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2015年03月11日

【知道中国 1206回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1206回】        一五・二・念三

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根5)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 旅行の主目的は兵要地誌作りと思われるだけあって、曾根は目に入る地形、自然環境、集落と集落の間の距離、道路や河川の情況、天気を冷静に観察し、各地に点在する兵営の内実を兵士の数や武器の種類などで類推しながら、じつに要領よく記録している。同時に、草深い田舎やら山村での日常生活の一端をも書き留めることを忘れてはいない。

 たとえば、辺鄙な田舎のみすぼらしい旅館に泊まったところ、不幸ニシテ支那人ト同室ナリシガ鴉煙ノ毒氣ニ壓セラレ終宵睫ヲ交ユルヿ能ハズ」と。曾根の旅行はアヘン戦争敗北から30数年後の明治8(1875)年である。にもかかわらず(いや、だからこそかも知れないが)、辺鄙な田舎の旅館でもアヘンの吸引が行なわれている。この現実を見せつけられれば、全土が「鴉煙ノ毒氣」に「壓」されていると類推したとしても、強ち間違いとはいえないだろう。

 さらに歩を北に進め遼東地方に至ると悪路の連続となる。雨の後など、馬は泥の中に埋まって「殆ンド死ス」状態であり、「車夫ハ常ニ鋤ヲ携ヘ補道ニ供シ」、長距離旅行者は「常ニ短鎗ヲ持シテ盗患ヲ防」がなければならない。道路事情は最悪であるうえに、馬賊の襲撃にも備えなければならない。その馬賊だが、一般に「賊勢ハ頗ル多キガ如クサレドモ其詳ヲ得ズ。且ツ軍ニ規律無ケレバ兵ニ名義無ケレバ大事ヲ爲スヿ能ハザル可シ」。

 道路事情は劣悪。馬賊は横行するが、実態が不明。そのうえ規律の乱れた軍隊だから治安維持は覚束ない。ならば旅行はおろか日常生活すら不安だらけだ。

 やがて、当時の満州最大の港湾施設を擁した営口に到着する。

 じつは1858年の天津条約で牛荘が条約港となったが遼河の土砂が堆積し使用不能になり、牛荘の機能を移した営口が満州特産の大豆積出港として栄えた。だが80年代に入ると、清朝が海防上の措置として営口より東部の大連湾北部に砲台を建設し、後にロシアが日清戦争後の三国干渉で租借し要塞を設け、東清鉄道の終点としたことから、国際貿易港としての機能を増大させ、以後、営口は大連に取って代わられ、国際貿易港から沿岸貿易港へと地位を転落させた。どうやら曾根の営口訪問は、盛んだった時期の末期に当たるようだ。

 街に入る城門の「門上首級ヲ梟シタル者アリ血未ダ乾カズ然レドモ刑名札ヲ建テザルハ支那ノ風習ナレバ何等ノ罪状ナルヤ知リ難シ」と。おそらく馬賊の首級だろう。

 営口の衙門(やくしょ)に出向いて、これから先の旅行に必要な通行許可証である「路票」の交付を申請するが、担当者は曾根を怪しみ恐れている。話をしてもはっきりしない。そこで筆談に切り替えたが、「筆頭慄震シテ能ク書スルヿ能ワズ」というから、手がブルブル震えて字にならない。何とか読めたところで曾根が、自分は「漫遊ヲ好ム」書生で山東省の孔子廟に詣で、山海関を経て、これから盛京(奉天)地方に向かいたいというと、やっと相手は落ち着いて「安心ノ色有リ」。やがて旅館に。ともかく汚い。

