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2015年04月01日

【知道中国 1222回】 「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1222回】        一五・三・三十一

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−3)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 「同文同種唇齒ノ國」、「怨みに報いるに徳を持ってす」、「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」に共通するものはなにか。それは《口先外交》である。軍事力にせよ、昨今の日本で流行りのクール・ジャパン式ソフト外交にせよ、やはり先立つモノが、それ相応に必要だろう。ことに兵器は莫大な予算がなければ備えられない。だが、《口先外交》は一銭も要らないうえに、相手の心を支配してしまう。心を支配すれば相手から靡いて来るわけだから、後は煮て食おうが焼いて食おうがお好み次第。俗にいう“鴨葱”というヤツだ。費用対効果を考えても、これほど安上がりで効率的な外交はないだろう。相手(この場合は日本)が敵意を持たないばかりか、こちら(この場合は中国)の言うがまま。明治期以来、じつは日本は《口先外交》に翻弄されてきたといえるのだ。

 「同文同種唇齒ノ國」である日本と清国の兄弟国が力を合わせ「歐米ノ凌辱」に対抗すべしという曾根の考えが、後に盛んになる「アジア主義」の萌芽と言えるかどうかの判断は暫く措くとして、当時の日本には一方に「巨礮一擊燕京ヲ陥レテ後ニ止マン」、一方に日清両国は「兄弟」であればこそ「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法」を求めるべきだという2つの考えがあり、最終的には前者が後者を押さえたからこそ、明治政府は台湾出兵に踏み切ったということだろう。

 これに対し清国側は、自国が置かれている悲劇的情況を深刻に捉えるわけでもなく、相も変わらず過剰なまでの大国意識。そうでなければ、「東洋一點彈丸ノ小島・・・〔中略〕小國ノ大國ヲ侵ス豈ニ勝ツノ理アラザランヤ(東洋[にほん]なんて弾丸一粒ほどのチッポケな小島だ。戦争せずとも降伏させてやる。どだい小国が大国に戦勝しようだなどと、ふざけ切った話だ)」などと嘯いたままでいられるわけがない。この自己認識や自己省察なき誇大妄想癖もまた、かの民族の特徴の1つ。彼らの夜郎自大ぶりが何とも滑稽だが、《口先外交》は冷徹な計算に支えられていることも忘れてはならない。敵を侮るな、である。

閑話休題。

 おそらく日清両国闘うべからずという主張が退けられたからこそ、曾根は「杭州ニ遊ヒ鬱ヲ西湖ニ洗ハンヿヲ約シ」て上海を後に「清国漫遊」に一歩を踏み出したはずだ。

 舟で進み、時に陸に上がり、また舟に戻る旅だった。何処に行っても曾根らを囲んだ老若男女が「外國人々々々ト呼ビ交々去リ交々來ル恰モ朝市ノ如キ混雜ヲ極メ」た。よほど日本人が珍しかったのだろう。どこの街でも夜になると「夜中巡邏スル者アリ砲ヲ發シ鐘ヲ鳴ラシテ盗賊ニ戒備セリ」というのだから、やはり治安は悪かったわけだ。

 ある街では規模は大きいものの、「人家希レニシテ荒蕪多ク處々斷橋灰壁等ヲ見ル」。そこで「土人」に尋ねると、以前は1万戸を数えた「繁華昌榮ノ村落」だったが、太平天国軍に占領されてしまった。その結果、太平天国軍攻撃に当たった「官軍ノ焼擊掠奪ヲ被リ今猶舊時ニ復スル能ハザリシコソ遺憾ナリ」と。敵である太平天国軍を撃退した後、あろうことか「掠奪」を恣にする。これが清国の、いや中国歴代の「官軍」の特徴である。どこへ行っても目にする太平天国軍の傷跡だが、庶民が被った被害の少なからざる部分が「官軍」による「掠奪」であることは、もはやいうまでもないだろう。

 上海から「六晝五夜」の旅の後、“地上の天国”と形容された杭州に到着する。太平天国軍の残した傷跡もみられるが、「北地ノ如ク汚衣ヲ着シ臭氣ヲ帶ビタル者アルヲ見ス」というから、杭州は曾根が10年ほど前に歩いた天津や北京ほどは汚くはなかったわけだ。

 やがて念願の西湖に舟を浮かべ、岸辺の古刹に向う。大歓待された後、吾哲と名乗る大僧が語るアヘン戦争以後の惨状に耳を傾ける。曾根の「鬱」は洗い流せただろうか。《QED》

posted by 渡邊 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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