
【知道中国 1349回】 一六・一・初九
――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田3)
K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
「世ノ所謂漢學家ナル者」が中国の現実を把握・分析するうえでは役に立たないとは、現代にも通ずる批判・揶揄といってよさそうだ。だが語学、それも官話に加え貿易実務に必要不可欠な方言を習得せよとは、相手の理不尽極まる要求でもゴ無理ゴ尤もと媚び諂うことしか能のない現代の政治家には、思いつきもしない建設的で実践的な提言だ。
おそらく現在、政治家を僭称し、あるいは知ったかぶりの恥知らずが蝟集する永田町で、中国と向き合う第一歩は中国語、それも重要な方言をもモノにすべきだなどとの声が聞かれることはないだろう。なにも中国だけではない。アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、韓国・朝鮮、ASEAN10ヶ国、イスラム諸国に対しても、国家の総力を挙げて外国語の使い手を育成すべきだ。外国に出張って莫大な援助をするだけが外交ではないだろうに。かく考えれば、明治を生きた黒田の方が、21世紀初頭の政治家より一層合理的な考えの持ち主であったといえる。
「總序」に次いで「政体」を論じているが、一部に岡が『觀光紀游』に漢文で記した官僚制度の記述に酷似した部分もみられることから、岡の漢文を読み下し文に改めたものかも知れない。だが、後半部分になると内容は俄然、面白くなってくる。
たとえば清国では平和な時代が長く続いたことから、なにからなにまでが緩みっぱなしで綱紀は乱れるばかり。役人は文書ばかり書いて実務を怠る。たまに1人や2人が奮起して綱紀粛正に励もうとするなら、議論は沸騰し非難轟々。周囲から妨害が加わり、足を引っ張られ、とどのつまりは元の木阿弥となることが少なくない。これこそが清国の「今日ノ通弊ナリ」と。
また「清國ニ於テハ大ニ舊例ヲ重ンシ輕ク祖制ヲ變更スルヲ爲サス故ニ苟モ新創ノ事アレハ人ノ耳目ヲ駭シ群義沸騰スルニ至ル」とも。守旧主義という伝統が災いし、何か新しいことを始めようとすれば喧々諤々の議論が巻き起こる。だが、時代の流れには逆らえない。欧米の制度・法律に従って、政府機構に外務省に当たる総理衙門、外交使節に当たる遣外公使領事など新しい部局が創設されるなど、「新創ノ事」も少なくない。
次の「風俗」の項では、「南北各省及ヒ滿州蒙古各其風習」を一々挙げたら限がないので「大同」、いわば最大公約数的傾向を挙げておくとし、「其士人ハ名教ヲ重ンシ禮讓ヲ講シ志趣高雅ナル者」が少なくない。「農工商ノ勤勞能ク艱苦ニ堪ヘ治世ニ汲々タル亦我邦人ノ及フ所ニ非ス」。だが、士人の学問は偏に科挙合格に向けられ、官に取り立てられることを希求するがゆえである。なぜかといえば「一タヒ官吏トナレニ及ヒテハ財貨ヲ私シ賄賂ヲ貪リ惟身家ヲ肥スヲ務テ官務ヲ顧ミサル者比々皆是其上流已ニ然リ下等ニ至テハ桀黠風ヲ成シ商タレハ價ヲ詐リ約ニ背キ工タレハ濫造粗製以テ人ヲ欺キ貨財ヲ騙取シ惟利ノミ是レ趨リ恬トシテ廉耻ヲ知ラサル亦清人ヲ以テ最トス惟農民ノミ田畝ニ勤力スル者稍淳朴ノ風ヲ失ハサルニ似タリ」
どうやら「惟農民ノミ」を除いた「清人」は、官吏も商人も職人も利のためには人を欺き恬として恥じないらしい。そういわれればそうかもしれないが、そこまで真っ正直に、直截に言ってしまったら身も蓋もない。
利のみを念頭に行動するうえに「上下一般惟自國アルヲ知テ外國アルヲ知ラス自ラ尊大ニシテ外國人ヲ軽蔑スルハ其固陋不通ノ致ス所ニシテ其文化ノ開ケタル全地球上ノ最先タルニ拘ハラス歐米人ノ之ヲ目ニシテ文盲野蕃トスルハ亦故ナキニ非サルナリ」と。
バカなくせに他人をバカ呼ばわりして欣喜雀躍・自己満足するかの振る舞い。欧米人が「文盲野蕃トスルハ亦故ナキニ非サルナリ」ではある。確かに。《QED》