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2015年07月24日

【知道中国 1263回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1263回】          一五・七・初六

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡4)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 14日、岡の教え子で扶桑艦に乗務する平野がやって来て、「先生、我が国の軍艦では大砲の操練、航海測量のどれをとっても外国人は雇っておりません。しかるに『中土』の軍艦では、機関の運転まで外国人に頼っています。一朝有事の際、諸外国は中立の立場を守りますから、お雇い外国人は敢えて働きません。そこで当然のように清国では海軍艦船も動ないわけであります」と語り掛ける。どうやら清国海軍は外国人乗組員が動かしていて、彼らが働かなければ戦闘どころか、戦域に向って出港することも出来ないらしい。これが清国海軍の実態ということだろう。やれやれ、ブザマな話だ。

 さらに続ける。「およそ軍艦には軍礼というのもがあります。過般も、こちらが清国皇帝の長寿を祝し21発の礼砲を捧げたのですが、清国側の砲台から返礼がありませんでした。不審に思い出掛けて行ったところ、砲台には士官がいなかったのです。そこで上海の責任者である道台に問い質しましたところ、欧米の軍艦は軍礼を行わないから日本の軍艦に対しても同じ措置をとった、との返事でありました。ところが事情は全く違いまして、『中土』は万国共通の軍礼というものを全く知らなかったのです。そこで各国海軍は、彼らを相手にしないわけです」と。どうやら「欧米の軍艦は軍礼を行わない」のではなく、そもそも清国海軍をマトモに相手にはしていなかったということになる。清国海軍を一言で評するなら、夜郎自大で身勝手極まりないトンチンカン。一昔前の流行語でいうなら「KY」のそれか。これではまともな付き合いもできない。

 弟子の話を聞いた岡は、「『中人』というのは、口を開けば夷狄の類は礼儀を知らずと罵る。だが外国人の立場からするなら、どちらが礼儀を弁えないのか。平野の話からでも自ずと明かだろう」と綴った。

 平野と岡の説くところから判断すれば、中国人は当時も(「も」です)、国際社会で行われている礼儀(ルール)というものに無知であるだけでなく、逆に自分たちの規矩こそが国際社会のルールと思い込んでいるらしい。自分たち以外を夷狄の類で礼儀知らずと強弁するが、どちらが無作法・無礼な夷狄の類かは自明だろう――ということだ。

 過去といわず、20世紀半ば以降を振り返ってみても、「百戦百勝の毛沢東思想」からはじまり、58年の大躍進政策が打ち出した大法螺の「超英?美(工業生産で英国を追い越し、米国に追いつく)」、文革時代の世迷いごとである「魂の革命」、ケ小平の野望が生み出したとしかいいようのない「社会主義市場経済」、胡錦濤の見果てぬ夢であった「和諧社会」を経て習近平の「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢」まで――彼らが掲げて来た国家目標を並べてみるだけでも、この超自己チューな「KY」体質は、彼らの五体に染み込んでいて牢固として抜き難いといってもよさそうだ。救いようがない、ですね。

 ただ問題は、そんな彼らが現在では膨らみきった財布を手に、他国のホッペタを札束で引っ叩く快感を覚えてしまったということだろう。超自己チューな「KY」体質に膨らんだ財布こそが、AIIBやら「一帯一路」やらの元凶に違いない。

 16日、平野らに伴われアメリカとフランスの軍艦を参観する。フランス海軍士官の話では、目下、清仏両国は和平交渉のテーブルに就いてはいるが、清国側がフランス側の提案に耳を傾けない。かくてフランスの意向としては、「戰、有る耳(のみ)」ということになる。敵も知らず、己も知らず、ましてや客観情況も判らない――これでは敗北は必至だ。

 18日、上海の街を散策。「市街隘陋不潔」だが、店頭に並べられた品々は「皆精良」だ。なかに「板厚四五寸。竪六尺餘。二尺餘。兩頭刻獸」の朱塗りの箱。「凶器(ひつぎ)」である。そこで岡は「中土厚葬爲弊。可知也」と。清国の「弊」は尽きない。《QED》

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2015年07月23日

【知道中国 1262回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1262回           一五・七・初四

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡3)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 さすがに岡は自らの不覚を恥じたのか、「吐兩次」と綴った後、連日の船旅で「神氣未復也」と。稀代の漢学者に似合わず言い訳ががましい。いや、その稚気が微笑ましいほどだ。

