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2016年01月07日

【知道中国 1338回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡79)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1338回】        一五・十二・仲八

 ――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡79)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 台湾北部の東西の要衝である?籠と淡水は「盡く法の手に歸」したものの、両港共に地形的に軍艦が碇泊するには甚だ不向き。そこでフランス海軍は作戦を転じた。

――台湾海峡に浮かぶ澎湖島に狙いを定め、同島瑪宮港を根拠地とすべく攻撃した。守備する「中兵」は2500人。フランス海軍の艦砲射撃が始まると、「中兵、力盡(ひっし)に遁走す」。瑪宮港全体を制圧したフランス側は国旗を掲げ、軍艦10隻を停泊させ、周辺海域の巡邏に移った。すると500人の「中兵」を乗せ台湾に向うイギリス艦船を発見し追尾の末に拿捕し、瑪宮港まで曳航したうえで、艦長と兵卒をサイゴンに送致した。途中、兵卒25人は海に身を投げて死亡。

フランス兵は百戦百勝の勢いだが、「中土」も防戦の意志は固く、負けても負けても各地から義勇兵を募る。兵の数は日に日に増えるものの、その姿はまるで手足の萎えてしまった病人にカンフル注射を打って強引に「活?元氣」に突き動かそうとするようなもの。フランスとしては打つ手がなさそうだ。前線から兵器を引き上げ兵士を後退させ、どうすれば戦争を終わらせることが可能なのか。その潮時の見極めを誤るなら、混乱がさらに深まることを知るべきだろう。まことに戦は収めるのが至難だ。(3月11日)――

14日、黒田清隆の香港到着を知り、使いを出して挨拶をするついでに、伊藤・西郷の両大臣が明治天皇の「重命」を奉じて北京に赴いているというのに、香港辺りを「飄然游覧」する理由を問う。すると黒田から「日來鬱病にして、旬月の暇を請い、域外の游を擧ぐ」との返事が返ってきた。じつは黒田は香港滞在の後、広東・澳門・サイゴン(現ホーチミン)・シンガポール・福州・澎湖島・台湾(淡水・鶏籠)・天津・北京・張家口・漢口・宜昌と「里程凡一萬二千二百三十七英里日タル百八十五日」の旅を送り、その間の見聞を『漫游見聞録』(上下)として残している。これほどの旅である。「日來鬱病」は口実としか考えられない。やはり日清開戦必至と読んだからこその敵情視察、つまりは兵要地誌作りだったと看做すのが常識というものだろうに。

 朝鮮半島問題交渉使節として伊藤・西郷の両重臣を北京に送り込む一方で、黒田を中国の経済活動の中心地に派遣する。まさに明治政府最高首脳を挙げての“抗戦力調査”といえそうだ。伊藤・西郷・黒田の動きから判断して、我が明治政府は日清戦争開戦から10年ほど遡った明治18年初頭には既に開戦への準備に踏み切っていたとも考えられる。用意周到だ。(因みに『漫游見聞録』については、『觀光紀游』が終わった後に検討を加える予定)

16日は厳寒並みの寒さに襲われ、数日試みた轎(かご)での外出を控えた。そこに中国留学経験者の桜泉がやって来て、「中土」の「弊風(ダメさ)」を語り出す。その内容が「極めて的切爲り」と認めた岡は、桜泉の主張を書き記している。その概要は、

――「中土」の立派なところは、士大夫が名分と教化を重んじ、礼儀を尚び、志操堅固で高雅な風を体現し、温和な振る舞いを見せるところだ。一方、農民や労働者など力仕事に従う者は労苦を厭わず、「菲素(そしょく)」に安んじ、ひたすらに生活に励む。コツコツと財産を蓄える姿は、わが国ではとても真似のできるところではない。

だが士人は「經藝(こうとうむけい)」を論じ、有限である人生の貴重な時間を無為に送ってしまう。それというのも、科挙合格によって名誉と富を一気に手にしようとするからだ。賄賂に耽り、家を富ませ、財を肥やして悦び失うことを憂う。まことに「廉耻蕩然(はじしらず)」。加えて「家國の何物爲るかを知らず」。「名儒大家」などと世に「泰斗」と呼ばれる学者は日夜「經疏(じゅきょうこてん)を穿鑿し謬異を講究す」(3月16日)――

