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2015年11月18日

【知道中国 1324回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡65)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1324回】         一五・十一・仲七

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡65)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
  
 翌(24)日、朝から降り続く「我梅雨候」のような霧雨の中、例の廣瀬がやってきた。そこで先ずはイッパイとなるが、酒が進みにつれ彼は語る。

 「マカオは長いことポルトガルの植民地でしたが、香港が開港して以来、経済は全く振わなくなってしまいまして、そこで本国の法律に準じて賭博場を開いて税を吸い上げようと目論んだわけです。すると『博徒雲集』して瞬く間に大繁盛。緊張状態が高まるが、広州租界のフランス警察は装備にカネを回せない。そこでマカオに倣って2カ所の賭博場を開設し、その上がりの税金で軍費不足を補おうとしたわけですが、『博徒無頼の游民』なんてヤツラは『家國』を蝕むばかり。公営賭博場からの徴税はマトモなんでしょうか。

 考えれば、その昔、ポルトガルは強国でしたが、騒乱・戦乱が相次ぎ、国が亡びないだけといったブザマな情況です。そもそも自治といったところで法がなく、マカオのような情況が多いわけですから、マカオの真似をしたところでロクなことはありません」

 さてマカオの公営賭博場(=カジノ)の思い出を。2つほど。

 最初は70年代始め。香港生活も1年ほどが過ぎた頃。一つ後学のためにマカオのカジノを体験するのも一興と出掛けた。当時、香港・マカオ間に高速水中翼船が就航していたが、やはり運賃が高額で貧乏留学生には高嶺の花。そこで夜行便の船倉の最下層に横になる。日付が変わる頃の香港のマカオ埠頭を就航した船は、翌早朝にマカオへ。いくらなんでも、こんな早朝から鉄火場で火花を散らしているような酔狂な「博徒無頼の游民」がいるわけがない。加えて夜行便の最下層船室は臭くて汚くて五月蠅くて・・・当然に頻りに眠い。その眠気を覚まそうと、人気のない明け方のマカオの街を歩く。

 旧正月を挟んだ時期は香港もマカオも寒い。加えて眠い。歩くのも億劫になっていたその時、目の前にエンジンを掛けっぱなしのバスが一台。しかも運転手も車掌もいない。シメタと乗り込むと、車内はホンワカと暖か。ガソリン臭い温かさのなかで暫し爆睡。なぜ、あの時、エンジンを掛けたままのバスが駐車し、貧乏留学生に暫し微睡の時間を与えてくれたのか。いまでも不思議に思うと同時に、その僥倖に深謝するのみ。かくて元気回復し、目的のリスボア・ホテルのカジノに突入だ。

 マカオ最大のカジノと言うものの、当時は内部は薄暗く、シミッタレた場末感は否めなかった。あの頃のマカオの佇まいからは、ラスベガスを遥かに凌駕する収入・規模・設備を誇るまでに急成長した21世紀の世界最大の賭博都市マカオを想像することは不可能だ。

 リスボア・ホテルの薄暗いカジノに目が慣れてきたが、なにせ手許不如意。チップを買って賭博に興じるなんて贅沢が許されるわけがない。加えて博打で一山当てて学資と生活費を稼ごうなどという山っ気(射幸心ともいいますが・・・)もない。そこで、あちこちのテーブルで演じられるゲームを専ら参観することとした。人間観察である。とはいえ、やはり他人の勝ち負けなど面白くも可笑しくもないわけだが。

 しばらく場内をブラブラしていると、異様な緊張感に包まれたテーブルに出くわした。テーブルの上に山と積まれたチップを計算すると、当時の日本円で換算して1000万円前後。目を血走らせた客は40代の日本人。堅気ではない雰囲気。舎弟と思しき3,4人の若者が周りをガードしている。いままさに緊張の極。バニーガールの衣裳を纏った係の女性が切るトランプに目が飛んでいた。そりゃそうだ。次のカードの出方次第で最悪の場合は“大枚”が吹っ飛ぶわけだから。ところが隣のテーブルでは、かの兄貴の手持ちよりは数倍は多いチップを目の前に、60代と思しき厚化粧の香港有閑マダムが悠然と煙草を燻らせながら、である。彼女からは緊張感も高揚感も感じられない。この違いは、何だろう。《QED》
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2015年11月17日

