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2014年11月08日

【知道中国 1129回】「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1129回】        一四・九・念二

 ――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野14)
 『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)

 やがて黄河を越えて河南省の省都である開封に入る。規模は北京には遥かに及ばないが、宋代には都だけあって雄大ではある。だが旅の途中で立ち寄った済南などに較べると衛生設備が整っていないこともあって、「到る處不浄が横つて居る」。「我が國の雜貨はボツボツ見受くる」。開封での宇野の宿泊先は小栗洋行という日本商社だった。すでに日本人は、ここまで進出していたのである。

 開封でも宇野は精力的に旧跡を訪れているが、興味深いのがヘ經胡同と呼ばれるユダヤ人街の探訪だろう。宋代に西方から移住してきた彼らは、明代に至って王朝から住宅を下賜され安住の地を与えられた。ユダヤ人街の路地の奥に「猶太ヘの寺があつたが、今は其跡陷没して直徑三十間斗りの池となつて、猶太人の子孫が其の池水に洗濯などをして居る」。あちこち散策していると、「猶太人の子孫」と思われる人々に囲まれたが、彼らにはユダヤ人の面影はない。なぜなら「幾度か支那人との雜婚の結果、容貌などは少しも區別は出來ない。服装も凡て支那人と同様である」と感想を洩らす。

 宋代といえば、いまから1000年ほどの昔である。中国以外に移り住んだユダヤ人がユダヤ人として生き抜いてきたのとは違って、流浪の果てに東方の異邦に流れ着いたユダヤ人は、時の流れの中で漢族の大海に否も応もなく呑み込まれ、とどのつまりは「服装も凡て支那人と同様」になってしまったということだろう。どのような民族であれ、漢族という坩堝に呑み込まれたら最後、個々の民族が生まれながらに秘めて来た特性は溶解され、結果として漢族化してしまう。ウイグル、モンゴル、チベット、朝鮮族のみならず数多の総数民族が直面している民族的惨状を考えれば、その感化力というか漢化力の凄まじさに、改めて脅威を感ずる。

 新進気鋭の人口経済学者の梁建章は「中国の人口の長期にわたる均衡ある発展を保障してこそ、人口と社会経済、資源と環境の調和のとれた持続的発展が保証できる。こうしてこそ、21世紀が真の中国の世紀となりうる。世界の強国に伍し、長きに亘って成長し衰えることのない立場に立てる。いまや中国の人口政策を徹底して解放せよ。いまや多産を奨励する時に立ち至った」(『中国人太多了??』(梁建章・李建新 社会科学文献出版社 2012年)と、声高に叫んでいる。

 また現代中国における華僑・華人研究の第一人者で知られる陳碧笙は、海外に多くの漢族(系)が居住する根本は、「歴史的にも現状からしても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動は停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」(『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社 1991年)とする。

 であればこそ、改革・開放政策の勝ち組である多くの富裕層が莫大な資産を懐に海外に移り住んでいる事実は、船の沈没を予感したネズミが船から脱出する様に似て共産党政権の危機を予感しているからといったレベルで捉えるのではなく、より深刻に考えるべきだ。

 どうやら宇野の開封探索は雨に祟られたようだが、「仲秋に至つて晴れた」。「朝から所々に爆竹の越えが聞こえる」。「月餅の外、柿、梨、桃の類凡て圓形を供へ、今日は皆晴れ衣を着け相往來して賀意を表すること、御正月と同じやうである」。異郷で対した「皓如たる名月」に、宇野は「寂寞の境に在つて、昔ながらの名月に對し、徘徊去るにびず」との思いを綴っている。

 20日余の山東・河南旅行を終え、北京に戻る。次に目指したのは長安。翌年の「九月三日午前七時、畏友桑原學士と同行長安に向かひて北京西火車站を發」したのである。《QED》
posted by 渡邊 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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