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2015年12月18日

【知道中国 1334回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡75)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1334回】         一五・十二・十

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡75)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 26日、依然として病は癒えず部屋で読書をしながら時を送るしかなかった岡を相手に、宿舎の主人が話し込む。話題は香港の経済活動の柱である「自由放任主義(レッセフェール)」に。これまた岡の興味を引いたらしく、詳細な聞き書きを残している。その概要は、

 ――「中土」では各港に海関を輸出入品に税を掛け徴収している。だが香港だけは違っていて、海関が置かれていない。だから内外の遠方の交易商人であろうが、香港での取引を求める。例えば四川では漢方薬が取れるが、遥々と長江を下り大海を帆走して香港までやって来て商いをする。そでは偏に税を取られないからだ。

 その代わり香港では、ありとあらゆる方法で細大漏らさずに税を納める仕組みが張り巡らされている。土地の広さ、屋敷の規模に応じて税を納めねばならない。これを「国餉」と呼ぶが、この他には街灯・井戸・泉・道路・橋といわず、修理に要する費用は、家ごとに醵出する。「酒亭茶店。烟館妓院(ふうぞくえいぎょう)」は月ごとに課税する。「艇子輿夫。負販傭丁(せんどう・かごかき・やたい・にんそく)」は季節ごとに「牌片(かんさつ)」を給付して課税する。滞納者は処払いとなる。法律は厳格で、その施行はまるで湿った薪を束ねるようにキッチリと峻厳だ。会計事務は厳格で入出金の金額に応じて定まった規則があり、僅かな金額でも役人が掠め取ることはできない。明朗で厳格な制度といえる。

 夜の9時からは外出禁止となり、街に人影を見ることはない。1時には人足が家々を回り糞尿を集め「汚器(おまる)」を掃除する。6時になると車を引いた人足が家々を訪ねゴミを回収する。家々が軒を接するように建て込んでいるが、ゴミは全く見当たらない。

 これは欧州の制度を、中国人の生活様式に沿って厳格に定めたからだ。上海と香港で、その一斑をみることができる。(2月27日)――

 これを植民地経営の妙というに違いない。彼ら西欧人は植民地の住人に甘い顔なんぞは絶対に見せない。“一視同仁”などと口にして感傷的な対応はしない。自分たちの植民地経営の都合に合わせて徹底的に現地人を鍛え直す。使う者と使われる者の違いを嫌というほどに判らせる。体に覚え込ませる。であればこそ香港にせよシンガポールにせよ、現在に繋がる発展を考えた時、英国式植民地経営の恩恵を最大限に受けたということだ。これは皮肉でもなんでもない。かりに日本敗戦と同時に香港が中国側に返還されていたら、おそらく現在の繁栄はなかったはずだ。

 2月28日、どうやら病状も好転の兆しがみえてくる。医者の勧めで鶏スープ、パンに牛乳、さらにお粥を口にし、竹製のベッドに移る。かくて「大いに愉快を覺える」と記す。そこに日本人の知り合いが2人やって来て、「ロシアとフランスは『中土』を『腹背』から攻撃すべく密約を結んだ。そこでロシアの艦隊はフランス国旗を掲げて香港に入港している。プロシャは密かに『台灣半島』を狙っている」と、中国を巡っての最新情勢を語った。それを聞いた岡は、

 ――彼らは「中土の虛實」を熟知し、古くから野望を抱いていた。ただロシアとプロシャの両大国は他国の弱みに付け込み、フランスの背後に隠れ領土掠奪に努めているのではなかろうか。おそらくロシア・フランス密約説は揣摩憶測の類だろう。ロシアは専ら北辺を狙い、フランスは南方の国境を窺っている。(この後、ロシアによる清国領土強奪の歴史を列記し)これは、「六國の秦に賄(まいない)するの勢なり」。(2月28日)――

