる青木正児(明治20=1887年〜昭和39=1964年)は初期の代表作ともいえる『江南春』(平凡社東洋文庫 昭和47年)で中国文化、あるいは中国人と韮やニンニクの関係についてこう記す。

 「支那芸術は正に韮のようなものだ。一たびその味わいを滄服したならば何とも云い知らぬ妙味を覚える。更に進んでは阿片の如きであろう、心身を蕩して心酔さえねばおかぬ。恐らくそれは門外漢にとっては決して美感快感を与うるものではあるまい、寧ろ醜であろう悪であろう。しかも一たび足をその域に投ずるに及んでは絶大の美であり、無情の快である」「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的なる中国人の国民性を最もよく表せる食物なり。己れこれを食えば香ばしくして旨くてたまらず、己れ食らわずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にして居てはこの美味は得られず」。

 「利己主義にして楽天的なる」人々は、やはり「人の迷惑を気にして居」ない。《QED》

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2015年03月14日

【知道中国 1209回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根8)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1209回】           一五・三・初二

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根8)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 前の晩に喧嘩して撲殺された死体で、そういう死体は収容されることもなく「恰モ猫狗ノ死屍」のように道端に放り出しておくのが「當地ノ風習」とのことだ。当時の地方都市の生活の一端が伺える。

 大孤山一帯の探索が不可能であることを知った曾根は英領事館、知り合った「佛ヘ師」や中国人に別れを告げる。その際、「主人」から、7年前の1868年に米仏両国が朝鮮を攻撃した際、清朝は奉天から1万5千人ほどの援軍を送ったが、北京駐在の米仏両国公使は極めて緊密に連携し、これを察知した。朝鮮有事の際、日本が兵を動かすようなことがあったなら「清朝亦舊轍ヲ踏ミ必ラズ」や援軍を派遣するだろう。その場合は奉天近辺からの派遣ということになると予想され、その時は「上海貴國ノ領事迄報告スベシ」――と告げられたと記している。

 前後の文脈から「主人」は英国領事と思われるが、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。

 日清戦争の戦端が開かれたのは、「主人」が曾根に「上海貴國ノ領事迄報告スベシ」と語りかけたから20年ほどが過ぎた1894年のこと。またロシアの満州・朝鮮への進出を防止しようとする日本とロシアの南下を警戒する英国との間で日英同盟(第一次)が結ばれたのは、曾根の旅行に遅れること四半世紀程が過ぎた1902年だった。英国領事が、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。常識的に考えるなら「主人」が示した好意は曾根に対しての個人的なそれではなく、やはり英国外交当局(ということは英国政府)の日本に対するそれということだろう。ならば英国は早い段階から日本を、そのアジア外交の“手段”に仕立てようと目論んでいたようにも思えてくる。

 やや強引な考えだとは思うが、当時、すでに「主人」(ということは英国政府)は、遠からぬ将来に日清両国の間で朝鮮半島をめぐって武力衝突が起こると予想していただけでなく、その場合は日本側に立とうと目論んでいた。ならば日本は自らの意向に拘わらずに、東アジアをめぐる欧米列強の国際ゲームに参入せざるをえない時期に立ち至っていたのか。

 曾根は、「米國輪船」に乗りこみ、山東半島の東北部に位置し、対岸の大連と並んで渤海湾を扼する位置に在る煙台に向かう。その船中は「乘客ハ盡ク豚尾人ニシテ早ク已ニ其ノ居處ヲ占メ我輩ヲシテ坐處無カラシメタリ因リテ(同行者の)松氏ハ甲板ニ臥シ余ハ強テ接居シタリシガ豚尾人等ノ鴉片烟ニ咽ヒ終宵眠ヲ就サズ」であった。

 ここでいう「豚尾」は弁髪、「豚尾人」は中国人を指すわけだが、大部分は出稼ぎ先の満州から戻る労働者と考えるべきだ。これまた「闖関東」――満州への漢族大移動という現象の一環である。それにしても「鴉片烟ニ咽ヒ終宵眠ヲ就サズ」とは、アヘン戦争から35年が過ぎようとしているにも関わらず、「豚尾人」のアヘン好みは一向に治まりそうにない。

 第2次アヘン戦争での敗戦から清朝は李鴻章に命じて煙台の防備を固めた。それゆえ、当然のように曾根の「探視」は詳細を極めるが、再び天津に戻り、「英領事」に大孤山一帯への踏査が叶わなかった事情を報告している。なにはともあれ「英領事」なのか。

