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2015年04月18日

【知道中国 1229回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1229回】        一五・四・仲四    

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室6)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 国家存亡の火急の事態が発生しているにもかかわらず、「中秋ノ佳節」である。余裕なのか。鷹揚なのか。バカなのか。やはりバカに違いないないだろう。「隣国ノ好ミ」から現状を伝えようとする日本の好意を拒絶するとは、サイテイの極みだ。戦争である。戦争が「中秋ノ佳節」に朝廷で挙行される「今日ノ御儀式」より軽いはずがない。勝利に向けて清国官民の全機能を集中すべきものを、戦争最高責任者である軍機大臣のテイタラク。だが小室に拠れば、お笑いはまだまだ続く。

 左宗棠といえば「主戰論ノ巨魁ニシテ勇猛果斷比類ナキ人物ノ如ク中外人」に知られているが、実際は「時情ニ迂遠ナル一頑固翁ニ過ギ」ない。率直にいうなら、クワセモノ。

 清仏戦争に当たっては、当時の最高実力者である西太后の篤い信頼を背景に、影響力は李鴻章を凌ぎ、遂には上諭をえて「欽差大臣督辨福建軍務」という最高ポストを射止めた。まさに男子の本懐といっておきたい。そこまではよかったのだが、危急の事態が勃発しているわけだから、「家ニ回ラズ直ニ軍ニ赴キ晝夜兼行」のうえ任地に急行すべきものが、ゆっくりと北京を発って、10月に南京に到着。やっと任地の福建に到着した11月には「台灣ハ殆ト守ヲ失ヒ守将劉氏ハ将ニ佛人ノ擒トナラントスルノ秋」になっていた。まさに左宗棠の「迂遠緩慢ナル實ニ甚シキモノト謂フベシ」。

 それだけではない。経由地の南京で兵を募ったところ、左宗棠の「勇名ヲ聞キテ來リ應ズル者少ナカラズ旬日ニシテ數千ノ兵ヲ得タ」。だが、それほどの数の兵士を養うだけの用意がない。かくして「南京市内到ル處兵卒跋扈シテ其混雜名状スベカラズ」。たとえば「食逃ゲ押収スルモノ數フルニ遑アラズ南京及ビ沿道ノ人家ハ迷惑スルヿ一方ナラズ」といった有様である。そのうえ俄か兵士全員には軍服も武器も行き渡るわけがない。テンデンバラバラ。銃を持つ者は少なく、多くは短剣に藤蔓で編んだ盾を持たされる始末だ。これでは訓練のしようがない。「其等ノ体裁一トシテ兒戯ニ類セザルモノナシ」。こういった情況から「左氏ノ軍略ヲ知ルニ足ル」というものだ。

 左宗棠はカシュガル地方の反乱を鎮圧したことで「智勇兼備ノ大将」と評価されているが、仲間同士の内紛が原因となって反乱は自壊したとのこと。左宗棠に特段の軍略があったわけではなく、なによりも「戰鬥ノ地ヲ距ルヿ五百里ノ後ニ在リタルモノニテ未ダ曾テ親シク矢石ノ間ニ臨ミタルヿニアラズ」。つまり世間から「智勇兼備ノ大将」と持て囃される左宗棠には実戦経験がないというのだから、これが笑わずにはいられない。

 弱将の下に弱卒あり。欽差大臣督辨福建軍務ドノの下で負け戦を演じた「敗大将張佩綸ハ一發ノ砲聲ヲ聞クヤ驚惶狼狽シテ〔中略〕腰ヲ抜カシテ從者ニ扶ケラレ」た挙句、戦場から遥かに「六里」も離れた地点に身を潜めていたという。かくて「部下ニテハ人皆之ヲ嘲リ呼ンデ張六里ト云ヘリ」とか。

