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2015年03月07日

【知道中国 1202回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1202回】          一五・二・仲五

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根1)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

 曾根俊虎(弘化4=1847年〜明治43=1910年)。米沢藩士。「斯身飢うれば 斯児育たず 斯児棄てざれば 斯身飢う 捨つるが是か 捨てざるが非か 人間の恩愛 斯心に迷う(以下略)」の「棄児行」の作者と伝えられ、「討薩檄」を手に奥州列藩同盟の結成に奔走した雲井龍雄に師事。薩長政府から梟首の刑に処せられた雲井の仇討を疑われ逮捕されたが、勝海舟・福島種臣・西郷隆盛らの助命嘆願により釈放され海軍に。

 明治5(=1872)年、日清修好条規批准書交換のための外務卿・福島種臣の清国訪問に随員として参加。帰国後の同年末に海軍中尉に。大尉昇進は明治12(1879)年。因みに『北支那紀行』の冒頭には「海軍中尉從七位曾根俊虎」と記されている。海軍では対支諜報活動に従事し、前後6回(明治6,7,9、12、13、17年)の渡海経験を持つ。おそらく『北支那紀行』は、明治6,7両年の体験を纏めたものと思われる。いわゆる軍部における早い時期の「支那通」の1人といえるだろう。

 中国語教育にも努め、大尉昇進の翌年(明治13=1880年)に日本で最初のアジア主義団体といわれる興亜社を結成。中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持った。

 清仏戦争(1884年〜85年)を機に『法越交兵記』を著し、アジアに対する政府の関心の低さを指弾。これがきっかけとなり伊藤博文の逆鱗に触れ、明治21(1888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁されるが、後に無罪。海軍を退役した後、西郷従道らの援助を受け清国に渡り、景勝地の蘇州に居を構え清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇をえた。「大陸浪人」の先駆けともいえそうだ。号は暗雲。中国では曾嘯雲と名乗っていたとか。晩年を不遇のうちに終わったようだ。

 ここで、『北支那紀行』から浮かび上がってくる曾根の活動を理解するうえでも、やはり清国をめぐる当時の内外情況を振り返っておく必要があるだろう。

 文久二年の翌年に当たる1863年、アメリカが上海に租界を設定し、イギリス租界と合わせ共同租界とする。翌64年ころからロシアが清国への食指を動かし始める。外債第一号としてイギリスより借款を受ける(65年)。イタリアとの通商条約締結(66年)。ロシアとの新疆境界を設定。アメリカとの天津追加条約を締結(共に68年)。オーストラリアとの通商航海条約を締結(69年)。フランス人虐殺に関し謝罪使を派遣(70年)。ロシア、イリ地方に侵攻。日清通商天津条約を締結(共に71年)。日本、台湾に派兵(74年)。イギリスと芝罘(烟台)条約を締結(76年)。

 清国国内では太平天国の制圧の後、結果的には大失敗に終わりはしたが、アメリカに第一次留学生派遣(72年)、イギリスとフランスに留学生派遣し(76年)、近代的軍需工場建設、殖産興業の奨励など、近代化=富国強兵に向け必死の取り組みが続いた。

 一方の日本では征韓論が起った2年後の明治8(=1875年)にはロシアとの間で千島・樺太交換条約が結ばれるなど、いよいよ外に目を向け始める。

 以上の内外情勢を考えれば、曾根の旅行が単なる物見遊山ではなく、兵要地誌作りが目的であったことが判るだろう。日本もまた否応なく、列強による国際的大競争という時代の大海原に船出することとなった。時代の激浪を、なんとしてでも乗り切らねばならない。

 まず水。天津に上陸した曾根は「一掬ノ清水無ク皆諸河ノ泥水ヲ汲ミ藥ヲ投シテ日用ニ供ス」と、なによりも水に関心を向けた。千歳丸の一行を悩ませたのも、明礬で濾過させた水だったことを思い出してもらいたい。山紫水明の自然のなかで一生を送る日本人が「藥ヲ投シテ」濾過させた「諸河ノ泥水」の生活に、どれほどの期間を堪えられるのか。《QED》
posted by 渡邊 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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