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2015年05月28日

【知道中国 1243回】  「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室20)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1243回】        一五・五・念七

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室20)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 道路は「幾十百年ノ間修繕ヲ怠リ」、北京の街中の大道ですら「土崩レ石飛ビ泥濘狼藉タリ」し状態であるうえに、そんな悪路にも耐えるように頑丈に作って馬車だが肝心のスプリングを付けていないから、「車上ニ坐スル者ヲシテ動揺震盪ニ堪エザラシム」と。こんな馬車でデコボコ道路を突っ走り、郊外では道路なのか田畑なのか判然としない。なんといっても「其ノ地廣漠ニシテ彊域ノ狹カラザルガ故」というものだろう。こんな点も「亦タ日本人ニ取リテハ意想外ノヿ」ではある。

 悪路の次が乞食だ。「北京城内ノ多キハ殊ニ厭フ可シ」。「其ノ形状ハ敝レタル垢衣ヲ穿チ肩ヲ露シ膝ヲ出シ蓬頭黧面其ノ醜惡一目厭惡ニ堪へザルモノ」であり、とにもかくにも「錢ヲ乞フノ状ハ頭ヲ塵土ノ中ニ埋メ徒ニ叩頭スルモノアリ兩手ヲ出シテ哀求スルモノアリ」。追い払おうがどうしようが、しつこく付きまとって離れようとしない。

 「北京城内外ノ諸寺」に赴けば、こういった手合いや「僧侶ノ垢衣ヲ着ケタル者ガ前後ニ圍繞シテ錢ヲ乞フ」というのだから、まったくもって堪ったものではないだろう。かくて小室は「滿域乞丏ノ群ナリ耻ナキノ甚シト謂フベシ」と捨て台詞。どこもここも乞食の群れだ。恥と云うものを知らないにもほどがあろうに――といったところか。

 時に小室は郊外を縦横に繋ぐ水路を小舟で遊ぶ。と、目に映る風景は中国の山水画そのもの。「因テ思フニ漢畫ノ山水ハ皆寫生ヨリ出タルモノニテ一幅ノ雲烟モ眞景」だ。翻って考えるに、我が日本の文人画は技巧が過ぎて「一種異様ノ形ヲ畫」きすぎている。「畫」というものを知らなすぎる。だから「文人畫ヲ學ブ者モ亦一タビ支那ニ漫遊」してみれば、日頃の技巧が過ぎていることを自覚するだろう、と。ここでも小室は日本人が中国と思い込んでいる中国は、ホンモノの中国ではないことを感じている。「亦タ日本人ニ取リテハ意想外ノヿ」ということだろう。

 ラマ教寺院を参詣し、「今ヤ清朝ノ綱紀弛ミ上下解體ノ時」であるにもかかわらず、「彼ノ剽悍倔彊死ヲ畏レザルノ蒙古人」が決起しない理由を考える。乾隆帝を筆頭に清朝歴代皇帝は蒙古人が厚く帰依するラマ教を厚遇してきたがゆえに、蒙古人は骨抜きにされ「事ヲ擧ルノ心」を失っているからだ。けっきょく蒙古人魂が雲散霧消してしまったのは、清朝皇帝の「偉業ナリト云フ宗教ノ人心ニ係ル大ナルヲ見ル可シ」と。

 中国での時間も残り少なくなった小室は、中国における旅の心得を綴る。

 「支那ノ内地ヲ旅行スルモノハ夜具食器其他一切ノ手廻道具」、いいかえれば屋根と柱と壁と床以外の一切を持ち歩かなければならない。なにせ旅館と言っても「夜具布團其他必需ノ品」を備えているわけでなく、浴室も便所もない。部屋は「矮陋不潔ニ乄塵埃堆積蜘蛛網ヲ掛ク壁ハ建築ノ後修メシシヿナク障子ハ十年紙ヲ新ニスルヿナシ」。これを「我邦ノ家屋ニ譬へ」れば、「恰モ田舎ノ閻魔堂辻堂ノ如」し。便所がないから室外の空き地で用を足すことになる。最初は恥ずかしいが、次第に慣れて来る。「蓋シ羞惡ノ心日ニ薄キナリ一笑又一嘆ナリ」。ともかくも劣悪極まりない環境だが、そのうえに「春夏ノ候ニハ床虫ト云フ害虫」に襲われる。ダニのような虫で、「其毒最モ劇ナリ」と。とにもかくにも、徹頭徹尾不潔。これまた日本人の「意想ノ外ノ者ナル歟」である。

