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2015年09月30日

【知道中国 1298回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡39)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1298回】         一五・九・念五

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡39)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 ここで小休止。岡から少し離れ、永遠に不滅の賄賂文化について考えることにして、以下の実例が発生した時期や発言の主が誰かを推測してもらいたい。

@共産党天津委員会書記の劉青山と張子善の2人は、自らの地位を利用し空港建設費・備蓄食品・治水工事資金などを掠め取り、労働者の賃金の上前を撥ね、銀行の貸金を詐取するなど、総計で155億5千万元余の不正を働いた。また、あるビジネスマンに投機目的で4億元の資金を与えた結果、鋼鉄・木材の市場は混乱し、関連国営企業が倒産するなど、全体で公金14億元が失われた。

A武漢市の福華電機・脱脂綿廠社長の李寅廷は軍から受注した救急医療用脱脂綿の製造に当たり、政府支給の高品質綿花の代わりに廃綿を消毒も漂泊もせず使用した。廃綿中の1千斤は廃品回収業者から購入したが、それらは幼子の死骸についていたもの。その廃綿を打ち返すと工場内に悪臭が漂うだけでな、小さな頭蓋骨が出てきたこともあった。

B上海市の商人・王康年は25機関の65人の幹部に賄賂を届ける一方、幹部籠絡の目的で会社に「外勤部」を新設し、2億元ほどの交際費を使った。その90%は賄賂用だった。上海に出張して来た安徽省政府衛生所購買員の段海恩を宿舎に訪ね、大歓待した。王にすっかり籠絡され信用した段の紹介を受け、同僚の張振立が上海出張の際に王を訪ねる。すると王は「外勤部長」を差し向け張の接待に当たらせ、最高級ホテル、レストラン、買い物など一切の費用は「外勤部長」が支払った。

 張の父親が病気だと知ると50万元を、弟が金策に苦慮していると知ると70万元を気前よく用立ててやっている。やがて王は張に向って親しみを込めながら、「老張! 不調法なもてなしを出はありましたが、あなた名義で僅かばかりですが貯金をしておきましたから、必要な時にはいくらでもお使いください」と。

 こうして人脈を築いた王は、張を通じて10億元余の品物を安徽省政府に納入したが、その90%は粗悪品であり、納期期限がきても未納の薬品は少なくない。

C上海で牛肉を販売する張新根と徐苗新の2人は100斤当り60斤の割合で水牛の肉を混ぜたものを正真正銘の牛肉と偽って30万斤ほどを販売し、2億6千万元余を不正に取得した。また市場で売れ残った下等な肉、腐った肉、検査をごまかした肉、さらには死んだ牛の肉を仕入れ販売した。

D経緯紡績機械工場で新工場建設工事を行ったが、設計・施工ともデタラメで、289本の土台柱のうちの280本に欠陥が発生し、工場全体が沈下した。

E中国人民銀行本店視察団を迎えた同行河南省分局では2億5千万元の接待費を用意する一方、招待を口実に分局幹部が宴会を重ね、幹部家族は公用車を私用した。

F「幹部らは職権を乱用し、現実からも一般大衆からも目を背け、偉そうに体裁を装うことに時間と労力を費やし、無駄話にふけり、ガチガチとした考え方に縛られ、行政機関に無駄なスタッフを置き、鈍臭くて無能で無責任で約束も守らず、問題に対処せずに書類を延々とたらい回しし、他人に責任をなすりつけ、役人風を吹かせ、なにかにつけて他人を非難し、攻撃し、民主主義を抑圧し、上役と部下を欺き、気まぐれで横暴で、えこひいきで、袖の下を使えば、他の汚職にも関与している」

――さて種明かし。建国直後の51、52年、幹部と資本家の不正を防止・撲滅するために「三反五反運動」と呼ばれる政治運動が全国規模で展開されているが、@からEまでは、その際に摘発されたほんの数例。Fは改革・開放直後の80年8月のケ小平発言。