 「臭氣多キガ故蒼蠅ノ多キ譬フルニ物無ク殊ニ我寓房ハ陋ナレバ其多キ亦甚タシク衣服器物ニ至ル迄集蠅ノ爲メニ其色ヲミザルニ至ル況ヤ其人ニ附クヤ夜間ト雖モ去ラズ睡眠ヲ礙ケ食スルニ當リヲ注意セザレバ蒼蠅ヲ并嚙スルニ至ル室亦陋ニシテ且ツ暗ク一點ノ微風モ通ズルヿ能ハズ食物ハ總テ多油ニシテ食了スル能ハズ水ノ惡キ又言フベカラズ實ニ健康ニ害アルヿヲ覺ヘリ」
 衣服や器物の色も判らない。夜は体に纏わりついて眠れない。食べ物にも集ったままだから一緒に口に入れかねない。じつに凄まじいハエの数だ。部屋は狭く暗く換気が悪い。そのうえ食べ物は油っ気が多く、水は悪い――対外開放された営口ですら、かくも劣悪な生活環境である。蒼蠅、多油、悪水に乾糞・・・この先、何が飛び出すやら。《QED》

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2015年03月10日

【知道中国 1205回】「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1205回】          一五・二・念一

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根4)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 なぜ「支那人ノ此ノ關ヲ通過スル時ハ門吏呵シテ其名姓、住居、年齡ヲ問フ此時行人必ズ答ルニ滿州語ヲ以テセザレハ過ルヿヲ許ルサ」ないことが「即チ山海關ノ定則」となったのか。ここで、極く大雑把に満州と漢族の関係を振り返っておくことも必要だと思う。

 清朝は、17世紀半ばに北京に都を定めた直後、荒地開墾を希望する漢族の山海関からの満州入りを許可した。すると満州に新天地を求めた漢族が、農業植民を目的に続々と満州入りする。ここで注目しておきたいのが、満州に隣接する内モンゴル東部でも牧野の農地化、つまり農業が遊牧を侵し始めたこと。すでにこの時期、漢族による遊牧文化侵食、いいかえるならモンゴル遊牧民の悲劇が始まっていたということだ。

 漢族は主に同郷者が集団で満州に向かった。彼らは窩棚と呼ばれる掘っ立て小屋を建て定住に向け土地の開墾に着手する。コウリャン、アワ、ソバなどが栽培されるようなると、やがて故郷を同じくする同姓者を呼び寄せて集団居住する村落が生まれる。海外の華僑社会でそうだったように、満州でも生き抜くための拠り所は同郷・同姓の縁だった。ここで注目すべきは、満州入りした漢族は農民だけではなかった、ということ。簡単いうなら、中国社会の仕組みそのものを満州に持ち込んだのである。農業移民の成功に誘われ手工業やら商業機関が持ち込まれ、都市生活も始まる。満州の漢化、つまり漢族社会のネットワークが知らず覚らずのうちに満州にまで広がっていたわけだ。

 かくて1740年代になると、清朝は封禁政策に着手し、山海関での漢族移民の出入りを取り締まることになる。だが、これが徹底されない。一度手に入れた土地(=財産)をおいそれと手放すわけがない。だから満州から出ていかない。加えて豊かに暮らせることを知ったなら、不法侵入は当たり前となる。凶作時の超法規的処置として一時移住・滞在が許可されるや、居座ったうえに家族・親族・友人までも呼び寄せる。まったくもって油断も隙もあったものではない。

 よくよく考えるまでも内が、この現象は1978年末に開放政策に踏み切って以降の中国人の海外移住と同じだろう。漢族は中国本土以外に飛び出せる機会があるなら、違法・合法の別はない。いつだって飛び出す。やがて異邦に家族・親族・友人までも招き寄せ、周囲の迷惑を顧みず自分たちの生活方式・習慣を貫こうとする。摩擦が起きても平気の平左。郷に入っても郷に従わない。1949年の建国を機に、毛沢東は対外閉鎖を断行し、こういった厄介な人々を国の中に閉じ込めておいてくれた。だが、ケ小平は1978年に開放政策に踏み切り、彼らを海外に向けて解き放った。さらにさらに2002年、江沢民は「走出去」を獅子吼し、海の外に飛び出せと中国人と企業の尻を引っ叩いた。毛沢東、ケ小平、江沢民と並べたら、いま再評価すべき指導者は誰であるか、もはや論を待たないだろう。

