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2016年01月27日

【知道中国 1344回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡85)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1344回】       一六・一・初一

 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡85)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 ――「中土」では「士(やくにん)」を採用するに4つの方法がある。先ずは考試、つまり科挙。次は「蔭叙」で父祖の力によって官を授かる。「武功」は軍功によって選ばれることを指し、「捐納」はカネを寄付して官を授かることだ。この場合、官位の等級は寄付金の多寡によって定まる。太平天国が乱を起こした際、国庫が底を尽いていたことから、王朝政権が捐納という方法を考え出したのである。

 考試は4つの選抜方法の中で最も栄誉があるがものの、合格基準は専ら「貼括八股(ぶんしょうけいしき)」の優劣であり、学んだことを実行するわけではなく、実際の情況を学ぶわけでもない。実務に優秀な者は合格せず、合格する者は役に立たない。これこそ「中土百代之弊」というものだ。

 官吏には「實缺候補」があり、「實缺」は官職に就いても職務を行わない。「候補」は位階のみ与えられ職務に「補」せられる日を待つ。官吏の空席1つに数10人の「候補」が待機している。中には10年待っても官職に就けない場合もある。この他に「委員」というものもあって、「長官大僚」は「委員」を選任して職務を代行させるが、「候補」を選任する。「守牧(ちほうちょうかん)」は「幕友(なかま)」を採用し、上奏文・公式書類・訴訟・賦税・財政など、それぞれを任せる。極端な場合は、官位に就いていなくとも、陰で「知府知縣(ちほうちょうかん)」の権力を握っている者すらいるほど。

 「百度廢弛。綱紀紊乱(なにからなにまでデタラメ)」で、あらゆる「名器(しゃくい・いかい)」は名前だけ。物事は大小に拘わらず全てが賄賂で決まる。彼らが最も嫌うのは旧制を変更することだ。とはいうものの、1人や2人は率先奮発して仕事を進めようとする者がいないわけではないが、そんなことをしたら誰もが騒ぎ出し糾弾の声は四方から湧き上がり、とどのつまりは官を辞すか、罪に貶められるのが関の山。だから高位高官から下っ端役人まで、ひたすら追従に努め、禍が身に及ぶことを避け、平々凡々と日を送ることが多幸に繋がったわけだ。それは「我封建末(えどのすえ)」の世に実によく似ているのだ。噫。(3月29日)――

 かくして「中土百代之弊」の「弊」が浮かび上がってくる。やはり「百度廢弛。綱紀紊乱」は永遠に不滅ということだろう。

 中国では役人の世界を官場と呼ぶが、古来、官場には貪官汚吏と清官の2種類しかいなかった。もちろん圧倒的多数は貪官汚吏である。極く僅かな数の清官を探すのは、砂浜に落とした米粒を探しだすより難しい。1949年以来の中華人民共和国の歴史を振り返って見ても、やはり清官は見つかりそうにありませんね。毛沢東が58年に強引に推し進めた大躍進を批判して国防部長を解任された彭徳懷を現代の清官に擬す声があったが、それも文革によって消えてしまった。その彭徳懷も元を糺せば毛沢東の“番犬”であり、であればこそ清官であろうわけがないだろうに。

 どうやら人民共和国も含め、歴代中華帝国は貪官汚吏によって築きあげられた巨大官僚帝国ということになりそうだが、「百度廢弛。綱紀紊乱」という「中土百代之弊」を拡大再生産させながらも維持される中華帝国は、いったい、どのような仕組みになっているのか。改めて奇妙奇態で妙不思議と首を傾げるしかなさそうだ。

 そうそう、こんな記述も見られる。

――「中土大官」の多くは巨万の富を蓄えて。それを元手に「巨商」は「錢荘(きんゆうぎょう)」を開業する。かくて俗に大官を「商賈金庫」と呼ぶ。(4月4日)――

 さすが歴史と伝統の国。ならば共産党幹部も「商賈金庫」でしょう・・・ね。《QED》
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2016年01月16日

