
【知道中国 1329回】 一五・十一・念八
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡70)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
17日になっても病状は好転しない。訪ねて来た香港在住の町田領事が驚愕するほどに痩せ細っていた。そこで「文業のための今回の外遊だ。外遊で死ぬなら、それは文業に死ぬということだ」と笑い飛ばす。領事の「死を畏れないんですか」との問い掛けに、「そもそも畏れるくらいなら、こんな旅をしてはいませんよ」。領事は笑いながら「屈強たり」と。
夜になると大砲が鳴り響き、ガラス窓を揺らす。なんでも3隻のフランス海軍軍艦が投錨したとか。軍艦が香港のヴィクトリア港に入ると13発の礼砲を撃たれると、返礼として陸上の砲台からも同数の礼砲が放たれる。じつは清仏戦争開戦以来、各国は軍艦を派遣して中国の各港を巡視している。かくして昨秋以来、数限りない各国軍艦が中国沿岸を遊弋することとなったわけだ。
18日、フランス兵による諒山奪還の戦況に関する新聞報道を、岡は次のように伝える。
――今月4日、フランス軍は大雨に乗じて東順を襲撃し、3砲台を抜いた。「中兵」は諒山防備を目的に退却する。十分な武器弾薬と糧食を調え、13日に諒山に向け進発したが、天然の要害であり攻略は極めて困難だった。激戦の末に敵の前線は破ったものの、中国側は数千の戦死者をだすに至った。フランス軍の防御態勢が整っていたため、遂には退却して広西防備に転換することとなった。
フランス軍将校の死者は5人。元より「中兵」がフランス軍に敵うわけはないが、戦争が2年に及ぶとフランス軍兵士にも千数百の戦死者をだすこととなる。くわえるに風土は劣悪で、疾病者が続出し、戦線離脱者も数限りない。それでいて兵力の補充がままならない。とはいうものの、一たび安南を押さえたが最後、フランスは「百世之利(えいえんのりえき)」を得たことになる。だから、どのような損害があろうと、最終的にはフランスの勝利ということだ。(1月18日)――
明けて19日は父親の23回忌に当たる。異郷で病床に臥し墓前に赴くことが出来ない「不幸」を詫びつつ、「郷里の族人の來たり参集し、弟兄の奉奠する状を緬想し、覺えずして涙下る」。
20日、オーストラリア在住の野坂という出雲出身者が訪ねて来た。オーストラリアの事情を尋ねたところ、気候風土は快適で、邦人の在住者をみると男は100人ほどだが女は僅かに5人。男は日本に戻り結婚した後、再びオーストラリアを目指すとか。後に同じくオーストラリア在住の二木という筑前出身者に訊いたところでは、イギリス人が神戸で100人ほどの漁師を雇い、オーストラリア南方の離島で真珠採集に当たらせているという。
この二木は翌(3)月10日に岡を再訪している。話は前後するが、当時のオーストラリアにおける日中移民の情況が判るので、その際の二木の話を先に綴っておく。岡の漢文をやや会話風に訳してみた。
「はい、オーストラリアのメルボルンから28昼夜を掛けて香港に参った次第で。オーストラリって国は広いのなんのって。国土はじつに我が日本の20倍ですから。イギリスは罪人を島流しにして植民し、牧畜業を開きまして。あっちからこっちからの移住者で野蛮極まりなかった国土は文明の大都に一変したわけです。商業を営む邦人は『五戸』。秋山さんが始めました雑貨屋が第一号です。
雨や雪が少なく気候は温和で、1年中が4,5月の陽気。土地は肥沃で羊毛の牧畜に適しております。オーストラリアで生活する『中人』は『四十萬戸』でして・・・」
二木の話はまだまだ続くが、それにしても岡の時代、すでにオーストラリアには「四十萬戸」の中国人が移住していたとは。これに対し邦人は僅かに「五戸」・・・う〜ん。《QED》