 前線の指揮官は「張六里」で、総大将の「智勇兼備」は完全な“上げ底”。かくして小室は、「清廷ノ人物推シテ知ルベキノミ」と、清国政府の実態を見透かしてしまった。

 次いで小室の眼は「堂々タル大帝國ノ帝都」である北京に注がれる。

 北京は「古代燕趙ノ故地ナレバ悲憤慷慨ノ士モ多カルベシ」というのが「日本人ノ想像ニテ予モ聊カ其ノ考ナキニシモアラ」ず。だが現地で見聞してみると、それは「二千餘年前ノ昔話」であり、「今ハ藥ニシタクモカヽル人物ハ見ルヿ能ハズ」。清仏戦争に敗北しても、「毫モ驚キ憂フルノ色ナキ」有様だ。地方の事は地方の責任であり、防衛の任務もまた同じ。だから地方が「勝ツモ敗ルモ我ノ干リ知ル所ニアラズ」というのが「中央政府ノ官吏一般」の共通した考えだとか。嗚呼、もう処置ナシ。滅ぶべくして滅ぶべし。《QED》

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2015年04月14日

【知道中国 1228回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1228回】         一五・四・仲二

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室5)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 清国政府の過度の自己チューぶりを、「外人ヲシテ皆ナ『斯ク迄ニハアラジト思ヒシニ』トノ慨嘆ヲ發セシムルバカリナリ」と評す。余ほど呆れ返ったようだ。小室は続ける。「予ガ北京ニ在リシ日」の10月16日、清国の軍機大臣等が「日本公使館ニ來リ我公使榎本武明君ト時事ヲ議」した。一行の1人が、清国政府がフランスとの交渉を断ち切って追撃の命令を下したことを「至極最良ノ國是ヲ取リタル者ト信ジ居」り、あまつさえ清国全土の「十八省皆焦土トナルモ目下ノ清國ニ於テハ戰爭ヲ利益トナスト迄斷言」している。

 彼らは「一定ノ見識」があったわけでも、確たる「廟算」があって「斷言」したわけでもない。「唯漠然タル空想ヨリ佛ト戰フト勝ツベキモノト妄信スルモノニ外ナラズ其ノ實状ヲ察スレバ憐レムベク笑フベク氣ノ毒千万ナルモノアルナリ蓋シ現今支那内閣ノ時勢ニ迂遠ニシテ下情ニ疎ナルヿハ譬へガタナキ景况」であり、外国人が聞いたら耳を疑うほど。この情況を小室は日本に譬え、維新前に京都の「公家方ガ何ノ辨別ノ根拠モナク單ニ攘夷々々ト唱ヘルモノヽ如キ有様ヨリモ尚甚シキ」ものだとした。

 古今東西を問わず王朝・国家の滅亡の後を辿れば、政府中枢は危機に対して茫然自失で現状糊塗。「徒ラニ太平ヲ装飾シ國勢ノ日ニ蹙ルヲ憂ヘザル」ものであり、こういった例は「就中支那歷代ノ歷史ニ於テハ其跡昭々タルモノナリ」。だから清国政府の現状からして、もはや政府の体をなしているわけではなく、「其衰運ニ傾キタルモノナリ」と。

 貧すれば鈍すではないが、そうなって仕舞う背景は国の「上下懸隔言路壅塞シテ」、国が置かれている窮状・惨状を明確に冷静に上に伝え、上がその報告を正確に把握し、的確な判断を下さないからだ。国家危急の秋こそ、「上下懸隔言路壅塞シテ」はならないのだ。

 ここで翻って昭和20年本土決戦に傾こうとした我が帝国陸海軍中枢における伝えられるところの内情を考えると、「唯漠然タル空想ヨリ・・・現今支那内閣ノ時勢ニ迂遠ニシテ下情ニ疎ナルヿハ譬へガタナキ景况」との一文には、深刻に考えさせられるものがある。やはり「外人ヲシテ皆ナ『斯ク迄ニハアラジト思ヒシニ』」であったのだろうか。「敵を撃滅し赫々たる戦果を挙げたり。我が軍の損害は軽微なり」との勇壮極まりない報告では、「唯漠然タル空想」と見られても致し方がないといったところだ。