 広業洋行は東北・北海道の海産物を、三井洋行は高島炭鉱の石炭を、大倉洋行は雑貨を扱っていた。いずれも「我邦大肆」であるから、さぞや盛大な歓待だったことだろう。それにしても20年ほど前の千歳丸による交易が失敗したことからして、日本の中国進出が急であったことに驚かされる。対中交易で先行していた欧米諸国が日本に対し密かに警戒心を抱くようになったと考えても、強ち考えられないことでもないだろう。

 上海滞在中、岡は岸田吟香や曾根俊虎、品川忠道領事、さらには清仏戦争参観のために上海入港中の海軍・扶桑艦に座乘の松村惇蔵少将ら往来を頻繁にしているが、岡と前後して上海に滞在した小室や尾崎も岸田、曾根、品川、松村らと交わっている。ということは、明治17年の上海には中国の現実を体感しようという人々が集まっていたとも考えられる。あるいは彼らの中国に対する考えが日本の中国政策に反映されていたなら、その後の日中関係はまた違った軌跡を描いたかもしれない。日本人の中国観の変遷が日本の中国政策にどのように反映されたのか。それとも、そもそも小室や尾崎の抱いたような中国観は現実の政策に反映されることがなかったのか。この問題は、いずれ深く考察しなければならないだろう。いまは宿題としておきたい。

 以後、日記の日付に従って稿を進めることとする。

 6月9日、中国人の友人がやって来て中国全土が「洋烟(アヘン)」に毒されていると話し始めた。別の友人の弁を判り易く解説すると、アヘン流行の原因は「憤世之士」が緊張とストレスを解消するためにアヘンの力を借りためであり、必ずしも「庸愚小民」を誤らせるというわけではない。「聰明士人」もまた往々にしてアヘンの毒に淫するもの、ということになる。

 アヘンに興味を持ったのか、数日後、岡は夜の上海を散策中、「洋烟」の2文字が書かれた看板が掛かるアヘン吸引所を覗いてみた。中央に円形の大広間があり周囲は「烟室」になっている。部屋に入るとベットがあり、一尺余りのアヘン吸引用のキセルが置かれ、真ん中に置かれたランプを挟んで2人が逆向きに寝転び、キセルに載せた軟膏状のアヘンにランプの火を点け吸引する。「昏然如眠。陶然如醉。恍然如死。皆入佳境」といった有様だ。

 そこで清国におけるアヘンの歴史を、岡は次のように振り返る。

――18世紀前半の雍正年間からアヘン吸引が起り、18世紀末期には禁止すら出来ないほどに流行した。アヘン戦争に敗北したことで吸引禁止が解かれた。役人、科挙試験受験者や兵士は厳禁されていたが禁令は無視され日常化していた。イギリス議会でアヘン販売禁止問題が議論された際、清国の郭崇寿公使は「アヘンの害を除かなければ、その勢いは必ずや中国人を覆い尽くし、皆、人間本来の姿を失い、体は枯木のように痩せ細り、気息奄々として『殘廢人』と同じになってしまう。アヘンの猛毒に中国が苦しむことを知るなら、イギリスは中国と共に組織を設けアヘン販売を禁止してはどうだろう」と提案した。3年を期限に法律で禁止するとしたが、清朝は決定することが出来ず、イギリスは敢えて明確な態度を示そうとはしない。なんというブザマなことだ――

 極論するなら、当時の清国は国を挙げてのアヘン中毒。「憤世之士」や「聰明士人」までがストレス解消を口実にアヘンを吸引し、「昏然如眠。陶然如醉。恍然如死。皆入佳境」というブザマな姿である。ならば「殘廢人」ならぬ残廃国だ。そのうえ街に出れば「市?雜踏。街衢狹隘。穢氣鬱攸。惡臭撲鼻」である。いやはや、もう救いようがない。《QED》

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2015年07月22日

【知道中国 1261回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1261回】        一五・七・初二
 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡2)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 岡が綴る漢文を原文のまま、あるいは書き下し文の形にして引用するのも芸がない。そこで必要に応じて原文、書き下し文、意訳と分けて引用したいと思う。

