
【知道中国 1263回】 一五・七・初六
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡4)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
14日、岡の教え子で扶桑艦に乗務する平野がやって来て、「先生、我が国の軍艦では大砲の操練、航海測量のどれをとっても外国人は雇っておりません。しかるに『中土』の軍艦では、機関の運転まで外国人に頼っています。一朝有事の際、諸外国は中立の立場を守りますから、お雇い外国人は敢えて働きません。そこで当然のように清国では海軍艦船も動ないわけであります」と語り掛ける。どうやら清国海軍は外国人乗組員が動かしていて、彼らが働かなければ戦闘どころか、戦域に向って出港することも出来ないらしい。これが清国海軍の実態ということだろう。やれやれ、ブザマな話だ。
さらに続ける。「およそ軍艦には軍礼というのもがあります。過般も、こちらが清国皇帝の長寿を祝し21発の礼砲を捧げたのですが、清国側の砲台から返礼がありませんでした。不審に思い出掛けて行ったところ、砲台には士官がいなかったのです。そこで上海の責任者である道台に問い質しましたところ、欧米の軍艦は軍礼を行わないから日本の軍艦に対しても同じ措置をとった、との返事でありました。ところが事情は全く違いまして、『中土』は万国共通の軍礼というものを全く知らなかったのです。そこで各国海軍は、彼らを相手にしないわけです」と。どうやら「欧米の軍艦は軍礼を行わない」のではなく、そもそも清国海軍をマトモに相手にはしていなかったということになる。清国海軍を一言で評するなら、夜郎自大で身勝手極まりないトンチンカン。一昔前の流行語でいうなら「KY」のそれか。これではまともな付き合いもできない。
弟子の話を聞いた岡は、「『中人』というのは、口を開けば夷狄の類は礼儀を知らずと罵る。だが外国人の立場からするなら、どちらが礼儀を弁えないのか。平野の話からでも自ずと明かだろう」と綴った。
平野と岡の説くところから判断すれば、中国人は当時も(「も」です)、国際社会で行われている礼儀(ルール)というものに無知であるだけでなく、逆に自分たちの規矩こそが国際社会のルールと思い込んでいるらしい。自分たち以外を夷狄の類で礼儀知らずと強弁するが、どちらが無作法・無礼な夷狄の類かは自明だろう――ということだ。
過去といわず、20世紀半ば以降を振り返ってみても、「百戦百勝の毛沢東思想」からはじまり、58年の大躍進政策が打ち出した大法螺の「超英?美(工業生産で英国を追い越し、米国に追いつく)」、文革時代の世迷いごとである「魂の革命」、ケ小平の野望が生み出したとしかいいようのない「社会主義市場経済」、胡錦濤の見果てぬ夢であった「和諧社会」を経て習近平の「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢」まで――彼らが掲げて来た国家目標を並べてみるだけでも、この超自己チューな「KY」体質は、彼らの五体に染み込んでいて牢固として抜き難いといってもよさそうだ。救いようがない、ですね。
ただ問題は、そんな彼らが現在では膨らみきった財布を手に、他国のホッペタを札束で引っ叩く快感を覚えてしまったということだろう。超自己チューな「KY」体質に膨らんだ財布こそが、AIIBやら「一帯一路」やらの元凶に違いない。
16日、平野らに伴われアメリカとフランスの軍艦を参観する。フランス海軍士官の話では、目下、清仏両国は和平交渉のテーブルに就いてはいるが、清国側がフランス側の提案に耳を傾けない。かくてフランスの意向としては、「戰、有る耳(のみ)」ということになる。敵も知らず、己も知らず、ましてや客観情況も判らない――これでは敗北は必至だ。
18日、上海の街を散策。「市街隘陋不潔」だが、店頭に並べられた品々は「皆精良」だ。なかに「板厚四五寸。竪六尺餘。二尺餘。兩頭刻獸」の朱塗りの箱。「凶器(ひつぎ)」である。そこで岡は「中土厚葬爲弊。可知也」と。清国の「弊」は尽きない。《QED》