【知道中国 1342回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1342回】          一五・十二・念九
 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 病状好転の数日を過ごした後、19日には「夜來盗汗淋漓。大覺疲勞」と綴る。体調は再び悪化した。そんな中でも、日中関係への関心を綴る。

 ――新聞が伝えるところでは、李鴻章が清朝帝室を支える醇親王と日本事情に詳しい「巴亞克氏」を天津に招き、朝鮮問題解決に向け全権大使に対し両国は共に撤兵し、「韓土」が自ら憲兵を置いて外国人を守り、日本人殺害犯を罰するなどの数件を訓令したとのことだが、これらの措置は「中日情理」に適っているので、「兩國の和」を害することはないだろう。(3月19日)――

 ――ロシアとイギリスが朝鮮東南200里の貴弼島を奪い、ここを東洋艦隊の本拠地にすべく虎視眈々と狙っていると、新聞が報じている。「東洋諸國は氣候温和にして土性は肥沃。而るに武備を忽かにして卑陋(こころせまい)」。まったく虎の皮を纏った羊のようなもので空威張りの世間知らずだ。「中日の門戸」である安南と朝鮮が破られた以上、その累が「堂奥(にっちゅうりょうこく)」に及ばないわけがないだろう。噫。(3月20日)――

 朝鮮問題はなによりも「韓土」の王朝政権の優柔不断な振る舞いが原因であり、であればこそ問題解決の第一義的責任は「韓土」にある。日清両国が直接対決する愚は避け、それより「中日の門戸」である安南と朝鮮がフランス、ロシア、イギリスに破られていることに鋭意備えるべきだ。これが岡の考えだろう。だが、その後の日清戦争への道筋を振り返るに、岡の説く「中日情理」が一致することはなかった。

それにしても朝鮮半島を挟んだ日中双方の利害得失が一致することは岡の時代も、それ以後現在に至るまでも、いや恐らく今後もありえないはずだ。隣人であれ隣国であれ、厄介極まりない存在に如何に対応すべきか。頭を悩まし備えなければならないことは、古今東西・未来永劫に変わらないことだろう。「友好」の2文字は・・・有効ではアリマセン。

 21日は「連夜盗汗。氣力頓減」、22日は「心神不快。至夜盗汗」、23日は「全身疲勞。不欲飲食」と体調不良を訴える記述が続く。暗い顔をしながらイギリス人主治医は「このところの気候激変が病気を再発させた。病気というものは再発した場合、薬では治癒し難い」。「瞿然(おどろきおそれ)」る岡に向って下した診断は「日東風氣(にほんのきこう)は、人體に適す。宜しく稍や復するを待ち直航東歸(きこく)し湯藥(りょうよう)に從事すべし」。長旅を切り上げる時期か。かくて岡は帰国を家族や上海の友人に知らせる。

 22日、香港滞在中の黒田清隆が書記官2人を伴って広東に向った。するとさっそく中国人の友人がやって来て、「あれほどの政府高官が理由なく外遊をするわけはないだろう」と黒田来訪の目的を問い質す。そこで岡は率直に、

 ――黒田公は病気がちであり、「中土」に遊んで気分転換を図ろうというのだ。あなたは政府高官の外遊を疑われるが、欧米の高官や名士は続々と我が国を訪れている。イギリスやプロシャの王子も訪日をされているし、貴国の大臣もまた春秋の休暇を利用して日本に遊び、異国の風情を楽しんでいるではないか。(3月22日)――

 ここまでいうと友人は口を噤んでしまった。岡は友人の疑問を軽く躱したものの、「伊藤西郷兩大臣、使命を銜(ほう)じ北京に在り。而して(黒田)顧問二三の僚佐と此の游を擧ぐ。宜しく其れ中人の疑訝を速やかにする也」と記すことを忘れなかった。

やはり明治政府の柱ともいえる伊藤、西郷、黒田の3重臣が、しかも微妙な時期に同時に中国に滞在するのである。なにか魂胆がある。やはり岡の友人が「疑訝」を抱いたとしても不思議ではない。おそらく彼の疑問は、両国関係の推移に関心を持つ「中人」の多くが共通して抱いたに違いない。日清戦争の回帰不能点まで・・・残すところ僅か。《QED》

