
【知道中国 1273回】 一五・七・念六
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡14)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
岡は上海で「一洋人」から聞いた話と断わりながら、
――中土(ちゅうごく)は今からの30年をダラダラと太平の夢を見続ければ、西晋(265年〜315年)末の混乱を遥かに超える大混乱が起り、60年後になってやっと治まるだろう。台湾は日東(にほん)に、朝鮮はロシアに帰し、新疆は四分五裂し、力を持つ者が併合してしまう。「中國、始めに劉永福を冊し安南國王と爲さば、必ずや今日の事、無し。此の言、特に聵聵(でたらめ)と爲(おも)う。中人の病、外情を得ざるに在り」(8月16日)――
岡が上海に滞在したのが明治17(1884)年だから、30年後は1914年、60年後は1944年ということになる。岡は「此の言」、つまり西洋人の考えを「特に聵聵」と退けた。だが清朝を崩壊に導いた辛亥革命が1911年で、以後は軍閥時代から日中戦争、さらには国共内戦を経て共産党政権成立が1949年。朝鮮がロシアの手に落ちることはなかったが、10年後の日清戦争によって台湾は日本が領有し、新疆は四分五裂し、列強の狙うところとなった――こう歴史の歩みを追ってみると、「此の言、特に聵聵」というわけでもなさそうだ。当時の上海で「一洋人」は、なぜ、このような近未来中国を描いたのか。興味津々である。
劉永福(1837年〜1917年)は、広東欽州(現在は広西チワン族自治区)の人。武芸に優れ、1857年に反清を掲げ武装蜂起したものの清国軍に追われヴェトナムに逃亡。以後、黒旗軍を名乗りグエン(阮)王朝公認の武装勢力としてヴェトナムに一定の地歩を築き、清仏戦争の際にはフランス軍に対し軍功を挙げる。後に清朝武官となり、日清戦争の際には黒旗軍を率い台湾で日本軍への抵抗をみせた。つまり劉永福をそのまま安南(ヴェトナム)の領主として認めていれば、清仏戦争もブザマな展開をみることもなかっただろう、という見立てだ。だが、この論は確かに根拠薄弱だ。
いずれにせよ「中人の病」は偏に夜郎自大が過ぎ、超自己チューで、外国の事情に目を瞑り耳を塞ぐところにあると指摘する岡が、この日、郊外で兵営の前を通りかかる。すると営門の外に屯して土木工事をしていた兵卒たちが「余の異妝を觀て爭いて相い笑い罵る。其れ規律無し」と。ぞろぞろダラダラと手を動かしながら、「異妝」の岡を大いに笑い罵倒したであろう姿が容易に思い浮かぶ。
この種の珍事は日常茶飯だったらしい。数日前の、紹興酒で有名な紹興の街での体験を、岡は「人、余の異服を見て、簇擁(むらがりおしよ)せ、瓜皮瓦石を投げる者有り」と綴る。「瓜皮瓦石投げる」ということは、紹興の街で岡を目にして「簇擁」せた人々は手にすることのできるものなら何でも手当たり次第に岡に投げつけたということだろう。まあ「爭いて相い笑い罵」る兵卒も最低だが、「瓜皮瓦石を投げる」ような紹興の住民は兵卒以下だ。その様を岡は「我が邦三十年前、歐人始めて江戸に來たる時の猶し」と受け流すが、さて・・・。
ここでお馴染み林語堂の『中国=文化と思想』に登場願う。
「中国人はたっぷりある暇とその暇を潰す楽しみを持っている」と語る林は、「十分な余暇さえあれば、中国人は何でも試みる」とし、「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい、京劇をうなり」から「盆栽を世話し、お祝いを贈り、叩頭をし、子供を産み、高鼾を立てる」まで全部で60種ほどの暇潰しの方法を挙げている。その43番目に「日本人を罵倒し」とある。この林語堂の説に従うなら、岡の「異妝を觀て爭いて相い笑い罵」った兵卒たちも、また「簇擁せ、瓜皮瓦石を投げ」つけた紹興の住民も、おそらくは「たっぷりある暇とその暇を潰す楽しみ」を思う存分に楽しもうとしたに違いない。爆買いならぬ爆笑、爆罵倒、いや爆馬鹿(?!)といっておきたい。だとするなら「其れ規律無し」ではなく、規律なんぞという考えは端っから持ち合せてはいないのだ・・・やれやれ、である。《QED》