 明治17年10月19日に北京を発った小室は天津・上海を経由し、11月2日に長崎港に降り立つ。「支那人民ニ係ル百般ノ事大率皆意想ノ外ナラザルハナカリキ」と思って出向いたものの、前後2ヶ月ほどの旅程は小室の考えを確実に変えた。聞くと見るとでは想像を絶するほどに違っていた。かくて「支那人ノ事ハ日本人ノ腦裏ノ權衡ニテハ決シテ秤量スルベカラザルモノト知ル可シ」となる。熟考すべきは「日本人ノ腦裏ノ權衡」か。《QED》

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2015年05月26日

【知道中国 1242回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室19)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1242回】        一五・五・念五

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室19)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 小室に従うなら、当時の北京、少なくとも外城と呼ばれる庶民の街を散策する際には、目に染み入るような強烈なアンモニア臭を覚悟しなければならなかったということだろう。

 ところで「サテ此ノ滿城ノ人畜ガ垂レ流シタル糞矢ハ如何ニナリニユクモノ」と小室ならずとも疑問に思うところだが、じつは「拾糞人アリテ日々街上ヲ駈廻リテ此ノ糞穢ヲ拾採シコレガ爲ニ路上ノ糞土モ新陳代謝ナシテ便通ノ餘地アルヲ得セシムモノナリ」。つまり拾糞人が日々片づけるから、街路から糞便が消える。糞便が消えた街路で、またぞろ人々は5人、10人とシリを捲って蹲るという寸法だ。だから拾糞人が消えてなくなれば、ほどなく「北京ノ街道糞ノ爲メニ壅塞シテ通ゼザルニ至ラン」。つまり糞便の山に埋もれてしまう。天子の都も糞便塗れとは洒落にもならない。「實ニ想像スルモ畏ルベキ事」ではある。

 小室は、よほど好奇心の強い人らしい。「拾糞人」が拾い集める「滿城ノ人畜ガ垂レ流シタル糞矢」の行末が気になり、「馬車ヲ飛バシテ城外」に向かった。城門の1つである「安定門外ヲ過ギタルニ一陣ノ秋風臭ヲ送リ來リ穢氣鼻ヲ衝キ殆ト堪フベカラザル」ほど。そこで悪臭のする方を眺めると、「左邊城壁ノ下ニ於テ數基K色ノ丘陵アルヲ發見セリ」。ここで注目すべき「K色ノ丘陵」だが、これこそ「則チ糞山ナリ」。

 じつは「拾糞人」は街中で拾い集めた糞穢を運んできては、「泥土ニ和シ炭團様ノ糞塊ヲ作リ積ンデ丘を爲シ日ニ曝シ乾燥シテ而乄後ニ之ヲ苞ニシ以テ南方諸島ニ輸送シテ肥料トシテ利ヲ得ルモノナリ」と。つまり北京の人糞は土と混ぜられ団子状に固められた後、肥料として南方諸島に送られていた。人糞は輸出用肥料の原料であり、安定門外は外貨獲得のための肥料製造工場ということになる。モノを無駄にしないというべきか、一石二鳥というべきか、超合理主義精神というべきか。

 小室は指摘していないが、乾燥著しい冬の北京が心配になった。街路の糞便は水分が蒸発し、粉末と化すはず。そこに朔北から冷たい疾風が吹き付けるや、粉末となった糞便は大気中に飛散する。それが通行人の目に入り、口に飛び込み・・・いや、これは杞憂というのか。そんな“些末”なことを気にしていては、生きてはいけなかっただろう。

 小室は「北京城内ニ於テ不潔ニ次ギテ困難ヲ覺エシハ塵埃ナリ」と記した。汚染の程度は「天ニ漲リ漠々トシテ日ヲ蔽フ」ほどであり、「塵埃ノ起ル甚シキヿ殆ト東京ニ十倍スルモノナリ」と見做している。かくて、風の吹かない日であっても、「馬蹄一タビ蹴レバ烟塵天ニ漲ル詩人所謂車馬塵馬蹄塵ナル者是ナリ」と。ともかくも一たび外出したら、頭の先から靴の先までが白灰色に変色することを覚悟しなければならない。

