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2016年02月26日

【知道中国 1352回】「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1352回】      一六・一・仲五

 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田6)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
 いわば清国を体にたとえるなら、脳味噌から足の先まで、より正確を期すなら頭蓋骨の天辺から足の小指の先の先の小骨まで、いや全身の骨の髄までもが烟毒に侵された挙句の果てに1840年のアヘン戦争を招き寄せ、遂には“中国近現代の悲劇”の幕が開いてしまったわけだ。

 かりに当時の中国で、「憂國ノ士時ニ禁烟ノ説」に従って「無知ノ人民」から「士人ノ道理ヲ解シ其酖毒ナルヲ知ル者」までがキレイさっぱりとアヘンと手を切り、個人的にも国家規模でも烟毒を排して真っ当な体に戻っていたら、おそらく清末以降のブザマな歴史を歩むことはなかっただろう。そうすれば孫文も?介石も、ましてや毛沢東も出る幕がなかっただろう・・・と思いたい。

 だが、そうはならなかったところに、あるいは中国と中国人を理解するカギが隠されているのかもしれない。同時に、後の国家・社会・個人にまで及ぼした烟毒の凄まじさを考える時、単純に西欧列強や日本の罪と糾弾するばかりでは済まないような気がする。やはり自業自得の4文字を思い浮かべざるをえないのだ。

 では、なぜ国家から個人のレベルまで骨絡みで烟毒に侵されてしまったのか。民族の体内に宿ったDNAというものを想定した時、やや飛躍しすぎるとも思うが、昨今の爆買いを連想してしまう。爆買いの民族であるなら、“爆吸い”をしたとしても何ら不思議ではなさそうだ。いや“爆吸い”の末裔だからこそ、爆買いに奔ると見るべきかもしれない。いや遡れば、文革にせよ50年代末の大躍進にせよ、その前年に起った反右派闘争にせよ、さらに遡れば毛沢東=共産党が権力を掌握するきっかけとなった土地改革にせよ、とにもかくにも挙国一致して、有無をいうことなく、誰かれなく、なりふり構わずの爆走、いや正確にいうなら“爆闘”だった。

 たとえば地主の土地を強引に取り上げ農民に分け与えた土地改革にしても、四川省の地主の妻として実体験した福地いまが語った『私は中国の地主だった』(岩波書店 昭和29年)には、「(地主から取りあげた)土地の分配が終わると、家屋の分配をして、その結果無産階級は突然有産階級に変わって来ます。・・・衣裳箱、テーブル、椅子、鍋、釜、湯沸しから花瓶まで分配されて、大はしゃぎです。・・・家族の多い農民たちは急に大金持ちになりました。また農民以外の無産者も農民と同じ待遇でしたので、みんなは大喜びで毛主席を神様のようにあがめて毛主席と共産主義を信仰し始めました。たしかに一生涯祈っても与えられなかった財宝倉庫を、毛主席から頂いたわけで、他の宗教などきれいさっぱりと投げ出しました。神様なんてどこにいましょう。起きるにも寝るにも毛主席です」とある。

 そう考えながら78年末にケ小平が開放政策に踏み切って以来の月日を振り返れば、カネに向って突進せよ(これを「向銭看」と表現したはず)の日々は、いいかえれば“爆稼ぎ”の日々だったはず。格差も、環境破壊も、山塞(パクリ)も・・・なにもかも全く眼中にはなかった。ひたすらカネ稼ぎに突っ走った。爆走であり、爆稼ぎである。

 おそらく改革・開放政策における勝ち組にとっては、「神様なんてどこにいましょう。起きるにも寝るにも毛主席です」ならぬ、「起きるにも寝るにもケ小平サマサマ」であったに違いない。

 ここもと然様である。懐かしの山河の懐に還り、自然に浸りながら陶淵明が呟いた「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」などといったしんみりと落ち着いた心境には不似合いな、およそ静謐とは対極にある民族だということだけは確かだろう。《QED》
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2016年02月24日

【知道中国 1351回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1351回】       一六・一・仲三

 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田5)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
 風水の理論から割り出して選ばれるのは善地だけではない。その日に埋葬すれば一族繁栄・子孫安泰間違いなし、というわけだ。