 さて満州に戻るが、満州近接省を含む中国全土の人口爆発、漢族の経済活動の活発化、満州と中国本土の政治・行政上の一体化などが重なり、嘉慶年間(1796年〜1820年)を過ぎる頃には、漢族は満州に新天地を求め奔流となって雪崩れ込むようになった。『ワイルドマオ・スワン』『マオ』、最近では『西太后』で知られるユン・チアンの曾祖父もまた、この時機、好機を求めて故郷を離れ長城を越えて満州に渡った1人なのだ。ユン・チアン一族は、後に北京に移り、四川共産党幹部に就いた父親に従って四川に移る。現在、長女は中国に残り、彼女と3人の弟はそれぞれがイギリスとフランスに住む。1世紀半程を経て、一族は中国⇒満州⇒中国(北京⇒四川)⇒イギリス・フランスと移り住む。これが漢族の生き方(=文化)の一端であることを、改めて注視する必要があるはずだ。

 曾根が山海関で目にした光景こそ、漢族化される満州の歴史の一齣なのだ。《QED》

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2015年03月09日

【知道中国 1204回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1204回】         一五・二・仲九

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根3)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 天津を囲む城壁の東西南北に設けられた4つの城門の上に立った曾根が記した「四門ノ樓上ハ盡ク脱糞處ニ變シ壁上ハ過半乾糞場ト爲リヌ」の行に読み進んだ時、10数年前、景勝地・桂林の郊外でバスターミナルの公衆便所に足を踏み入れた時の、まさに慄然の2文字でしか表現できそうにない光景が鮮やかに蘇えってきた。そこでも床は「盡ク脱糞處ニ變シ」ていた。もっとも曾根の目にした天津の「四門ノ楼上」は「過半乾糞場」だったからまだしも、桂林郊外のそこには、「乾糞」になる手前の半ナマ、あるいは出来立てホヤホヤの正真正銘のナマが溢れていたからタマラナイ。床全体がヌルヌルで、まさに「糞山溺海」といった惨状。とにもかくにも、その臭さは目に痛いほどに強烈に沁みた。

 曾根は城壁の上だけでなく、基層部分にも目を向ける。そこが低地になっているから、降った雨が溜まり易く、一向に引く気配がない。そこで雨水が「城壁ノ下ニ滿集シ炎天ニ至レバ各處ノ汚溝ヨリ臭氣沸起シ熱氣流行シ數多ノ人命ヲ亡フヲ致ス」。公衆衛生などという考えは、一向に考慮されていそうにない。いや、誰もが生きるに懸命で、そんなことに構ってはいられなかった、とも考えられる。いやいや不具合は不具合のまま、壊れたら壊れたで、そのままでホッタラカシ。荒れるがままに任せるということ。いったい補修する予算がないのか。それとも最初から修理・修繕にまで考えが及ばないのか。

 天津は第2次アヘン戦争によって開放され、「英、佛、米、魯、普等ノ領事館」が設けられているが、英仏両国は戦勝に乗じて一等地を広く押さえ、米露両国などは「後部不便ノ地僅々ヲ有スル」しかなかった。南側の適地は外国人に押さえられている故に、北側の「路上狹小ニシテ汚穢甚ダシ」い北側に「廣東人ト土人ト雜居」している。なぜ北方の天津に南方の広東人が住んでいるのか。おそらく英国人などが、商売のために香港辺りから広東人を雇って連れてきたのだろう。かくて南北に遠く離れた香港と天津とが海上航路で結ばれ、カネはモノを呼び、モノはカネを招き、カネの匂い誘われヒトが集まることになる。