 さて清仏戦争に対する清国政府の対応に戻ると、台湾占領に向けて動き出したフランス軍の動きを在北京在外公館のなかで最も早くキャッチした日本公使館は、「隣国ノ好ミナレバ」と、その旨を清朝衙門(政府役所)に大至急で伝えた。すると衙門の「属吏ドモ之ヲ受付ズシテ曰ク今日ハ中秋ノ佳節ニテ朝廷ニテハ中秋ノ御宴ヲ催サレ親王大臣及ビ百官ハ御宴ニ陪席セラレタレバ當衙門ヘハ一人モ出頭セラルヽ人ナシ因テ受付ガタシ」と応じた。

 日本側は「貴國ノ一大事ニテ一日片時ヲモ爭フ程ノ者ナレバ兎ニ角速ニ受取リテ之ヲ大臣」に伝えるよう申し出たが、「今日ノ御儀式ノ重ケレバ斯様ノ儀ハ受次難シトテ之ヲ拒絶」したとのことだ。

 後日談として、小室は清国軍機大臣と榎本武楊公使と面談の様子を綴っている。

 台湾では「佛兵三百余人ヲ打取リタリ」と軍機大臣。これに対し榎本は、諸外国の公電でも日本側が把握したところでも「佛人ノ死傷ハ四五十人ニ過ギザル由」と伝え、貴方の情報の出所は、と。すると大臣は「台灣ノ劉銘傳ヨリ直ニ電報ヲ以テ我政府ニ報告ナシタル者ニテ確固タル説ナリト」。じつは当時、台湾と大陸の間には電報施設がなかった。そこで榎本は笑いを堪えながら、「何カ間違ヒナルベシ」と。だが大臣は「劉銘傳ヨリ電信アリシニ相違ナシ」と譲らない。そこで従者が大臣に「台灣ニハ電線ハナカリケリ」と小声で伝えた。全く以て時代遅れで自己チューでマンガ・・・いや〜アンタは偉いッ。《QED》

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2015年04月11日

【知道中国 1227回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1227回】         一五・四・十

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室4)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 小室の上海到着直後、北京の中央政府は上海行政のトップである道台に対し、上海に入る手前に位置する呉淞江の河口閉塞を命じた。フランス海軍の上海襲撃を阻止しようという狙いだろう。 

 だが河口が閉塞されたところで陸路での上海進撃も容易いだけでなく、フランス海軍は閉塞個所を回避して長江を遡り、上流の南京を占領し清国を南北に分断しかねない。そうなったら社会は大混乱。その機に乗じて反清勢力が一斉に蜂起し、清国そのものが崩壊の瀬戸際に立たされる。また河口閉塞は上海に出入りする清国以外の船舶の航行を妨害することになり、諸外国を敵に回す。だから清国にとっても得策ではない――在上海のイギリス領事が縷々説得したが、やはり清国政府は河口閉塞を決定してしまう。なんとまあ事の是非を弁えない政府であることかと、小室は呆れ返る。だが、さらに驚くべきは、実行の先送りだった。国家の命運を賭けた戦争なら、なにはさて措き一気呵成が第一だろうに。

 果断遂行にはほど遠い危機感なき対応を前に、小室は「此等モ意想外ノ一ニシテ亦タ法螺タルヲ免レザルモノナル可シ」と。なんともヤレヤレ・・・。

 清仏戦争によって上海港の取扱量が激減し、上海居留外国商人は大損害を被っている。そこで上海に居留する外国商人は英・米・独の3カ国商人を代表に、各本国政府に対し清仏両国に停戦・和平を促すよう懇請した。ここで注目しておきたいのが、当時、上海を経由して対中貿易を進めていた主要国は英・独・米の3カ国であって日本ではない。いいかえるなら、当時の対中貿易に大きな利害関係を持っていたのは英・独・米の3カ国であり、日本は後発の新参者だったということだ。

