h230102-0340-2.jpg

2015年07月01日

【知道中国 1254回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg

【知道中国 1254回             一五・六・仲八

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎11)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 先ずは万古不易の性懲りもない賄賂帝国といったところだが、ワイロ問題に突き当たるたびに思い出されるのは林語堂の『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)の次の一節だ。
 「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」

 だとするなら、習近平政権が推し進める腐敗摘発で「虎」の一匹として仕留められ、北京の約30キロ北方に位置する「最神秘的監獄」である秦城監獄にブチ込まれた周永康は、裁判の際、はたして「私は中国では古来続く役人の伝統を順守し、『規則動詞』に従って行動しただけだ」と抗弁しただろうか。それとも判決を聞きながら心の中で「私は賄賂と取る。習近平は賄賂を取る。李鵬は賄賂を取る。私たち旧指導部は賄賂を取る。あなたたち現指導部は賄賂を取る。共産党幹部は賄賂を取る」とでも唱えただろうか。いずれにせよ、共産党もまた歴代王朝から国民党政権まで続く官場伝統文化をしっかりと引き継ぎ、「中国語文法における最も一般的な動詞活用」を忠実に守っているものだ。少なくとも賄賂文化に関する限り、「旧」も「新」も中国であることに大差はないということだ。ッったくもう、どうしようもないなア。

 閑話休題。

 某日、アメリカ租界を散策した際、尾崎は「一清人の電柱に廣告文を貼附して、巡査の爲めに捕らへらるゝを見る」。男が弁髪を掴まれて巡査に引き立てられて行く様を、「其法甚だ便なり」と。それはそうだ。弁髪というものは頭の天辺からぶら下がっているわけだから、それを掴まえられたら身の自由は効かなくなる。確かに、「其法甚だ便」ではある。

 見てみると、どの電柱にも「奉旨設立、毋許損壞(お上の設置による、損壊する勿れ)」と張り紙があり、数本おきに「毋許招貼、如違送捕(張り紙する勿れ、違えたら逮捕する)」とある。このように規則を明示しない前は、なにやらかやら広告の類が隙間なく電柱に張られていた。それだけではない、往々にして電線を蛮族の汚らわしい機具と見做し、破壊した者も珍しくなかったとか。そこで、こういった注意書きを張り出すこととなるや、「無智の頑民も毎柱皆な奉旨設立の文字あるを見て、始て朝旨の所以を知り、復た之を損壞する者なしと」。

 かくして尾崎は「其頑愚笑ふ可しとあるは、従順實に愛す可し」といいつつ、「苟も強鞏の政府あり公正の法を以て之を統御せば、支那人決して治め難きの民に非ざる也」と。つまり確固とした政権基盤も持った政府が断固たる法治を厳正に行えば、「支那人決して治め難きの民」ではないということ。だが、往古から現在に至るまで(おそらくこれからも)、その厳正な法治が不可能だからこそ、中国人は「治め難きの民」なのだ。かの毛沢東をしてもムリだった。全く以てムリだった。もっとも毛沢東の治政は、法治の極致としての徹底した人治ではあったが。どう考えても、法治より人治という思考・行動様式が民族のDNAに組み込まれているとしか考えられない。

 この日、或る新聞が清国軍のヴェトナム(トンキン)や淡水(台湾)での敗戦を伝えれば、ある新聞は「佛軍淡水に上陸して、清兵の爲に激?せられ、敗れて兵船に還れるの情形を詳記」していた。「在淡水通信者に拠ると云ふ」と続けているところをみると、「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」といったところ。マユツバですね。《QED》

posted by 渡邊 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/