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2015年06月17日

【知道中国 1248回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1248回】             一五・六・初六

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎5)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 長江を遡行しての内陸視察を予定していたが、どうも台湾における戦況が気になったと見え、尾崎は暫時内陸旅行を取り止め、取材のために上海に留まることにした。

 その日は10月3日。中秋節だった。「爆竹の聲朝來四方に聞ゆ、不幸にした陰霖止まず、夜に入りて月を見ず」。無聊を託つ尾崎の許に岸田吟香(天保4=1833年〜明治38=1905年)がやってきた。新聞記者出身の岸田は銀座で起こした楽善堂を拠点に目薬の「精リ水」の販売で財を為し、後に中国各地に販売網を広げ、荒尾精ら中国大陸で活動する日本人を支援。日清貿易研究所や東亜同文書院の設立に動いた。初期の良質な大陸浪人の象徴。

 話が「清國の地制」に及ぶと岸田は、「支那に郷縉なる者あり、即ち大地主にして其所有地の多き、甞て本邦人の夢想せざる所、一人にして數十里を有することを説く勿れ、數百里を有する者又之れ有り」と説きだした。その財力は計り知れず、「侍妾數百の生計を營む」ほどだ。地方における隠然たる権力は凄まじく、府知事縣令なども「其鼻息を窺うて政を爲す」ほど。「若し誤て郷縉の怒に觸るれば、政績決して擧がる能はず、贈遺決して多きこと能はず、租税決して額に充つること能はざればなりと」。

 じつは「受負主義」の清朝の税制によれば、府知事縣令など地方の首長は各地方に割り当てられた税額を中央に上納した後の残余を自分の懐に仕舞い込んでいいことになっている。もちろん上から定められた税額を集められなかったら自分から持ち出すことになるが、そこは「官吏皆収斂の術に長ずるが故」に、徴税実績が予定を下回って自分で負担するなどというヘマをすることはない。反対に自分の取り分を大幅に増やすため、過大に徴税する。だから「一人官吏と爲れば子孫數世坐して富豪翁たることを得」。そこで「土皇帝」と呼ばれ、地方では皇帝然と振る舞い、各地の生殺与奪の万能の権限を手にする郷縉にヘソを曲げられたら、府知事縣令などは政治を行えないばかりか、肝心要の徴税すら覚束なくなってしまう。

 この「郷縉」という名の地主たちを、毛沢東は「土豪劣紳」として攻撃した。広大な土地を手にした彼は土地をテコにして圧倒的多数の農民を支配する一方、科挙試験を通じて身内から官吏を送り出し実質的に王朝を動かして来たからだ。彼ら地主を封建中国のガンと見做した毛沢東は、彼らを抹殺し奪い取った土地を分け与えることで、農民の支持を得たのである。この「土地改革」と称する恐怖政治が、共産党政権誕生の基盤だった。

 閑話休題。

 台湾での戦況が動き出した。フランス軍が北部の淡水を占領したようだ。やっと清朝から福建省の福州における戦況報告が公にされた。だが「舞文、過を飾るの巧妙なる、人をして一噴飯に堪えざらしむ」もの。かくして「其怯を轉じて勇と爲し、惰を化して勤と爲すの手段に至ては丹を練るの道士、空中樓閣を築くの小説家と雖も、恐くは三舎を避くべし。總て支那人の事を記するや、耳目の見聞する所に據らずして、想像の馳聘する所に據る、故に其記事の皇張誇大なる遠く本邦人の意想外に出で、動もすれば一二尺に足らざる白髪を、皇張して三千丈と云ふに至る、豈に啻だ針を以て棒と爲すの類のみならんや」と。

 ――卑怯な振る舞いを勇猛果敢と言い換え、怠惰を勤勉と粉飾する中国人にかかったら、万能の丹薬を作れると嘯く道士も嘘八百を書き連ねる小説家も敵わない。だいたい彼ら中国人は実態に基づくわけではなく、想像の赴くままに欲望の翼を目いっぱいに広げて書き捲る。だから、その記事の誇大妄想ぶりは日本人の想像の域を遥かに超えている。白髪三千丈に針小棒大。これこそが彼らの本質だ――

 そこで考える。AIIB、「一帯一路」、「中華文化の偉大な復興」、「中国の夢」とは、さてさて「耳目の見聞する所に據らずして、想像の馳聘する所に據る」ものなのか、と。《QED》