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2016年01月13日

【知道中国 1341回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1341回】        一五・十二・念六
      
「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 纏足の老婆を実際に目にしたのは、これまた香港時代。香港島の裏町だった。古本屋からの帰りだったように記憶しているが、前を上品な身なりの婆さんがよちよち歩いている。足元を見るとやけに小さい。こんなところで纏足そのものに出会えるとはと、胸の高鳴りを覚えたものだ。表現が大袈裟すぎるだろうが。婆さんの後ろを歩いて行くと、細い路地に折れ、その先の古びた店に入った。纏足専門の靴屋である。店内まで入る勇気は持ち合わせていなかったが、通りに面したガラス・ケースの中には紛れもなくシャレで小奇麗な刺繍が施された纏足用の小さな靴が陳列されていた。

 あれから大分月日が過ぎた。香港に行く際に暇を見つけては記憶を辿って香港島の裏町を歩くが、纏足用の靴屋などサッパリ見かけない。おそらく年齢からして、香港の纏足世代は既に鬼籍に入ったに違いない。ということは、この地上から纏足などと言う「おかしかりき」「頑迷な陋習」は消え去ったと思いきや、なんと中国国内には残っているらしい。それというのも5,6年前、確か雲南省の山村だったと記憶するが、その村の住人、といっても老婆たちだが、彼女らの纏足姿の写真集を手にしたことがあるからだ。

 老婆らの多くは年齢から判断して建国前後の生まれと見たが、かりにそうだとするなら、毛沢東の絶対権力の下で社会主義建設が進められていた(と大いに喧伝されていた)時代にあっても、「おかしかりき」「頑迷な陋習」は温存されていたことになる。イイカゲンと驚嘆すべきか。テキトウに過ぎると呆れ返るべきか。牢固として伝統を守ろうとする見上げた根性と困惑すべきか。いずれにせよ「莫明其妙(なにがなんだかサッパリわかりません)」。かくて中国という2文字を因数分解するなら莫明其妙となる、わけです!?

18日は「中俗無謂者甚多」で書き出されている。

  ――「中俗」には「無謂者(むいみなもの)」が甚だ多い。名前についていうなら、生まれた時に両親がつけるのが「幼名」。塾に入ると師長(せんせい)が名づけるのが「書名」。科挙試験の第一関門である郷試に受かって後は友人の間では「試名」を呼び合う。「庠舎(がっこう)」に遊学すれば同窓は「庠名」を名乗り、上級の科挙に受かれば「傍名」を名乗って朋友と交わる。最上級の科挙である朝試合格の場合は「甲名」で告知され、官職に就いたら「印名」を名乗る。

誰でも幼名や書名で呼んでいいが、成長した後に付けた名前は「君父師長」でなければ呼ぶことは出来ない。妻を娶り一家を構えたら、父や兄、それに伯父と叔父は字で呼ぶ。それも友人付合いや一族兄弟の間では口にできるが、名刺や書簡に署名する際には使えない。字に別字、号に別号があるが、他人は呼べるが自分で名乗ることも名刺に記すことも出来ない。全く混乱するばかり。友人同士では字ではなく名を呼び合う。だが名刺や書簡に署名する場合は、名ではなく字か号を使う。号なのか別号なのか、字なのか別字なのか。なにがなんだか定まった呼び名がみられない。

であればこそ、公文書・私文書に関わらず「一つの實名」を使う至便このうえない我が国に、中国が敵うわけがない。(3月18日)――

 以上を4文字で言い現せば繁文縟礼ということだろうが、岡の「中俗無謂者甚多」という主張は十二分に納得できる。一生のうちに、かくも多くの名前で呼び合うマトモな理由があろうとは、とても思えない。纏足にしてもそうだが、なぜ、かくも複雑怪奇な習俗が生まれ、受け継がれてきたのか。伝統だからというだけでは、神州高潔の民の末裔としては、どうにも理解に苦しむ。