【知道中国 1323回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡64)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1323回】         一五・十一・仲五
 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡64)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
  
 23日は広州税関の前に山と積まれた輸出入物資を目にして貿易の盛行を実感するが、ここでも和服姿の岡は、蟻集する兵卒に取り囲まれ道を遮られてしまう。やはり中国人は物見高い。かれこれと岡の姿を評定しながら、無駄に時を過ごしたに違いない。であるからこそ「中国人は暇潰しの名人」との林語堂の指摘は至言というべきだ。

 次に欧米租界に足を向ける。幕末長崎の出島と同じような構造で、1本の橋が現地社会とを結ぶ唯一のルートだが、その橋の上には、これみよがしに銃が並べられている。中国人に対する威嚇だろう。赤い軍服の兵士は座り込み、横になり、あるいはジャレ合ったりで規律がない。どうやら暴徒がフランス人を襲撃し、租界内の建物に火を放ったことから、租界側が防備のために常備兵を置いたとのこと。

 この日、岡は広東語を学んでいる日本人の廣瀬某から広東語教科書を見せられ、

 ――北京ではイギリス人が編纂した「北京語學書」を目にしたが、「字句文意」はおおよそ理解できる。だが広東語に至っては一般の単語すらチンプンカンプンだ。聞くところでは他省の人が広東にやってきても言葉が通じない。筆談、あるいは英語で辛うじて意思疎通が可能とのこと。官吏は「官話」を話すが、庶民にとって「官話」は理解できない。そんなわけで官吏と庶民とは互いが「異邦人」のようであり、全く以て不便極まりない。(1月23日)――

 かつて中国には(もちろん岡の時代にも)、全国で通用する共通の言葉はなかった。わずかに「官話」のみが全国で意思疎通が可能であったが、それは役人の世界に限られた話であり、専ら庶民は方言しか話さない。その方言は細分化され、極端な話では県境を越えればチンプンカンプンだった。そこでまたまた香港時代の思い出を。

 香港で最初に学んだのは新亜書院の大学院組織である新亜研究所。もちろん在籍者の大部分は広東人である。若者だから中国語も話すが、広東語訛がキツクて隔靴掻痒。院生間の共通言語は、やはり広東語。先輩の中に、いつも仲間外れのような存在が1人いた。名前は麦さん。同じ広東省だが台山県出身。親しくなった先輩の1人に「どうして麦さんは仲間外れなのか」と尋ねると、「ヤツの研究は論文を読めば判るが、話す段になると台山語だ。台山方言は独特で、オレ達にはサッパリ判らない」と。はてさて、そういうものかと納得したものだが、ある時、その麦さんが論文審査で優秀との評価を得て、日本政府の奨学金で京都大学の大学院に2年間留学することとなった。

 そして2年が過ぎる。大論文を仕上げて麦さんは“凱旋”。そこで院生仲間で歓迎の昼飯に。相変わらず麦さんは仲間外れ気味。もちろん京都大学大学院での赫々たる研究成果への嫉妬が混じっていたと思うが。とはいえ麦さんは2年前とは比較にならないくらい快活に振舞う。食事をしながらも話し、笑う。もちろん、お相手は小生のみ。

 数日後、大学院の廊下ですれ違った先輩から、「おい、お前、いつ台山語を習ったんだ」と声を掛けられた。一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、暫くして納得した。あの時、じつは麦さんとは日本語でバカ話をしていた。つまり広東人の先輩には台山語と日本語の区別がつかなかったのだ。日本語も台山語も同じ音に聞こえたに違いない。

