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2015年03月06日

【知道中国 1201回】 「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1201回】          一五・二・仲三

 ――「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」
 『支那旅行日記』(海老原 正雄訳、慶応書房 昭和18年)

 千歳丸の上海行きが文久二(1862)年。次に扱う予定の『北支那紀行』の前篇が出版されたのが明治8(1875)年で後編は明治9(1876)年。この10数年の間、日本は激動の幕末を経て明治維新となり近代国家に向けて歩みだす。一方の清国は、同治帝から光緒帝へと皇帝が代わったものの、相変わらず続く西欧列強の侵出競争を前に、ジリ貧の道を辿る。

 千歳丸から曾根までの10余年の中国の情況が、どのように日本人の目に映ったかを知りたいと思い、この間の中国旅行記を探してみた。誰か中国に行って記録を残しておいてもよさそうだが、目下のところ手当たりがない。どうやら後日を待つしかなさそうだ。

 そこで、千歳丸と曾根の間の空白を埋める一方、明治の日本人による中国紀行を読むうえで参考にもなるかと思い、ドイツの地理学者・探検家で近代的地形学を創始したといわれるフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(1833年〜1905年)の見た中国を、簡単に紹介しておきたい。彼はアメリカから日本を経て中国に渡る。両国共に2回目の旅だった。日本が戊辰戦争に揺れていた頃に北京に到着している。

 1868(明治元年)9月30日の日記に、「支那人たちは、彼ら自身には出入を禁ぜられた首都の城壁(紫禁城)の上を外国人が大手を振って歩き廻るのを、無関心に眺めているが、この事程、支那国民の道徳的低さ、あらゆる自己感情の完全な欠如とを明瞭に物語るものはないようだ。城壁から町を見渡す外国人達を、彼らは屢々寄り集まって物珍しそうに見上げているが、しかしその眺め方は極善良なもので、威嚇もなければ愛国的憤怒もない」と綴る一方、「支那人よりも温和な性格にも拘らず、日本人ははるかに好戦的であり、もっとも自負心を持っている。彼らなら、外国人のかくの如き特権は決して黙認できないであろう」と記している。

 リヒトホーフェンの考えに従うなら、「支那人よりも温和な性格」だが、「はるかに好戦的で」「もっとも自負心を持」つ明治の日本人が相手にする中国人は、「道徳的低さ」の自覚すら持ち合わせず、「あらゆる自己感情の完全な欠如」が認められ、「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」ということになる。

 リヒトホーフェンは上海から故郷の両親宛の手紙(日付は1869=明治2年3月1日)に、こうも記している。

 「支那人の性格は我々にとっては非常に特異なものなので、それを完全に理解することは誰にも出来ないです。実に驚くべきは、ヨーロッパ人と支那人が互いに無関心でいることです。私は、両者の間に愛着の関係が生まれている様な場合に一度も出会ったことがありません。主人と犬との間に生まれるような関係さえ見られないのです」

 「香港や上海のような都会では、彼らは(アヘン戦争以来)大凡三十年間も外人と共に暮らして来たにもかかわらず、その生活は殆ど何等の変化も受けませんでした。彼等にあっては、改革は内から起こらなければなりません。それは外部からは来ないのです」

 「それはともかく、支那人たちが、私の述べたような状態にあるのは、われわれにとっては有利なことです。何故なら、もし突然、彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至るならば、支那人達はその厖大な人口によって他の諸外国を圧倒することができるでしょうから。今のところ彼らは貧しい生活に甘んじて、我々に茶と絹を供給するためにのみ存在しているように思われます」

 明治の時代、日本人が相手にした中国人は、その原因はどうあれ、「貧しい生活に甘んじ」るしかなかった。さて彼らは、いつの時代に、「彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至る」のか。明治日本人の中国への踏査・探索の旅の始まり、始まり〜ッ。《QED》
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2015年03月04日

【知道中国 1200回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1200回】           一五・二・仲一

 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉6)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