 ここで参考までに、我が体験を些か。バンコクで30年数年来の付き合いになる友人の2代目華僑の親族に、当時のタイで10本の指に入る資産家がいた。もちろん、彼も華僑の2代目である。父親が亡くなり盛大な葬儀も済ませ埋葬の段になった段階で、香港から招請した風水師から「その日に埋葬したら遺族は仲違いし。営々と築いた資産は雲散霧消しかねない。一族の将来を考えるなら、1年後の某吉日に埋葬せよ」とのゴ託宣。一族に異存はない。1年後の指定された日まで埋葬を延期したのだが、棺はどうなったか。バンコク都内の名刹境内にガラス張りでエアコン付きの建物を建て1年間安置した後、埋葬した次第だ。 
 
 そこで後日談だが、1997年の香港返還翌日に発生したタイを震源とする「アジア危機」に直撃され、一族も大打撃を受けてしまった。さすがに香港の著名な風水師もアジア危機までは想定できなかった・・・らしい。

 墓が終われば、次の話題はアヘンだ。やや長文でもあるので、少しく区切って引用し話を進めることにする。

「清人ノ鴉片ヲ嗜ム實ニ甚シク各地此毒ニ染マサルハナシ到ル處烟館ナル者アリ烟膏ヲ賣テ人ノ來タリ吸フニ供ス茶樓酒館必ス吸烟ノ室ヲ設ケ之ヲ以テ日用少ク可ラサルノ要具トナス者ノ如シ」

 当時、アヘン吸引のための施設が全国各地に設けられていたということ。「日用少ク可ラサルノ要具」の「少ク」は「欠く」と読むべきだろうが(あるいは誤植?)、アヘン吸引のために「日用少ク可ラサルノ要具」は烟館、茶樓酒館の他にランプ、キセルもあった。清朝政府は、これら「日用少ク可ラサルノ要具」の全てに税金を掛けていたのである。だからアヘン吸引者が増えれば増えるほどに税収は上る仕組みになっていたわけだが、さすがにアヘン吸引嗜好者の蔓延に危機感を抱いたのであろう。清朝政府は拱手傍観を改め内禁策と外禁策の異なったアヘン禁止政策を打ち出すこととなった。だが結果としてアヘン戦争を招き、亡国の瀬戸際と言う最悪の事態を招いたわけだから、やはり無為無策に等しい。

 国内でのアヘン流通から「日用少ク可ラサルノ要具」までをも禁じたのが内禁策で、アヘンそのものの輸入を禁じたのが外禁策。だが“上に政策あれば下に対策あり”のお国柄である。内禁策を励行すれば密輸入が増加し、外禁策を実施すれば国内での罌粟の秘密栽培が増加する。イタチごっこで実効なし。

 当然のように国力も民力も共に衰えてしまい、社会は機能不全に陥ってしまう。そこで「憂國ノ士時ニ禁烟ノ説ヲ爲ス者アリト雖モ涓滴ノ水燎原ノ?ニ敵スル能ハス」ということになる。つまり実効が挙がらないばかりか、却って排斥されてしまう。それというのも「之ヲ嗜ム者獨リ無知ノ人民ノミナラス士人ノ道理ヲ解シ其酖毒ナルヲ知ル者ト雖モ一タヒ此中ニ沈溺スレハ籍テ以テ鬱ヲ散シ悶ヲ破ルノ具トナ」すからであり、「覺ヘス性命ヲ害シ財産ヲ破ルニ至ル」ことになる。

 アヘンは「印度ヨリ來ル者既ニ輸入物品ノ大宗タリ聞ク近年其内地山西四川等ノ諸省ニ種植製造スルノ額亦巨多ナリト全國都テ毒烟ニ薫染セリト謂フモ過言ニ非ルナリ」という惨状を呈することとなるわけだ。

 じつは清朝政府は内禁策と外禁策を交互に実施してみたものの、いずれも期待したほどの効果は挙げられなかった。なにせ「道理ヲ解シ其酖毒ナルヲ知ル者ト雖モ」であり、であればこその「全國都テ毒烟ニ薫染セリト謂」う情況に陥ってしまったわけだから。《QED》
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2016年02月13日

【知道中国 1350回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1350回】         一六・一・仲一

 ――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田4)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
 次いで「清人ノ風習」に筆を転じ、大きく南北の別があることを示した後、南方では広東人が最も「敏捷強悍」で昔から「外國ト交通セシヲ以テ外人ニ慣ヒ稍固陋ノ習氣ヲ脱セリ」。省都の広州は他の開港場に較べ英語を解する者が多く進取の気風に富み、「外ニ出テ營業ヲ爲ス者甚多ク遠ク郷土ヲ離ルヽヲ憚ラス他ノ各省繁盛ノ地廣人ノ來テ店ヲ開キ營業セサルハナシ」。言語も風習も大いに異なるところから、他地方の人々は広東人を「異類」、あるいは「外國人視スル」。「米國及ヒ南洋各地ニ在ル者幾十万其大半ハ廣東人ニシテ餘ハ福建?人又次ハ浙江ノ人ナリ」と説いている。