 百数十年も昔の岡の時代ではない。70年代前半の、しかも香港での話である。

 このように中国においては方言が秘めた、ことに日常会話における影響力は絶対的だったであればこそ全国的な意思疎通を可能にするためには漢字という文字を並べ文章に綴るしかないのだが、厳密にいうなら方言は日本人が目にしたことのないような独特の漢字と文法体系を持つわけだから、なんとも始末に負えない・・・やはり、ヤレヤレ。《QED》
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2015年11月14日

【知道中国 1322回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡63)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1322回】        一五・十一・仲三

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡63)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 22日には広州市の布政署に龔少文を訪ねた。時候の挨拶が終わるのを待ちきれないかのように龔が、「目下、フランス対策の重要性が日に日に高まっている。ここは一つ中日両国が運命共同体として手を握ったらどうだろう」と問い掛ける。これに岡は、

――「僕」は一介の野人であり政府中枢の動向は判りかねる。振り返れば我が国は新たに欧米諸国と交流を始めたが、それは戦国の昔、強国の晋と楚の間でバランスを取って国を保った鄭のようなものだ。こういった我が国情を先ず理解すべきだろう。

 いまや「五洲(せかい)」の大局は一変してしまった。イギリスとフランスは富強を成し遂げ、遠方侵略に先を争っている。だが「中土は千年の舊俗を墨守し、域外の萬國の一切を擯斥し夷狄禽獸と爲す」。こういった情況では、とてもじゃないが現在の激変する大局には対処出来はしない。このままでは禍を転じて福となし、危を安に易ることなど出来ない相談だと知るべきだろう。

 「僕」は10年前にアメリカ・イギリス・フランスの歴史を著したが、思うにフランスの安南政策はイギリスのインドに対するそれを真似た。イギリスは早々とインドを併呑したが、フランスは敢えて安南を植民地化することはなかった。それというのも安南が「中土」の「冊封(ぞっこく)」であることを考慮したからだ。だが今やフランスは「中土」の「虚實(しょうたい)」を知ったがゆえに、猛然と一気に安南を押さえ、以前からの野望を成し遂げた、ということだ。

 今にして思えば、不幸なことに10年前の予言は的中した。いま拙著のフランス史を贈るので、どうか「大政」を進めてもらいたい。またペリー来航以来のアメリカの動静を記した『尊攘紀事』を貴国要路に閲覧賜わるなら、「東洋大勢」を考える一助になろうかと。

(広州の戸数が30万超だと知り)「五洲(せかい)」で最多人口は「中土」であり、「中土」で最多は広東。ということは人口でいうなら広東は世界最多ということになる。だが、その半分は無為徒食の「游手(プータロ―)」だ。無駄メシ喰らいが多いということは、その国にとっては不幸だ。恥じ入り悔やむだけではどうしようもない。(1月22日)――

 かりに当時の広東住民の半分が「游手」であったとしたら、中国の中で広東人だけにプータロ―が集中していることはないだろうから、中国全体でも半数近くが「游手」であったとも考えられる。となると、これはもうマトモではない。中国が諸外国蚕食の地になったとしても当たり前の話だ。そうであるにもかかわらず、「中土は千年の舊俗を墨守し、域外の萬國の一切を擯斥し夷狄禽獸と爲す」わけだから、「眠れる獅子」はおろか「眠れる痩せブタ」以下と評すべきだろう。

 岡の時代から150年余り。その「中土」はいまや世界第2位の経済大国(公称、自称、尊称、詐称?)となり、いまやアメリカ猛追をはじめた。かくてケ小平の遺訓である「韜光養晦、有所作為(相手を誑かし油断させ利用し、やがて相手を追い越す)」のままに、いまやアメリカ猛追中(・・・そのうち息切れするだろうが)である。そうなればそうなったで漢族伝統の悪癖が頭を擡げ、役人(幹部)の不正という「千年の舊俗」が大復活。その一方で「域外の萬國の一切を擯斥し夷狄禽獸と爲す」わけだから、「病膏肓に入る」。

 かくして「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ろうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことだろう。そうなることは間違いない」(林語堂『中国=文化と思想』)と。う〜ん、確かに「そうなることは間違いな」かった。《QED》