趙・韓・魏・燕・楚・斉の戦国の6国は当初は相互に連携し強大な秦に対した(合従策)が、後に秦は2カ国関係を求め(連衡策)、6国を各個撃破し最終的に天下を握る。弱体化した清国に対しロシアが2カ国関係を強要することの真意が、そこにあった。《QED》
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2015年12月15日

【知道中国 1333回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡74)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1333回】         一五・十二・初八

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡74)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 町田領事の口にした「緑眼人」は、諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店)を引くと「緑の眼。青い眼。胡人の眼をいふ。碧眼。」とある。「胡人」とは北方、あるいは西方(というものの、じつは中央アジア)の異民族を指すから、岡が記す「緑眼人」が「胡人」であろうわけがない。やはりここは「紅毛碧眼」、つまりは西洋人を指すと考えるのが順当といったところ。

 中国の対外貿易が「緑眼人」、つまり西欧人の意のままに行われていることに憤りながら、町田領事は話を続けた。

 「我が国と『中土』は海を隔てて向かい合い、最も近いところは2昼夜で、最も遠方であっても10日もせずに行き着くことができます。にもかかわらず商人の往来は無きにも等しいほどに微々たるもの。こういった情況を『緑眼人』の立場から見れば、宝の山を前にして手を拱いていると同じ。東洋各国を眺めると、安南・朝鮮は論ずるまでもなく、独立を維持できるのは『中土』と我が日本しかありません。

 考えれば千年に及ぶ我が国の『風化(きょうか)』は、全て『中土』に由るものではありますが、『文教(きょういく)』だけは違います。『人情嗜好』はまた似通っているようでもあります。

 今や『萬國(せかい)』は友好関係を掲げています。先ずは『中土』と友好関係を築き、近隣より遠方へ、親しい関係の国から関係が薄かった国へと友好関係を拡大し、『東洋大勢(アジアの安定)』を維持することを急務とすべきでありましょう。

 武力で威嚇し虎視眈々と『遠畧(しんりゃく)』を狙うは、やはり『緑眼人』がなすことであります。我が国力からすれば彼らに劣るわけではありませんが、時の流れとして、そうは出来ません。あるいは我が国民が台湾・琉球・朝鮮における「事變」を忌み嫌い、最も親しむべき隣国を我が国とは「趨舎(しんろ)」が異なると看做すことは、やはり謬りの最たるものです」と。

 この領事の主張を、岡は「此の言、我が心を獲たり」と評した。「遠畧」を逼る「緑眼人」こそが敵であることを忘れるな。日本と「中土」の間での台湾・琉球・朝鮮をめぐっての「事變」は、いわば大事の前の小事であり、「緑眼人」に侮られないように「東洋大勢」を守り固めることこそが大事というものだ。こういう考えが「此の言、我が心を獲たり」に繋がったに違いない。

 25日、中国の新聞3紙はフランス海軍が中国側戦艦を斯波島に追撃した情報を盛んに流す。だが、どれも要領をえない。日本の「郵報」の記事が最も客観的に書かれているようだと考えた岡は、海戦の概要を綴っている。

 ――台湾に危機が迫っていることを知った清国の南洋艦隊は、開済・南?・南瑞・馭遠・澄興の5艦を応援に差し向けるべく上海の呉淞口を出港させた。そこでフランス側は、軍艦7艦を派遣し迎え撃つべく外洋で待機する。これを見た中国側の5艦は抵抗することなく、エンジン全開で四方に逃げ去ってしまった。フランス側は事前情報から馭遠・澄興の2艦が斯波島に逃げ込むのを探知し、夜間の水雷攻撃を敢行した。

 その夜は春節の大晦日で中国兵は爆竹を放ち、酒盛りの最中。フランス4艦の来襲に気づきや大砲のメクラ撃ち。(2月25日)――

 かくして南洋艦隊が壊滅的損害を被ったことは当然すぎるほど当然だった。それしても、である。新年を祝うべく爆竹を放ち、酒宴に興ずるとは。しかも作戦の真っただ中に、戦艦のうえで。やはり「中土」と共に「東洋大勢」を担うことは、ムリなようです。《QED》
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2015年12月14日

