h230102-0340-2.jpg

2015年03月02日

【知道中国 1198回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg
【知道中国 1198回】        一五・二・初七

 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉4)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 高杉は上海を「支那南邊の海隅僻地」と記すが、アヘン戦争の結果である南京条約で開港される以前の時点に立つなら、確かに「海隅僻地」といえないこともない。だが地理的にいうなら、上海は「支那南邊」ではない。北のロシア国境から南のヴェトナム国境までの、国土の広さに較べ長いとはいえない海岸線だが、その海岸線の中央部に上海は位置している。高杉のみならず当時の日本では、どうやら一般的に上海は「支那南邊」と見做されていたようが、それは誤りというべきだ。

 たとえば上海を「支那南邊の海隅僻地」とするなら、早くも唐代にインド・イスラム世界と海上交易で結ばれて以来、国際交易都市として栄えて来た広州は、どう表現すべきか。上海と広州の間に位置する福建の泉州や漳州も古代から海外との交易拠点だったことを考えれば、やはり上海は「支那南邊の海隅僻地」ではないだろう。あるいは当時の日本は、地理的に長江辺りを南限に中国を認識していた。いいかえるなら長江の南の広大な領域は、当時の日本人が想定する「支那」には含まれてはいなかったとも想定できる。

 地政学的に考えるなら、中国という世界は長江の南にも、内陸部深奥部のその先のユーラシア中央部にも、東南アジア大陸部にも陸続きで繋がっていることを知るべきだ。やや突飛な表現だが、“伸縮自在”なのだ。この地理感覚の違いやズレが、その後の日本の中国政策に陰に陽に影響を与え、結果として現在にまで続いているのではないか。

 たとえば日中戦争の際、当時の軍部中枢は東部の海岸線を封鎖すれば、南京は陥落し、蔣介石政権は白旗を挙げると考えたように思える。だが、蔣介石政権はさらに奥地の重慶にまで逃げ込んだ。しかも主要官庁から大学までも移して。そこでゼロ戦警護の一式陸攻で爆撃すれば、「戦時首都」としての重慶の機能はマヒし、蔣介石政権は日本軍の軍門に下ると想定した。だが蔣介石政権は持ち堪えた。さらに西に補給路を求めたからだ。アメリカのルーズベルト政権を中心とする連合国は援助物資をインド洋からビルマに陸揚げし、陸路で中国西南内陸部の中心である昆明を経由して重慶に届けた。援蔣ルートである。

 そこで日本軍は援蔣ルートを断つために、ビルマに派遣した部隊を雲南省の西端まで進めざるを得なかった。緒戦は勝利したものの、日本側の兵站機能は十全ではない。そのうえ昭和18(1943)年秋頃には、西南中国からビルマ、タイに広がる一帯の制空権は米空軍に奪われてしまう。かくて最前線の日本軍に待っていたのは死戦でしかなかった。

 上海に対する高杉の地政学的認識の欠陥から滇緬戦争(滇=雲南、滇=ビルマ)にまで話を進めるのは、やはり些か強引に過ぎるとも思う。いずれ、この問題は別の機会に詳しく考えてみたいが、少なくとも日本人の中国に対する地理的な常識や感覚を改める必要性を指摘しておきたい。国境を閉じていた毛沢東の時代ならまだしも、国境の外に向かってヒトもモノもカネも「走出去(飛び出)」す時代となったのだから。

 話を高杉に戻す。

 上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、確かに「津港繁盛」してはいるが、それは「皆外國人商船多き故」であり、「城外城裏も、皆外國人の商館多きか故」である。「支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なること難道(いいがたし)」。だが「外國人の商館に役せられ居る者」、つまり外国商人に雇われている買弁商人だけは豊かに暮らしている。「少しく學力有り、有志者者、皆北京邊江去」ってしまった。どうやら学力や志ある者は北京辺りに去ってしまい、上海に残る中国人は外国商人のために働く少数の豊かな買弁商人と大多数の「日雇非人」だけということになる。だからこそ上海は、外国商人に占領されたも同然であり、「大英屬國と謂ふ而(て)も好き譯なり」という結論になるわけだ。《QED》

posted by 渡邊 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

【知道中国 1197回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg
【知道中国 1197回】           一五・二・初五

 ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉3)
 高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 いよいよ上陸。初めて上海の街を「徘徊」し、「土人如土檣圍我輩、其之形異故也」と綴っているが、やはり高杉の誤解だろう。中国人が「我輩」を十重二十重に囲んだのは、高杉の服装や立ち居振る舞いが「異」だからではなく、やはり太平天国軍の攻撃から上海を守るべくイギリス軍からの要請でやってきたと噂されていた日本からの援軍の先兵と思われたからに違いない。「土人」が土壁のようにガッチリと「我輩」を囲んだのは、“空飛ぶ殺人マシーン”や“一日千里を奔る神秘の日本人”を探していたからだ。

 上陸翌日の5月7日、「拂暁小銃聲轟於于陸上、皆云、是長毛賊與支那人と戰ふ音なるへし」。続いて、これが本当ならば、「實戰を見ることを得へし、心私かに悦ふ」と。さすがに高杉、そうこなくっちゃ面白くない。心躍らせ、押っ取り刀で銃声のする方へ一目散に駆け出していったのだろうか。

 千歳丸が投錨した長江の支流も「川流濁水」だった。イギリス人がいうには、停泊中の数千の外国船も中国人も共にこの川の濁った水を飲んでいるとのこと。日本人は上海に来たばかりで気象に慣れないうえに、朝晩こんな水を飲んだら「必多可傷人」と危惧した。はたせるかな、川の濁水のため同行者の多くが病床に臥し、なかには命を落とした者もいた。それにしても、明礬をブチ込んで濁りを沈殿させた川の水を飲んでもなんともない中国人からすれば、日本人とはヤワな民族と思えたことだろう。反対に山紫水明の国からやってきた神州高潔な民の目には、中国人の肉体は極めて頑丈で、アメーバ―のような構造になっていると映ったのではないか。

 日本人にとって「水」は清浄であって当たり前。ところが中国では「水」は濁っているもの。同じ漢字ではあるが、水に対するイメージには大きな違いがある。同じ漢字ではあるが意味する実質は違う。だが、中国文化の精華だと日本人が学んできた四書五経や『史記』以下の正史類など中国の古典には、そういうことが書かれているわけではない。中国人にとっては当たり前のことだから、態々書くことはない。そこで日本人の常識で中国人が書いた文章を読んでしまうから誤差が生まれ、やがて誤解を引き起こす。

 この違いを違いとハッキリと意識しない(できない)ことが、「同文同種」などという根本的な間違いを日本人が受け入れ、信じ込んで(信じこまされて)しまった大きな原因なのだ。改めて強く言う。「同文同種」はマヤカシ、デタラメ、さらにはウソである。

 さて一行は荷物を持って宿舎の宏記洋行に移るが、「居室陜隘、官吏甚不平、議論紛々、同局相罵」となった。そこで高杉は「其醜體不堪笑殺也」と。部屋が狭いのなんのと枝葉末節に拘泥するなど。バカバカしすぎて笑う気も起きない、といったところか。

翌日の黄昏、上海滞在中の世話になるオランダ人がやってきて太平天国軍は明日の朝には「上海三里之外」まで迫るようだから、「明朝必可聽砲聲」と。すると幕吏はビックリ仰天。だが高杉は「予却喜焉」と。面白いじゃないか。大々的にドンパチやってもらいたいところだ、といったところだろう。

「徘徊」を続け観察を重ねた高杉は、「上海之形勢」について「支那人盡爲外國人之便役英法之人歩行街市、清人皆避傍讓道、實上海之地雖屬支那、謂英佛屬地、又可也」と。

――「支那人」は悉く外国人の「便役(使いッパシリ)」であり、イギリス人やフランス人が街を歩けば、道路脇に避けて道を譲る。上海は「支那」に属しているとはいうものの、イギリスとフランスの「屬地」といっても過言ではない――

また上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、「大英屬國と謂ふ而も好き譯なり」とも。

「外國人之便役」「雖屬支那、謂英佛屬地」「大英屬國」・・・痛切の文字が並ぶ。《QED》


posted by 渡邊 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/