■上海における賞罰の權、盡(ことごと)く英佛貳夷に歸すと聞く。信なるや否や。
●英仏はただ英佛士民を管理するのみ。本國事務なるは本國の官、処理す。

■(上海)城外の地、盡く英佛の管する所なるか。
●北門外は英仏に帰属するも、その外の地、本朝に隷属す。

●弊邦(しんこく)、孔聖を以て依帰(たより)と為す。貴處(きこく)、何の教えを尊崇す。士を取(えら)び官と作(な)すに詩文を考試(ためす)や否や。
■我邦(にほん)にては孔聖を貴(とうと)ばざる無きなり。別に天照太神有りて、士民皆奉じて尊崇す。次いで貴邦の孔夫子に及べり。士を取るは多く武を以てし、故に我が邦は武を以てす。〔中略〕人を教えるに忠孝の道を以てするに、天照太神と孔夫子に異なること有るに非ざるなり。故に我が邦の人、天神の道に素(ありのまま)にして孔聖の道を学ぶ。

■貴邦とオロシャと和親最も好くす。近世の事情は如何。
●オロシャ国、弊国と通商し在(お)いて我朝(しんちょう)に厚恩を感ず。助兵助餉之擧(すけだち)ある所以なり。和親の説、想うに斉東野人(マヌケでトンマ)の語るところのみ。
■口に聖賢の道を唱え、身は夷狄の役所(こまづかい)なるは斉東野人なり。真の斉東野人なるか。嗚呼、浮文空詩(しぶんをもてあそぶ)、何の当(やく)にか足(た)たん。目に一丁字無き兵卒、歎くべし、憂うべし。

■軍兵を操錬するところ、我、以為(おもう)に多く威将軍の兵法たり。或は西洋の銃砲陣法を学びしや否や。
●閣下、多く兵法を知る。而して此の地の招募する所の郷勇(へいし)は農民多し。現有の英仏二国は中国銃・外国砲の銃砲を慣用し、賊の寒膽(きょうふ)を見(あら)わすに、軍威、大いに振う。

■貴邦、外国との和親、最も好きは何国ならん。
●現在、英仏二国が最も総(ちか)し。以下、小国は少なからずも、詳細を知らず。交易、本は往来(ゆきき)なり。現(いま)、軍兵共に中外に會勦(てきのせんめつ)を議(はか)る。名付けて「會防の局」と謂う。

■嘗て聞く。貴邦、オロシャと和親最も好く、又貿易多く陸路に於ける。信なるか否か。
●和親、絶えることなく、毎年、北口外にて交易す。

■北口外なる、何州、何(いずれの)地なるか。
●州名無く、地名無し。乃(すなわ)ち、オロシャとの境なり。

■(別離の記念にと揮毫を贈られ)弟、歸郷の後、此の記(もじ)を壁上に題(かか)げ朝夕閑讀(もくどく)し、以て鬱屈の氣を發(はら)す可し。海外に知己を得るは、殆ど夢の如し。
●(返礼にと、高杉が日頃愛用の硯を贈ると)閣下を知己と為すは亦一生の大快事。何ぞ敢えて再び厚賜を承けん。況や此の硯、大兄常用するところなりて、此の物、亦甚だ珍(とうと)し。弟、其の人を得ざるを恐るも、之を却(かえ)さば、恐らくは不恭之誚(ひれいのそしり)を踏まん。謹んで拝謝致す。

 「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」との筆談を交わしてから5年後の明治改元を目前にした慶応3(1867)年、高杉は病に斃れる。この5年の間、肺疾に悩まされながらも倒幕に向け、獅子奮迅の戦いを続けた。「嗟日本人因循苟且、乏果斷」。享年27歳。《QED》

posted by 渡邊 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

【知道中国 1199回】「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1199回】          一五・二・初九    
 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉5)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 太平天国軍の上海攻撃を防ぐために「支那人英佛人に頼」んだが、「其軍費何國より出すか」と尋ねると、「英人云、軍費我自だす、支那人云、自我贖ふ」との答が返って来た。イギリス人と中国人の双方が共に我が方の出資だと。そこで高杉は「不分明也」と。