 南方では長江中流域の湖南・湖北が「教化夙ニ開ケ人文極盛清國純粹ノ氣風」に富む。一般に北京・天津などの都市部を除けば北方人は「粗野ニシテ稍淳朴」で、体格は南方人と比較して「概シテ壮偉ナリ」と見做す。

 このように地域によって差はあるが、全国で共通する点は人が多く、騒々しく、そして汚い。そこで「南北各地人民屯聚ノ處毎ニ途上雜?行人肩摩往々擁擠シテ行ク能ハサルニ至ル其人躁ニシテ靜ナラス亂雜ニシテ整潔ヲ務メス途上高聲喧呼笑罵紛爭日夜耳ニ絶ヘス街路湫隘ニシテ塵穢?集至ル處皆然ラサルハナシ殊ニ人ヲシテ不快ヲ覺ヘシム」とした。

 それにしても、である。「高聲喧呼笑罵」「街路湫隘」「塵穢?集」と文字が並ぶと、否が応でも納得せざるを得ないから不思議だ。

 男女の別、纏足、河川に関する記述が続に続き、「清人一般ニ風水ノ説(地相ヲ見テ吉凶ヲ説クヲ云フ)ヲ貴ヒ」とし、墓地については「死者ヲ葬ルニ墓地ノ吉凶ニヨリ其家ニ禍福アリト稱シ豪富ノ家ハ多金ヲ費シテ墓地ヲ營シ或ハ善地ヲ得サルカ爲ニ死者數十年葬ル能ハサル者アルニ至ル其墓地一定ノ所ナク到ル處原野ニ?々相連リ麥隴圃ノ間ニ散布ス故ニ政府鐵道運渠等ノ如キ大工事ヲ起スニ當テ若シ豪家右族ノ墳墓ノ地ニ及フアラハ必ス多少ノ紛議ヲ免レサルへシト云フ」と綴る。

 ここに「數十年葬ル能ハサル者」と記されている風習、つまり棺を野晒のまま放置しておく風習を「停棺不葬」と呼び、長江下流域一帯で日常茶飯に行われていたようだ。たとえば黒田の旅行から数年後の清・光緒17(1891)年に江南地方一帯を管轄する江蘇布政使が、「江蘇の都市と農村では停棺不葬が行われている。――すでに夏になり、烈日炎天の陽気であり、蒸し返された臭気で疫病が容易に発生する。直ちに一斉に埋葬せよ」と布告しているほど。この布告に、どれほどの効力があったのか。おそらく全くといっていいほどに役には立たなかっただろう。それというのも江蘇布政使が出す一片の布告なんぞにご利益はない。「善地」こそが「其家ニ禍福」をもたらしてくれると固く信じ込んでいるからだ。

 「鐵道運渠等ノ如キ大工事」、つまり政府が進めようとしているインフラ工事が「豪家右族ノ墳墓ノ地」に掛かろうものなら、「多少ノ紛紛議ヲ免レサルへシ」とある。だが、これは19世紀末の文明未開時の“蛮行”ではない。じつは現在の中国で墓地管理を定めた殯儀管理条例を読むと、「一、耕地・林地。二、都市の公園、景勝地、遺跡文物保護区。三、ダム、河川の堤防付近、水源保護区。四、鉄道と幹線道路の両脇」での墓地造営は禁止されている。つまり現在でも、基本的には「墓地一定ノ所ナク到ル處原野ニ?々相連リ麥隴圃ノ間ニ散布」していることになる。牢固として確固たる伝統至上主義・・・嗚呼。

 ここで参考までに、現代において「麥隴圃ノ間ニ散布」された墓地が農業生産に与える影響の1、2例を挙げておくと、ある報告によれば80年代末期の安徽省では2500万基の墓によって13万トンに及ぶ食糧生産能力を持つ土地が奪われ、90年代半ばの福建省では47万基もの墓地が濫造されてしまったとか。いやはや徹頭徹尾・・・トホホです。《QED》
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2016年02月12日

【知道中国 1349回】「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1349回】        一六・一・初九

