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2015年08月31日

【知道中国 1273回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1273回】        一五・七・念六

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡14)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 岡は上海で「一洋人」から聞いた話と断わりながら、

――中土(ちゅうごく)は今からの30年をダラダラと太平の夢を見続ければ、西晋(265年〜315年)末の混乱を遥かに超える大混乱が起り、60年後になってやっと治まるだろう。台湾は日東(にほん)に、朝鮮はロシアに帰し、新疆は四分五裂し、力を持つ者が併合してしまう。「中國、始めに劉永福を冊し安南國王と爲さば、必ずや今日の事、無し。此の言、特に聵聵(でたらめ)と爲(おも)う。中人の病、外情を得ざるに在り」(8月16日)――

 岡が上海に滞在したのが明治17(1884)年だから、30年後は1914年、60年後は1944年ということになる。岡は「此の言」、つまり西洋人の考えを「特に聵聵」と退けた。だが清朝を崩壊に導いた辛亥革命が1911年で、以後は軍閥時代から日中戦争、さらには国共内戦を経て共産党政権成立が1949年。朝鮮がロシアの手に落ちることはなかったが、10年後の日清戦争によって台湾は日本が領有し、新疆は四分五裂し、列強の狙うところとなった――こう歴史の歩みを追ってみると、「此の言、特に聵聵」というわけでもなさそうだ。当時の上海で「一洋人」は、なぜ、このような近未来中国を描いたのか。興味津々である。

 劉永福(1837年〜1917年)は、広東欽州(現在は広西チワン族自治区)の人。武芸に優れ、1857年に反清を掲げ武装蜂起したものの清国軍に追われヴェトナムに逃亡。以後、黒旗軍を名乗りグエン(阮)王朝公認の武装勢力としてヴェトナムに一定の地歩を築き、清仏戦争の際にはフランス軍に対し軍功を挙げる。後に清朝武官となり、日清戦争の際には黒旗軍を率い台湾で日本軍への抵抗をみせた。つまり劉永福をそのまま安南(ヴェトナム)の領主として認めていれば、清仏戦争もブザマな展開をみることもなかっただろう、という見立てだ。だが、この論は確かに根拠薄弱だ。

 いずれにせよ「中人の病」は偏に夜郎自大が過ぎ、超自己チューで、外国の事情に目を瞑り耳を塞ぐところにあると指摘する岡が、この日、郊外で兵営の前を通りかかる。すると営門の外に屯して土木工事をしていた兵卒たちが「余の異妝を觀て爭いて相い笑い罵る。其れ規律無し」と。ぞろぞろダラダラと手を動かしながら、「異妝」の岡を大いに笑い罵倒したであろう姿が容易に思い浮かぶ。

 この種の珍事は日常茶飯だったらしい。数日前の、紹興酒で有名な紹興の街での体験を、岡は「人、余の異服を見て、簇擁(むらがりおしよ)せ、瓜皮瓦石を投げる者有り」と綴る。「瓜皮瓦石投げる」ということは、紹興の街で岡を目にして「簇擁」せた人々は手にすることのできるものなら何でも手当たり次第に岡に投げつけたということだろう。まあ「爭いて相い笑い罵」る兵卒も最低だが、「瓜皮瓦石を投げる」ような紹興の住民は兵卒以下だ。その様を岡は「我が邦三十年前、歐人始めて江戸に來たる時の猶し」と受け流すが、さて・・・。

 ここでお馴染み林語堂の『中国=文化と思想』に登場願う。

 「中国人はたっぷりある暇とその暇を潰す楽しみを持っている」と語る林は、「十分な余暇さえあれば、中国人は何でも試みる」とし、「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい、京劇をうなり」から「盆栽を世話し、お祝いを贈り、叩頭をし、子供を産み、高鼾を立てる」まで全部で60種ほどの暇潰しの方法を挙げている。その43番目に「日本人を罵倒し」とある。この林語堂の説に従うなら、岡の「異妝を觀て爭いて相い笑い罵」った兵卒たちも、また「簇擁せ、瓜皮瓦石を投げ」つけた紹興の住民も、おそらくは「たっぷりある暇とその暇を潰す楽しみ」を思う存分に楽しもうとしたに違いない。爆買いならぬ爆笑、爆罵倒、いや爆馬鹿(?!)といっておきたい。だとするなら「其れ規律無し」ではなく、規律なんぞという考えは端っから持ち合せてはいないのだ・・・やれやれ、である。《QED》