 岡は「余不解中語」、つまり中国語会話ができないから筆談で過ごした。「馬童舟卒」は全員が文字を解さないから、基本的には「地名村名」は記していない。地名を記した場合もあるが、誤りがあるやもしれん。「中土失政弊俗」に言及した部分を、読者は「過甚」な批判と受け取るかもしれない。だが「異域人」である私は中国現地で見聞きしたことをそのまま記しただけであり、取り立てて「誹謗」する意図はない。いつの日にか心ある者が中国を訪問し、私の見解を「藥石之語」としてくれるかどうか――と、『觀光紀游』の冒頭に置かれた「例言」に岡は注記している。

 つまり『觀光紀游』には、後世の参考にして欲しいという岡の願いが込められているということだろう。であればこそ、その素志は大いに尊びたい。

 『觀光紀游』は、『航滬日記』、『蘇杭日記』(上下)、『滬上日記』、『燕京日記』(上下)、『滬上再記』、『粤南日記』(上中下)から構成されている。つまり岡は1年ほどを掛けて上海、蘇州、杭州、上海、北京、上海、広東(香港)と旅したわけだが、上海行きを綴った『航滬日記』は「明治十七年甲申五月廿九日」と書きだされている。それはそれで問題があろうはずもないが、その日付の下にゴ丁寧にも「光緒十年五月五日」と清朝年号が書き加えられているのが気になる。それも長旅の後に帰国し、駿河湾の海上から久々に富士山を眺め「富岳突出す、特(こと)に人意(こころ)に快(ここちよ)し」と綴る最後の日まで、一日も欠かさずに光緒紀年に拠る日付を記している。岡が、どのような意図・動機で清朝年号を使い続けたのかは不明だが、こういったこだわりに当時の漢学者の屈折した体質のようなものを感ずる。それは隅田川を西に越えて転居した際に、「これで唐土に一歩近づくことができた」と感涙に咽んだといわれる江戸の漢学者の心情に近いのかもしれない。

 おそらくそこに日本人の持つ中国観の最大の弱点、言い換えるなら『論語』以来の中国古典がデッチあげた中国と中国人の虚像を真に受けてしまったことに起因する、日本人の中国大誤解の根っこの部分が潜んでいるように思える。江戸末期から明治期を通じた時代を代表する漢学者としての岡の「中土」に対する揺れ動く心情――それまで学んだ中国古典から学び取った理想の「中土」に対し、「失政弊俗」に溢れた瀕死の「中土」の現実への「過甚」な批判――は、いずれ『觀光紀游』を読み進むうちに現れることだろう。
 かく予想したうえで、『觀光紀游』の先を急ぐこととする。

 明治17年5月29日、新橋を発ち横浜へ。関帝廟で多くの知友に拠る盛大な壮行会に臨んだ翌日、「長さ五十餘丈」の東京号に乗船する。雑踏する船内で、毎年来日する2人の中国人の筆商人から「中土(ちゅうごく)の風俗は日東(にほん)と変わりませんよ。ただ、日東のように万事が清潔というわけにはいきません」と伝えられる。確かに「中土」は圧倒的に不潔・不衛生だ。続いて岡は「我國、近く洋風を學び、競って外觀に事え、漸く本色を失う」と記した。鹿鳴館で日本初のバザーが開催されたのは明治17年6月。岡が上海に向けて横浜を船出した翌月のこと。上流社会では鹿鳴館を発信基地とし、さぞや欧化風俗が流行っていたことだろう。その軽佻浮薄ぶりに、元仙台藩士は耐えられなかったのか。

 あるいは欧化風俗に現を抜かし、日本人本来の姿を失おうとしている世情に対する憂いを抱きつつの船旅だったのかもしれない。上海入港は6月6日。岸壁では岸田吟香をはじめ、当時の日本を代表する広業洋行、三井洋行、大倉洋行の関係者に迎えられる。直ちに歓迎宴。「已にして酒の出で、諸賓と酌す。忽ちにして眩暈を覺え、吐くこと兩次」。《QED》
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2015年07月21日

【知道中国 1260回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1260回】             一五・六・三十