 小室は主張する。ドイツとアメリカはともあれ、イギリスの場合、上海居留商人の大部分はロンドン経済界の重鎮と結ばれ、さらに政府や議会の中枢と太いパイプを持つ。だから上海居留商人の考えは、そのままイギリス政財界中枢の意向に直結していると考えて差支えないはず。ならばこそ上海居留のイギリス商人を侮ってはイケナイ、と。

 開戦当初、フランスは「一千万磅ノ上ニ出タル程」の賠償金での手打ちを仄めかしていた。だがフランスの意図を読み違えた清国政府は台湾(淡水)、福建(福州)、ベトナム(トンキン)へと戦線を拡大させてしまった。その結果、清国側に大きな損害をもたらしたばかりか、高い戦費を余儀なくされたフランスは当然のように高額な賠償金を要求することとなる。かくて「清人ノ迂愚ナルモ豈ニ之ヲ知ラザランヤ」という事態に立ち至ってしまった次第だ。

 「外人ノ皆清國ヲ以テ佛國ノ敵ニアラズトシテ其ノ敗亡センヿヲ危ブメドモ清人自身ニ於テハ泰然トシテ毫モカヽル危殆ノ心ナク其ノ不完全ナル兵備ヲ以テ佛人ト戰フベシト思惟シ傲然トシテ敵ヲ待チタル景况ナレバ」と。

 ――外国人は誰だった「清国に勝ち目はない。戦争が続いたら、清国は滅び去りかねない」と見ている。だが清国人は泰然と構えて危機感はゼロ。マトモとは言えない装備であるにもかかわらず、傲然とフランス海軍に挑もうと待ち構えている始末だ――

 事態がここまで進んでしまった以上、かりにイギリスが調停に乗り出そうとも、もはや手遅れだろう。フランスと清国の双方が「体面」と「損失」とのバランスを失しないような和平工作などは、「予ハ斷然其ノ方策ナキヲ信ズルトコロナリ」と。

 清国の時代遅れの劣悪な装備でフランス軍と戦うということは、岩に立ち向かう鶏卵であって、最初から勝ち目はない。にもかかわらず戦争を強行しようというのだから、小室ならずとも「清人ノ迂愚ナル」ことは度し難いと言いたくなろうというものだ。《QED》

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2015年04月10日

【知道中国 1226回】「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1226回】        一五・四・初八

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室3)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 小室は「支那内地ニ旅行スル十里、十年漢籍ヲ讀ムニ勝レリト」と記すが、「漢籍ヲ讀ム」ことを頭から否定したわけではないだろう。「漢籍ヲ讀」んだうえで「支那内地ニ旅行スル」、或は「支那内地ニ旅行」しつつ「漢籍ヲ讀ム」ことの重要性を訴えているように思える。おそらく万巻の「漢籍ヲ讀」んでいる「我邦ノ儒學者ニテ世ニ著ハレタル人」であったにせよ、岡千仞もまた「支那内地ニ旅行」したからこそ、「予ノ想フニ中國固ヨリ此ノ如クナリシナルベシ」と笑いながら応えたに違いない。

 やはり中国に対して激情が先立って冷静な判断力を狂わせてしまうのも、あるいは堆く積まれた「漢籍」の山に幻惑され、そこに記された“バーチャルな史実”に酔い痴れるのも、共に百害あって一利なし。これは現代にも通じる絶対の真理だ。