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2015年08月27日

【知道中国 1272回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1272回】        一五・七・念四

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡13)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
――(ある友人が説く)我が国は欧米に学ぶのではない。聖人の道には自ずから富強への方策が説かれているのだ。貴国(にほん)は此(おうどう)ではなく、彼(はどう)を求めた。その姿は、まるで高い木から降りて深山幽谷に分け入っていくようなもの、と。嗚呼、彼の考えはブザマであることか。すでに陸上では輪車(くるま)が疾駆し、海上では輪船(じょうきせん)が航海している。電線は網の目のように張り巡らされ、聲息(じょうほう)が行き交っている。宇内(せかい)の激変はここまできているのだ。だが彼らは、相も変わらず「六經を墨守し、富強の何事を爲すかを知らず、一旦法虜(フランスのほりょ)の滋擾(そうらん)あれば、茫然として手を措(ほどこ)す所を知らず。皆(ことごと)く、此の論、誤る所為り」(8月11日)――

 原文の「下喬木。而入幽谷者」を「高い木から降りて深山幽谷に分け入っていくようなもの」と訳してみた。全体を捉える道を自ら捨てて枝葉末節に奔ってしまい己を見失う、と受け取れるのだが、ならば「下喬木。而入幽谷者」は日本ではなく、聖人の道に雁字搦めになって身動きが取れず、目の前で次々に起きている問題に立ち向かおうとしない「中土」にあるはず。いくら宏大とはいえ「中土」は「宇内」の一部にすぎないわけで、その「宇内」が直面している激変に素直に目を向けるべきだ。そうすることが富強への第一歩というものだろう。だが、こんな岡の説得を聞き入れることはなかった。なにせ彼ら「中土」の人は「六經を墨守」することしか知らないのだから。

――友人が持参した上海の新聞が、15日にフランス海軍の5隻の軍艦が台湾を攻撃し、雞籠(現在の基隆)の砲台を陥落させた。上海に派遣されたフランス使節は、その事実と共に「和戦は唯に貴國の爲す所たり」と伝えたと報じている。私は識者に逢う毎にフランスの事を説いたが、多くは思い過ごしだと笑い飛ばす。だが考えてみれば台湾は東洋における地政学上の要衝の地だ。ここが一旦フランスの手に落ちたなら、東洋の混乱が始まってしまうのだ(8月13日)――

 13日、在上海日本政府公館が発した「中国内陸部に在住する日本人に対し混乱を避けるべく直ちに上海に退避すべし」との命令を受け、岡は「余、獨(ひとり)、此の地に優游(あそ)ぶ可からず」と納得し、上海に戻る。

――(上海の新聞が)「中土」は大砲を鋳造し、最新船舶を購入し、招商・機器の2部局を創設すべく莫大な資金を投ずることとなった。だが雞籠における戦闘ではフランス軍の砲声が聞こえるや、守備兵は驚き腰を抜かし一斉に蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。これでは莫大な資金と多大な人力を投じたところで、大砲を鋳造せず、一兵も訓練しないと同じではないか。我が土地は侵され、我が堡塁は抜かれ、我が国富の源は奪われ、我が赤子(じんみん)は辱められるままだ、と報じている。

 イギリス人は「彈丸黒子(ちっぽけ)」な香港を略取したことで、東洋貿易が生み出す莫大な富をゴッソリと奪ってしまった。香港に較べ台湾は大きな島であり、フランスが手中に納めたら、日・中の上に立って双方を扼し、この地域における覇権を握ってしまう。「此れ、東洋局面の一變たるもの」だ(8月14日)――

