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2015年06月15日

【知道中国 1247回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1247回】            一五・六・初四

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎4)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 某日は雨。終日、宿舎に留まって太平天国軍討伐の顛末を記した『髪賊征討記』を読み、「當時諸将」が現在の清国軍指揮官と同じで「偸安姑息」だったがゆえに、太平天国の跳梁跋扈を許してしまったと結論づける。太平天国軍と対峙した「當時諸将」の戦いぶりはともあれ、清仏戦争における清国指揮官の「偸安姑息」な様を「敵來れば即ち遁逃し辛苦經營せる金城鐵壁をして、空しく敵の手中に落ちらしむ」と評した。やはり古今東西、「偸安姑息」な愚将が指揮する烏合の弱卒では、戦に勝てるわけがない。戦端を開く前から、百戦百敗は定まっている。

 雨の次は好天。そこで尾崎は来清の目的を考えた。山川を眺め、「風流艶冶の樂を買」い、時にバカ文人と交流し議論するためではない。やはり「一は大陸の形勢を蹈驗して他日の考資に供し、一は佛清交爭の實状を報道し、我が報知新聞の讀者をして勝敗利鈍の因て起る所を知らしめんが爲也」。つまり将来のために大陸の情況を詳細に観察・分析する一方、清仏戦争の戦況を読者に報じるために来たわけだ。

 やおら尾崎は「戦場ジャーナリスト」に立ち戻る。上海に上陸して1ヶ月ほどを経るが、緒戦におけるフランス海軍の一撃以来、両国軍は「一兵を交えず」。それというのも「清廷の虛弱なる進んで佛軍を攻むる氣力ある者に非ず、故に戰は佛軍より起らざる能はず」と。

 つまり清国政府中枢には進んでフランスと戦おうなどという気力の持ち主はいない。だから戦争の指導権を握るのはフランス軍ということになる。フランスは陸軍を派兵していないので、専ら海からの攻撃になる。艦砲射撃で海防堡塁を破壊した後に陸兵を送り込み、占領地域を拡大・確保してこそ、大陸における戦争での最終的勝利がもたらされる。にもかかわらずフランス軍に陸軍の備えはなかった。そこで勢い清仏戦争は、陸軍(清国)対海軍(フランス)となり膠着状態に陥ってしまった。やはり大陸での戦争は陸軍が主だ。

 戦況はともかく、尾崎は中国内地旅行の常で「飲食、寝具其他諸般の物什を携帯」する準備を整え、折から上海に滞在していた曾根俊虎(『北支那紀行』『清國漫遊誌』の著者)から紹介状を貰うと同時に、上海入港中の扶桑艦に松村少将を訪ね、旅行経路になる長江沿岸の情況を聞いている。

 宿舎への帰路、当時の中国を代表する改革派の重鎮で、政治評論家でありジャーナリストの王韜(1828年〜1897年)を訪ねる機会を得た。王は「一面には余に筆紙を與へ、一面には自ら筆を執て」、尾崎を大歓迎した。

 さて一応の挨拶を済ませた後に筆談となった。すると突然に王韜は清仏戦争緒戦における清軍の無残な敗北について、「中國の大、華人の衆以て佛を制する能はず、唯當事者因循、一速字を服膺する能はざるに因るのみ」と綴った。これに対し尾崎は、「北京に在て局に當る者皆先生の見識あらば、今日の如き失體はなかる可しと雖も、然れども積弊の致す所容易に之を振刷して、清國の面目を一新する能はざる可き」と応じた。

 国土宏大なうえに人口が多いにもかかわらずフランス如きに敗れた原因は、清国の政柄を執る者が逡巡して積極果断に動けないからだ――これが王韜の言いたかったことだろう。だが尾崎は、北京中枢の人々の全員が王先生のような見識を備えていたならば、フランス如きにムザムザと敗れはしなかったはず。しかし積年の陋習・悪弊は容易に改めることはできません。清国の面目を一新するようなことは望み薄というものでしょう――と応じた。王の反応を知りたいところだが、尾崎は「筆談の際夕日既に窓に映ず」と記すのみ。

 この時、56歳の王に対し尾崎は26歳。その堂々たる立ち居振る舞い、相手の肺腑を抉るような論旨は、異国の一大知識人を相手に30歳の年の差を微塵も感じさせない。《QED》

posted by 渡邊 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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