 この頃、一帯では「過月ヨリ一點ノ雨無ク」、「熱氣晝夜ノ別無」い情況で、「過日來土人炎毒ノ爲メ死スル者一日中ニ三四十ナリト」。また「在北京陸軍士官長瀬某」からの手紙には、北京の「炎熱常ナラズ土人ノ死スル者毎日七百人ヨリ八百人ニ至ル故ニ門ヲ出レバ必ズ路上ニ斃人ヲ見ルト」と書かれていた。

 じつは民間有志が私財を出し合い組織した善堂と呼ばれる慈善団体が、郊外に大きな穴を掘り緊急共同墓地とし、大量の死体を埋葬した。これを「万人坑」と呼ぶのだ。《QED》

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2015年03月13日

【知道中国 1208回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1208回】         一五・二・念八

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根7)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 それにしても、である。高杉が上海での中国人との交情を「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」と感動的に綴ってから、曾根が「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」と吐き捨てるように記すまで、13年ほどの時間しか経てはいない。

 同じ中国人を相手にしながら、正反対とでもいってもよさそうに違った感情を抱いてしまった原因はなんなのか。

 外国に向って開かれた近代的国際港湾都市・上海に対するに旧態依然たる北支那、高度な内容の筆談を交わせる文人に対するに古典文芸への素養薄き地方役人やら商人、さらには双方が共に国難に置かれていた時代に対し一方は近代化への道に突き進み、一方は亡国への道をトボトボと――高杉と曾根とを取り囲んだ彼我の情況の激変が、「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」と「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」との落差につながった。であればこそ、その後の日中両国の関係を考えた時、文久二(1862)年から明治8(1875)年までの時の経過が重い意味を持っているようにも思える。あるいは文久二年の上海において、西欧列強の強欲の牙に危機感を抱いた双方の優れた才能が幸運にも行き会い、互いが互いを考えることのできた“奇跡の一瞬”だったようにも思える。

 曾根の旅を続ける。

 奉天から営口に戻った曾根は、朝鮮国境に近く馬賊が出没を繰り返す大孤山一帯への踏査の旅を英国領事に、次いで「佛教師」に相談した。すると「佛教師」が大孤山を越えた朝鮮に近いところに住むという知り合いの「同國ノ教師」を紹介してくれる。「同國ノ教師」というからには同じくフランス人だろうが、その人物は「北支那ニ在ルヿ二十年各地ニ遊バザル處無ク語音ニ通ジ地理ニ明カニ今年六十二歳」とのこと。現在ならいざ知らず、当時の「六十二歳」といえば相当に高齢だったはずだから、単なる物好きで辺境の地に20年も住んでいたとも思えない。「遊バザル處無ク語音ニ通ジ地理ニ明カ」というからには、やはり常識的には情報関係の任務を帯びていたと考えられるのだが。

 曾根の出発を聞きつけて、今度は英国領事の友人らしい「『スウエッテ』ノ人『ショールンド』ト云フ者」が「同伴ヲ請フ」てきた。「スウエッテ」とはスウエーデンを指すのか。それにしても、曾根の行く先行く先には必ずといっていいほどに一癖も二癖もありそうな人物が待ち構えているが、それは偶然ではなく、植民地争奪の大競争という時代の最前線で起こるべくして起こる虚々実々の駆け引きの一端だったと見るべきだろう。

 曾根は営口の衙門(やくしょ)に奉天往復旅行の「路票」を返却し、新たに大孤山一帯行きの「護照(パスポート)」の交付を要求するが、役人は「是ヨリ東方盗賊多ク道路亦険隘行クヿ無キニ若カズ」と旅行中止を求めて来た。そこで曾根は、「弟已ニ雲遊スルヿ歷年艱苦亦備サニ甞ム盗賊ノ難行路ノ険ノ如キハ聊カ顧愛スルニ足ラス」。私は怪しいものでなく、大孤山は雄大で見るべきものがあるらしいから「偏ニ行看ヲ要スル耳」と説得を繰り返す。数々の旅行の経験からすれば盗賊も悪路も苦になりません。なんとしても行かせてください、と申し込んだことになる。だが先方は頑として聞き入れない。

 翌日、再び衙門に出向くと、「兩國条約書ニ兩國人民互ニ有賊ノ地方ニ到ルヲ許スヿ無キ」との条文を示して「護照」の給付を断固として拒否する。曾根は自分は一介の書生であり、「東方海岸ノ地風景絶美古迹亦多キヲ聞ク故」の物見遊山であって、清国役人のあたなには迷惑を掛けないからと強硬に申し入れるが、結局はムダだった。どうやら「『スウエッテ』ノ人『ショールンド』と云フ者」と共に、「大ニ失望シタリ」だった。

 その夜の海岸で「恰モ猫狗ノ死屍」のように打ち捨てられた撲殺死体を目にした。《QED》
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2015年03月12日

【知道中国 1207回】「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1207回】          一五・二・念六