――(訪れて来た友人との話が)フランスの事に及ぶ。すると財政破綻にも拘わらず大激動に対処する方法を知らないと、彼は憤激するばかり。やはり「中土の人、虛文(なかみのないぶんしょう)を構(もてあそ)び、大言(おおぼら)を好む。堅忍(だんこたるこころざし)の人、一(ひとたり)も無し」(8月16日)――

 続けて岡は「一洋人の言」を挙げながら、「中人の病」を指摘した。《QED》

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2015年08月26日

【知道中国 1271回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1271回】         一五・七・念二

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡12)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 あるいは共産党独裁体制÷伝統=「三匪」×「三毒」という数式も成り立つかもしれないところだ。

 ところで岡は中国でも相当に有名人であったらしく、たとえば上海到着から程なくした6月16日、アメリカの軍艦を訪問した際に名刺を差し出すと、「日本の学者、上海来遊と新聞が報じていましたが、先生のことでしたか」と挨拶されたと記している。ご本人が書いていることだから話半分といっておきたいところだが、ともかくも訪ねる先々で官僚や知識人が来訪し、様々な質問を試み、教えを乞うている。

 8月5日。来訪した三庠生を相手に、岡が「天地人の三才に通じるを儒というが、儒学の聖人やら六経に全く間違いはないとお考えかな」と問う。すると三庠生がお教え願いたい、と。そこで岡は「歴史を記した聖典の『春秋』には太陽が虧(か)けることを“日食”と記し蝦蟇が食べることによって起ると説いている。だが、そんなことは三歳の童子でも信じない。全く笑うしかないだろう。かくして日食を科学的に説明してやると、彼は愕然とした」と記す。

 かりに岡が綴るように三庠生が「愕然」としたなら、そのこと自体に愕然とせざるをえない。彼を中国知識人の平均像だった考えると、当時の中国における知識人一般は自然科学の領域における日食という現象ですら依然として儒教経典の教えを疑うことなく、蝦蟇が太陽を食べるからなどと信じていたということになる。そら恐ろしい限りだ。

 当時は清仏戦争の最中である。そこで当然、清仏戦争が話題となる。

 ――フランスと戦わなかったら、「中土の国威」は振わない。だが、戦ったなら、「百萬糜爛(コテンパンのまけいくさ)」だろう。聞くところでは李鴻章は和平派で、左宗棠や曾国藩などの諸将は主戦派だ。和戦のどちらに決するかは依然として不明だ。(私の考えに友人は)極めて心愉しまらざる風情だった(8月2日)――

 ――上海滞在中のフランス使節が「中土」が安南(ヴェトナム)に援兵を送ったことを抗議し、200万ポンドの賠償を要求した。だが曾国藩は拒絶した。安南では連戦連勝で、フランス兵に数千の死傷者が生じたなどと、新聞紙面には「矜伐(いさま)」しい文字が躍っている。だが、「余、其の不實なるを知る」(8月7日)――

「余、其の不實なるを知る」とは、岡もまた小室や尾崎と同じように、自らを糊塗し、失敗を隠蔽し、白を黒と言い包め、針小棒大を旨とする伝統的体質を見抜いていればこそ、中国側の報道、情報を信じなかったに違いない。思えば毛沢東の、周恩来の、ケ小平の「不實」に、日本はどれほどまでに振り回されたことか。悔やんでも悔やみきれない。

――フランスについて尋ねると、福州ではフランスの捕虜による乱暴狼藉に怒り戦端が開かれた。勝敗の行方は判らないと上海から知らせて来たと、ある友人が応えてくれた。そこで、おそらくそれは誤った報道だ。いま両国は大臣を派遣して事態の理非曲直を論じているところであり、一方的に戦端を開く正当な理由が見当たらないではないか。その知らせが本当なら、「曲(あやまり)は中土に在り」と岡が指摘した。すると友人は戦闘は2,3日の間にあったと語り、フランスの捕虜による無理無体を憤懣やるかたない風情で論難するばかりであった(8月8日)――