 ――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田3)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
「世ノ所謂漢學家ナル者」が中国の現実を把握・分析するうえでは役に立たないとは、現代にも通ずる批判・揶揄といってよさそうだ。だが語学、それも官話に加え貿易実務に必要不可欠な方言を習得せよとは、相手の理不尽極まる要求でもゴ無理ゴ尤もと媚び諂うことしか能のない現代の政治家には、思いつきもしない建設的で実践的な提言だ。

 おそらく現在、政治家を僭称し、あるいは知ったかぶりの恥知らずが蝟集する永田町で、中国と向き合う第一歩は中国語、それも重要な方言をもモノにすべきだなどとの声が聞かれることはないだろう。なにも中国だけではない。アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、韓国・朝鮮、ASEAN10ヶ国、イスラム諸国に対しても、国家の総力を挙げて外国語の使い手を育成すべきだ。外国に出張って莫大な援助をするだけが外交ではないだろうに。かく考えれば、明治を生きた黒田の方が、21世紀初頭の政治家より一層合理的な考えの持ち主であったといえる。

 「總序」に次いで「政体」を論じているが、一部に岡が『觀光紀游』に漢文で記した官僚制度の記述に酷似した部分もみられることから、岡の漢文を読み下し文に改めたものかも知れない。だが、後半部分になると内容は俄然、面白くなってくる。

 たとえば清国では平和な時代が長く続いたことから、なにからなにまでが緩みっぱなしで綱紀は乱れるばかり。役人は文書ばかり書いて実務を怠る。たまに1人や2人が奮起して綱紀粛正に励もうとするなら、議論は沸騰し非難轟々。周囲から妨害が加わり、足を引っ張られ、とどのつまりは元の木阿弥となることが少なくない。これこそが清国の「今日ノ通弊ナリ」と。
 また「清國ニ於テハ大ニ舊例ヲ重ンシ輕ク祖制ヲ變更スルヲ爲サス故ニ苟モ新創ノ事アレハ人ノ耳目ヲ駭シ群義沸騰スルニ至ル」とも。守旧主義という伝統が災いし、何か新しいことを始めようとすれば喧々諤々の議論が巻き起こる。だが、時代の流れには逆らえない。欧米の制度・法律に従って、政府機構に外務省に当たる総理衙門、外交使節に当たる遣外公使領事など新しい部局が創設されるなど、「新創ノ事」も少なくない。

 次の「風俗」の項では、「南北各省及ヒ滿州蒙古各其風習」を一々挙げたら限がないので「大同」、いわば最大公約数的傾向を挙げておくとし、「其士人ハ名教ヲ重ンシ禮讓ヲ講シ志趣高雅ナル者」が少なくない。「農工商ノ勤勞能ク艱苦ニ堪ヘ治世ニ汲々タル亦我邦人ノ及フ所ニ非ス」。だが、士人の学問は偏に科挙合格に向けられ、官に取り立てられることを希求するがゆえである。なぜかといえば「一タヒ官吏トナレニ及ヒテハ財貨ヲ私シ賄賂ヲ貪リ惟身家ヲ肥スヲ務テ官務ヲ顧ミサル者比々皆是其上流已ニ然リ下等ニ至テハ桀黠風ヲ成シ商タレハ價ヲ詐リ約ニ背キ工タレハ濫造粗製以テ人ヲ欺キ貨財ヲ騙取シ惟利ノミ是レ趨リ恬トシテ廉耻ヲ知ラサル亦清人ヲ以テ最トス惟農民ノミ田畝ニ勤力スル者稍淳朴ノ風ヲ失ハサルニ似タリ」
 どうやら「惟農民ノミ」を除いた「清人」は、官吏も商人も職人も利のためには人を欺き恬として恥じないらしい。そういわれればそうかもしれないが、そこまで真っ正直に、直截に言ってしまったら身も蓋もない。

 利のみを念頭に行動するうえに「上下一般惟自國アルヲ知テ外國アルヲ知ラス自ラ尊大ニシテ外國人ヲ軽蔑スルハ其固陋不通ノ致ス所ニシテ其文化ノ開ケタル全地球上ノ最先タルニ拘ハラス歐米人ノ之ヲ目ニシテ文盲野蕃トスルハ亦故ナキニ非サルナリ」と。

バカなくせに他人をバカ呼ばわりして欣喜雀躍・自己満足するかの振る舞い。欧米人が「文盲野蕃トスルハ亦故ナキニ非サルナリ」ではある。確かに。《QED》

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2016年02月10日

【知道中国 1348回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1348回】           一六・一・初七

