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2015年07月23日

【知道中国 1262回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1262回           一五・七・初四

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡3)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 さすがに岡は自らの不覚を恥じたのか、「吐兩次」と綴った後、連日の船旅で「神氣未復也」と。稀代の漢学者に似合わず言い訳ががましい。いや、その稚気が微笑ましいほどだ。

 広業洋行は東北・北海道の海産物を、三井洋行は高島炭鉱の石炭を、大倉洋行は雑貨を扱っていた。いずれも「我邦大肆」であるから、さぞや盛大な歓待だったことだろう。それにしても20年ほど前の千歳丸による交易が失敗したことからして、日本の中国進出が急であったことに驚かされる。対中交易で先行していた欧米諸国が日本に対し密かに警戒心を抱くようになったと考えても、強ち考えられないことでもないだろう。

 上海滞在中、岡は岸田吟香や曾根俊虎、品川忠道領事、さらには清仏戦争参観のために上海入港中の海軍・扶桑艦に座乘の松村惇蔵少将ら往来を頻繁にしているが、岡と前後して上海に滞在した小室や尾崎も岸田、曾根、品川、松村らと交わっている。ということは、明治17年の上海には中国の現実を体感しようという人々が集まっていたとも考えられる。あるいは彼らの中国に対する考えが日本の中国政策に反映されていたなら、その後の日中関係はまた違った軌跡を描いたかもしれない。日本人の中国観の変遷が日本の中国政策にどのように反映されたのか。それとも、そもそも小室や尾崎の抱いたような中国観は現実の政策に反映されることがなかったのか。この問題は、いずれ深く考察しなければならないだろう。いまは宿題としておきたい。

 以後、日記の日付に従って稿を進めることとする。

 6月9日、中国人の友人がやって来て中国全土が「洋烟(アヘン)」に毒されていると話し始めた。別の友人の弁を判り易く解説すると、アヘン流行の原因は「憤世之士」が緊張とストレスを解消するためにアヘンの力を借りためであり、必ずしも「庸愚小民」を誤らせるというわけではない。「聰明士人」もまた往々にしてアヘンの毒に淫するもの、ということになる。

 アヘンに興味を持ったのか、数日後、岡は夜の上海を散策中、「洋烟」の2文字が書かれた看板が掛かるアヘン吸引所を覗いてみた。中央に円形の大広間があり周囲は「烟室」になっている。部屋に入るとベットがあり、一尺余りのアヘン吸引用のキセルが置かれ、真ん中に置かれたランプを挟んで2人が逆向きに寝転び、キセルに載せた軟膏状のアヘンにランプの火を点け吸引する。「昏然如眠。陶然如醉。恍然如死。皆入佳境」といった有様だ。

 そこで清国におけるアヘンの歴史を、岡は次のように振り返る。

――18世紀前半の雍正年間からアヘン吸引が起り、18世紀末期には禁止すら出来ないほどに流行した。アヘン戦争に敗北したことで吸引禁止が解かれた。役人、科挙試験受験者や兵士は厳禁されていたが禁令は無視され日常化していた。イギリス議会でアヘン販売禁止問題が議論された際、清国の郭崇寿公使は「アヘンの害を除かなければ、その勢いは必ずや中国人を覆い尽くし、皆、人間本来の姿を失い、体は枯木のように痩せ細り、気息奄々として『殘廢人』と同じになってしまう。アヘンの猛毒に中国が苦しむことを知るなら、イギリスは中国と共に組織を設けアヘン販売を禁止してはどうだろう」と提案した。3年を期限に法律で禁止するとしたが、清朝は決定することが出来ず、イギリスは敢えて明確な態度を示そうとはしない。なんというブザマなことだ――

 極論するなら、当時の清国は国を挙げてのアヘン中毒。「憤世之士」や「聰明士人」までがストレス解消を口実にアヘンを吸引し、「昏然如眠。陶然如醉。恍然如死。皆入佳境」というブザマな姿である。ならば「殘廢人」ならぬ残廃国だ。そのうえ街に出れば「市?雜踏。街衢狹隘。穢氣鬱攸。惡臭撲鼻」である。いやはや、もう救いようがない。《QED》

posted by 渡邊 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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