 ――フランスについて尋ねると、ある友人は「二十四史を通覧してみるに、夷狄との戦いが最も無策のように爲(おも)う」と語ってくれた(8月11日)――

 どうやら「中土」にも少しはモノの判った人物がいたようだが、岡の話に素直に耳を傾ける人物は少数派というべきで、やはり大多数は「聖人の道」を振り回すばかり。《QED》

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2015年08月22日

【知道中国 1270回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1270回】        一五・七・廿

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡11)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 「中国人の基本的生活方式」について別の視点から少し考えてみたい。そこで『觀光紀游』から離れ、19世紀末期から20世紀初頭の満州に目を転じたい。

 満州の広野を南に流れ渤海湾に注ぐ遼河の河口に位置し、イギリスによって開港されることになった牛荘(後に営口)は、1860年代以降、満州を世界に結びつける重要な役割を担うようになった。1900年代に入ると満州経済は大豆三品(大豆・粕・油)を中心に急成長をみせ、世界市場の一角に地歩を築いたのだ。ドイツが大豆油を原料にマーガリンを製造するようになったことも相俟って、大豆製品は国際製品として世界市場に飛び出していった。かくて1906年における満州からの大豆三品の輸出量を100とするなら、4年後の1910年には732と7倍強に急増したのだ。清朝崩壊の前夜であった。

 満州で大豆を生産していた農民の大部分は、清朝が創建時から漢族の満州移住を禁じていた封禁政策を半ば無視するかのように新天地を求めて満州各地に入植した漢族であり、清朝末期に封禁が解かれたことを機に生きる道を求めて怒涛の如く満州に押し寄せた漢族だった。漢族による農村社会が活況を呈するようになれば、漢族商人は満州にもネットワークを広げる。だから、かつて日本人が「満人」と呼んでいた多く、いや大部分は実は漢族だったと考えられる。じつは満州は漢族によって殖民地化されていたのだ。

 清末における漢族の満州への大移動を「闖関東」と呼んだが、満州族の故地に定着し大豆栽培で生計をたてる漢族農民を支配し、彼らの収入の上前を撥ねていたのが「銭匪」「吏匪」「警匪」の「三匪」だった。

当時は満州全域で銀行制度が統一されていなかったことから、地方政府は官銀号と呼ばれる官営銀行を経営し独自の通貨を発行するだけでなく、徴税機関としての機能を持たせていた。一方、大豆産業の拡大に伴って民間には多くが地主の経営になる糧桟と呼ばれるニュー・ビジネスが生まれ、大豆を集荷・選別・貯蔵し加工・輸出業者に売り渡すだけでなく、農民に対する高利貸し業も営むようになった。

 かくて裏付けの怪しい通貨を発行する官銀号や関連金融機関幹部を銭匪と呼び、吏匪と称された役人、さらには警匪と呼ばれた警官とが手を組んで農民から富を絞り上げたという仕組みが動き出すことになる。銭匪は法令もないままに個別に通貨を発行した。なにせ吏匪と警匪とが仲間であるから、不利益を被った農民が訴えようがどうしようが、処置なし。経済政策も金融政策も商取引も何もあったものではない。農民は泣き寝入りするしかない、ということになる。抗議でもしようものなら、警匪の登場となってしまう。

 ここで2013年前半に中国経済、殊に地方経済の不安定要因として急浮上した「影の銀行(シャドー・バンク)」を思い起こしてもらいたい。当時、地方の怪しげな金融機関が高利回り金融商品として盛んに売りまくっていた「理財商品」など、さながら銭匪が刷りまくった根拠薄弱な貨幣といったところだろうか。「三匪」にとっての富の源泉が満洲では大豆であったのが、現在では不動産に代わっただけ。いずれ農民をダシにして、強欲な「三匪」の懐にアブク銭が滔々と流れこむカラクリは同じだろう。とはいえ農民も強欲ですが・・・。