 やはり中国=莫明其妙×繁文縟礼×虚礼粉飾×夜郎自大×猪突爆走・・・です。《QED》
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2016年01月11日

【知道中国 1340回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡81)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1340回】          一五・十二・念五

 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡81)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 17、18日の両日は「中土風俗」について自らの体験を踏まえ綴っている。
 ――「中土の風俗」は南北で違っている。北の原野を旅する際は騾驢(ラバ)を、南方の水郷を進むには小舟を使う。北方の「小民(くさたみ)」は田畑を耕す傍らで牧畜に勤しみ、「淳樸勤倹(きまじめじっちょく)」の「古風」を残している。これに対し南方の「小民」は多く生活の糧を「舟楫(ふね)」に求め、婦女も男子と同じく肉体労働を厭わない。「中人」でアメリカや南洋の各港湾都市に住む者が何十万を数えるかは不明だが、その半数は広東人である。

 「中民」は殊に結婚式と葬式を重んじ、全財産を擲ってでも盛大に行おうとするが、全く以て無意味に過ぎる。男女の間は厳しく隔てられ、良家の婦女は屋敷の奥まった部屋から出ることは許されず、血縁以外との交際は禁じられ、他人と顔を合わせることがない。外出時には窓が塞がれた轎を使い、往来から他人に顔を覗かれないようにする。街路を歩いている女性がいたら、「小民婦女」でなかったら「良家」の「婢妾(かこわれもの)」だ。

 足の小さい婦女が貴ばれ、5,6歳になったら足を固く縛り上げる。その痛さに血の涙を流すそうだが、それでも縛り続ける。いちばん小さい足は「三四寸」で、歩く時には両脇から支えられなければならない。とはいうものの北方では必ずしもそうというわけではなく、清朝守備兵である八旗の婦女は纏足などしない。

 河北省がイチバン穢く不潔このうえないが、こういった様子は南下するに従って薄れ、広東になると立ち居振る舞いや言葉遣いは頑迷な陋習を脱している。(3月17日)――

 中国と中国人に対する岡の考えに“我が意を得たり”と思うことは屡々だったが、「広東になると立ち居振る舞いや言葉遣いは頑迷な陋習を脱している」の部分だけは、どうにも納得がいかない。それというのも香港留学以来、広東語との付き合いを半世紀近く続けているが、どう贔屓目に見ても広東人の「言葉遣いは頑迷な陋習を脱している」とは思えないからだ。広東語で書かれた文学には古来、ロクなものはない。だいたい広東語文学と呼べる作品にお目にかかったことがない。優れた文学は優れた言葉から生み出されるものだろう。文学が言葉の芸術である以上、ロクな文学を生み出し得ない言葉は言葉としては劣っているのではないか。広東語は依然として「頑迷な陋習を脱してい」ないのだ。

 ところで纏足について思い当るのは、村の牛飼いの悪ガキと街の可愛い少女の出会いを描く京劇の『小放牛』だ。牛飼いが少女の足を指して「こんなにも、こんなにも、マントウのようにデカい」と揶揄う場面があるが、往時の中国では美人の条件は足が小さいこと。「あんたの足は、まるで小舟のようだ」とは、女性に対する最上級の侮蔑だったらしい。

 一方、「明治三十六年十一月二十二日、空は隈なく晴れて、塵ばかりの雲もなきに、かしま立ちする心も勇みぬ」の一文を綴り上海を離れ、塘古、北京を経て蒙古少女教育のために最終目的地カラチンへと旅立っていった河原操子の『カラチン王妃と私』(芙蓉書房 昭和44年)には、こんな体験が記されている。

「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂に奉職した彼女は、「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。よろよろと歩かざるをえない教え子らは、「されば大なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおかしかりき」。

とはいえ「おかしかりき」「頑迷な陋習」は、纏足だけには止まらないのだ。《QED》
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2016年01月10日

【知道中国 1339回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡80)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1339回】          一五・十二・廿
     
