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2015年04月04日

【知道中国 1224回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1224回】        一五・四・初四

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室1)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 思えば明治以来の日中関係は、「同文同種唇齒ノ國」×「怨みに報いるに徳を持ってす」×「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」によって大きくタガを嵌められ、身動きできなかったということだろう。その果てが、「子々孫々にわたる日中友好」という見事なまでの“戦略言語”である。「英雄ブランド」の中国製ボロ万年筆と共に「子々孫々にわたる日中友好」が真顔で熱く語られていた時代を思い起こせば懐かしく、恥ずかしく、苦々しいばかり。だが日本人にとっての躓きの始まりは、やはり「同文同種唇齒ノ國」というインチキを盲信して(いや正確に表現するなら、「盲信させられて」)しまったことだろう。であればこそ、日本と日本人にとっての中国問題という本来の視点に立ち戻るためには、中国側からする一連のマインドコントロールを解く必要があるはずだ。

 曾根の上海滞在から10年ほどが過ぎた明治17(1884)年8月29日に「東京ヲ發」った小室信介(嘉永5=1852年〜明治18=1885年)は、「清佛ノ戰況ヲ視察スル」ことを目的に上海に向かった。それから2ヶ月ほど、小室は北京、天津にまで足を延ばし、中国要路の人々と面談し、朱舜水の末裔やら王陽明の旧宅を訪ね、『第一遊清記』を書き残した。

 小室は『第一遊清記』の緒言を「清國ノ地理人情風俗兵備等ノ事ヨリ支那人民ニ係ル百般ノ事大率皆ナ意想ノ外ナラザルハナカリキ」と始めた。なんのかんのといったところで中国と中国人に関しては想定内というわけだ。だが、実際に接してみると、聞くと見るとでは大違い。かくて「支那ノ事ハ日本人ノ脳裏ノ權衡ニテハ決テ秤量スルベカラザルモノト知ル可シ」となる。つまり、日本人の常識ではどうにも計りかねるのである。

 その一例として小室は、なにはさて措いて清仏戦争を挙げた。

 清仏戦争(1884年8月〜85年4月)とは、植民地化を狙うフランスと自らの属領とみなす清国との間でベトナムの領有をめぐって争われた戦争である。戦勝することで東南アジアの一角に橋頭保を築いたフランスは、やがて雲南省への侵攻を始めた。これに前後してイギリスはインド東部からビルマを経て西の方から雲南省に食指を伸ばす。いわば清仏戦争は、清国にとっては南方から逼る亡国への危機の始まりであり、英仏両国からするなら中国南方の利権に照準を合わせた利権獲得競争の一環でもあったわけだ。

 当時、この戦争の推移には日本も強い関心を持っていた。そこで『自由燈(自由新聞)』の記者として、小室は上海に急派される。

 「佛艦ガ福州ニ於テ清人ト戰端ヲ開キタルノ警報到着セル後僅ニ數日ノ間ニ」、東京を離れた。戦争が始まったというわけで、押っ取り刀で上海へ駆けつけた。当時の「東京一般ノ感覚ニテハ佛清國兩國既ニ戰ヲ交ヘタルカラハ支那海岸ノ諸港ハ修羅ノ巷ト變ジ東洋ノ天ハ惨憺トシテ消烟彈雨ノ蔽フ所トナリタルナルベシ」。であればこそ、戦地となっているであろう上海に出掛けるのは死地に赴くようなものだ、と思われていた。ところが、「予ノ上海ニ達スルニ及ンデハ平和無事恰モ平日ニ異ナラズ」。そこで小室は「恰モ火事ナキニ走ルノ消防士夫ノ如」しと、自らを自嘲気味に綴った。

 やはり勝手が違う。常識が通じない。これには小室のみならず清国在住の外国人、わけて戦争における一方の当事国民であるフランス人も面食らったらしい。

 小室によれば、フランスは「償金談判ヲ速ニ決了セント」して台湾海域に艦隊を派遣したのだが、「支那ノ如ク一種無頼ノ國柄ニハ毫モ佛人ノ目的」を推量することなく、反対に「攘佛ノ上諭ヲ激出セシメ」てしまった。彼らは「自國ノ爲メニ利uスル所アルガ爲」に「一定ノ規則ニ據ラズ舊例習慣ヲサヘモ顧ミズ自己ノ儘ニ任意ニ之レヲ爲ス」というのだ。「一種無頼ノ國柄」だから「自己ノ儘ニ任意ニ之レヲ爲ス」・・・ヤレヤレ。《QED》

posted by 渡邊 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた

2015年04月02日

【知道中国 1223回】 「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1223回】         一五・四・初二