 北京の市街のみならず郊外でも道路は劣悪な状態。「大道モ土崩レ石飛ビ泥濘狼藉タリ」といった様子で、「幾十百年ノ間修繕怠リシ者カ」と疑問を呈す。

 漢民族が最も崇め奉っている孔子を祀る孔子廟ですら、時の経過の中で壊れたら壊れたまま。瓦は崩れ、屋根にはペンペン草が生い茂り、壁も柱も創建当時の華麗・豪壮さは想像すべくもないほどに廃屋状態になっていたとしても、補修の必要性は感じないようだと、当時の多くの日本人旅行者が共通して呆れ気味に指摘している。これに小室の考えを重ね合わせると、どうやら彼らは時の権威・権力を示す建造物を建設することには強い興味を示しながらも、それを保守・修繕して創建当時の状態を維持することには些かも関心を持たない。いわば造ったら造ったまま。後々までも残そうなどは気にしないということか。

 たとえば北京オリンピックに向け鳴り物入りで建設された多くの施設は江沢民の権勢を示しこそすれ、必ずしも次の胡錦濤の権威を裏付けるものではない。ならば習近平にしても胡錦濤政権時の一切は、やはり好ましいものではないということになるはずだ。《QED》

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2015年05月24日

【知道中国 1241回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室18)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1241回】         一五・五・念三

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室18)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 小室とは大いに離れてしまったと反省し、ここらで本来の道に戻ることとするが、これからも時と話題に応じて脇道に逸れることを、念のため予め記しておきたい。

 さて、小室は清国の武装反乱勢力の動向に注目する。

 山東省で喰い逸れ海を渡って満州で暴れ回る馬賊、「白蓮會哥老會齋徒密徒ノ如キ宗ヘノ力ヲ假リテ愚民ヲ嘨集スルノ匪徒」、「山林ニ潛匿シ時トシテ出デ掠ルノ山賊」、「海島ニ據ルノ海匪」など種々雑多な匪賊が中国全18省に満ち溢れ威令は地に墜ちたも同然だ。かりに外国勢力によって北京が押さえられたら、清国崩壊は必至。だからこそ、「東洋ノ政略ヲ談ズル者眼ヲ茲ニ注ガズンバアルベカラズ」ということになる。いわば将来の東洋の動向を考えるなら清朝崩壊という事態を想定しておくべきだ、ということだろう。ちなみに清朝の命脈が断たれたのは、小室の発言から四半世紀が過ぎた1911年に勃発した辛亥革命によってであった。

 政治向きの話はこの辺で打ち止めとし、いよいよ小室の筆は市井の日常に及ぶ。なにはともあれ、とにもかくにも耐えられないほどに汚い。

 「予ハ北京城内ノ不潔ナルヿハ曾テ耳ニスル所有リキ然レドモ堂々タル一大帝國ノ帝都ナレバ斯ク迄ノ不潔ナラントハ想ハザリキ」と。以下、原文を引用しつつ現代風に書き換え、小室の率直な驚きを綴ってみたい。

 ――以前、朝鮮の都に行った際、不潔極まりない街並みに胆を潰したことがあるが、しょせん朝鮮は貧弱国家であり、「取ルニ足ラザルノ國柄ナレバ其ノ不潔モ亦當然ノ事」であり、致し方ないことと我慢したものだ。だが、その朝鮮が大国と尊敬し従属している清国の帝都・北京の不潔さには驚き入った。なんせ「朝鮮王都ニ倍」するほども汚いのだから。

 先ずは繁華街。多くの人々が道の左右に端にしゃがみ込んで大便である。人前で。しかも白昼堂々と。5人、時に10人が突き出したケツを並べて「之ヲ爲ス」。「其ノ爲ス者ハ人ノ之ヲ見ルヿヲ耻ヂズ通行ノ男女之ヲ見テ怪ミヲ爲ス者ナシ」。たしか日本でも20年ほど前までは不届きにも路傍で立小便をする者がいた。だが、まさか昼の日中から、しかも多くの人が行き交う繁華街で大便する者など見たことがない。

 大便がこれだから、もはや小便は勝手気まま。尿意を催すを幸いに所構わずに放つ始末。そこで小便が小川をなすことになる。道端には人糞に加えラクダ、ロバ、犬や豚の糞が並び、「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」。そんなわけで細心の注意をして歩かないと、「足糞穢ヲ履ミ汚サレザル者ハ稀ナリ」。昼間でもこうである。ならば灯のない夜間の道は危険極まりない。ともかくも道路中央を歩かないと、必ずや悲惨な目に遇ってしまう。