 高杉は上海で出会ったアメリカ商人に対し、「弟近日讀英書、未得與人談、日夜勉強、他日再逢、欲得與兄能談(最近は英書を読んでおるものの、会話は不如意でござる。日々勉学に励み、次回面談の折、貴公とは話ができるよう努める所存なり)」と語っている。行動を共にすることの多かった中牟田は英語ができたから、おそらく中牟田がイギリス人から「軍費我自だす」という答を引き出したのだろう。

 これに対し中国人からの「自我贖ふ」との回答だが、中国人との筆談を纏めた「外情探索録巻之貳」の冒頭で、「我日本書生、少解貴國語、問答憑筆幸甚々々」と記しているところからして、「自我贖ふ」は高杉自身が筆談で聞きだしたはずだ。

 以下、「外情探索録巻之貳」に従って、中国人と交わした興味深そうな会話を綴ってみたい。なお、■は高杉、●は中国人(複数)である。

■貴邦、近世の豪傑は誰。嘗て林則徐、陳化成は頗る英傑たりと聞く。信ずべきや否や。
●則徐は陳成に比し更に勝れたり。

■イギリス、オロシャ、メリケン、フランスの「五國之裏、孰れの國を以て強と爲すや」。
●オロシャが最強である。
  (イギリス、オロシャ、メリケン、フランスでは4ヶ国のはずだが、原文は「五國之裏(うち)」となっている。高杉はオロシャ最強の理由を問い質そうとしたが、幕吏帰館の知らせがあり、「予、即ちに匆々に筆を投げ去る」)

■上海におられる「隱士逸民」につき、その名前をお教え願いたい。
●当地は海浜の地にて「俗人」が多い。世を逃れ隠れ住む者も敢えて名前を隠し、ただ金銭を求めるのみ。

■孔子の教える聖道は、かつては盛んだったが今や衰えてしまった。慨嘆するばかりだ。
●まさに、その極み。金銭のみが命であり、恥ずべき限り。笑うべく歎くべし。

■(外出中の名倉を訪ねてやってきた中国人に対し)名倉は出掛けたので再度お越し願いたい。ところで弟もまた時事を談ずことを好む。然るに此こは我が国俗吏の所在、故に默す。姓名と居處を書して去らんことを請う。

●姓名と貴国における役職をお尋ねしたい。
■弟性(おそらくは「姓」の誤記)は源、名は春風、通稱は高杉晋作、書を讀み武を好む。常に貴邦の奇士王守仁(=王陽明)の人と為りを欽慕す。

■兄、讀書人と聞く。今、賊亂を避け此の海隅地に居す。その心中、思う可し。
●旧冬より長毛賊を避け此こに至る。今春三月、家屋は既に焚焼され、家中の書籍金石圖畫は一併(すべて)が空(うせ)たり。惨憺たる様は言い難し。

■これを聞くに、人をして潜然(ふかくしずか)に落涙せしむ。貴邦、堯舜以來堂々正氣の國、而るを近世區々として西夷の猖獗する所たるは則ち何たるか。
●いま國運は凌替(すたれ)る。晋の五胡、唐の回訖、宋の遼金夏、千古は同じ慨きなり。(清もまた、夷狄に滅ぼされた晋、唐、宋と同じ運命を辿る)

■國運の凌替るは君臣、其の道を得ざるの故、君臣其の道を得れば、なんぞ國運の凌替かあらん。貴邦、近世の衰微、自ら炎(も)やすのみ、これを天命と謂(い)わんか。

 「貴邦、近世の衰微」は自業自得であり、天命だ・・・高杉、よくぞ言った。《QED》
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2015年03月02日

【知道中国 1198回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1198回】        一五・二・初七