【知道中国 1332回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡73)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1332回】         一五・十二・初六

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡73)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 あれから35年ほどが過ぎた。今頃、あの2家族はどんな生活をしているだろう。計画通りに医者を開業できただろうか。中華レストランが大当たりで、医術より算術に邁進していることだったアリだ。新たに中国から押し寄せる不動産爆買い客を狙って不動産ビジネスにも進出しているかも知れない。いずれにせよ彼らは、「木は動かすと死ぬが、人は動かすと活き活きする」という中国の諺の通りに、動いて行った先のオーストラリアと言う新天地で活き活き――ということは手前勝手に生き抜いていることだろう。あるいは早々とオーストラリアに見切りをつけ、アメリカ辺りに移っていることだってありうる。

 ここで中国人統治に関する毛沢東とケ小平の手法を単純明快に比較してみると、毛沢東は全土を「竹のカーテン」で囲うだけでなく、戸口制度によって中国人の国内移動すら厳禁し、都市住民を国営企業に、膨大な数の農民を人民公社に縛りつけておいた。定められた住所から2泊以上離れる場合は公安に届け出る義務があったというのだから、徹底している。つまり中国人を一歩も動かさなかった。ところがケ小平は毛沢東の中国人管理の柱であった人民公社と国営企業を解体し、膨大な数の農民と都市住民の移動を容認した。あまつさえ竹のカーテンを引っ剥がし、合法・非合法の別なく中国人を海外に解き放ってしまったのだ。

 いわば毛沢東によって動くことを禁じられ瀕死状態に陥っていた中国人は、ケ小平の超ゴ都合主義としか表現しようがない身勝手開放策によって息を吹き返すこととなった。ヤレヤレ、である。だから“世界の大迷惑”は、じつにケ小平に端を発する。であればこそ、やはり世界は毛沢東に感謝すべきだろう。毛沢東の時代、世界は「中国の夢」に苦慮することはなかったし、「郷に入っても郷に従わない中国人」の集団に平穏な日々を脅かされることもなかった。外来の新参者でありながら住み着く先々でその土地の生活文化を守らず、不遜にも中国式身勝手生活を恣にするだけでなく、人民元の札束を振り回して他国の不動産を買い漁る彼らに悩まされることもなかったはずだから。

 岡に戻る。

 依然として病は好転しない。外出もままない。新聞に目を落とすと、そこに清末指導者の代表格である曾国藩の息子である曾紀沢の動静が記されていた。彼はイギリス、フランス、ロシアなどに派遣され難しい外交交渉を担当している。ことに対露交渉では、イリなど要衝の失地回復に成功を納めた。以下、岡は綴る。

「イギリス滞在中の曾紀沢は「宇内大變局」を実感しているからこそ、次のように問い掛けているのだろう。「中人」の識見は頑迷であり、相変わらず古を手本としたままだ。列強が国境に逼り、国事は累卵の危機に陥っているにも拘わらず、猶も腐れ切った頑迷固陋な考えに囚われたまま。「西法(おうしゅうのしくみ)」は遅れたままで取るに足らず、「西人」を「薄(かろ)」んじて交わる必要ななしと「放言」するばかり。その様は井戸の中から天を窺うようなものだ。いまこそ決起して政柄を執り、世の乱れを正そうという志を持ち「廓清の功」を世に問おうという英傑はいないのか。(2月21日)」

 曾紀沢の主張は、日頃からの岡の考えと同じだ。そこで岡は、この日の日記の最後を「此言得矣(このげんやよし)」と結んだ。

 翌(22)日、「『中土』に在ること最も久しい」町田領事が来訪すする。上海、漢江、福州、広東など中国に19カ所ある対外貿易港に就いて語りだした。どこの埠頭にも大廈高楼が並び立ち、汽船やら帆船が海面を埋め尽くすほどに賑わいを極めてはいるが、「それ貿易權利を主る者は一に緑眼人に非ざる無し」と。岡は町田領事の説く話に耳を傾ける。《QED》
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2015年12月08日