 一般の家屋には便所というのもがない。(北京滞在中に小室は)それ相応の邸宅を借りたものの、やはり便所がない。そこで仕方なく庭の隅や軒下で「大小便ヲ爲」さざるをえない羽目となるわけだが、程なくして「邸内ノ空地到ル處糞穢堆ヲ爲シ足ヲ容ルヽノ地ナキニ至」ってしまう。夜は夜で一苦労だ。他人が残した糞便を踏みかねないから、暗闇の中を細心の注意を払って空き地を探ることになる。雨の日は雨で、「甚ダ困難」だとか。それもそうだろう、「右手ニ傘ヲサシテ左手ニ裳ヲマクラザルヲエズ」という始末だから――

 雨の日だからといって、じっと我慢できるものではないだろう。だが、右手で傘をさしながら、左手だけで「大小便ヲ爲」す。う〜ん、これは曲芸としか表現しようはない。ならば当時の北京では、しかるべき地位に在った知識人もまた雨の日には傘を片手に「大小便ヲ爲」していたということだろうか。

 それにしても朝鮮を「取ルニ足ラザルノ國柄」と切り捨てるとは、さすがに小室だ。《QED》
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2015年05月16日

【知道中国 1240回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室17)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1240回】        一五・五・仲三

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室17)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 カジノ営業許可証の周囲の壁には、「××華僑學校名誉董事長某某」「××華人商会永遠名誉主席某某」などと記された証書が分不相応に豪華な額縁に納まって掛けられていた。もちろん、営業許可を得た人物と証書に記された某某は同一人である。一方の手でカジノを経営しながら、残る一方の手で社会的名士として振る舞い、裏と表の社会を自由に行き来して影響力を肥大化させ、遂には政治的利権までを手中に収めてしまう。そういえば、かつて「魔都」と呼ばれていた時代の上海の裏社会を仕切っていた大親分の杜月笙も、表社会では心優しき慈善事業家として振る舞っていたものだ。

 どうやら、この手の胡散臭いカラクリは、華人(=中国人)社会に一般的にみられるものかも知れない。いや、表と裏の社会のつながりは時代を越えて万国共通だろう。だが、それにしても彼らの場合、アッケラカンと露骨に過ぎるようにも思える。

 数年前までポル・ポト派の拠点だった街も、ひとたび華人が舞い戻ったら、知らず覚らずのうちに変容してしまうということだろうか。しかも彼ら胡散臭い人士は、プノンペンの政界枢要に通じているだけでなく、香港やら台湾、はては中国の裏社会とも結ばれているらしいというのだから、全く以て始末が悪い。そういえば90年代初頭からの10数年の間、カンボジアは香港や台湾のみならず、中国の指名手配犯の有力な逃亡先といわれたものだ。はたして現在も、そうかも知れない。だとするなら、カオイダン難民キャンプで聞いた「10分の1の人口を占めれば、その街を華人が押さえる」との話は、まんざらホラとも笑い飛ばしていられないようだ。

 ポイペトのカジノ探訪から8,9年が過ぎた2013年の春、プノンペンからバスでホーチミンに向かったことがある。

 ヴェトナム戦争、それに続くポル・ポト政権時のクメール民族主義に基づく失地回復を掲げたヴェトナムとの間の領土紛争、さらにポル・ポト派殲滅のためのヴェトナム軍のカンボジアへの進軍――20世紀60年代から90年代初頭まで続いた戦乱の地は、経済発展への可能性を感じさせた。幹線道路の両側に広がる田園地帯の所々に台湾資本によって造成された大きな工業団地が見られたのだ。ここで作った製品は、カンボジアの主要港であるシハヌークビルに運ぶより、ヴェトナムのホーチミン港に送った方が早くて安価だという。

 カンボジアとヴェトナムとを結ぶ国境関門は、カンボジア領がヴェトナムに鳥のクチバシのように大きく入り組んでいることから「オウムのクチバシ」と呼ばれ、ヴェトナム戦争時には激戦地として知られたスバイリエン州のヴァベットにある。

 ヴェトナム側に入国すべくヴァベット(華人は「巴城」と表記)に到着して驚いた。幹線道路の両側には長閑な田園地帯の周囲とは不釣り合いなほどに豪華なホテルが立ち並んでいたのだ。しかも巴域木牌園大酒店娯楽城、巴域冠賭城和酒店、新世界娯楽城大酒店など麗々しく漢字の名前の大きな標識が掲げられている。聞いてみると全部で12軒。そのすべてがカジノ(漢字で「娯楽城」「賭城」と表記)を併設、いやカジノがホテルを併設しているというべきだろう。客の殆どは、週末にカジノ目当てにヴェトナムからやってくる華人客だとのこと。