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−4)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 その大僧は「浙江第一ノ古刹ニ乄、各省雲遊ノ僧侶來リテ掛塔スル者常ニ六百餘人ヲ下ラス、前朝以來香烟ノ絶ユル時ナク、諷誦ノ休ムナシ」と過去の栄華の様から語り出す。

 以下、曾根が綴る大僧の長い述懐・慨嘆を簡略に記しておきたい。

 ――19世紀も初頭になると、長い平和に慣れ過ぎ軍備・国防は全く疎かになってしまい、だれもが戦争というものを忘れていしまった。当時の広東総督の林則徐だけが緩み切った国情に危機感を抱き、士気を鼓舞しようと「外夷ノ輸入セル鴉片」を焼き捨てたことから、英国人が広東一帯の海岸を侵すことになった。だが、北京の清国政府中枢は「心ヲ寒ウシ膽ヲ喪」って、突如として英国に和議を申し入れる始末だ。その結果、「國家列祖以來ノ綱紀大ニ紊レ」たうえに、賄賂は横行し、社会は分裂し、俗吏は私利私欲を恣にし、「酷吏」は過酷な刑罰を課し、税金は重くなるばかり。

 かくして人民は悲惨極まる生活を強いられる。加えるに凶作であり、家郷を捨て乞食になる。幼児の死体は道路に満ち、老人の死体は道端の溝に転がっている。壮者は「盗匪」となって徒党を組み、生きていくために略奪の限りを尽くす。全土が、こういった惨状だ。

 そこで「草莽悲憤ノ士」が次々に立ち上がり「救民ノ師」を挙げ、仲間を糾合し兵を募り、「朝命ニ抗スル」ようになった。なかでも洪秀全は道光30(1850)年に太平天国の旗を掲げ「民ヲ水火ノ中ヨリ救ワント」し、「謀士猛将林ノ如ク、百萬ノ衆ヲ擁シ、中國東南半壁ヲ擾亂スルヿ十有餘年、十數省ヲ蹂躙シ、六百餘城ヲ陥没シ」た。

 勢いを増した太平天国軍は当初の「民ヲ水火ノ中ヨリ救ワント」する志を忘れ、略奪の限りを尽くす。たとえば杭州の攻防においては、雲霞の如く攻め寄せる太平天国軍を前に、守備する清国軍は防戦一方。「守兵空中ニ飛ヒ、血肉天ヨリ下ル、賊(太平天国軍)勢ヲ得テ衝入亂擊」し、防備側の軍営に火を放った。清国軍は総崩れ。「官兵或ハ走リ或ハ降リ、一人モ支フル者ナシ」。

 それでも杭州は7ヶ月ほど持ち堪えたが、「軍亦紀律ナシ、故ニ兵丁、皆武器ヲ帶テ白晝財ヲ掠メ、婦女ヲ姦淫シ並ニ忌憚無シ如シ其意ニ逆フ者アレハ、直ニ之ヲ殺シテ顧ミス其暴状淫行、遠ク賊兵ニ過キタリ、然レトモ官之レヲ禁スル能ハス、禁スレハ則皆ナ将ニ賊軍ニ降リ官兵ト相抗スセントスルヲ患ル也、嗚吁世運已ニ衰エ賄賂公行武備全ク緩ニ乘ジ」と。かくて太平天国の勢いは大いに振う事となった。

 だが太平天国撃に立ち上がろうなどという英雄は出ては来ない。「英雄豪傑ノ士傍觀乄之ヲ助ル者寡」いとは、じつに無残極まりない情況だ。そこで清国政府は「英佛ノ兵ヲ得テシヨリ、従前ノ頽勢ヲ挽回」し、なんとか太平天国軍を劣勢に追い込んだのである。

 結局、清国政府は策が尽き、「竟ニ力ヲ外國ニ借リ、僅ニ討滅ノ功ヲ奏セリ」――

 古来、中国では「好鉄不当釘、好人不当兵(良質の鉄は釘にならない、良い人は兵にならない)」といわれてきたが、「軍亦紀律ナシ、故ニ兵丁、皆武器ヲ帶テ白晝財ヲ掠メ、婦女ヲ姦淫シ並ニ忌憚無シ如シ其意ニ逆フ者アレハ、直ニ之ヲ殺シテ顧ミス其暴状淫行、遠ク賊兵ニ過キタリ、然レトモ官之レヲ禁スル能ハス、禁スレハ則皆ナ将ニ賊軍ニ降リ官兵ト相抗スセントスルヲ患ル也」の部分を読むと、さもありなんと納得すると同時に、あの南京攻防戦から時を経て突如として持ち出された「南京大虐殺」の“真相”の一端を知ることができそうだ。やはり永遠に「好人不当兵」というわけです。

