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2014年11月05日

【知道中国 1127回】「実に多くの点において物を糊塗するの巧みなる・・・」(宇野12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1127回】       一四・九・仲七

 ――「実に多くの点において物を糊塗するの巧みなる・・・」(宇野12)

 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 宿に戻った宇野を曲阜の知事が訪ねてきた。日中両国の文化について語り合った最後に、宇野が改めて「魯國の地、孔孟の遺風猶存するものありや」と問うと、彼は「頞蹙して曰く、否、弊國の人士、口を開けば即ち孔孟を説く、然れども唯嘴裏のみ」と。

 ついぞ目にしたことのない「あつしく」とルビの振られた「頞蹙」の2文字からは、なにやら忸怩たる思いを胸にした知事の振る舞いが伝わってくるようで面白い。「弊國の人士、口を開けば即ち孔孟を説く、然れども唯嘴裏のみ」とは、やはりタテマエとホンネの乖離は昔も今も、いや、これからも未来永劫に不滅・・・ってことですかねえ。

 やがて曲阜に別れを告げるが、郊外にでた途端、多くの「流氓」、つまり難民に出くわす。彼らは「河南地方の洪水に家を失ひ産を破り、食を求めんが爲に遠く北に移るのである。老を扶け幼を携へて長途の旅路に餓と勞れで見るも哀れな有様である」。自然災害に戦乱を逃れた彼らの多くが目指した新天地は、日本による開発の始まった満州だった。

 宇野の時代より遥かに下った大正から昭和の交の頃、山東人が陸路と海路とで続々と滿洲入りしている。彼らの実態を調査した『山東避難民記實』(滿鐵臨時經濟調査委員会 昭和3年)に拠れば、昭和2年の1年間だけでも100万人を越える山東人が、単純出稼ぎ労働者として、あるいは「兵亂匪賊の人禍や水旱蝗蟲の天災に惱まされ喰ふに糧無く住むに所無き爲滿洲をより容易の生活境として渡來」している。前者は単身で、後者は一家眷属がうち揃って。時代が下るに従って後者が増加している――とのことだ。

 宇野の時代と大正末年から昭和初年の社会情況を一律に論ずることはできなとも思うが、それにしても中国における人々の地域性は、やはり確実に覚えておくべきだろう。

 やがて宇野の旅は山東、河北、河南の三つの省が交わる辺りに差し掛かった。この一帯の「風俗人情最も壞敗し、常に匪徒の巢窟である。特に秋期高粱が未だ収穫されていない時には、賊は屢高粱に隱れて居て突然出でゝ旅客を襲ふ。故に此時期は賊難を恐れて行客殆ど絶ゆるとの事である」。

 かくて宇野は進退窮することとなったが、幸運にも目的地を同じくする「鑣車」があったので同行することにした。「鑣車とは即保險附の車」で、現代風に置き換えればガードマン会社の護送車といったところか。都市のみならず、都市を離れたら尚更に治安は悪く金品の輸送には危険が伴ったから、強盗被害を恐れ予め保険を掛けることが当たり前であった。そこで全国各地の主要都市には、「この保險を引受くる店がある」。こういった店は各地の顔役に用心棒代を支払って輸送の安全を図った。顔役は荒くれ子分どもに最強の武器を持たせ、鑣車を警護させたわけだ。
 「鑣車に同行する」ことで、宇野は危険なく次の目的地に辿りついた。日本でなら「宿に着けば先づ服を更め打寛ぎ、湯に浴して終日の勞を休め、或は一杯の芳醇を汲み、溫かき夜具に寢ぬる」のだが、「支那内地では宿に着ても食ふものも無く、油燈の影暗い處に不潔な床に自ら携へ來つた毛布を纏ふてうたゝねをし、床虫に襲はれて安かに夢結びかぬることが多い」から、宇野も「床虫に襲はれ」ながら寝苦しい夜を過ごしたことだろう。

 じつは宇野は北京で「人情唯利を見て義を知らず、浮薄背信至らざるなきを見て」、それは北京の特殊事情であり、「北京の地は外人に接し誤つてこの惡習に染」まったのだろう。だから北京から全土を推し量ることは「群盲評鼎の誤りがあらふ」し、「廣く内地を見なければ輕々しく論斷してはならぬ」と戒めていた。殊に山東は孔子の故郷であり、「聖人墳墓の地なれば、冀くば遺風猶存し純朴古の如きものあるべしと豫想したるが、頗る失望せざるをえなかった」と。どうやら宇野の儚い期待は悉く裏切られてしまったようだ。《QED》
posted by 渡邊 at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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