 「我邦ノ儒學者ニテ世ニ著ハレタル人」の「岡氏ノ事ニ就キテ一笑有リ」と、小室は綴る。「清國ノ軍機大臣等數名北京ナル日本公署ニ來リシトキ」、ちょうど岡が滞在中だったので、日本側の榎本公使が「此ノ翁ヤ日本ノ儒者ナリ」と紹介した。彼ら対し、榎本公使は「方今世界文明社會開進ノ氣運駸々乎」であり、「國民ヲシテ此ノ開進ノ氣運ニ伴ヒ文明ノ域ニ進マシメント」するなら、学校や病院と同じように鉄道も必要であり、利に敏いからこそ商人は早急な着工を望んでいるはずだと鉄道敷設の利害得失を情理を尽くし説得する。だが清国側は、「我ガ邦ニ於テ鐵道ヲ設クルハ利少クシテ害多キヲ見ル」「鐵道ハ我國朝野ノ別ナク官民皆之ヲ嫌フ」と、全く聞く耳を持たない。あまつさえ清国側は、「鐵道ノ利害」について岡に向って結論を求めた。かくして小室は、「嗚呼公使二十年經驗ノ言只一儒士ノ信用ニ及バズ驚クベキヿト謂フベシ」と。

 つまり「清國ノ軍機大臣等數名」の頭は、孔子サマの教え、有体にいうなら出来もしないし、屁の役にも立たない理想(ネゴト)がギッシリと詰まってはいるばかり。だから彼らからは、目の前の難題を解くべき現実的方策を模索しようなどという発想は生まれない。

 孔子の時代に鉄道などありえない。いや世界中の神羅万象・人事百般が自国の発祥・発明などと臆面もなく強弁する韓国の方々なら、「孔子の時代に韓半島には鉄道があった」とオメデタクも思い込んでいるだろうが・・・。ともかく孔子の時代には鉄道は発明されていない。にもかかわらず「鐵道ノ利害」を「日本ノ儒者」である岡千仞に問い質そうというのだから、もはや処置ナシの極みなのだ。

 中国では脳ミソを脳筋という。いったい、いつの時代からそう呼ぶようになったのか。いくら調べても、多くの中国の友人に訊いても確たる答は返ってこない。それは、いつの時代から脳ミソと呼ぶようになったのか日本人が答えられないと同じだろう。ともかくも形からすれば脳はミソ状だがが、働きからいえば筋肉というべきかも知れない。筋肉であればこそ、不断に動かし鍛えないと退化するばかり。脳を筋肉と見做すからこそ、中国語では「動脳筋(アタマを働かせろ)」ということになるが、どうやら「清國ノ軍機大臣等數名」の振る舞いを見ていると、孔子サマの有難い教えは脳筋弛緩剤的働きを持ち、現実問題から目を背けさせる効能がありそうだ。やれやれ、である。

 井の中の蛙大海を知らずとはいうが、中国という井は大海ほどにデカい。であればこそ、井を大海と見誤った議論が横行しているわけだ。開放政策、つまりはカネ儲け路線が順調に動き始めた90年代半ば、中国では「接軌(世界のルールに則れ)」との声が挙がったことがあるが、やがて自国を中心に大金が回転したと思い込むや、殊勝な「接軌」の声は掻き消され、超夜郎自大の「中華民族の偉大な復興」であり「中国の夢」の登場となる。

 嗚呼、伝統の根深さ・・・ほとほと孔子サマは罪深いゴ仁であると思いマスよ。《QED》

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2015年04月06日

【知道中国 1225回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1225回】        一五・四・初六

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室2)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 小室信介の名は初耳でも、明治15(1882)年の岐阜で演説中の板垣退助が暴漢に襲われた事件は日本史で学んだはず。板垣退助の同志として自由民権運動を共に展開し、板垣岐阜遭難を逆手に取って「板垣死ストモ自由ハ死セズ」のキャッチコピーを獅子吼した人物が小室だった。『大阪日報』、『朝日新聞』、『日本立憲政党新聞』、『自由新聞』などに拠って国会開設運動にも尽力したが、外務省御用掛に就き、自由民権運動を離れてもいる。

 明治17(1884)年5月には『自由新聞(一名を「自由燈」)』の創刊に参加し、同紙の特派員として清仏戦争時の上海に出向いた。

 帰国翌年の明治18(=1885)年に若干33歳で亡くなっている。若き死を頭の片隅に置きながら『第一遊清記』を読み解くことも、また当時の人々の知力を知る縁となろうか。