 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉4)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 高杉は上海を「支那南邊の海隅僻地」と記すが、アヘン戦争の結果である南京条約で開港される以前の時点に立つなら、確かに「海隅僻地」といえないこともない。だが地理的にいうなら、上海は「支那南邊」ではない。北のロシア国境から南のヴェトナム国境までの、国土の広さに較べ長いとはいえない海岸線だが、その海岸線の中央部に上海は位置している。高杉のみならず当時の日本では、どうやら一般的に上海は「支那南邊」と見做されていたようが、それは誤りというべきだ。

 たとえば上海を「支那南邊の海隅僻地」とするなら、早くも唐代にインド・イスラム世界と海上交易で結ばれて以来、国際交易都市として栄えて来た広州は、どう表現すべきか。上海と広州の間に位置する福建の泉州や漳州も古代から海外との交易拠点だったことを考えれば、やはり上海は「支那南邊の海隅僻地」ではないだろう。あるいは当時の日本は、地理的に長江辺りを南限に中国を認識していた。いいかえるなら長江の南の広大な領域は、当時の日本人が想定する「支那」には含まれてはいなかったとも想定できる。

 地政学的に考えるなら、中国という世界は長江の南にも、内陸部深奥部のその先のユーラシア中央部にも、東南アジア大陸部にも陸続きで繋がっていることを知るべきだ。やや突飛な表現だが、“伸縮自在”なのだ。この地理感覚の違いやズレが、その後の日本の中国政策に陰に陽に影響を与え、結果として現在にまで続いているのではないか。

 たとえば日中戦争の際、当時の軍部中枢は東部の海岸線を封鎖すれば、南京は陥落し、蔣介石政権は白旗を挙げると考えたように思える。だが、蔣介石政権はさらに奥地の重慶にまで逃げ込んだ。しかも主要官庁から大学までも移して。そこでゼロ戦警護の一式陸攻で爆撃すれば、「戦時首都」としての重慶の機能はマヒし、蔣介石政権は日本軍の軍門に下ると想定した。だが蔣介石政権は持ち堪えた。さらに西に補給路を求めたからだ。アメリカのルーズベルト政権を中心とする連合国は援助物資をインド洋からビルマに陸揚げし、陸路で中国西南内陸部の中心である昆明を経由して重慶に届けた。援蔣ルートである。

 そこで日本軍は援蔣ルートを断つために、ビルマに派遣した部隊を雲南省の西端まで進めざるを得なかった。緒戦は勝利したものの、日本側の兵站機能は十全ではない。そのうえ昭和18(1943)年秋頃には、西南中国からビルマ、タイに広がる一帯の制空権は米空軍に奪われてしまう。かくて最前線の日本軍に待っていたのは死戦でしかなかった。

 上海に対する高杉の地政学的認識の欠陥から滇緬戦争(滇=雲南、滇=ビルマ)にまで話を進めるのは、やはり些か強引に過ぎるとも思う。いずれ、この問題は別の機会に詳しく考えてみたいが、少なくとも日本人の中国に対する地理的な常識や感覚を改める必要性を指摘しておきたい。国境を閉じていた毛沢東の時代ならまだしも、国境の外に向かってヒトもモノもカネも「走出去(飛び出)」す時代となったのだから。

 話を高杉に戻す。

 上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、確かに「津港繁盛」してはいるが、それは「皆外國人商船多き故」であり、「城外城裏も、皆外國人の商館多きか故」である。「支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なること難道(いいがたし)」。だが「外國人の商館に役せられ居る者」、つまり外国商人に雇われている買弁商人だけは豊かに暮らしている。「少しく學力有り、有志者者、皆北京邊江去」ってしまった。どうやら学力や志ある者は北京辺りに去ってしまい、上海に残る中国人は外国商人のために働く少数の豊かな買弁商人と大多数の「日雇非人」だけということになる。だからこそ上海は、外国商人に占領されたも同然であり、「大英屬國と謂ふ而(て)も好き譯なり」という結論になるわけだ。《QED》

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【知道中国 1197回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1197回】           一五・二・初五