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡1)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 尾崎は「店主答ふるに二十有餘元を以てす。清商價を二三にするの狡猾手段は余既に熟知す、因て二元にして可なるを告ぐ、店主怫然として怒て色あり、余冷笑して出て僅に數歩を行けば、店主忽ち顔色を和らげ、大聲疾呼余が歸り買はんことを請ふ、其虛喝乞狡獪毫も我が縁日の槖駝師に異ならず、一笑す可きのみ」と記すが、店主の不埒極まる振る舞いは相手が日本人だからではなく、じつは買い手が誰でも同じだろう。もちろん中国人であろうが。飽くまでも、我が半世紀ほどの細やかな“中国人体験”を振り返れば、だが。

 半世紀ほどの昔、台北の街角で、超小規模な“爆買”を経験をした時のことだ。40日前後の語学短期留学を切り上げる数日前、台北の繁華街の屋台で土産に適当な扇子を見つけた。1本が3元。そこで3元買おうとすると、オヤジは10元だという。おいおい、こっちが日本人学生だから甘くみてるのかい。日本式常識では、3本も買うのだから9元(=3元×3本)から値引くもの。ところがオヤジが応えるには、3元のものを一度に3本も買えるなら、10元払えるというのだ。なるほど、理屈に叶っている(?!)。そこで翌日、教室で先生に尋ねると、屋台のオヤジのいうことが正しい、と。

 やはり一端、日本を離れたら、日本の常識は通用しないと覚悟すべきということ。ところで“爆買”を目的とする昨今の中国人旅行者に対しは、台北の扇子屋台のオヤジを真似て吹っかけてみてはどうだろう。

 尾崎の上海行きより3ヶ月ほど遡った明治17(1884)年の5月末、新橋停車場を発ち横浜で乗船し、神戸を経て上海に向かった人物がいた。鹿門こと岡千仭(天保4=1833年〜大正3=1914年)である。以後、翌明治18(1885)年の4月半ばまで、じつに1年ほどの時間をかけて長江流域はもちろん、南下し香港にまで足を延ばし、日々の体験・感懐を克明に綴った『觀光紀游』を残している。しかもこれが全て漢文・・・イヤハヤ、である。

 先ずは仙台藩士で幕末から明治期を代表する漢学者で知られる岡の略歴だが、幕府が設けた最高学府である昌平黌出身の逸材で、尊王攘夷論の急先鋒の1人。門人には清川八郎、本間精一など。戊辰戦争に際しては欧州列藩同盟に参画した罪により、仙台藩によって投獄される。維新後は明治政府や東京府に勤務の後、旧仙台藩邸に私塾(綏猷堂)を開き、福本日南、尾崎紅葉、片山潜などを教育。福沢諭吉は友人の1人。晩年は大陸経綸を志し、李鴻章などとも交友を結ぶ。

 当時、清国が置かれていた情況――いや苦境というべきだろうが――は、小室、尾崎の項で言及しておいたので、必要な場合にのみ要点を記すに止めておく。ところで岡の旅行中に日本で起こった興味深い出来事を参考までに時系列に従って綴っておくと、

 明治17年6月に鹿鳴館で日本初のバザーが開催され、10月29日に自由党が解答処分を受け、2日後の10月31日に秩父事件が発生した。12月4日にはソウルで金玉均ら親日派がクーデターを断行(「甲申事変」)、12月24日には井上馨外務卿が朝鮮に乗り込んだ。

年が明けると、1月には井上が朝鮮に、2月には伊藤博文が特派全権大使として清国に差遣される。4月3日、伊藤は清国側全権の李鴻章との会見に臨み、天津条約について話し合い、その結果、同月18日には朝鮮問題に関する天津条約が伊藤と李の間で調印されている。この年の暮も押し詰まった12月22日、伊藤は初代総理大臣に就任し、初代内閣が発足した。因みに伊藤は宮内大臣を兼務。

 朝鮮問題を処理し、内閣制度を発足させ近代国家への道を歩み始める日本に対し、清国は清仏戦争の処理に窮するまま――日清両国が好対照の情況に在った最中、岡は「髪を束ね、天下の士に交わらん」として上海に旅立った・・・気宇壮大だが前途は多端。《QED》
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2015年07月20日

【知道中国 1259回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎16)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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 【知道中国 1259回】             一五・六・念八
 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎16)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