 やがて「殘星落々、霜氣窓ニ迫ル」なかを、曾根を載せた舟は上海に戻る。

 この大僧の言を、曾根は如何に受け取ったか。これでもなお日清両国は「兄弟」だから、力を合わせて「外侮ヲ防キ國權ヲ張ラント」しようとでいうのか。ムリだろ〜ッ。《QED》

posted by 渡邊 at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年04月01日

【知道中国 1222回】 「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1222回】        一五・三・三十一

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−3)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 「同文同種唇齒ノ國」、「怨みに報いるに徳を持ってす」、「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」に共通するものはなにか。それは《口先外交》である。軍事力にせよ、昨今の日本で流行りのクール・ジャパン式ソフト外交にせよ、やはり先立つモノが、それ相応に必要だろう。ことに兵器は莫大な予算がなければ備えられない。だが、《口先外交》は一銭も要らないうえに、相手の心を支配してしまう。心を支配すれば相手から靡いて来るわけだから、後は煮て食おうが焼いて食おうがお好み次第。俗にいう“鴨葱”というヤツだ。費用対効果を考えても、これほど安上がりで効率的な外交はないだろう。相手(この場合は日本)が敵意を持たないばかりか、こちら(この場合は中国)の言うがまま。明治期以来、じつは日本は《口先外交》に翻弄されてきたといえるのだ。

 「同文同種唇齒ノ國」である日本と清国の兄弟国が力を合わせ「歐米ノ凌辱」に対抗すべしという曾根の考えが、後に盛んになる「アジア主義」の萌芽と言えるかどうかの判断は暫く措くとして、当時の日本には一方に「巨礮一擊燕京ヲ陥レテ後ニ止マン」、一方に日清両国は「兄弟」であればこそ「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法」を求めるべきだという2つの考えがあり、最終的には前者が後者を押さえたからこそ、明治政府は台湾出兵に踏み切ったということだろう。

 これに対し清国側は、自国が置かれている悲劇的情況を深刻に捉えるわけでもなく、相も変わらず過剰なまでの大国意識。そうでなければ、「東洋一點彈丸ノ小島・・・〔中略〕小國ノ大國ヲ侵ス豈ニ勝ツノ理アラザランヤ(東洋[にほん]なんて弾丸一粒ほどのチッポケな小島だ。戦争せずとも降伏させてやる。どだい小国が大国に戦勝しようだなどと、ふざけ切った話だ)」などと嘯いたままでいられるわけがない。この自己認識や自己省察なき誇大妄想癖もまた、かの民族の特徴の1つ。彼らの夜郎自大ぶりが何とも滑稽だが、《口先外交》は冷徹な計算に支えられていることも忘れてはならない。敵を侮るな、である。

閑話休題。

 おそらく日清両国闘うべからずという主張が退けられたからこそ、曾根は「杭州ニ遊ヒ鬱ヲ西湖ニ洗ハンヿヲ約シ」て上海を後に「清国漫遊」に一歩を踏み出したはずだ。

 舟で進み、時に陸に上がり、また舟に戻る旅だった。何処に行っても曾根らを囲んだ老若男女が「外國人々々々ト呼ビ交々去リ交々來ル恰モ朝市ノ如キ混雜ヲ極メ」た。よほど日本人が珍しかったのだろう。どこの街でも夜になると「夜中巡邏スル者アリ砲ヲ發シ鐘ヲ鳴ラシテ盗賊ニ戒備セリ」というのだから、やはり治安は悪かったわけだ。

 ある街では規模は大きいものの、「人家希レニシテ荒蕪多ク處々斷橋灰壁等ヲ見ル」。そこで「土人」に尋ねると、以前は1万戸を数えた「繁華昌榮ノ村落」だったが、太平天国軍に占領されてしまった。その結果、太平天国軍攻撃に当たった「官軍ノ焼擊掠奪ヲ被リ今猶舊時ニ復スル能ハザリシコソ遺憾ナリ」と。敵である太平天国軍を撃退した後、あろうことか「掠奪」を恣にする。これが清国の、いや中国歴代の「官軍」の特徴である。どこへ行っても目にする太平天国軍の傷跡だが、庶民が被った被害の少なからざる部分が「官軍」による「掠奪」であることは、もはやいうまでもないだろう。

 上海から「六晝五夜」の旅の後、“地上の天国”と形容された杭州に到着する。太平天国軍の残した傷跡もみられるが、「北地ノ如ク汚衣ヲ着シ臭氣ヲ帶ビタル者アルヲ見ス」というから、杭州は曾根が10年ほど前に歩いた天津や北京ほどは汚くはなかったわけだ。

 やがて念願の西湖に舟を浮かべ、岸辺の古刹に向う。大歓待された後、吾哲と名乗る大僧が語るアヘン戦争以後の惨状に耳を傾ける。曾根の「鬱」は洗い流せただろうか。《QED》

posted by 渡邊 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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