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2015年11月11日

【知道中国 1321回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡62)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1321回】          一五・十一・仲一

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡62)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 そこで2人の口を衝いてでた言葉は、「祖宗が国を闢いて以来、『威武』を示し忽ちにして内外を圧倒し、上は皇帝から下は庶民に至るまで、心安んずる日々を送り、戦乱はなかった。だが現時点を境に考えてみると、海防は破られ、外敵の跳梁を許してしまった。嗚呼、慨歎せざるを得ない」であった。

 翌(19)日、50過ぎの白髪頭が訪ねて来て、「こんな南の果てまでやって来て、何か得るところはありますかな」と挑発的に問い質す。そこで岡は、

――過般、北京に遊び見聞したところから、これまで書物を読んで極めたと思っていたところと大いに異なっていることを痛感した次第。考えるに、どうやら従来の論者は「中土大勢(ちゅうごくのほんしつ)」まで極めていたわけではなかったようだ。

 たとえば北京を考えるに、気候は寒く、人々は貧しく、物産は少なく、地勢は厳しく、殆どの生活必需品は数千里離れた地であり、皇帝が見向きもしなかった南方に頼るしかない。確かに、あなたが説かれるように、これまでも北京一帯が中国の中枢だとされてきた。古代から漢・唐の時代までは、あるいはそうだったかも知れない。だが考えれば今や世界は一変し、万国間の交流がはじまったのだ。イギリスにおけるロンドン、フランスにおけるパリ、アメリカにおけるワシントンを見れば判ることだが、首都は全国で最も便が良く、人々の往来が重なり合う要衝に設けられるものだ。かくして各国は競って繁華な首都を築くことで国力は百倍し、勢いを増す。「帝王の都府」は要衝の地に拠ってこそ、世界の国々に対処することが可能となるわけだ。

 このような視点から現在の北京を考えると、地理的には北辺に偏り、要衝とはいえず、気候は余りにも寒く、街並みは貧相で零落し、余りにも遠すぎる。だから帝王が都を構える地としては相応しくない。やはり古に拘泥し今を蔑ろにし、常態に拘り、変化を等閑視したままで現在を語るべきではないだろう。

 確かに(あなたが説かれるように)新疆をテコにして蒙古・甘粛・イリなどの一帯を掣肘するためには北京を中枢とする必要はあろう。だが、それでは「K龍江兩岸千百里」の併呑を目指すロシアを押さえることは不可能だ。これこそが合理的判断というものではなかろうか。(1月19日)――

 百聞は一見に如かずとはいうが、「書物を読んで極めたと思っていたところと大いに異なっていることを痛感した次第。考えるに、どうやら従来の論者は『中土大勢』まで極めていたわけではなかったようだ」とは、現在にも通じる“至言”だろう。

 数日後、別人が訪ねてきて朝鮮半島での事態を論じ始めた。そこで岡は説いて聞かせる。

――朝鮮の事態は特異なことではない。「天」が「火槍輪艦電信諸機器」の開発を許すことがなかったら、東洋でも西洋でも共に国は国境を閉じ、民は日々の生業に安んじ、末永い平穏無事を楽しむことができたはず。最近の20、30年を振り返って見れば、それは判るだろうに。だが今や「歐人」は人類が数千年に亘って維持してきた営みを破ってしまった。既存の秩序は崩れ去ったのだ。「歐人」は「九萬里の波濤」を航行し、巨大戦艦で「東洋各國」に脅威を与え、自らの野望を満たすことが出来るようになった。このような事態は、近代的な「機器」が開発される以前にはありえなかったことだ。

 今や東洋では「火槍輪艦電信諸機器」が用いられ、西洋諸国の狙い通りに成果を上げている。朝鮮は小国であり、どう考えても自立は出来そうにない。であればこそ朝鮮を襲ったような事態は、今後、踵を接するように起ることだろう。(1月20日)――

 旧套を捨て、「機器」の変化がもたらす国際情勢を考えるべきだと、岡は説く。《QED》

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2015年11月09日

【知道中国 1320回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡61)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1320回】           一五・十一・初九