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2015年06月15日

【知道中国 1247回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1247回】            一五・六・初四

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎4)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 某日は雨。終日、宿舎に留まって太平天国軍討伐の顛末を記した『髪賊征討記』を読み、「當時諸将」が現在の清国軍指揮官と同じで「偸安姑息」だったがゆえに、太平天国の跳梁跋扈を許してしまったと結論づける。太平天国軍と対峙した「當時諸将」の戦いぶりはともあれ、清仏戦争における清国指揮官の「偸安姑息」な様を「敵來れば即ち遁逃し辛苦經營せる金城鐵壁をして、空しく敵の手中に落ちらしむ」と評した。やはり古今東西、「偸安姑息」な愚将が指揮する烏合の弱卒では、戦に勝てるわけがない。戦端を開く前から、百戦百敗は定まっている。

 雨の次は好天。そこで尾崎は来清の目的を考えた。山川を眺め、「風流艶冶の樂を買」い、時にバカ文人と交流し議論するためではない。やはり「一は大陸の形勢を蹈驗して他日の考資に供し、一は佛清交爭の實状を報道し、我が報知新聞の讀者をして勝敗利鈍の因て起る所を知らしめんが爲也」。つまり将来のために大陸の情況を詳細に観察・分析する一方、清仏戦争の戦況を読者に報じるために来たわけだ。

 やおら尾崎は「戦場ジャーナリスト」に立ち戻る。上海に上陸して1ヶ月ほどを経るが、緒戦におけるフランス海軍の一撃以来、両国軍は「一兵を交えず」。それというのも「清廷の虛弱なる進んで佛軍を攻むる氣力ある者に非ず、故に戰は佛軍より起らざる能はず」と。

 つまり清国政府中枢には進んでフランスと戦おうなどという気力の持ち主はいない。だから戦争の指導権を握るのはフランス軍ということになる。フランスは陸軍を派兵していないので、専ら海からの攻撃になる。艦砲射撃で海防堡塁を破壊した後に陸兵を送り込み、占領地域を拡大・確保してこそ、大陸における戦争での最終的勝利がもたらされる。にもかかわらずフランス軍に陸軍の備えはなかった。そこで勢い清仏戦争は、陸軍(清国)対海軍(フランス)となり膠着状態に陥ってしまった。やはり大陸での戦争は陸軍が主だ。

 戦況はともかく、尾崎は中国内地旅行の常で「飲食、寝具其他諸般の物什を携帯」する準備を整え、折から上海に滞在していた曾根俊虎(『北支那紀行』『清國漫遊誌』の著者)から紹介状を貰うと同時に、上海入港中の扶桑艦に松村少将を訪ね、旅行経路になる長江沿岸の情況を聞いている。

 宿舎への帰路、当時の中国を代表する改革派の重鎮で、政治評論家でありジャーナリストの王韜(1828年〜1897年)を訪ねる機会を得た。王は「一面には余に筆紙を與へ、一面には自ら筆を執て」、尾崎を大歓迎した。

 さて一応の挨拶を済ませた後に筆談となった。すると突然に王韜は清仏戦争緒戦における清軍の無残な敗北について、「中國の大、華人の衆以て佛を制する能はず、唯當事者因循、一速字を服膺する能はざるに因るのみ」と綴った。これに対し尾崎は、「北京に在て局に當る者皆先生の見識あらば、今日の如き失體はなかる可しと雖も、然れども積弊の致す所容易に之を振刷して、清國の面目を一新する能はざる可き」と応じた。

 国土宏大なうえに人口が多いにもかかわらずフランス如きに敗れた原因は、清国の政柄を執る者が逡巡して積極果断に動けないからだ――これが王韜の言いたかったことだろう。だが尾崎は、北京中枢の人々の全員が王先生のような見識を備えていたならば、フランス如きにムザムザと敗れはしなかったはず。しかし積年の陋習・悪弊は容易に改めることはできません。清国の面目を一新するようなことは望み薄というものでしょう――と応じた。王の反応を知りたいところだが、尾崎は「筆談の際夕日既に窓に映ず」と記すのみ。

 この時、56歳の王に対し尾崎は26歳。その堂々たる立ち居振る舞い、相手の肺腑を抉るような論旨は、異国の一大知識人を相手に30歳の年の差を微塵も感じさせない。《QED》

posted by 渡邊 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2015年06月14日

【知道中国 1246回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1246回】          一五・六・初二