【知道中国 1331回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡72)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1331回】        一五・十二・初四

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡72)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 ここでオーストラリアにおける中国人の歴史を、簡単に振り返っておきたい。

 1847年に約3000人、翌(48)年にはマカオから120人が華工(中国人労働者)として渡っている。じつは、それ以前、かなり早い段階から中国人商人がオーストラリア北部に到達していたともいわれる。中国側が語る歴史だから若干、いや相当に割り引いて考える必要もあろうが、オーストラリア北部とインドネシア東部は地理的には「一衣帯水」の関係にある。ジャワ島東部の要衝で、中国式漢字地名表記で「泗水」と綴るスラバヤが古くは宋代からの既に中国人の街であったことを考慮すれば、相当に早い時期からオーストラリアに移住していたとする説も中国人特有の歴史的大ボラといえそうにもない。ならば、そのうち中国式超身勝手強欲思考によって、「オーストラリア北部は元来が中国人商人による交易圏に組み込まれていたわけだから、あそこも我が領土だ」なんて言い出しかねない。何とも厄介極まりない話だが。

 じつはアメリカ西海岸でゴールドラッシュが起こったことで、大量の華工が太平洋を渡ったわけだが、1851年にはオーストラリア東南部(ヴィクトリア州、ニュー・サウスウエルズ州)でゴールドラッシュが起り、これまた福建・広東辺りから華工が大挙して押し寄せている。二木が語った「四十萬戸」は、この種の労働者を指すと考えられる。ところで中国人はアメリカでのゴールドラッシュの中心だったサンフランシスコを「旧金山」と漢字表記するが、それはオーストラリアでのゴールドラッシュに先んじたから(「旧い」ということ)であり、それゆえにオーストラリアは「新金山」ということになる。

 つまり中国人の移住と言う視点に立てば、中国とオーストラリアの関係は意外にも古く、また複雑でもある。

そこで、またまた香港での体験を。

 あれは改革・開放政策が緒に就いた80年代の初頭だった。バンコクでの調査からの帰り香港に立ち寄ると、友人が面白い人に会せるからついて来い、と。彼の後を追うと、繁華街の裏通りの建物へ。年代物のエレベーターで上って行くと、そこは彼の友人の住宅だが、目指すのは友人ではない。友人の家の1部屋を間借りしている借家人だ。ドアを開ける。広さ6畳ほどの部屋の大部分を占拠しているのは、木枠で頑丈に梱包された数多くのスーツケース大の荷物だった。そこに住むのは兄弟2人の家族に彼らの母親。全部で11人。荷物の最上部に布団が敷かれていた。荷物の天井の間の空間が、彼らにとっての居間兼寝室。

 彼らはハルピンからやって来た。兄は医者で、弟は確か営林署で働いていたと自己紹介してくれた。オーストラリアへの移住許可待ちで、香港に留まっているとのこと。ハルピンから香港までの長距離の汽車の旅である。現在と違い路線の連絡は悪く、乗り換えは数知れず。その都度、全員で手分けして積み替えたというから、想像を絶する苦労があっただろう。「駅員の手伝いは」と尋ねたら、「誰だって他人のことなど構っていられないわけだから、自分たちでするしかなかった」と。「オーストラリアに移住した後の生活は」。すると兄の方が生活設計を解説してくれた。

 「医者を続ける積りだが、中国の医者の免許を、オーストラリア政府がそのまま認めてくれるとは思わない。ダメなら医者の試験を受ける。だから医者が始められるまでは、兄弟2家族は中華料理で食い繋ぐ。鍋釜の台所道具は持ってきた。弟の得意料理は餃子で、私はチャーハンだ。取りあえず餃子とチャーハンさえ出しておけば、オーストラリア人にとっては立派な中華料理だ。彼らに料理の味など判るものか」

 帰国後暫くして友人から、あの一家は無事にオーストラリアに旅立った、と。《QED》

 
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2015年12月06日

【知道中国 1330回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡71)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1330回】        一五・十一・三〇