「廉耻蕩然」は大納得ですが、「如知端詳、下回分解」ということで小休止。《QED》
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2016年01月05日

【知道中国 1337回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡78)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1337回】      一五・十二・仲六

 ――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡78)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 朱子学であれ陽明学であれ、極論するなら「高度な頭の体操」。「言語玩弄」であり「観念の遊戯」といったところだろう。だが江戸の日本人は違った。朱熹や王陽明が書き残した文章に真正面から立ち向かった。脳味噌を絞り考え抜き、我が命と引き換えに実践に移した。そこに日本人の誤読、あるいは生真面目さが招きよせる過度の深読みがあったように思う。敢えて言うなら、漢字が読めることの不幸。嗚呼、同文同種・・・クソ喰らえ。

 半世紀程の昔、ある人の紹介で当時の日本における陽明学の権威という方に話を伺う機会をえた。その大仰な立ち居振る舞いは、20歳頃の若造から見てもクサすぎた。陽明学の神髄である「知行合一」について語ってくれたが、その時、明代の書籍に記された「会不会」「以為」を如何に読み解釈すべきか問われた。返答に窮していると、「『会(え)すや会さざるや』『以て為(おも)へらく』と読むのが正しいんです」と。その瞬間、ああこれはダメだ、と。じつは「会不会」も「以為」も現代でも日常会話でも使われ、単に前者は「できますか」、後者は「思います」の意味ではあれ、彼が熱く解説してくれたような“支那哲学の高踏で深淵な哲理”が隠されているとは思えなかった。当然、その後、彼の処に顔を出すことはなかった。お出入り禁止ではなく、コチラから敬遠(いや軽遠)である。

 8日、海南島からトンキン湾一帯を歩いて来た軍事密偵と思われる山吉の訪問を受けた。安南は武器弾薬食糧まで広東省に頼っている。だからフランスは広東と安南を結ぶトンキン湾の周辺港を封鎖し、安南に降伏を逼る方針らしい。兵站線を断つ作戦だ。

 翌日、中国人の友人が、台湾で予想外の抵抗がみられるところからフランスは攻撃の重点を安南に移した。広東と安南を結ぶ重要港を封鎖し、安南の息の根を止める作戦のようだ、と語る。香港で発行されている英字紙は、フランスは軍を2つに分け、陸上ルートでは安南から、海上ルートでは北海港から広東・広西の両省を「蹂躙」し、東南地方から清国に威圧を掛ける計略だと報じる。

 なにやら情報が入り乱れる。そこで岡は、

――どうにも西洋人の新聞は揣摩憶測ばかりだ。清仏戦争が勃発して以来、流言飛語の類が多く、新聞もまた誇張して人々の注意を引こうとする。まさに「一犬、實に吠えれば、萬犬、虛を傳う」とは、往々にしてこういう情況を指すのだろう。(3月9日)――

 古今東西を問わず、情報が商品である以上、客の好みに合わせなければ売れない。売るためには客の好みに沿わせる必要がある。いつの時代であれ、自分の好みに合わない商品にカネを払う客はいない。「西洋人」は「揣摩憶測」を好むから「西洋人の新聞は揣摩憶測」の類を流すのではないか。だが情報という商品が持つ特殊性、つまり他への波及力・訴求性・影響力を考えるなら、「萬犬」が伝える「虛」を排し、「一犬」が吠える「實」を如何に知るかが重要になる。だが、それが至難なのだ。

 11日、菅川なる人物がフランス人の記した台湾の戦況を伝えている。これまた関心を引いたらしく、岡は詳細を書き留めている。その概要を記すと、

――雞籠港は北は大海に臨み、3方は絶壁で守られている。西南の風を避けることが出来るが、備えのない北方からの風に多くの船舶は座礁し破損してしまう。石炭鉱山があり、「中土造船機器諸局(きんだいてきこうじょう)」が使う石炭を供給している。

 フランス海軍は5隻の艦艇で1200の兵を東南峡谷から防備陣の不意を衝いて上陸させ、奮闘の結果、初日には第一堡塁を、2日目には第二堡塁を落とした。「中兵」は苦戦の末に2日目夕刻には堡塁を捨てて潰走した。フランス軍は破竹の勢いである。(3月11日)――