 西のポイペトはポル・ポト派の拠点であり、カンボジア内戦時の攻防の地だった。東のヴァベットにはアメリカ、カンボジア、ヴェトナムの3国の兵士たちの血が染み込んでいる。カンボジアの現代史を象徴する東西の2つの国境の街は、戦乱が収束するといつしかカジノの街へと変貌を遂げていた。しかもカジノ営業者も、一獲千金の夢を追って遊ぶ客も共に国境を跨いで広がる華人社会から・・・一筋縄ではいかない方々、ではある。《QED》
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2015年05月13日

【知道中国 1239回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>

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【知道中国 1239回】         一五・五・十


 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室16)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 夕方になると、難民キャンプは閉鎖される。そこでキャンプから出て、近くのアランヤプラテートの街に戻る。

 かつてバンコクを発って東に向かって進んだ列車は、アランヤプラテートで国境の川に架かる鉄橋を越えてカンボジア最初の街であるポイペトへ。その後、鉄路はバッタンバンなどカンボジア中西部を経てプノンペンに至り、さらにヴェトナム南部のホーチミン(旧サイゴン)に通じていた。

 70年代末、ヴェトナム軍の追撃を逃れながらタイ国境に近いカルダモン山塊に逃げ込んだポル・ポト派は抵抗拠点を構築し、一帯で採れるルビーと木材をポイペトで売り捌きながら延命を図った。つまり当時のアランヤプラテートは、ポル・ポト派の最重要戦略拠点であるポイペトに対峙する国境の街だったわけだ。であればこそ、この街には難民相手の俄か商人やら内外の戦争ジャーナリストが犇めき、僅かしかなかったホテルは、どこも満室だった。居並ぶ商店の多くは、米・調味料・砂糖などを一包みにした難民向けの商品を積み上げた問屋に商売替えしていた。もちろん、それら難民向け商品はバンコクの華人商人の手で調達され、アランヤプラテートにピストン輸送されたのである。

 老朽ホテルだが、贅沢はいえない。とはいえ、とにかく蒸し暑い。エアコンはなく、開け放った窓から吹き込んで来る僅かな生暖かい風と天井の大型扇風機のみが頼りだ。窓の外は漆黒の闇。暫くすると国境の向こう側から腹に響くような大砲の音。すると天井の薄明かりがスーッと消え、扇風機が音もなく止まる。蒸し暑さが部屋の中に充満し、眠れない。たしかに、ここは戦場だった。いや正確には、戦場に接しているという形容すべきか。

 翌朝、ホテルで作ってもらったバナナの皮で包んだチャーハンを持って難民キャンプに向かう。国境に沿って北上する国道を難民相手の品物を持った商売人たちと先になり後になり進むと、進行方向右手のカンボジア側に鬱蒼と茂る熱帯疎林から難民が続々と現れ、カオイダン難民収容所を目指す。カンボジアの方向からは、時折、銃声も聞こえる。やはり、そこは戦場だった。

 やがてタイ国軍司令部許可のカオイダン難民キャンプ通行証の期限が切れる。ホテルを引きあげ、バンコクに向って西に進むと、国境に向かってフルスピードで進むタイ国軍ジープに出くわす。昼というのにライトを点灯させ、その後ろには砂塵を挙げ道路を揺るがせて進む戦車が続く。もちろん、こちらは車を路肩に寄せる。戦車、装甲車、完全武装の兵士を満載した軍用トラック、そして殿はジープ。

 バンコクへの帰路の途中で、国境から相当に離れた場所に設置されたポル・ポト派専用の難民キャンプを覗く機会をえた。背は低いが、がっちりとした体つき、衣服からはみ出した肌は黒光り。鋭い眼光、潰れた片目、失われた手足――明らかにカオイダンの難民とは違う。国連職員の話では、彼らは休養を取り体力を回復させた後、難民キャンプを抜け出し、再び戦場に向かうとのことだった。

 その時から4半世紀ほどが過ぎた2005年前後の8月、ちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーに出掛けた。アランヤプラテートにかつての面影はなく、軒を並べる巨大な市場に商品は溢れ、広大な広場を埋めるようにバンコクからの観光バスが列をなしていた。

 その日はタイ王妃誕生日。王妃の長寿を祝い、その日一日だけ国境関門が開放され、ポイペトへの往来は自由だった。人々の流れに沿って国境を越える。かつてポル・ポト派の拠点だった街に居並ぶカジノに、人々は吸い込まれて行く。数軒のカジノを覗くと、入り口に麗々しく掲げられた営業許可証には、例外なく漢字の名前が記されていた。《QED》

posted by 渡邊 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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