「余之を見て禽獸食を爭ふの状あるを嘆ず、禽獸尚ほ禮讓の道を知る者あり、支那人の人毎に盗心は所謂人を以て飛禽走獸に如かざる者」とは・・・彼らの振る舞いは犬畜生がエサを爭っていると同じだ。「禮讓の道を知る」犬畜生がいるというのに、この浅ましい姿は何というザマだ。犬畜生にも悖るではないか。「盗心」が中国人に「飛禽走獸」以下の振る舞いをさせてしまうのか。それとも中国人そのものが自らの心に巣喰っている「盗心」を消し去ることに努めようとしないのか。

 某日、台湾における清仏戦争に関する責任者たちに対し、清朝中枢から論功行賞が発せられた。フランス軍に敗れたにもかかわらず、基隆防衛責任者の劉銘伝は福建巡撫に昇進。一方、船政大臣と福建巡撫は解職処分となる。ところが、この両人と同等の失策を犯した張佩綸は責任を問われることはなかった。敗北を勝利と捏造報告し出世した劉銘伝。どうやら「年少氣鋭、長身白皙にして頗る皇太后の寵遇を受」けるがゆえに不可解極まる甘い処分の張佩綸――綱紀もなにもあったものではない。やはり「獨立だに保持する能はざるの形勢」に陥っていることは、当然が過ぎるほどに当然だろうに。

 11月に入った。台湾攻略フランス軍の指揮官である「佛将クールベー」の要請するままの援軍がヴェトナム駐留軍から派遣されてきたなら、もはや台湾は陥落するしかなく、台湾が生みだす「毎年三百五十萬兩」の資産は、フランスの懐に入ってしまう。勝利の暁にはフランス軍は兵を休めるだろうし、彼我の形勢からして清国軍も攻勢に転ずることは先ずはなさそうだ。つまり「彼我互に兵を交へずんば余清國に留まるの徒に日子を空費するに過ぎずと」。このままでは戦場記者の任務が果たせないじゃないか、といったところか。

 11月3日は天長の佳節。上海に「碇泊各國軍艦皆我が皇帝の爲めに、其桅檣を飾る、幾百の旌旗雨を帶て暴風に飄へる其觀甚だ壮んなり」。式典は我が海軍の扶桑艦下甲板で粛々と進む。「内外各國の武官、皆大禮服を穿て在り、堂々たる威容光彩四面に爛發す」。確かに悪天候に見舞われはしたが、尾崎が見るに「宴席の整然たる装飾の美麗なる、接待の懇篤なる、復た寸毫の遺憾なき者の如し」。だから、仮に好天であったなら、「更に一層の盛況を現じ、以て辮髪奴の耳目を驚破るせること必せり。惜い哉」。確かに「惜い哉」である。 

 「佛公使パテノードル」も招かれて参集していた。若いが「豪邁不屈の氣象眉目の間に現はる」と。その傲岸不羈な佇まいに「支那人の望んで之を恐るゝ亦宜ならずや」。さぞや「辮髪奴」はビビッていたに違いない。敬ではなく、恐して遠避く、であったろう。

 「此日我が領事館も亦酒菓を備へ聖節を賀するの人に供し、夜宴を張て各國領事縉士を招く、在留日本人皆業を休んで聖節を祝す、忠君愛國の情掬す可し」。「忠君愛國の情掬す可し」から、尾崎のみならず、当時の日本人一般の偽らざる至情が読み取れそうだ。

 翌日、家族が日本から送って寄越した冬支度を税関に受取りにいくも、税官吏はなんのかんのと口実を設けて許可証を出さない。日参の末にやっと受け取ったが、「税關吏の虛儀を守て人を苦むる實に驚く可し」。真に持ってセコい。いやらしい限りだ。

 いよいよ帰国の準備である。家族や知己への土産を買いに街へ。土器を買おうと値段を問うと、「店主答ふるに二十有餘元を以てす。清商價を二三にするの狡猾手段は余既に熟知す、因て二元にして可なるを告ぐ、店主怫然として怒て色あり、余冷笑して出て僅に數歩を行けば、店主忽ち顔色を和らげ、大聲疾呼余が歸り買はんことを請ふ、其虛喝乞狡獪毫も我が縁日の槖駝師に異ならず、一笑す可きのみ」。

 6日に上海を発し。8日に長崎に入港す。「身の塵界を脱し仙境に入れるを覺」えた尾崎は、「身を支那の俗境に置て日々俗人と交」わった日々の記録を閉じ、筆を擱いた。《QED》

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