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎3)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 午後は郊外に馬車を走らせた。道の両側には外人用の別荘が並び、さらに大型工場も見えるが、操業しているようでもない。聞いてみると、4年ほど前迄は好景気で内外の資本が合弁で次々に大工場を建設したが、完成時期に不景気に見舞われ、この有様だという。

 工場が途切れる辺りには綿花と豆の畑が広がっているが、畑中には「長六七尺横二三尺の木函を置くこと甚だ多く、間々藁包を以て之を掩へる者あり、又瓦の屋根を其上に造れる者あり、又高二三尺より四五尺に至るの小丘あり」。死者の棺と墓だった。「死後三年間は棺の儘にて之を畝畑の間に曝し、既に葬を終れば」、後は適宜処理することになる。かくして「棺?墳墓、田畝の間に亂點し、死者の父兄たり子孫たる者日々其傍に耕種し、古き者は壞て豆麥の肥料と爲し、新しき者は暫く存して雨風の壞崩するに任す」ことになる。この風習は全国的に行われているのかどうかは知らないがと断わったうえで、尾崎は「父母兄弟子孫の墳墓を毀て種を植ゑ、孝悌の道に於て缺くる所あるが如し、何ぞ孔孟のヘを以て此陋習を一掃せざる」と。

 血を分けた肉親の墓を壊し平然と農作業に勤しむとは、じつに不見識極まりない。孔孟の国でありながら、なぜ、孔孟の訓えの柱である孝悌の道に悖る無神経で不道徳な行いが日常茶飯に平然と行われているのか、というわけだ。

 ところが、である。かくもデタラメに扱いながら、他人が墳墓に触れることを極度に嫌う。近代化の一環として鉄道建設をしようにも、田畑のそこにもここに存在する墳墓に手が付けられない。鉄道は墳墓を避けなければならず、真っ直ぐに線路が敷けない。ならば、「鐵道築造を論ずる勿れ」と。伝統の桎梏というところだろうが、どうやら近代化は至難といったところか。

 上海到着して程なく、福建の要衝で知られた金派の守備兵が誤ってイギリス海軍のセフォール号を砲撃したとの情報を得た。じつは「兵機に敏捷なる」フランス海軍は福建の重要拠点に布陣を済ませ、「一朝和約の保ち難きを知るや、僅に十二分間にて清國の兵船十二艘を轟壞し、而る後に武庫、船廠、船渠を?破し」、福建配備の清國海軍を完膚なきまでに撃破してしまった。つまりフランスは和平交渉をする一方で、戦争の準備を怠らなかった。だが「徒らに自尊を大にして他を蔑視せる支那人」は、それを知らなかったということ。

 かくてフランス海軍の奇襲を受けるや、「徒らに自尊を大にして他を蔑視せる支那人も、一敗地に墜て大いに錯愕狼狽し、魂飛び眼昏」する。その結果、イギリス海軍旗なのかフランス海軍旗なのかの弁別もできず、遂には中立国であるイギリスのセフォール号に向って誤って砲弾を発射してしまったというわけだ。

 「徒らに自尊を大にして他を蔑視せる支那人」とは、まさに言い得て妙。彼らの「錯愕狼狽し、魂飛び眼昏」する姿が、目の前に浮かんでくるようだ。かくして周章狼狽・前後不覚・呆然自失・錯誤狂乱・百戦百敗・自己弁護・責任転嫁・・・。

 某夜、「居留外人の開設する」圓明園公園に出掛けた。そこは「滿園清麗亦體を休め氣を慰むに足れり」で、「此園固と衆と樂を共にするが爲めに設くる者、故に貴賤少長の皆均しく來り遊ぶことを許す」。つまり誰が来園して遊んでも許されるのだが、「犬と支那人に至て、門衛之を叱して入ることを禁ず」。それというのも、「一たび支那人を放て公園に入らしむれば、公園忽ちに其面目を汚損し、今日の清麗の状態を保つ能はざる」からだとのこと。外人居留地に住む中国人は公園施設の維持管理費用を供出しているゆえに、公園利用を求めるが、許可されない。そこで尾崎は、「支那人の(入園の)要求理ありと雖ども、恐くは容易に公園觀遊の權理を得難からん乎」と。自業自得と評するは、些か酷か。《QED》
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2015年06月13日