 東海岸と同じで西海岸の要衝である淡水もまた「盡く法の手に歸す」のだ。《QED》

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2016年01月03日

【知道中国 1336回】「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡77)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1336回】         一五・十二・仲四
 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡77)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 これまでも岡は、孔孟の学問は後の中国の学問とは全く異なる。実学を求めた本来の孔孟の道は遥か昔に中国では廃れてしまった。実学重視の考えは、意外にも西洋近代の教育制度に生かされていると主張している。以下は岡の主張の集大成とも言えそうだ。

――孔孟の論ずるところは「大中至正」にあるが、後世の孔孟学徒は形式のみを紛々擾々と論ずるだけで、孔孟の学問の本質を考究しようとはしなかった。かくして現在に立ち至ったわけだが、『大学』は学問を論じて「格致」といい、「誠正」という。「誠正」とは「徳性」を尊ぶことであり、「格致」とはモノの本質を窮めること。徳性であり科学である。往古の三代の学には「誠正」と「格致」が鋳込まれていた。いま欧州の情況を概観すれば、宗教によって「徳性」を修めているが、上は王侯から下は衆庶に至るまで「救主(キリスト)」に誓い「十戒」を守る。だが、これは我が孔孟が論ずる志操の気高さとは異なる。

「格致」を深化させて「学問」となり、「天地萬物(てんちうちゅうのしくみ)」は実際に基づいて「實理」を極めるしかない。「政刑兵農工商(このよのいとなみ)」などありとあらゆる技芸は分れて「專門一科」となり実状に即するからこそ実業となる。それは万巻の書を渉猟して有り余る該博な知識を誇り、詩文を弄して名声を得て幸運にも財産を手にすることとは全く違うのだ。そんな世間の役に立たない行いなど、じつに恥ずべきことだ。

 西欧は日に日に強大になり、こちらは衰退するばかり。それもこれも学問の神髄に対する心構えが違うからだろう。かねてから西欧の学問を是とし、中国古来の学問を非としてきたわけではない。じつは「三代の聖人」が天下を率い「誠正格致之學(しんのがくもん)」を行なっていたなら、現在のようなブザマな姿になろうはずもなかった。

 これまでも説いてきたことだが、西洋では5歳にして小学校に進み、「語言文字圖畫算數體操。人生普通學科」を学ぶ。長ずるに及んで頭も良くなく困窮した家庭の子女は、「農商職工諸業(てんしょく)」に就いて生計の道を身につける。頭のいい子供は上級の中学に進学し、「天文地理動物植物(しぜんのことわり)」などを学び、自然科学の本質を窮める。その先は各科専門学校に入り、実際の情況に即して「實事」、つまり西欧流の人智を開き事業を成し遂げ宇宙が持つ生成化育の仕組みを学ぶことだ。

 専門学校を修了したら、在学中に学んだ学科に従って仕事に就く。文武百官はいうまでもなく、農商業、あるいは紡織に携わり、懸命に理財に努め機器を改良する。まさに科学技術は学問が生み出すのである。

 清国の惨状はいわずもがなではあるが、すでに往古三代の世では大学と小学を設置し、8歳の学童に「禮樂射御書數(じつようがくもん)」を教えていたではないか。三代の世に人材が輩出したのは、この制度があったからだ。(3月6日)――

 実学を軽んじて廃し、古典の字面のみの詮索に固執して数千年。ついに中華王朝は断末魔の時を迎えた、ということだ。とはいうものの岡に逆らうようだが、往古三代にマトモな学問が行なわれていたとは到底信じ難い。

 ここで現代に。毛沢東は人民に「専より紅」を求めた。専門知識(「専」)はその多寡や優劣によって人々に等級をつけ、何より平等を求める毛沢東式社会主義社会に格差を生む。だから誰もが「為人民服務」を柱とする毛沢東思想(「紅」)を断固として拳々服膺すべし、と。一方、毛沢東が築きあげた壮大な貧乏の共同体の解体という難事業に立ち向かったケ小平が唱えた「白ネコでも黒ネコでもネズミを捕るネコがいいネコだ」は実事求是、つまり屁の役にも立たなかった毛沢東思想への断固たる決別宣言。かく考えると、ケ小平の決断は、岡による中国の伝統学問に対する批判と互いに通ずるようにも思えるのだ。《QED》