 天津市街の観察を終え、郊外の堡塁、砲台、軍営、軍船碇泊地などの軍事施設、製鉄所を観察した後、いよいよ「北支那」に向って歩きだす。道路事情、沿道の集落から集落までの距離、目に入る周辺の自然環境など事細かに記しているが、宿舎は例外なく「陋亦甚ダシ」。時に「水ヲ要シテ其盛リ來ルヲ見レハ色青黄ニシテ臭氣アリ飯ヲ炊クモ亦此水ヲ以テスルヤ飯亦青黄色ヲ帶ヒテ臭氣鼻ヲ穿チ一箸モ下スニ堪ヘズ」といった有様だ。水も青黄色く、飯も青黄色。そのうえ臭くて堪らない。こんなものを日頃から口にしている中国人に同情すべきか。それとも、こんなものを口にしても何ともない中国人の内臓に驚嘆すべきか。やはり後者だろうに。ならば一時期話題になった“段ボール入り肉まん”にしても、アリじゃないですかねえ。

 曾根は、やがて万里の長城の東端の関門であり、「天下第一関」で知られる山海関に到着する。山海関の城門の上に立って周囲を眺めれば、「千嶺万峯恰モ列齒ノ如ク逶迤トシテ其幾百里ナルヲ知ラズ望遠鏡ヲ以テ諦視スレバ一嶺モ長城ノ見ヘザルハ無ク」と、山また山を越えてうねうねと続く長城の様に見入る。山海関の手前が漢族の住む関内。万里の長城を背に東に向う。山海関の東だから、関東。その先には肥沃な満州の大平野が広がる。

 当時、主に山東省や河南省に住む漢族の多くは貧しさとひもじさから抜け出すべく、新天地を求めて山海関を越え、雪崩を打って関東に向かった。「闖関東」と形容される漢族の満州への大移動の一端を、曾根は「支那人ノ此ノ關ヲ通過スル時ハ門吏呵シテ其名姓、住居、年齡ヲ問フ此時行人必ズ答ルニ滿州語ヲ以テセザレハ過ルヿヲ許ルサス。此レ即チ山海關ノ定則ナリ」と記す。やがて満州族の故地は、漢族に埋め尽くされてしまう。《QED》
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2015年03月08日

【知道中国 1203回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1203回】           一五・二・仲七

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根2)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 曾根の目に映った天津の人々の生活ぶりのうち、興味深い記述を拾っておくと、

 人情は「即チ西人ノ歷史ニ支那人ハ能ク詐僞ヲ巧ニスト載セシ就中當處ノ人情極メテ狡猾ニシテ義理ノ何物タルヲ知ラズ加フルニ一千八百六十年英、佛ノ戰敗ニ會シ活計極メテ窮困ナレバ只管自己ヲ利スルノ短策ヲ知ル而己」。

 風俗は「廉恥殆ンド地ヲ拂フ」といった状態だが、それでも「平民ノ貴人ニ禮シ童子ノ先生長者ニ禮スルヤ必ス右膝ヲ屈シ答者亦拱手荅禮スルノ法聊カ存セリ」。

 食事は一日2食。「肉ハ即チ牛ヲ以テ下賤ノ食トシ羊、豕、鴨、鶏ヲ以テ一等トシ魚、猫、犬、馬ヲ以テ其次ト爲ス」。なんと牛は下賎の食べ物だった。また「富貴者ノ外ハ居室ニ定厠無ク其望ムニ任ス是ニ於テカ路傍或ハ屋間ニ徘徊シ拾糞ヲ以テ生ヲ營ム者少ナカラズ」。

 銭湯はあるが、値段が安いと「群浴ノ大房ニシテ恰モ其形チ我温泉房ノ如シ然レトモ穢醜ニシテ入ルヿ能ハズ」。金持ちは煉瓦で、それ以下は一般に土泥または蘆草で作られた家に住むが、重税を逃れるために貴賤の別なく「矮屋小室」であり、窓は小さいうえに少ないから部屋の換気が悪く、「人身ノ健康ヲ害ス」。