 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉3)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 いよいよ上陸。初めて上海の街を「徘徊」し、「土人如土檣圍我輩、其之形異故也」と綴っているが、やはり高杉の誤解だろう。中国人が「我輩」を十重二十重に囲んだのは、高杉の服装や立ち居振る舞いが「異」だからではなく、やはり太平天国軍の攻撃から上海を守るべくイギリス軍からの要請でやってきたと噂されていた日本からの援軍の先兵と思われたからに違いない。「土人」が土壁のようにガッチリと「我輩」を囲んだのは、“空飛ぶ殺人マシーン”や“一日千里を奔る神秘の日本人”を探していたからだ。

 上陸翌日の5月7日、「拂暁小銃聲轟於于陸上、皆云、是長毛賊與支那人と戰ふ音なるへし」。続いて、これが本当ならば、「實戰を見ることを得へし、心私かに悦ふ」と。さすがに高杉、そうこなくっちゃ面白くない。心躍らせ、押っ取り刀で銃声のする方へ一目散に駆け出していったのだろうか。

 千歳丸が投錨した長江の支流も「川流濁水」だった。イギリス人がいうには、停泊中の数千の外国船も中国人も共にこの川の濁った水を飲んでいるとのこと。日本人は上海に来たばかりで気象に慣れないうえに、朝晩こんな水を飲んだら「必多可傷人」と危惧した。はたせるかな、川の濁水のため同行者の多くが病床に臥し、なかには命を落とした者もいた。それにしても、明礬をブチ込んで濁りを沈殿させた川の水を飲んでもなんともない中国人からすれば、日本人とはヤワな民族と思えたことだろう。反対に山紫水明の国からやってきた神州高潔な民の目には、中国人の肉体は極めて頑丈で、アメーバ―のような構造になっていると映ったのではないか。

 日本人にとって「水」は清浄であって当たり前。ところが中国では「水」は濁っているもの。同じ漢字ではあるが、水に対するイメージには大きな違いがある。同じ漢字ではあるが意味する実質は違う。だが、中国文化の精華だと日本人が学んできた四書五経や『史記』以下の正史類など中国の古典には、そういうことが書かれているわけではない。中国人にとっては当たり前のことだから、態々書くことはない。そこで日本人の常識で中国人が書いた文章を読んでしまうから誤差が生まれ、やがて誤解を引き起こす。

 この違いを違いとハッキリと意識しない(できない)ことが、「同文同種」などという根本的な間違いを日本人が受け入れ、信じ込んで(信じこまされて)しまった大きな原因なのだ。改めて強く言う。「同文同種」はマヤカシ、デタラメ、さらにはウソである。

 さて一行は荷物を持って宿舎の宏記洋行に移るが、「居室陜隘、官吏甚不平、議論紛々、同局相罵」となった。そこで高杉は「其醜體不堪笑殺也」と。部屋が狭いのなんのと枝葉末節に拘泥するなど。バカバカしすぎて笑う気も起きない、といったところか。

翌日の黄昏、上海滞在中の世話になるオランダ人がやってきて太平天国軍は明日の朝には「上海三里之外」まで迫るようだから、「明朝必可聽砲聲」と。すると幕吏はビックリ仰天。だが高杉は「予却喜焉」と。面白いじゃないか。大々的にドンパチやってもらいたいところだ、といったところだろう。

「徘徊」を続け観察を重ねた高杉は、「上海之形勢」について「支那人盡爲外國人之便役英法之人歩行街市、清人皆避傍讓道、實上海之地雖屬支那、謂英佛屬地、又可也」と。

――「支那人」は悉く外国人の「便役(使いッパシリ)」であり、イギリス人やフランス人が街を歩けば、道路脇に避けて道を譲る。上海は「支那」に属しているとはいうものの、イギリスとフランスの「屬地」といっても過言ではない――

また上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、「大英屬國と謂ふ而も好き譯なり」とも。

「外國人之便役」「雖屬支那、謂英佛屬地」「大英屬國」・・・痛切の文字が並ぶ。《QED》


posted by 渡邊 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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