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡61)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 ここで、岡の旅行から95年ほどが過ぎた1970年代前半の香港での細やかな体験を。

 某日の夜10時頃。年長の友人が面白い所へ案内するとタクシーで迎えに来た。闇夜を暫く走った先の岸壁には、すでに数人が待っていた。そこは防波堤に囲まれた風除けのための船泊である。暗闇から音もなく近づいた小舟に乗り込む。小舟が動き出すと、麻雀が始まる。暫くすると屋台の小舟がやって来たので酒と肴を注文する。やがて船上での小宴会が始まると、胡琴拉きも小舟で近づいてきて、「一曲、リクエストは如何ですか」と。そこで「ならば馬連良の《借東風》を」。目を閉じてジッと耳を傾けると、朧気ながら諸葛孔明に扮した馬連良の舞台が浮かび上がって来るから摩訶不思議。

 心地よい夜風と舟の揺れに酔いを醒ましながら、船泊のなかをゆっくりと回遊する。やがて前方の暗闇がパッと艶やかに光り輝く。目を凝らすと、小舟が10艘ほど。船べりを連ね、舳先をこちらに向けている。

 船の舳先には艶めかしく装った娼妓が座り、艶然と微笑みながら、目を閉じている。いや閉じているのではない、盲目なのだ。友人が「あれは、“そのため”に針で目を潰されたんだ」と。確かに娼妓は商売に精励すべく目を潰されるという話は聞いたことがあるが、その姿を我が目で見ることになろうとは。

 彼女らの背後に垂れさがる赤く色鮮やかに刺繍された幔幕は真ん中で左右に分れ、隙間から淡いピンクの光が洩れる。近づいて中を除き込むと、赤い刺繍の床が延べてあった。いま思い起こせば、そこは岡が書き留めた「毎家貯妓。翠幄錦帳。宛然迷樓。皷板絲肉。喧無晝夜。嫖客蕩子。魂飛肉走。其連船隻。爲屋宅」の世界であり、古き好き香港のじつに不思議な世界だった。

 さて岡に戻ると、それから数日、「其の殷賑?華は上海、香港以外、未だ目にせず」と形容するほどに賑わう広州の街を歩き、時に客人を迎え論じている。友人は「貴国は欧米を学び、『三千年禮義の邦』でありながら『其の舊』を一気に棄ててしまったことは、実に『痛惜』の念に堪えない」と難詰気味だ。そこで岡は、

 ――我が国の国是は「萬國の長」を取り、自らの足りないところを補うところにある。たとえば、我が国は「服制」を改めたが、私は「野人」であり「野服(わふく)」を纏っている。旧い和服であれ新しい洋服であれ、個人の意思による。ただ私は、時流というものに乗ろうとは思わないだけだ。だから「舊服(わふく)」を着用しているだけ。こいつは袖が長く帯は緩く、やはり腰かけるには不便だ。

 ただ我が日本の立国の礎は「尚武」にあるわけだが、この服では銃を扱い難い。そこで断固として「舊服」を廃して、すべて欧米に倣ったということ。

 欧米は戦争に勝れ、工業も発達している。ただ「倫理綱常(ひとのみち)」については東洋には往古から不変の道理がある。ならば、自らの道理を捨て去って、欧米のそれに倣うわけにはいかない。「倫理綱常」というものは、聖人が「天」の道を継承したもの。それを今に守る「我東洋各國」が「萬國」に卓越している点は、そこにこそあるのだ。

 考えるなら東洋と西洋には互いに長所と短所とがある。虚心坦懐に考えてみれば、東洋の短所は10中7、8だが、西洋の短所は10中1、2というものだ。これこそが我が国が西洋の優れた点を取り入れ、我が国の劣った点を補おうとした要因である。

 我が国の神道古典と西洋宗教の欠点を問われるなら、実例を挙げて詳細にお答えするが如何かな――

 ここまで聞いて客人は大きく溜め息をつき、自国のダメさ加減を口にする。《QED》
posted by 渡邊 at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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