 葬式については、「送葬ノ時ニハ必ズ三四ノ泣娘ヲ雇ヒ路上ニ泣哭セシム然リ而乄中人以下ハ棺槨ヲ埋ルヿ無ク屋後或ハ城壁ノ下ニ置クヲ以テ豚犬ノ溺糞ニ汚サレ其畦郊ノ邊ニ在ㇽ者ハ棺朽チ白骨出ㇽモ之ヲ蔵スルヿ無シ」。

 鴉片は「盛ンナルヿ上海ヨリ甚ダシ」。抽(吸う)の次は嫖(買う)となる。娼妓には、広東からやって来て外国人居住区で「外國人ノ睡ニ伴」う者と、天津の北郊に住んで「春ヲ賣」る者がいる。「此地男色ヲ鬻ク十一二歳ヨリ十六七歳ニ至ル是レ最モ好看ニシテ其美姿〔中略〕娼妓ノ上ニ出ル者有リ故ニ官員ノ男色ヲ弄スル者最モ多シ」。その官員、今風にいうなら幹部だが、今も昔も権勢を恣に弄んでいる。そうか、そうだったのか。納得デス。

 人身売買は日常化しているようで、「童男幼女其終身ヲ買斷スべシ即チ其歳ノ多少ト容姿ノ好惡ニ由テ等差有レドモ概畧十兩ヲ投ズレは五六歳以下ノ子ヲ買フ可シ亦六百金ヨリ三百五十金餘ヲ投セバ」、何やら最上級の「美娘ヲ買フニ足ル」とか。

 天津の人口は1872(明治5)年にイギリス人が調査したところでは40万人とのこと。

 天津城外の市街地だが、「西人ノ諺ニ四億萬人ノ帝城北京ハ汚穢ヲ以テ建築セリトノ嘆語アリ帝城猶ホ是ノ如シ況ヤ天津城外ニ於イテヲヤ」とは、さぞや凄まじいばかりの、想像を絶する汚さだろう。「路上ニ臨メハ臭惡ノ氣俄然トシテ鼻ヲ穿チ汚穢ノ堆キ葷然トシテ眼ヲ病ム」。「葷然トシテ眼ヲ病ム」とは穏やかではない。道路事情は最悪。街路は狭く往来のままならない。デコボコの悪路のうえに車にはスプリングがついていないから、乘り慣れない者は「頭ヲ傷クヲ免レズ」とは、どうやら車に乗るのも命懸け。

 さらにさらに「病犬曜豚ハ行人ニ混シテ徘徊シ一犬偶々西裝ノ者ヲ見テ吠ルトキハ萬犬狺々タルヲ致ス」。「病犬」に纏わりつかれ「狺々(キャンキャン、ワンワン)」と吠えられたら堪ったものではないが、そのうえに「拾糞人ハ汚身ニ弊衣ヲ着ケ(竹籠を背負って)爭テ路上或ハ橋邊ニ出テ右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海ハ北京ノ大サニ讓レドモ城ノ内外各處ニ糞場有リ行人ノ脱糞ヲ要スル者ハ該處ニ至リ烟ヲ吹キ談話シ悠然トシテ脱了ス」とは、凄まじい限りの汚さだ。垂・吸・話の動作を一度に済ますとは妙技・・・脱帽。

 かてて加えて「乞人アリ裸体ナル有リ單衣ナル有リ滿身ノ汚垢墨ノ如ク橋頭或ハ廣路ニ横臥シ徃來ノ客ニ注目シ有錢客ト認ムルトキハ衆乞群蜂ノ如ク尾シ來リ老爺ト叫ヒ錢ヲ乞ヒ之ヲ得テ始テ止ム」と。

 やはりキーワードは「糞山溺海」の4文字か!?・・・この先が憂鬱、いや愉しみだ。《QED》
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2015年03月07日

【知道中国 1202回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1202回】          一五・二・仲五

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根1)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