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根6)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 環境劣悪な旅館を後に、営口の英領事の紹介で「英商『クライアト』氏ノ宅ニ転居」する。この人物は、「此地ニ在ルヿ前後十二年ニシテ支那ニ知己多ク説話亦支那人ト一般ナリ此邊地方ノ地理、人情、物産等ノ物ヲ問フニ甚ダ悉セリ」とのこと。そこに英商を訪ねてやって来たプロシャ人は、「前月ヨリ北地ニ遊ヒ吉林地方ヨリ魯國ノ界境ニ到リ亦馬賊ノ情勢ヲ探偵シ四五日前ニ茲ニ來着シタル者」だった。また曾根は「佛國ヘ師『ボヲィァ』氏」から目的地の1つである盛京(奉天)地方の事情を聴き取ると同時に、奉天で教師をしている友人を紹介されたというのだ。

 曾根が対した3人の西洋人の行状から類推するなら、イギリスとプロシャとフランスの3国から送り込まれた要員だろう。彼らは腰を落ち着け現地社会に溶け込み、長い時間をかけて満州からロシア国境にかけての広大な地域を探査していたということが想像できる。もちろん目的は、当時の先進諸国間で行われた熾烈な植民地争奪ゲームに勝利することだったに違いない。つまり曾根が出会った「英商『クライアト』氏」、プロシャ人、そして「佛國ヘ師『ボヲィァ』氏」(おそらく奉天在住の教師も)は、満州を求める西欧諸国の先兵だったはずだ。こうみてくると、満州に関する限り、どうやら日本は“後発国”だったことを認めざるをえない。これが帝国主義の時代が持つ冷厳なる真実だと思える。

 やがて奉天へ。ここでは「佛國ヘ師『ボヲィァ』氏」の紹介してくれた「神父ニ面會シ地理産物兵備壯觀等ノ有無ヲ問」うた。その後、数日を掛けて奉天市街、郊外を時に馬に跨り徹底踏査している。

 某日、雨と川の増水に阻まれ、当初の目的だった清国守備兵と馬賊との戦闘跡の視察を断念し、村の旅館と思われる「村舎」で休息する。「舎ノ弊陋亦甚シクK飯ト黄瓜ノ外他ニ食フ可キ者無ク晝ハ蒼蠅ノ弄トナリ夜間ハ毒蚊ノ餌トナリヌ」と。

 翌日、ともかくも雨が止んだので道を急ぐが、「濁流滾々橋落チ岸崩ル」といった情況が続く。なんとか次に宿に辿り着くが「時ニ店主告テ曰ク近頃夜來賊徒頗ル多シ願クハ少ク留意セヨト」。そこで同行者と「笑ヒ刀ヲ抱テ寢ニ就ク」のであった

 かくて曾根は「支那陸行ノ難キヿ」を次のように総括している。

「夜ハ盗賊ヲ慮リ晝ハ路上ニ困ミ飢ヲ療セントスレバ食物多油ノ臭アリ夜來枕ニ就ケハ抗上熱シテ眠ルヲ得ズ房室腌■ニシテ汚氣健康ヲ害ス加フルニ車夫ノ狡店主ノ猾實ニ厭フ可ク亦惡ム可シ然リ而シテ懷ヲ豁カニシテ情ヲ放ツノ好山水無ク手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ是ヲ以テ僅々數句ノ間恰モ數月ヲ經ルノ思ヒヲ爲セリ然リト雖モ苦ヲ甞メ艱ヲ經竜喉ヲ窺ヒ虎穴ヲ探ルハ天ノ我ニ賦與セル職分ナレバ毫モ辞セザル所ニシテ只後來ノ變ヲ待チ積蓄多年ノ胸畧ヲ試ンヲ要スル而己」(なお、文中■に書かかれた漢字は月偏に賛)

 ――ともかくも内陸旅行は物騒で、危険だ。ロクな食べ物はなく、部屋のオンドルは熱すぎて安眠できず、部屋は汚く不健康。車夫も旅館店主も狡猾で安心できない。ホッと心伸びやかに和ませてくれるような自然など見当たらない。胸襟を開いて語り合える好人物には出会えないから、ともかくも中国人と話をするのが億劫だ。だが、困難に耐え清国の死命を制するような情況を探り清朝帝室の内情を見極めることが自分の使命であればこそ、前途に何が待ち構えていようとも前進する。「後來ノ變」を期待して、これまで心に期して来た「畧」を試すだけだ――

 「後來ノ變」は出兵、「畧」は策謀とも読み取れるが、今は敢えて「後來ノ變」「畧」のままにしておく。それにしても、上海で胸襟を開いて語り合い別れを惜しんだ千歳丸一行が「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」の行を目にしたなら、はて、どう思うか。《QED》
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