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2015年08月20日

【知道中国 1268回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1268回】         一五・七・仲六

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡9)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
「洋烟機器」についての論争から1週間ほどが過ぎた8月1日、論争相手の友人が漢詩を4首作って訪ねて来た。そこでまた岡は自論を展開する。

 ――最近、世の中の風潮は一変し、各国が往来するようになった。これこそ、「五洲(せかい)」の情勢の一大転換だ。にもかかわらず、「拘儒紆生(いしあたまのくされじゅがくしゃ)」は「經史(こてん)」を繙きながら「陋見(じだいおくれのおろかなかんがえ)」を主張する。「宇内(せかい)」の大勢というものを知らない。「巣幕之燕(きけんきわまりない)」。火が身近に近づいていることを知らないということだ。

 私見だが、やはり先ずは烟毒と六經(儒教古典の『詩経』『書経』『易経』『春秋』『礼記』『楽経』)の害毒を洗い流さなければ、「中土の事」には手を下せない。六經には信じるべきところもあれば、信じるべきでない個所もある。にもかかわらず信じる必要のないところを信じるから、害毒は至る所に及んでしまう。聖人である孔子や孟子は精神世界を論じ、これに対し欧米の学は現実問題を徹底追及しているのだ。昨今の情況を論ずる場合には、欧米の視点に立脚しなければならない――

 どうやら岡の“堂々たる正論”に反論することもなく、送別の宴を催して応えている。

 岡は「烟毒」と「六經毒」が中国を滅ぼすと主張する。前者は肉体を無慈悲なまでに破壊し尽くしてしまい、後者は人間の頭脳を時代遅れのままに押し止めてしまう。それは個人も国家も同じということだろう。

 ここで日記の日付が前後することになるが、「烟毒」と「六經毒」に対する岡の考えを纏めてみておくこととしたい。

――(中国人の著書を読んで)清国が抱える問題点を衝いた正義の書といっていいが、「中土」であれ固より「憂世の士」は少なくない。だが、アヘンを禁ずるべきではなく、人民に罌粟栽培を許し、外国産の流入を防止すべきだと主張するに至っては、また何をかいわんや、だ。これでは猫に鰹節、泥棒に追い銭というもの。後に、この著作を知り、山西や四川では罌粟栽培を倍々ゲームで拡大しているではないか。噫(8月18日)――

 清朝のアヘン政策には「内禁策」と「外禁策」があった。簡単にいうなら前者は国内での罌粟栽培禁止、後者はアヘンの輸入禁止ということになるが、前者を実施すると輸入が増加し財政がひっ迫する。後者に切り替えると密輸が横行してしまう。いずれにせよ中国人が莫大な量のアヘンを消費するからであり、内外禁のどちらの政策も失敗し、遂には1840年のアヘン戦争に立ち至ってしまったわけだ。いいかえるなら中国人がアヘン吸引の悪習を止めれば、「烟毒」が清国を亡国の深淵に引きずり込むことはなかったはず。

 岡が読後感に「噫」と嘆いた著作の著者は、外禁策を主張していたことになる。

――船旅を共にしてくれる船頭は、能く艱難に耐え有難いかぎりだが、ただ困るのは少しでも暇があると、船底に寝転んで「毒烟(アヘン)」を吸い始めることだ。「毒烟以外、人間(このよ)に樂事(たのしみ)の有るを知らざる如き者なり」(8月19日)――

――「烟毒」と「六經毒」を一掃しないかぎり、現在の「中土」の将来はない。六經には毒がある。だが「中人」は儒教古典が説く役にも立たない末の末の主張に囚われ、それを固く守るだけで能がない。西洋人は実学を研究し「實理」を発明しているが、「爛熟六經」なんぞでは、とても敵わない。書物を盲信するというのなら、書物なんぞ無い方がいいに決まっている。六経が流す毒は、晋・宋の両王朝を崩壊に導いた老荘思想の毒と同じではないか。(8月22日。上海に戻り岸田吟香に向って)――

 これを聞いた岸田吟香は、「案(つくえ)を撃(たた)き名言と爲す」と。《QED》

posted by 渡邊 at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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