最早、なにを言ってもムダだろうに。賄賂文化は永遠に不滅なのだから・・・。《QED》

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2015年09月29日

【知道中国 1297回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡38)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1297回】         一五・九・念三

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡38)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 清朝高官や知識人との間で交わした緊張した会話を記すだけでなく、岡は自らが歩き、眺め、体験し、心に映じた北京の街の佇まいを綴っている。そのいくつかを拾っておくと、

――雨が降る。ゴミ捨て場同然の道路には水が溢れ、このうえなく穢い。街路には雑草が生い茂り、大きな建物は崩れ落ち、惨憺たる有様だ。かつて栄華を誇った皇都も無残極まりなし。郊外に出ると、道路はガタガタで補修すらされてはいない。「亦、其れ宜なる也」(10月31日)――

――「路人(つうこうにん)」は我が着物姿を奇異に感じ、前後を取り囲む。ボロを纏った乞食が離れずに後からゾロゾロとついて来て、「お恵みを」とせがむ。まったく堪ったものではないから、車に乗って立ち去ることにした。(11月1日)――

――街を囲む城壁はボロボロ。真ん中が掘れて凹状になっているなど、道路の損壊は甚だしい。牛車や馬車は凹状に窪んだ道路の中央部を左右上下にガタゴトと揺れながら進み、人は道の端を歩く。乞食は真っ裸で、あるいは老人を背負い、あるいは幼子の手を引き、あるいは線香を点し通行人の足元に蹲って銭を求める。我が国でも維新前には乞食がいなかったわけではないが、こんなにも大勢の乞食の集団を見かけることはなかった。

 この国は、なぜ、このような惨状に陥ってしまったのか。考えれば太平天国の乱の後、イギリスとフランスが北京に侵攻し、巨額の賠償金を求めた。その一方で近代化策の一環として外国との取引を目指した招商局、さらには砲兵工廠や造船局などの部局・機関を新設し、大小軍艦を購入することで巨額の費用を使わざるをえない。かくして国家予算のうちの通常経費を大幅に削らざるをえなくなったことで、城壁・道路・橋梁など壊れたままで維持管理は不可能となり、宮闕(みやい)の修繕すらままならない情況だ。一方の「細民(しょみん)」は「賭博竊盗孤寡流亡乞食」であり、かくして凡その「惡幣」の原因は官民双方の貧困にあるということだろう。

 財政情況考えてみれば、「天の方(まさ)に蹶(みだ)さんとするに、泄泄(むだぐち)は無然(むよう)ということ、か」。

 官民双方が貧乏に苦しんでいるというのに、骨董店が軒を並べる瑠璃廠へいってみると、高価な骨董がズラッと並ぶ。「何の用に用いるかと問えば、曰く多く權貴(こうかん)に賄(おく)る、と」。店頭に並ぶ骨董の多くは贋作であり、よほどの目利きでないと、先ずはニセモノを買わされるのがオチだ。

 夕暮れになったので道を急いだものの、前方で車が泥中に嵌って動かない。その後に続く車馬も動かない。二進も三進もいかない。道を別にとって宿に戻る。(11月7日)――

 岡は清国の末期的情況を現すに「天之方難、無然憲憲、天之方蹶、無然泄泄」と儒教経典の『詩経』の一節を引く。「天は災難を下そうとしているぞ。憲憲(キャッキャ)と打ち興じている場合か。天は混乱を起こそうとしているぞ。泄泄(ペチャクチャ)と無駄口を叩いている場合か」といったところだろう。だが実態からいうなら、国家や社会が危急存亡の危機に立ち至るほどに、世間では「憲憲」「泄泄」が持てはやされるようだ。

 それにしても、骨董は「多く權貴(こうかん)に賄(おく)る」に苦笑い。かくして、またもや林語堂が頭を過る。曰く、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」(『中国=文化と思想』講談社学術文庫)