【知道中国 1245回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1245回】           一五・五・三一

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎2)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 当時の上海は新開の地である「英佛米租界」と、城壁に囲まれた「支那人の住する」城内とに分かれていた。後者こそ「眞の上海」であり、ここに足を踏み入れて初めて上海を見たといえる。そこで、尾崎は「上海の地理に熟する者に會する毎に必ず先導」を依頼した。だが、不案内、あるいは多忙を理由に断られてしまった。小室と福原とが運よく案内役を買って出てくれたので、2人の先導で「眞の上海」に向うこととなった。

 城内の道は人力車すら通れないほどに極端に狭いから、城門の前で人力車を降りる。すると「汚穢甚だしうして臭氣鼻を衝くが故、各皆巻煙草に點火して防臭劑と爲す可きを以てす」と。そこで尾崎も火を点ける。日頃はタバコを嗜まなかったそうだから、尾崎も咽せかえったことだろう。準備できたところで、「眞の上海」の探索の始まりはじまり〜ッ。

 まず城門の上に据えられた大砲。古色蒼然として、どう見ても300年以上昔に造られたものとしか思えない。近くに「赤色の粗衣を穿ち垢面亂髪或は坐して煙を吹き、或は椅に倚て假眠す」る「數名の賤丈夫」がいた。てっきり乞食と思ったら、じつは「城門を守る武夫」だった。超旧式の大砲に乞食と見紛うほどの弱兵。これでは城門防備の役に立つわけがない。やはり「眞の上海」は清国の真実――無様さを象徴していた。

 「街衢」は極めて「狹隘」。小石で舗装してあるが、「汚物穢品石路に散亂し、少しく注意を怠れば忽ち衣を汚すの恐あり」。道を先に進むほどに店舗は建込み、道はいよいよ狭く感じられる。進めば進むほどに悪臭が鼻を衝き、「同行の士皆鼻を掩ふ」。さらに進むと、ゴミだらけの薄汚れた溝に小汚い小橋が架かっていた。「支那人文字に巧み」だから、きっと想像もできないような「美名」を付けているだろうと思いきや、案の定である。なんと「北香花橋」というではないか。噴飯、これに尽きるというべきか。次に出くわしたのが、濃い黄色に濁った水面がブクブクと泡立ち、悪臭が噴き出している池だった。そんなキケンな池の中央に浮かぶ四阿が「湖心亭」で、そこに通じるのが「九折橋」。湖心亭では、いまや労働者たちが「裸體にして茶を飲み煙を喫す」。

 かくて「總て支那人は文字使用するに巧みなるが故、地名人名其他文字上に現はる者を見れば甚だ美にして慕ふ可きに似たりと雖ども、就て其實を察すれば忌む可く厭ふ可き者多し」ということになる。この尾崎の考察に従えば、毛沢東の「人民のために服務せよ」から始まって、習近平政権が掲げる昨今の「一帯一路」「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」まで、「其名の美なるに迷うて其實の粗惡なるを忘るゝ勿れ」ということになるのだろうか。

 尾崎は「眞の上海」の探索を続ける。

 関羽廟に詣でたが、「結構粗ならずと雖ども汚穢厭ふ可し」。廟を辞して進むと、「惡臭uす甚だしく、間々無蓋の糞桶を擔ひ走て狹路に過ぐる者あり」。こんなものにぶつかったらひとたまりもない。全身が黄金色に染め上げられてしまう。とはいえ、それを避けるには店に飛び込むしかない。かくて「無用の品物を買うて漸く汚瀆の難を免るゝを得たり」。

 とにもかくにも雑然極まりない街全体を、ジットリと悪臭が包み込んでいるようだ。「眞の上海」を概括するなら、「街衢頗る狹少にして溝渠縦横に通じ水陸共に甚だ汚穢なり」。だが、それでも「他の都邑(北京南京其他の大都)に比すれば清潔なりと云ふ」というからには、北京や南京は想像を絶するほどの汚穢ということになる。

 「城内にて見聞せる事項中奇なる者甚だ多」いが、なかでも「罪人を路傍に放置し、其路人を見て錢を乞ふことを許すの一事」には大いに驚く。しかも「罪人は毫も之を耻ぢず」という。さて、この錢は最終的には誰の手中に。役人、罪人、それとも折半?《QED》
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2015年06月12日