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡71)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
  
 当時のオーストラリアにおける日中両移民の比較は後回しにして、二木の話を続けたい。

 「イギリスは守長(かんとく)を置きまして『中民』を管理しているわけです。メルボルンが繁華な都であり、豪農や大商人は皆郊外に住まいしており、郊外に広がる居住区までは線路が引かれ、男女ともに汽車で行き来しております。夜になりますと、どこの家でも厳重に戸締りを致し、往来には人の影は見当たりません。毎月初めには定期乗車券を買いますが、半値に割り引かれます。

 『中人』の多くは福建・広東の『賤民』でありまして、ともかくも身に纏うのは『惡衣(ボロ)』で口にするのは『菲食(そしょく)』。なにからなにまで汚く臭く、どんな汚れ仕事だってやってのけます。かくして3、4年も経ちますと『千金(たいきん)』を稼ぎ出し、国に帰っていくわけです。

 イギリス人は彼らを警戒し、やって来る者に対し『五十洋元』を徴収した後に上陸を許可するようしています。納められない場合は、上陸を拒否し追い返しております

 オーストラリアの東南洋上にはプロシャが国旗を立て領土としている島がありますが、この島がインドへの航路の要衝でもあり、イギリスはプロシャの主張を拒んでおります。これにプロシャは不承知でして、この島がイギリス領というのなら防衛態勢を整えておくべきだ。イギリス人は住んでもいないじゃないか。ましてや軍の守りが見られないのだから無主の島というべきであり、イギリス政府がとやかく口を差し挟む筋合いの問題じゃなかろうに、ということです。フランスはフランスで、ニューカレドニア島の所属をめぐってイギリスと争っております」

 ここまで聞いて岡は「百年之後。五洲大勢」に思いを馳せた。

 ――歐米の電線?艦(ぐんじぎじゅつ)は萬里(せかい)を馳逐(かけめぐ)る。狼呑虎噬(よわきをむしゃぶ)り、遠畧(しんりゃく)を專らにす。百年の後、五洲(せかい)の大勢、何の状(かたち)と爲らんか。(3月10日)――

 欧米の先進諸国は最新軍事技術を駆使して軍備を増強し、地球の果てまでも軍隊を差し向け、弱国を貪り喰らおうとしている。道義も何もあったものではない。大国による剥き出しの欲望が国際政治を突き動かし、領土強奪が当たり前の時代である。岡が「百年の後」に思いを馳せた頃から130年余が過ぎた現在の「五洲の大勢」は、相も変わらず「歐米の電線?艦は萬里を馳逐」る。加えるに、今や「中国の夢」に「イスラム国」だ。やはり力なき理想は妄想であり、理想なき力は妄動ということだろうか。

 さて二木の語る「五戸」対「四十萬戸」だが、「戸」を一家族と見做し、一家族平均5人として計算するなら、日本人の25人に対し中国人は200万人ほどになってしまう。当時のオーストラリアの人口は推定で750万人というから、200万では余りにも多すぎる。ある統計に拠ると、19世紀のオーストラリアにおける漢族の最多値は1881年の38,702人とのこと。現在のオーストラリアの人口は日本の5分の1前後の2500万人余で、「新華僑」とも呼ばれる1978年末の開放後の中国からの移住者を含めても漢族系は100万人超――などから考えても、二木のいう「五戸」はともかく、「四十萬戸」は実状にそぐわないだろう。

 なぜ二木が「四十萬戸」という数字を挙げたかは不明だが、あるいはオーストラリアにすら根を張る中国人社会の実情を伝えたかったのかもしれない。日本人が考える中国人は本当の中国人ではありません。「惡衣」でも、「菲食」でも、どんな仕事(些か古い表現だが「3K」)でも厭わない。だが3、4年も経てば「千金」を稼ぎ国に帰っていくんです、とでも。「爆」の文字を使うなら、「爆食」「爆働」「爆稼」・・・昔も今も厳重注意。《QED》
posted by 渡邊 at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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