 「『賄賂を取る』は規則動詞」。そうです。賄賂文化は永遠に不滅なんです・・・トホホ。《QED》

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2015年09月28日

【知道中国 1296回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡37)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1296回】        一五・九・念一

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡37)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 日本の「沿革」について曖昧模糊とした知識しかないということは日本を知らないことであり、それは「中土」にとって決して「得」なことではない。この岡の考えは、確かに正しい。だが、岡の時代から現在にまでつながる日本の対中政策を振り返った時、果たして日本は――岡の表現を借りるなら、「中土の沿革」に「矇然(ピンボケ)」ではなかったか。

 かくして勝海舟が「日本人もあまり戰爭に勝つたなどと威張つて居ると、後で大變な目にあふヨ。劍や鐵砲の戰爭には勝つても、經濟上の戰爭に負けると、國は仕方なくなるヨ。そして、この經濟上の戰爭にかけたは、日本人は、とても支那人には及ばないと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」(『氷川清話』講談社学術文庫)と言い、宮崎滔天が「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、此熱帯国(=シャム)にて、急がず、噪がず、子ツリ子ツリ遣て除ける支那人の気根には中々及ぶ可からず」(『宮崎滔天全集(第五巻)』平凡社)と綴っていたことを記しておく。

 20日から、徳正門、明代創建になる古刹の西山・覚生寺、さらには清朝歴代皇帝にまつわる豪壮な建造物を見て回る。

――どの建物も、「天下の力」を一身に集め天下を思うが儘に動かす王者の威風を示し、まさしく壮麗を万邦に示したことを偲ばせる。だが現実には、西欧列強に「蹂躙」され国土は焦土と化し、風雨に曝されるばかりで、ムササビやら蛇の巣に成り果てている。嘆かわしい限りだ。歴代皇帝が立ち寄られた場所も、「醜虜(いてき)」に「蹂躙」されてしまった。「宗社玷辱(てんかのくつじょく)」であり、耐えられるものではない。雑草を生い茂らせたままにおくことは、臣下本来の務めを怠っているということか。だが、考えようによっては、無残な姿をその儘にうち捨てておくことで、「人心を勵(はげま)し、義憤を鼓すの資(もと)となる」のかもしれない――

 数日を費やし、岡は清朝皇帝・皇后にゆかりの建物やら庭園をを参観し、さらに足を郊外に伸ばす。

 ある茶店で一休み。すると店主は岡が日本人であることを知り、「日本、中土と協力し大いに『洋虜(いてき)』に克つ」と喜んでみせた。どうやらヴェトナムでフランスと戦った劉永福を日本人だと勘違いしているらしい。そこで岡は、「鄙野の人、聵聵(むち)にして多くは此の類なり」と。

 北郊で八旗兵の操練の模様を参観したが、余りにも旧態依然で進歩がない。これで西欧の軍隊と一戦を交えようというのだから、「無如之何也(もう、どうしようもない)」。

 10月30日、訪ねて来た友人に日本における官吏任用制度を訊かれ、江戸時代は禄を与えられた武士が「有事ならば兵、無事ならば官」を務めていたが、明治維新以降は「此の制を廢し、歐米に仿い各科學校を興し」、成績優秀者を採用していると応えた後、清末の思想家で富国強兵を熱く説いた魏源(1796年〜1856年)を援用し、科挙の弊害に話を進めた。

――「兵(いくさ)は専門事業」であり、軽率に扱えるものではない。だが科挙試験の成績優秀者に当たらせるから、「筆舌を弄び時事を論じ、遂に兵權を握る」ことになってしまう。「兵」を「筆墨口舌」の徒に委ねるや、「一旦、變起これば」、彼らは「衆に先んじて遁去(にげさ)る」。「固より其れ當然なり」。だから目下の急務は旧弊・前例を捨て專ら国家朝廷の制度を再考し、「國故(こくなん)」を討つことだ。危機を克服するためには科挙を捨て、「歐米に仿い各科學術を興すあるのみ」――