 ――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田2)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
 「總叙」はヨーロッパ勢力の「亞細亞東部」に対する「遠畧」から説き起こし、イギリスはシンガポールを占有した後、植民地とした香港に東洋のジブラルタルの役割を担わせた。フランスは安南を押さえ、ロシアは北方からの侵攻を逞しくするばかり。かくして「清國ノ歐州諸國ノ侵侮ニ逢フハ東洋ノ不幸ニシテ我邦ニ於テ豈ニ對岸ノ火ヲ觀ルカ如キノ想ヲナス可ンヤ」。加えるに「英國カ俄然朝鮮ノ巨文島ヲ?領シタルハ我邦ト清國ニトリテハ所謂臥榻ノ傍他人ノ鼾睡ヲ容ルノ形状ヲ爲スニ至レリ」

 東洋に対する「歐州諸國ノ侵侮」は日に日に急。イギリスの巨文島占領に見られるまでもなく、日清両国は惰眠を貪ってはいられない。累卵の危機に直面しつつあるのだから。

 加えるに「各外國ハ東洋ノ一事件アル毎ニ一層ノ權力ヲ加へ清國ハ之ニ反シ必ス幾許ノ損害ヲ來シ貿易ノ利ハ悉ク歐米人ノ占ムル所トナリ其ノ其版圖廣大ニシテ物産浩多ナルモ自國ノ富強ニ補ナクシテ却テ他人ノ利ニ歸スルハ豈ニ憫ムヘキノ至リナラスヤ」。つまり、西欧列強はことある毎に清国に圧力を掛けるゆえに、清国の「貿易ノ利ハ悉ク歐米人ノ占ムル所」となってしまう。計り知れない経済的可能性を秘めながら、それを自国の富強に生かせない清国は、面映ゆくもあり憐れなことである。

 一方、清国まで「數千里ノ波濤ヲ越ヘテ來航」しなければならない西欧列強が清国の通商を押さえているのに対し、わが国は隣国であるにもかかわらず、「貿易來往ノ寥々タルハ」いったいどうしたことだ。

 東アジアを俯瞰した時、「朝鮮安南ハ共ニ論スルニ足」りない。やはり「我邦ト清國トノミ各益々獨立ノ基ヲ固フシテ東洋大勢ヲ維持ス可キナリ」。だが我が国の清国に対する態度は、「歐米諸國ノ鷹揚虎視其權力ヲ逞フスル」と同じであってはならない。通商関係もまた同じだ。

 明治維新以来、欧米各国に対しては使節、官吏、留学生などを盛んに派遣し、「其ノ學問ニ通シ其言語ニ達スル者」が続々と生まれている。だが「清國ノ事ニ至リテハ獨リ之ヲ度外ニ置ク者ノ如シ」。過去には「我國ノ制度文物」は中国に学んだが、維新以来の進歩によって「我國進化ノ度」において清国に先んじた。そこで「彼ヲ視ル頗ル蔑如スル所」となってしまった。そのうえ「世ノ所謂漢學家ナル者ハ殆ト一種ノ專門學トナリ彼ノ今日ノ事情ハ更ニ之ヲ研究スルヲ務メス」。ということは、中国の同時代の動きを的確に分析・把握するうえでは、当時も「世ノ所謂漢學家ナル者」は余り役には立たなかったわけだ。

 さらに紛争のタネとして台湾事件、琉球処分、朝鮮での事件も発生したことから、両国関係は極めて疎遠になってしまった。だが、天津条約が結ばれて以後。「頗ル兩國ノ情意貫通スルヲ覺ヘ」たうえに、一般国民も清国との貿易が利益を生むことを知った。この機を逃さず、政府は諸方策を果断に行うべきだ。

 欧米諸国に倣って清国との貿易を盛んにしようとするなら、「獨リ其文字ニ通スル者ニ止」まる「我邦ノ漢學ナル者」は訳に立たないので、「現今ノ事情ヲ研究」する大前提として語学の習得が肝心であり、やはり中国語に堪能な人材をより多く育てることが必要である。黒田は中国における方言にも着目し、中国事情を理解し貿易を活発化させるためには官話に加え広東語・福建語・ィ波語・上海語などそれぞれを「專習セシムへシ」とした。

 黒田が官話に加えこれら方言を挙げたわけは、官話は全国各地の役人との交渉に、広東語・福建語・ィ波語・上海語は南方沿海部主要港湾都市で取引交渉をする際に、どうしても必要だからであろう。

 以上が「清國ノ情況ヲ叙述スル前ニ於テ先ツ一言セサルヲ得サル所以」である。《QED》
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