【知道中国 1244回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1244回】           一五・五・念九

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎1)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 「憲政の神様」で知られる咢堂こと尾崎行雄(安政5=1858年〜昭和29=1954年)は、24歳の明治15(1882)年に立憲改進党を組織する。それから2年が過ぎた明治17(1884)年、報知新聞社特派員として上海に赴く。僅かに26歳。

 「今茲甲申の八月廿七日、余事を以て清國に遊ばんと欲し、〔中略〕駿臺の家を發す」と書き出された『遊清記』は、上海における2ヶ月ほどを綴ったものだ。ここに記された「事」とは清仏戦争を指す。「佛清の事日に危急にして戰機稍く熟するや、余竊に遊清觀戰の意あり」と綴るように、尾崎は清仏戦争の現場での「觀戰」にこだわった。つまり現代風に言い換えるなら「戦場ジャーナリスト」ということ。尾崎によれば、同時期に時事新報社の本多孫四郎、大阪毎朝新聞の加藤政之助、神戸新報の桐原捨三、神戸又新新聞の矢田績、北清日報の森常太、自由党の小室信介、朝日新聞の長野一枝などが上海を中心に取材に当たっている。尾崎からすれば、『第一遊清記』の小室は同じ戦場ジャーナリスト仲間であり、ライバルだったことになる。

 ここで、『遊清記』を読む進むうえで当時の清国を取り囲む情況を知っておく必要があろうかと思うので、改めて清仏戦争の概容を記しておきたい。

 「アロー号事件」とも「アロー戦争」とも呼ばれる第2次アヘン戦争(1857年〜60年)で、英仏軍は北京に進撃し清朝皇帝の離宮である円明園を焼き討ちし掠奪を恣にする。かくて天津条約と北京条約が結ばれ、香港の九龍半島が英国に割譲され、中国要地の多くの港が西欧諸国に開放された。これらの港では外国人の治外法権や外国軍の駐留が認められ、さらに宣教師は内陸への布教の自由が許されることになる。法外な賠償金は当然のように清国財政を圧迫し、清国は自国支配の根幹すら脅かされるという窮地に陥った。

 1884年、ヴェトナムをめぐる確執からフランスとの間で戦端が開かれたものの、清国海軍は敗北を余儀なくされる。その結果、古くからの朝貢国であったヴェトナムはフランスの植民地に組み込まれてしまう。かくてヴェトナムを拠点に、フランスは雲南省を経由して中国南部への侵攻を始める。

 清仏戦争とは主に海軍の戦いであった。戦争開始直後、清国海軍の旗艦はフランス海軍の放った魚雷によって撃沈され、瞬く間に清国艦船は瓦解する。かくてフランスのインドシナ支配は確実なものとなるわけだが、一方的で屈辱的で完膚なき敗北を味わった農業国家の清国は、本国を遠く離れているにも関わらず強力な海軍力を維持・運用できるヨーロッパの先進工業国の実力を思い知るわけだ。だが、伝統が骨の髄まで染み込んでいた清国中枢から、改革の方向に政治の舵を切るという発想が生まれることはなかった。
横濱を発って8日後の9月4日、上海に到着。尾崎の取材は翌日から。

 上海に停泊していた我が海軍の扶桑艦を訪ね松村少将ほかから聞いたところでは、

■「諸砲臺皆脆弱にして其兵員脆弱取るに足らざること、更に倍する」

■「清兵の怯懦にして城壘砲臺頼むに足らず」

■「(城壘や砲台は堅牢でないというわけではないが)之を築く者既に兵を知らずして之を守る者亦戰て懼る、佛艦若し之に向はゞ恐くは一皷して陥るゝに難からざるべし」

 砲台は「脆弱」で兵員は「脆弱」にして「怯懦」。「兵を知ら」ない者が築いた砲台を、「戰て懼」れる者が守るというわけだから、戦う前から勝敗は判っていたということだろう。
扶桑艦を辞して宿舎に戻ろうとする尾崎の目に、「電氣燈と瓦斯燈とを點じ」、「光明恰も晝の如」き光景が飛び込んでくる。「英米佛租界」は繁栄するばかり。

 翌日の取材は「汚穢甚だしうして臭氣鼻を衝く」ところの「眞の上海」であった。《QED》

posted by 渡邊 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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