 科挙廃止は20年ほどが過ぎた1905年。その6年後の1911年、清朝は崩壊。《QED》
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2015年09月27日

【知道中国 1295回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡36)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1295回】        一五・九・仲六

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡36)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 なんという情けない言い草だ。学問の要諦は国家経営にあり、その根本は経世済民、つまり国と民とを富ませ、他国から侮られない国造りを進め、草民が心穏やかな日々を送れるように知と心を尽くすことではないか。官位に就いていようが、無位無官の草莽布衣であろうが無関係のはず。学問を志した者が身に体した学問を引っ提げて立つべき時は今、この時だろうに。今をおいて、いったい何時、学んで得たものを国家社会に役立てようというのだ。なんのための学問だ――おそらく、岡はこういいたかっただろうに。

 だが相手は話題が国政に及ぶと、「官途に就いていない者がとやかく政治を議論するは、『學の本旨』とは隔たるばかりだ」と尻込みをする始末。

 どうやら「學の本旨」に対する考えに彼我の違いがあるらしい。友人にとって「學の本旨」は科挙に合格し官吏になって政治を行うこと。だが岡にとっては、兎にも角にも経世済民の方途を考え尽くし実践すること。

 友人は官途に就いていない、ということは科挙試験に成功しなかったと考えられる。そこで草莽布衣は政治を論ずるほどに「學の本旨」から離れてしまうなどと口にする。その不貞腐れ、拗ねたような物言いに、どうやら岡はカチンときたのではないか。ここで「道教と儒教は中国人を存続せしめる陰陽両極の力であるといえよう」と語る林語堂の見解を、引用しておきたい。これまた些か長い引用ではあるが。

 「成功したときには中国人はすべて儒家になり、失敗したときはすべて道家になる。儒家は我々の中にあって建設し、努力する。道家は傍観し、微笑しているのである。中国の文人は朝にあれば道を説き、徳を論ずるが、いったん野に下ると詩を賦し、詞を作る。その詩は道家思想に溢れたものばかりである。これが、中国の文人のほとんど全部が詩を作る理由であり、彼らの著作の中、詩歌がその大部分を占めている理由である。

 道家の思想はモルヒネのような神秘的な麻痺作用があり、人の心を鎮めてくれる。それが中国人の頭痛や心痛を軽減しているのである。道家のロマン主義、道家の詩、道家の自然崇拝は、儒家の学説が平和と民族統一の時代に役立つように、乱世の時代に中国人の苦しみや憂いを解き放っている。このように、肉体が苦しみをなめているときに、道家の学説は中国人の心に安全な退路と慰めとを与えるのである」(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年/100〜101頁)

 友人は科挙に失敗したことで、林語堂の説くように「道家になる」。道家思想が持つ「モルヒネのような神秘的な麻痺作用」によって、科挙失敗によって引き起こされた自らの「頭痛や心痛を軽減」させたのではないか。かくて彼は「學の本旨」を持ち出して岡の論難を躱し、「心に安全な退路と慰めとを」求めたに違いない。

 18日、李慈銘(1830年〜95年)が訪ねて来た。科挙に合格し山西道監察御史を務めたことのある清末を代表する歴史家・詩人。日清戦争の敗北を聞かされ、衝撃と憤怒のあまり吐血して死んだことで知られる。李慈銘で思い出されるのは遥か40数年の昔の香港で、彼の40数年及ぶ日々を記した『越縵堂日記』を購入したこと。以来、専ら積読で、いまだ読み終わっていない。大袈裟にいうなら、慙愧に耐えないといったところか。

 清末第一級の知識人である李慈銘と知り合いだったとは。岡の交友の幅広さと質の高さに驚かされるばかりだ。その李が日本の「沿革(れきし)」を問い質す。その姿を岡は、

――我が国の学者に「中土の沿革」に関心を寄せない者はいない。だが「中土の學士」は我が国の「沿革」については漠として知らない。これでは、まるで「用兵(いくさ)」に際し我が方は敵情を熟知するが、敵は我が情況に疎いことと同じだろうに――《QED》

