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2015年06月12日

【知道中国 1244回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1244回】           一五・五・念九

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎1)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 「憲政の神様」で知られる咢堂こと尾崎行雄(安政5=1858年〜昭和29=1954年)は、24歳の明治15(1882)年に立憲改進党を組織する。それから2年が過ぎた明治17(1884)年、報知新聞社特派員として上海に赴く。僅かに26歳。

 「今茲甲申の八月廿七日、余事を以て清國に遊ばんと欲し、〔中略〕駿臺の家を發す」と書き出された『遊清記』は、上海における2ヶ月ほどを綴ったものだ。ここに記された「事」とは清仏戦争を指す。「佛清の事日に危急にして戰機稍く熟するや、余竊に遊清觀戰の意あり」と綴るように、尾崎は清仏戦争の現場での「觀戰」にこだわった。つまり現代風に言い換えるなら「戦場ジャーナリスト」ということ。尾崎によれば、同時期に時事新報社の本多孫四郎、大阪毎朝新聞の加藤政之助、神戸新報の桐原捨三、神戸又新新聞の矢田績、北清日報の森常太、自由党の小室信介、朝日新聞の長野一枝などが上海を中心に取材に当たっている。尾崎からすれば、『第一遊清記』の小室は同じ戦場ジャーナリスト仲間であり、ライバルだったことになる。

 ここで、『遊清記』を読む進むうえで当時の清国を取り囲む情況を知っておく必要があろうかと思うので、改めて清仏戦争の概容を記しておきたい。

 「アロー号事件」とも「アロー戦争」とも呼ばれる第2次アヘン戦争(1857年〜60年)で、英仏軍は北京に進撃し清朝皇帝の離宮である円明園を焼き討ちし掠奪を恣にする。かくて天津条約と北京条約が結ばれ、香港の九龍半島が英国に割譲され、中国要地の多くの港が西欧諸国に開放された。これらの港では外国人の治外法権や外国軍の駐留が認められ、さらに宣教師は内陸への布教の自由が許されることになる。法外な賠償金は当然のように清国財政を圧迫し、清国は自国支配の根幹すら脅かされるという窮地に陥った。

 1884年、ヴェトナムをめぐる確執からフランスとの間で戦端が開かれたものの、清国海軍は敗北を余儀なくされる。その結果、古くからの朝貢国であったヴェトナムはフランスの植民地に組み込まれてしまう。かくてヴェトナムを拠点に、フランスは雲南省を経由して中国南部への侵攻を始める。

 清仏戦争とは主に海軍の戦いであった。戦争開始直後、清国海軍の旗艦はフランス海軍の放った魚雷によって撃沈され、瞬く間に清国艦船は瓦解する。かくてフランスのインドシナ支配は確実なものとなるわけだが、一方的で屈辱的で完膚なき敗北を味わった農業国家の清国は、本国を遠く離れているにも関わらず強力な海軍力を維持・運用できるヨーロッパの先進工業国の実力を思い知るわけだ。だが、伝統が骨の髄まで染み込んでいた清国中枢から、改革の方向に政治の舵を切るという発想が生まれることはなかった。
横濱を発って8日後の9月4日、上海に到着。尾崎の取材は翌日から。

 上海に停泊していた我が海軍の扶桑艦を訪ね松村少将ほかから聞いたところでは、

■「諸砲臺皆脆弱にして其兵員脆弱取るに足らざること、更に倍する」

■「清兵の怯懦にして城壘砲臺頼むに足らず」

■「(城壘や砲台は堅牢でないというわけではないが)之を築く者既に兵を知らずして之を守る者亦戰て懼る、佛艦若し之に向はゞ恐くは一皷して陥るゝに難からざるべし」

 砲台は「脆弱」で兵員は「脆弱」にして「怯懦」。「兵を知ら」ない者が築いた砲台を、「戰て懼」れる者が守るというわけだから、戦う前から勝敗は判っていたということだろう。
扶桑艦を辞して宿舎に戻ろうとする尾崎の目に、「電氣燈と瓦斯燈とを點じ」、「光明恰も晝の如」き光景が飛び込んでくる。「英米佛租界」は繁栄するばかり。

 翌日の取材は「汚穢甚だしうして臭氣鼻を衝く」ところの「眞の上海」であった。《QED》

posted by 渡邊 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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