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2016年01月01日

【知道中国 1335回】「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡76)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1335回】       一五・十二・仲二

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡76)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 近平政権が南シナ海の諸島嶼の領有問題に関し、アメリカなどの要求を撥ね退け紛争当事国に拠る2国間交渉を訴えるのも、その淵源は春秋戦国時代における国家間問題の解決の歴史に辿り着くことができそうだ。

 ここで強大な秦を現在の中国、趙・韓・魏・燕・楚・斉の戦国6国をヴェトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、台湾などに重ね合わせることはできないか。かく考えるなら、やはりヴェトナム以下の国々は単独で中国に当たることは不可能に近いから、やはりここは合従策に拠るのが得策だろう。だが、昨今のヴェトナムの動きをみると連衡策に乗ってしまったようだ。ということは関係諸国を各個撃破することで、中国は南シナ海の内海化に向け一歩一歩と進んでいることになる。

 じつは11月初旬、ハノイを訪問した習近平主席は、@老街⇔ハノイ⇔ハイホン間の381キロ(標準軌道・110億ドル規模)の建設に加え、A高速道路建設、B中国側が北部湾と呼ぶトンキン湾海域合同調査、C中国側による工業団地建設などでヴェトナム政府と合意した。腰の定まらぬオバマ外交が、やはり習近平政権をツケ上らせているのだろう。

 月が替わって3月になると、薄皮を剥すように岡の体調も回復に向くようになった。

 4日には久々に入浴する。裸の体を鏡に映し、「全身、肉は脱(そ)ぐ。僅かに骨皮のみ存す」。鏡に映った己の顔に、些かながら生気を感じたようだ。早速、床屋を呼んで髪を調えさせた。「気分大快」の4文字に岡の素直な気持ちが読み取れる。余ほどに嬉しかったに違いない。岡は綴る。

――香港は東西交易の要衝であり、出入りする帆船や蒸気船を合わせると年間で3万隻を越え、その賑わいは遥かに上海を凌駕する。港に停泊する蒸気船や戦艦から街頭に至るまで全て石炭よって動かされている。年間消費量は25,6万トンで、そのうちの10万トンは「我が三池の石炭」とのことだ。かつてはイギリス、あるいはオーストラリアの石炭が使われていたが、それらを三池炭が圧倒してしまった。ところが香港と日本との距離の3分の1にある台湾の𨿸龍産が出回るようになった。品質は三池炭に劣る。だが新たな燃焼装置を使うと、三池炭は圧倒されかねない。(3月4日)――

その台湾は清仏戦争の戦場でもある。台湾、安南、朝鮮半島と安定はしていなかったわけだ。

翌(5)日、友人の肩を借りて室内を歩いてみたが、「腰下綿弱。(中略)少頃眩暈」。長く伏せていたからだろう。そこに領事館の田辺公使がやって来て、全権大使に任ぜられた伊藤参議が西郷参議と仁禮・野津の2少将を従えて動き出した、と告げる。

――北京滞在中も、上海に戻っても「韓事」を論じたが、とどのつまり今回の交渉は「域外」のことであり、日清双方が信頼を欠き齟齬が生じたがゆえに、今回の朝鮮半島での紛争に発展した。伊藤参議は天皇陛下から下された使命を奉じ、日清双方が互いの国情を理解するなら、喜びの中に無事帰国できるであろう。そうなってこそ「兩國の慶」というものだ。(3月5日)――

岡は朝鮮での一件を一貫して日清両国の相互信頼の欠如から生じたものと見做しているが、日本側のみが相互信頼の醸成を訴えても詮ないこと。清国側にも相互信頼醸成への外交的努力を望むべきだろうが、この時期の清国側には「宇内大變局」の危機感を持った指導者は見当たりそうにない。いやはや全く・・・昔も今も。

6日、机に寄り掛かり本をぺラペラとめくっているところに友人の王観察がやって来て話し込む。話題が学術に及ぶと、岡は病後にも拘わらず熱弁を振うのであった。《QED》

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