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2015年09月26日

【知道中国 1294回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡35)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1294回】         一五・九・仲四

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡35)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 「萬國の道義」や「朝聘會同の義」との岡の指摘を目にした時、アメリカ初代大統領のJ・ワシントンが将来の大統領に向って与えた国策遂行上の忠告(『訣別の辞』)を思い出した。これまた些か長い引用になるが・・・。

 「・・・国家政策を実施するにあたっては最も大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い反感をいだき、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことが、あってはならないということである。〔中略〕他国に対して、常習的に好悪の感情をいだく国は、多少なりとも、すでにその相手国の奴隷となっているのである。これは、その国が他国に対していだく好悪の感情のとりことなることであって、この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益とを見失わせるにじゅうぶんであり、〔中略〕好意をいだく国に対して同情を持つことによって、実際には、自国とその相手国との間には、なんらの共通利益が存在しないのに、あたかも存在するかのように考えがちとなる。一方、他の国に対しては憎悪の感情を深め、そこにはじゅうぶんな動機も正当性もないのに、自国をかりたてて、常日ごろから敬意をいだいている国との闘争にさそいこむことになる」(『第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー回想録』A・C・ウェデマイヤー 講談社学術文庫 上33~34頁)

 岡は「萬國の道義」「朝聘會同の義」によって、J・ワシントンは『訣別の辞』によって、移ろい易い国際社会において他から侮られず自存自衛の道を守るための基本姿勢を説いているように思える。もっともその後の歴史を振り返った時、J・ワシントンの後輩たちは『訣別の辞』を学ばなかったようだが・・・殊にF・ルーズベルトとトルーマンの2人は。

閑話休題。

「此の日、終席、和戰の得失を論じ、他事に及ばず」と記しているところからして、岡とケは酒を酌み交わしながら、フランスに如何に対処すべきかを論じたのだろう。酒席が跳ねた後、岡は次のように考える。

――我が国はアメリカによる開国の要求をキッカケに、「四方(ぜんど)」が奮起した。長州藩では遂に長井雅楽を逼殺し、国論を統一して背水の陣を布いて戦いを挑んだものの、連戦連敗。そこで自らの方針が無謀であり道理に叶っていないことを悟り、国是を攘夷から開国へと一変させた。日本に較べれば「中土は大國」であり、三千年もの長きに亘って「萬國を夷視」してきた。であればこそ、現状は致し方がないともいえる。いまや戦端が開かれたが、「百城(ぼうび)は披靡(やぶ)」れ、「萬生(じんみん)」は靡爛(くる)」しむばかり。果たして「精鋭(せんし)」を錬成して自らが生きる道を会得し、ケが主張するように内憂外患を一気に晴らすことができるだろうか。その行く末を見届けたい――

 その後の歴史を振り返るに、「『中土の士大夫』は、史書の春秋が『朝聘會同の義』を重んじていることを理解していない」との岡の指摘のままに、清末から21世紀初頭の現在まで、およそ中国の指導者は蒋介石も含め、「朝聘會同の義」の真意を理解してはいないようだ。いや理解できそうにない。最近の習近平に典型的に見られるが、やはり「大国病」という宿痾(業病?)から抜け出すことは金輪際不可能のようだ。まずは処置ナシ。

10月18日、ケの友人が訪ねて来たので昨日のケとの遣り取りを伝えると、「彼は要路に当たっているが、私は無位無官の者が務めるべき『聖訓』を奉じているから、事の是非を妄りには論じない」と。そこで岡は「『論語』と『孟子』は半分を費やして『家國』を論じている。外敵が国境を侵し、国家は危急存亡の秋だ。いまこそ国事を語るのが『學の本旨』というものだろう。なんのために学問に励んできたのだ」と、どやしつける。《QED》

posted by 渡邊 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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