
【知道中国 1243回】 一五・五・念七
――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室20)
『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
道路は「幾十百年ノ間修繕ヲ怠リ」、北京の街中の大道ですら「土崩レ石飛ビ泥濘狼藉タリ」し状態であるうえに、そんな悪路にも耐えるように頑丈に作って馬車だが肝心のスプリングを付けていないから、「車上ニ坐スル者ヲシテ動揺震盪ニ堪エザラシム」と。こんな馬車でデコボコ道路を突っ走り、郊外では道路なのか田畑なのか判然としない。なんといっても「其ノ地廣漠ニシテ彊域ノ狹カラザルガ故」というものだろう。こんな点も「亦タ日本人ニ取リテハ意想外ノヿ」ではある。
悪路の次が乞食だ。「北京城内ノ多キハ殊ニ厭フ可シ」。「其ノ形状ハ敝レタル垢衣ヲ穿チ肩ヲ露シ膝ヲ出シ蓬頭黧面其ノ醜惡一目厭惡ニ堪へザルモノ」であり、とにもかくにも「錢ヲ乞フノ状ハ頭ヲ塵土ノ中ニ埋メ徒ニ叩頭スルモノアリ兩手ヲ出シテ哀求スルモノアリ」。追い払おうがどうしようが、しつこく付きまとって離れようとしない。
「北京城内外ノ諸寺」に赴けば、こういった手合いや「僧侶ノ垢衣ヲ着ケタル者ガ前後ニ圍繞シテ錢ヲ乞フ」というのだから、まったくもって堪ったものではないだろう。かくて小室は「滿域乞丏ノ群ナリ耻ナキノ甚シト謂フベシ」と捨て台詞。どこもここも乞食の群れだ。恥と云うものを知らないにもほどがあろうに――といったところか。
時に小室は郊外を縦横に繋ぐ水路を小舟で遊ぶ。と、目に映る風景は中国の山水画そのもの。「因テ思フニ漢畫ノ山水ハ皆寫生ヨリ出タルモノニテ一幅ノ雲烟モ眞景」だ。翻って考えるに、我が日本の文人画は技巧が過ぎて「一種異様ノ形ヲ畫」きすぎている。「畫」というものを知らなすぎる。だから「文人畫ヲ學ブ者モ亦一タビ支那ニ漫遊」してみれば、日頃の技巧が過ぎていることを自覚するだろう、と。ここでも小室は日本人が中国と思い込んでいる中国は、ホンモノの中国ではないことを感じている。「亦タ日本人ニ取リテハ意想外ノヿ」ということだろう。
ラマ教寺院を参詣し、「今ヤ清朝ノ綱紀弛ミ上下解體ノ時」であるにもかかわらず、「彼ノ剽悍倔彊死ヲ畏レザルノ蒙古人」が決起しない理由を考える。乾隆帝を筆頭に清朝歴代皇帝は蒙古人が厚く帰依するラマ教を厚遇してきたがゆえに、蒙古人は骨抜きにされ「事ヲ擧ルノ心」を失っているからだ。けっきょく蒙古人魂が雲散霧消してしまったのは、清朝皇帝の「偉業ナリト云フ宗教ノ人心ニ係ル大ナルヲ見ル可シ」と。
中国での時間も残り少なくなった小室は、中国における旅の心得を綴る。
「支那ノ内地ヲ旅行スルモノハ夜具食器其他一切ノ手廻道具」、いいかえれば屋根と柱と壁と床以外の一切を持ち歩かなければならない。なにせ旅館と言っても「夜具布團其他必需ノ品」を備えているわけでなく、浴室も便所もない。部屋は「矮陋不潔ニ乄塵埃堆積蜘蛛網ヲ掛ク壁ハ建築ノ後修メシシヿナク障子ハ十年紙ヲ新ニスルヿナシ」。これを「我邦ノ家屋ニ譬へ」れば、「恰モ田舎ノ閻魔堂辻堂ノ如」し。便所がないから室外の空き地で用を足すことになる。最初は恥ずかしいが、次第に慣れて来る。「蓋シ羞惡ノ心日ニ薄キナリ一笑又一嘆ナリ」。ともかくも劣悪極まりない環境だが、そのうえに「春夏ノ候ニハ床虫ト云フ害虫」に襲われる。ダニのような虫で、「其毒最モ劇ナリ」と。とにもかくにも、徹頭徹尾不潔。これまた日本人の「意想ノ外ノ者ナル歟」である。
明治17年10月19日に北京を発った小室は天津・上海を経由し、11月2日に長崎港に降り立つ。「支那人民ニ係ル百般ノ事大率皆意想ノ外ナラザルハナカリキ」と思って出向いたものの、前後2ヶ月ほどの旅程は小室の考えを確実に変えた。聞くと見るとでは想像を絶するほどに違っていた。かくて「支那人ノ事ハ日本人ノ腦裏ノ權衡ニテハ決シテ秤量スルベカラザルモノト知ル可シ」となる。熟考すべきは「日本人ノ腦裏ノ權衡」か。《QED》