 先ず「予輩ハ幼少ヨリ漢籍ヲ學ビタル者ナルガ故ニ支那人ノ文章ニ迷ハサレテ大ニ其ノ實地ヲ悞ル者多シ」と慨嘆するが、ここには曾根の信奉したような「同文同種唇齒ノ國」などという感情はみられない。かくて「今回ノ支那行ニ依テ始メテ平生ノ迷夢ヲ破リタリ」とする。以下、小室の説くところを、そのまま書き写してみたい。

■「支那人ノ古來ヨリ文章ニ言語ニ華麗浮靡夸大倨傲ニシテ所謂法螺ノ大ナルヿハ曾テ聞キタルヿナレドモ此ク迄ニ大ニ甚シキモノトハ想ハザリシナリ」

■「蓋シ支那人ハ古來ヨリ見聞ノ儘ヲ掛直ナシニ述ベタルヿナシ故ニ其ノ習慣風俗一切掛直ヨリ成立チテ更ニ之ヲ怪ムモノナシ」

■「支那人ノ文章ハ十ノ物ヲ百ト云ヒ百ノ物ヲ千ト説クハ普通ノヿナレバ同國人一般ニ之ニ馴レテ怪マズ則チ文章中ノ百ト云フ字ハ十ノ意ナリ千ノ數ハ百ノ物ナリト自ラ意解シテ更ニ其ノ法螺タルヿヲ覺ラザルナリ」

■「支那人ノ書籍ニ記スル所ハ四書六經ヲ問ハズ歷代ノ史類ハ勿論詩文ノ末ニ至ル迄其ノ説ク所記スル所其實ハ十分ノ一或ハ二十分ノ一ト云フ程ノ比例ヲ以テ推量セザルベカラズ」

■「支那人ガ(上海で刊行されている新聞を)木鐸トシ耳目トスル所ノ者ナレドモ其ノ記載スル所ハ中ヲ尊ビ外ヲ賤ミ自ヲ夸大ニシテ廣ク海外ノ事情ニ通ズルヿヲ欲セズ頑陋自ヲ安ンズルガ如キハ以テ支那人文章家ノ弊習ヲ見ルベキモノナリ」

■「若シ夫レ自國ノ事ニ付キ些ノ誇ルベキヿアレバ夸大溢美殆ト嘔吐ニ堪ヘルモノアリ外人ヲシテ華字新聞ノ記スル所ハ不可惜信トシテ一切棄却セラルヽニ至リタルガ如キヲ以テ其虛文ノ甚シキヲ知ルニ足ルベシ」

■「世ノ漢學者タル者一タビ彼地ニ遊バヽ茫然自失スル所アルベシ」

 まさに徹頭徹尾で完膚なきまでの“正論”であり、21世紀初頭現在の日本おける中国批判のルーツは小室にあり、といったところだ。

 中国滞在中、小室は当時の日本を代表する漢学者で知られた岡千仞と話す機会を得て、「支那ノ國情ニ及」んだ。そこで「支那國ノ風俗ノ頽廢實ニ甚シト謂フベシ絶テ書物上聞ク所ノ者ノ如クナラズ」。やはり元(蒙古族)やら清(滿洲族)などの「夷狄蹂躙シテ中國中華ノ風俗ヲ打壞シ」た結果、儒教古典が説くような古代の素晴らしい社会が破壊されたのでしょうかと、小室が問い質す。すると「翁(岡)笑テ答テ曰ク否予ノ想フニ中國固ヨリ此ノ如クナリシナルベシ」。遠い昔から、こんなものなんですね〜ッ。

 岡ですら、実際に現地を歩き現実を見聞し体験すれば、「其ノ見解ノ高キニ進ム」もの。かくして小室は「支那内地ニ旅行スル十里、十年漢籍ヲ讀ムニ勝レリト」と喝破した。その時から130年余。依然として日本は小室が打破した「迷夢」に囚われるまま。《QED》

posted by 渡邊 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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