 曾根俊虎(弘化4=1847年〜明治43=1910年)。米沢藩士。「斯身飢うれば 斯児育たず 斯児棄てざれば 斯身飢う 捨つるが是か 捨てざるが非か 人間の恩愛 斯心に迷う(以下略)」の「棄児行」の作者と伝えられ、「討薩檄」を手に奥州列藩同盟の結成に奔走した雲井龍雄に師事。薩長政府から梟首の刑に処せられた雲井の仇討を疑われ逮捕されたが、勝海舟・福島種臣・西郷隆盛らの助命嘆願により釈放され海軍に。

 明治5(=1872)年、日清修好条規批准書交換のための外務卿・福島種臣の清国訪問に随員として参加。帰国後の同年末に海軍中尉に。大尉昇進は明治12(1879)年。因みに『北支那紀行』の冒頭には「海軍中尉從七位曾根俊虎」と記されている。海軍では対支諜報活動に従事し、前後6回(明治6,7,9、12、13、17年)の渡海経験を持つ。おそらく『北支那紀行』は、明治6,7両年の体験を纏めたものと思われる。いわゆる軍部における早い時期の「支那通」の1人といえるだろう。

 中国語教育にも努め、大尉昇進の翌年(明治13=1880年)に日本で最初のアジア主義団体といわれる興亜社を結成。中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持った。

 清仏戦争(1884年〜85年)を機に『法越交兵記』を著し、アジアに対する政府の関心の低さを指弾。これがきっかけとなり伊藤博文の逆鱗に触れ、明治21(1888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁されるが、後に無罪。海軍を退役した後、西郷従道らの援助を受け清国に渡り、景勝地の蘇州に居を構え清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇をえた。「大陸浪人」の先駆けともいえそうだ。号は暗雲。中国では曾嘯雲と名乗っていたとか。晩年を不遇のうちに終わったようだ。

 ここで、『北支那紀行』から浮かび上がってくる曾根の活動を理解するうえでも、やはり清国をめぐる当時の内外情況を振り返っておく必要があるだろう。

 文久二年の翌年に当たる1863年、アメリカが上海に租界を設定し、イギリス租界と合わせ共同租界とする。翌64年ころからロシアが清国への食指を動かし始める。外債第一号としてイギリスより借款を受ける(65年)。イタリアとの通商条約締結(66年)。ロシアとの新疆境界を設定。アメリカとの天津追加条約を締結(共に68年)。オーストラリアとの通商航海条約を締結(69年)。フランス人虐殺に関し謝罪使を派遣(70年)。ロシア、イリ地方に侵攻。日清通商天津条約を締結(共に71年)。日本、台湾に派兵(74年)。イギリスと芝罘(烟台)条約を締結(76年)。

 清国国内では太平天国の制圧の後、結果的には大失敗に終わりはしたが、アメリカに第一次留学生派遣(72年)、イギリスとフランスに留学生派遣し(76年)、近代的軍需工場建設、殖産興業の奨励など、近代化=富国強兵に向け必死の取り組みが続いた。

 一方の日本では征韓論が起った2年後の明治8(=1875年)にはロシアとの間で千島・樺太交換条約が結ばれるなど、いよいよ外に目を向け始める。

 以上の内外情勢を考えれば、曾根の旅行が単なる物見遊山ではなく、兵要地誌作りが目的であったことが判るだろう。日本もまた否応なく、列強による国際的大競争という時代の大海原に船出することとなった。時代の激浪を、なんとしてでも乗り切らねばならない。

 まず水。天津に上陸した曾根は「一掬ノ清水無ク皆諸河ノ泥水ヲ汲ミ藥ヲ投シテ日用ニ供ス」と、なによりも水に関心を向けた。千歳丸の一行を悩ませたのも、明礬で濾過させた水だったことを思い出してもらいたい。山紫水明の自然のなかで一生を送る日本人が「藥ヲ投シテ」濾過させた「諸河ノ泥水」の生活に、どれほどの期間を堪えられるのか。《QED》
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