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2015年07月14日

【知道中国 1257回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1257回】                一五・六・念四

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎14)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 某日の朝食時、天津から戻った小室がやってきて北京・天津一帯の情況を「支那人の利を見るに急なる、道を問ふも尚ほ錢を請ひ社寺に至れば一門を開く毎に必ず錢を請ひ甚だしきは既に過ぐるの後ち急に之を閉ざし再び錢を與ふるに非ずんば其出還を許さゞるに至る」と、詳しく語っている。

 些か強引だが、これを現在に置き換えれば、日本企業が進出しようとすれば「必ず錢を請ひ」、収益が挙がらず工場を畳んで日本に引き上げようとすれば、なんのかんのと屁理屈を並べては妨害し、「再び錢を與ふるに非ずんば其出還を許さゞるに至る」といったところだろうか。どうやら民族の下卑た性根は“一貫不惑”ということだろうが、それにしても誠に困った始末の悪いことであることか。

 続いて小室は説く。各地にみられる孔子廟は「曲阜の本廟を模せる者にして、結構壮大ならざるに非ずと雖も、築造後一たびも之を修理せるの色なく、乞兒の如き者之を守て毫も掃清の役を執らず、糞尿、門の内外に狼藉たりと」。この小室の慨歎溢れる報告を聞いた尾崎は、「孔夫子若し靈あらば支那に在て此薄遇を受くることをせず、何ぞ去て我が昌平橋畔の廟社に轉居せざるや」と、孔子の霊に向って御茶ノ水・昌平橋脇の孔子廟への転居を勧める。確かに中国や台湾各地の孔子廟をみるにつけ、規模や豪華さは別として、その森厳な佇まいからいって、天下広しと雖も我が昌平橋の孔子廟に勝るものはないはずだ。

 清朝で終わる歴代封建王朝を一貫し、20世紀前半に各地に割拠した軍閥から?介石の中華民国を経て現在の共産党政権――なんせ彼ら共産党政権は、海外文化侵略・洗脳拠点に孔子の名前を冠し孔子学院と呼んでいるほどだから――に至るまで、いや海外の華人社会でも、孔子は中華文明の始祖と崇め奉られている。ならば孔子廟を、それらしく維持管理すべきだろう。いやしくも21世紀初頭において、「曲阜の本廟」で曲阜ブランドの安酒を売るとは正気の沙汰ではないように思う。だが、孔子は葬儀屋の倅だったということだから、酒を売るのもアリかな。なんせ「支那人の利を見るに急」なわけだから。

 あるいは日本人が孔子を異常なまでに買い被り、その“源氏名”ともいえる「至聖」の2文字に過剰反応を示し、極上の扱いをしてしまったということではなかろうか。その昔、明の遺臣・朱舜水が命からがら逃れて来た日本で、「ここに真の中華あり」と呟いたとも伝えられるが、彼の慨歎は存外に正解だったかもしれない。

 閑話休題。

 当時、清国を代表する勇将といえば李鴻章と左宋棠の2人だった。李は北洋海軍を率い、左は多くの兵を擁し福建へ向け北京を進発する。この2人が力を合わせ一気に台湾を衝けば戦況は有利に展開するはずが、李は虎の子の北洋海軍を「旅順港其他の港灣に密閉し、以て佛軍の攻?を避けしむ」。それというのも海戦となれば敗北は必至だからだ。

 一方の左は北京から南京まで出張って来ているが、兵を台湾に急派する気配がみえない。肝心の台湾では、「佛兵決して?退し難からずと雖も、如何せん清兵の怯弱なるは幾ど名状す可らざるの程度に至」るうえに食料も兵器も十分ではない。内陸部には「化外の蠻民有りて、剽掠を業とし、動もすれば清兵を屠て、其衣服を剥ぎ、其粮食を奪はんとす」といった情況だ。これでは台湾でも、フランス軍を敗退させることができるわけがない。負け戦は必至ということ。

 そんなところに、台湾を守る劉銘傳軍がフランス軍を破り淡水を回復したとの勝報が北京に達した。だが「未だ眞僞を知らず」。一方、フランス公使はフランス海軍が事実上台湾を封鎖したとの公文が発した。どちらの情報が本当か。すでに答は明らかだろう。《QED》

posted by 渡邊 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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