 こう見て来ると、「影の銀行」とは中国における中央政府と地方政府の権力関係、地方政府の持つ権限の規模と範囲、地方における権力と人民の関係、支配と被支配の関係――いわば地方権力による富の強奪システムであり、満州で富を収奪した「三匪」の同類といえる。だから「影の銀行」は共産党独裁市場経済が生み出した“お粗末な金融システム”ではなく、「中国人の基本的生活方式」に鋳込まれた強欲さの発露と見做すべきだろう。

「三毒」に「三匪」・・・やはり「中国人の基本的生活方式」は牢固不変ですね。《QED》

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2015年08月21日

【知道中国 1269回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1269回】           一五・七・仲八

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡10)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 「名言」に違いないが、それが一向に実行に移されない。そこが大問題だが、じつは「烟毒」と「六經毒」に加え、「貪毒」があったことに岡は気づいてはいなかった。

 来訪した友人に向って岡は、「烟毒と六經毒を一掃し中土の元氣を振うを以て説と爲」した。つまり清国再興に関する自論を語り掛けた。すると友人は、「更に一毒有り。貪毒と并わせ三毒と爲す。中土にては大小の政事、賄賂にて成る」と。

 やはり「中土」では政治の一切は賄賂によって左右される。ならば「貪毒」にも相当な毒が秘められているに違ない。そこで『中国=文化と思想』(林語堂 講談社学術文庫 1999年)の次の一節を再録、再々録、いや再々録(?!)しておきたい。

 「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」

 ここで考える。規則動詞は「賄賂を取る」だけには限らないのではないか、と。「烟毒」も「六經毒」も同じく規則動詞といえるはずだ。林語堂の表現を借りるなら、私はアヘンを吸う。あなたはアヘンを吸う。彼はアヘンを吸う。私たちはアヘンを吸う。あなたたちはアヘンを吸う。彼らはアヘンを吸う――ということ。さらに続けると、私は六経を読む。あなたは六経を読む。彼は六経を読む。私たちは六経を読む。あなたたちは六経を読む。彼らは六経を読む――である。

 まさにドンピシャ。「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用」だけではなく、「アヘンを吸う」も「六経を読む」も「一般的な動詞活用」であり、「規則動詞」ということだ。もっとも六経の場合は知識層に限られるが。

 ここで現在に転じて「三毒」を考えるに、「貪毒」はもう説明の必要がないほど一般化している。数千億円やら1兆数千億円やら。共産党最高指導部経験者の天文学的な不正蓄財の前では、ロッキード疑惑に絡んだ田中角栄の5億円などガキの戯事。中国人に向っては恥ずかしくて口にできないほどの微々たる金額だ。まさに“爆買い”ならぬ“爆賄賂”だ。

 それはさておき、ならば「烟毒」と「六經毒」に相当するものはあるのだろうか。さしあたり思い浮かぶとすれば「烟毒」はカネ儲け、「六經毒」は共産党独裁下の権力に当たるように思われる。いわば金銭毒と権力毒とでもいっておこうか。今や中国人の五体は治癒不能なまでに金銭毒に毒され、社会は身動きのとれないほどに権力毒に麻痺してしまっている。加えるに「貪毒」である。極論が許されるなら、有史以来、彼らは金銭毒と権力毒と「貪毒」の「三毒」にドップリと漬かったまま日々を送って来たことになろうか。

 かく考えればこそ、再び林語堂に登場してもらうことにする。同じく『中国=文化と思想』だが、こんな記述もある。おっと、これも再々録か!?

 「大多数の中国人も自覚的信念からではなく、一種の民族的本能から依然として古いしきたりを墨守している。中華民族の伝統の力とはかくも強いものであり、中国人の基本的生活方式というものは永遠に存在し続けるように思える。たとえ共産主義が支配するような大激変が起ろうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その名実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかないほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」。う〜ん、マチガイナイ。

 中華民族×共産党=中国人の基本的生活方式である「三毒」万能の社会・・・噫。《QED》
posted by 渡邊 at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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