 ――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡80)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 漢族にとって学問とは政治そのものであった。であればこそ少数の満州族で圧倒的多数の漢族を支配することとなった清朝(=満州)は、漢族知識層に学問の自由を許さなかった。かくて彼らは「經疏(じゅきょうこてん)を穿鑿し謬異を講究す」ることに学問の道を求めることとなった。清朝考証学のはじまりである。古くから伝わる古典を総攬し、1文字1文字の典拠と正しさを「穿鑿」し、その「謬異」を論じ尽くし、儒教古典の原初の形を究めようとしたのだ。その代表が明末清初に活躍した顧炎武(1613年〜1682年)であり清朝盛時の銭大マ(1728年〜1804年)だった。

 岡は続ける。

 ――顧炎武が興し、銭大マが引き継いだ清代考証学は新奇を衒うばかりであり、「紛亂拉雜(でたらめさ)」という観点に立てば、宋代儒学の百倍も無益というしかない。若くして才気ある者は「詩文書畫」によって名声を博し、かくてカネ儲けに奔ることとなる。無益無用のものを弄び、心を失い、心身の豊かを忘れるばかりだ。「風雲月露」を話題にはするが、口先だけ。その振る舞いは、晋代(265年〜420年)に利害打算が渦巻く現世を捨てて竹林に遊び人生を尽蕩した七賢人とは違いすぎる。

 役人から使用人まで下々のヤツらは慇懃無礼に立ち居振る舞い、己を欺いて人を売ることを専らとしている。商人や職人は学問はないものの、身なりを整えては扱う品物の値段を釣り上げ、粗製乱造した半端モノを売りつけては人の財産を騙し取ろうとする。だが、この程度ならまだ許せるかもしれない。最低は犬やら鼠と同類で、コイツらは法や刑罰の何たるかも弁えず、他人の家の門口に立っては憐れみを請い、「穢汚」ということすら知らないほどに汚い。

 彼らの人となりは「輕躁(おっちょこちょい)」で「擾雜(わずらわし)」く、「喧呼(さわがし)」く、そのうえ「笑罵(けたたましい)」。それというのも「風俗(ひびのいとなみ)」は「頽廢(デタラメ)」で、「教化(きょういく)」は行われず、「政教(まつりごととおしえ)」は跡形もなく消え去ってしまったからだ。無秩序の極致と言うものだろう。にもかかわらず外国人を「侮蔑(ばかにし)」て、「頑見(おろかなかんがえ)」を言い張り、傲然として自らを「禮儀大邦(れいぎのたいこく)」と己惚れる。この国を、欧米人が「未開國」と見做すのも、それなりの理由があるのだ。(3月16日)――

 最終部分の原文は、「其人輕躁擾雜。喧呼笑罵。此皆由風俗頽廢。教化不行者。嗚呼。政教掃地。一到此極。而侮蔑外人。主張頑見。傲然以禮儀大邦。自居。歐米人之以未開國目之。抑亦有故也」。漢字の字面を追ってみるだけでも、岡が伝えたかったことが手に取るように判るだろう。

翻って現在の中国と中国人を考えるに、上は共産党最上層の醜く露骨な権力闘争から、下は俄か成金たちの海外旅行や爆買いまでを言い現そうとすれば、やはり先ず頭に浮かぶのは「輕躁擾雜」「喧呼笑罵」「風俗頽廢」「教化不行」「政教掃地」「侮蔑外人」「主張頑見」などの4文字の組み合わせ。ということは岡の時代から現在まで130年余は過ぎているはずだが、中国人の性格は一向に変わってはいないということになる。やはり万古不易で「輕躁擾雜」、一貫不惑で「主張頑見」・・・いやはやタマリマセン。

 これを簡単明瞭に言い換えるなら、やはり「未開國」というべきか。「未開國」は「未開國」のままでもいいのだが、困ったことに現在の「未開國」は岡の時代と違って莫大なカネとあらぬ自信(正確に表現するなら「過信」であり「己惚れ」)を持ってしまった。俗にキチガイに刃物というが、まさに「未開國」にアブク銭ではなかろうか。《QED》
posted by 渡邊 at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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