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2015年03月28日

【知道中国 1220回】「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1220回】          一五・三・念七

 ――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2−1)
 曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)
 
 曾根は『北支那紀行』(1201回〜1204回)の著者である。経歴をみると、明治5(=1872)年に日清修好条規批准書交換のための外務卿・福島種臣の清国訪問に随員として参加。帰国後の同年末に海軍中尉に。明治7(=1974)年の台湾出兵に際し上海に派遣されている。その後も度々上海に渡り、時に明治天皇の前で清国事情を進講したこともある。

 この本を出版した明治16(1883)年の翌年に勃発した清仏戦争(1884年〜85年)に対する政府の態度が、曾根には歯がゆく感じられたようだ。アジアに対する関心が低すぎる、というのだろう。そこで著した『法越交兵記』が伊藤博文の逆鱗に触れ、明治21(1888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁された。後に無罪とされ、西郷従動らの支援を受け清国に渡り、清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇をえて景勝地の蘇州に居を構える。

 後に中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持ったということだから、その点を頭の片隅に置いて『清國漫遊誌』読み進んでみたい。あるいは明治8年出版の『北支那紀行』と明治16年出版の『清國漫遊誌』を読み比べることで、この間の日本における清国観や清国政策の変化を知ることができるかも知れない。

 さて冒頭に曾根は「明治甲戌ノ歳」に上海に渡ったら「偶々台湾島ノ役興ル」と記す。この年は明治7(=1874)年に当たり、「台湾島ノ役」とは台湾出兵を指す。曾根の上海滞在が「偶々」であったかどうかはさて置き、やはり日清間の最初の衝突でもある台湾出兵に就いて簡単に押さえておく必要があるようだ。

 明治4(=1871)年、台湾に漂着した琉球島民54人が殺害される。早速、明治政府は抗議するが、清国政府は台湾原住民は「化外の民」だということを理由に、明確な対応をみせなかった。清国側の振る舞いに業を煮やした明治政府は明治7年4月に西郷従道を司令官とする軍隊を送り込み、台湾を押さえた。かくて大久保利通が交渉を担当することになるわけだが、清国側は台湾を自国領に留めることに成功したものの、賠償金支払ったうえに、従来は朝貢国であった琉球王国の日本帰属を認めることとなった。一面でいうなら明治政府にとっては対清国外交における最初の勝利、ともいえるだろう。

 曾根は当時の「日清騒然タリ」とした情況下での両国国民の対応を、「清人ハ云フ東洋一點彈丸ノ小島、戰ハズシテ降スベシ況ヤ小國ノ大國ヲ侵ス豈ニ勝ツノ理アラザランヤト日人ハ云フ巨礟一擊燕京ヲ陥レテ後ニ止マン師ハ直ヲ壮ト爲シ曲ヲ勞ト爲ス豈ニ國ノ大小ヲ論センヤト」

 ――清国人は、「東洋(にほん)なんて弾丸一粒ほどのチッポケな小島だ。戦争せずとも降伏させてやる。どだい小国が大国に戦勝しようだなどと、ふざけ切った話だ。勝てる理由があるわけないだろうに」と口にする。これに対し日本人は、「巨礮(おおづつ)でガツーンと攻撃して燕京(ぺきん)を陥落させてから矛を納めよう。師(いくさ)は一気呵成を旨とすべきで、曲(ぐずぐず)していては損耗するだけだ。戦いの勝敗は、国の大小では論じられないのだ」と――

 かくして互いが憤激し、相手を罵り、嫌悪するばかで、結局は国土防衛の精鋭数千を戦死させ、清国側は50万テールの賠償を払うことになってしまった。だが「今亜州ニ獨立國ト呼ハル者」は「僅ニ日清ニ過ギサル耳」。加えて両国は「兄弟」だ。昔から「兄弟牆ニ鬩メクモ外其侮ヲ禦グト」いうにもかかわらず、「歐米ノ凌辱ヲ甘受シテ徒ニ一家ノ爭鬪ヲ釀成」するばかり。いまや「外侮ヲ防キ國權ヲ張ラント」する時だ。ならば「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法ヲ求メザルベケンヤ」。曾根は日清不戦を説く。《QED》

posted by 渡邊 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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