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2015年04月22日

【知道中国 1232回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室9)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1232回】         一五・四・二十

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室9)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 日中戦争時の蔣介石麾下の国民政府軍の実態を調べていると、小室が指摘する清国軍の悪しき“軍規”を引き継いだ司令官や兵卒が数多く登場してくる。やはり「好鉄不当釘、好人不当兵」という漢民族古来の伝統は生きていたようだ。翻って世界第2位の経済大国を支える現在の人民解放軍では、この種の陋習は根絶されたと思いたいわけですが・・・。

 清国軍隊に関する興味深い指摘は、まだまだ続く。

 とどのつまり「支那ノ兵隊タランモノハ爭擾ノ際ニハ敵ニアレ味方ニアレ物質ヲ分捕リシテ隨意ニ逃亡スルヲ以テ利uト爲スノ外ナキナリ」。つまり兵の本分は掠奪にあるわけだ。

 たとえば福建省の馬尾での戦闘に際し清国政府は「三十万兩」の戦費を調達したが、戦闘終了後に兵営に戻ってみれば「一兩モアラザリシ」。フランス兵が強奪したわけではなく、清国兵が「分取リテ」逃走しただけ。「陣亡セシ清兵ハ五千人以上ナリ」と伝えられたが、「其ノ死セシト思ヒシ兵卒ハ各散ジテ本國故郷ニ歸リタルモノ多」いのが実情とか。そこで「外國新聞之ヲ評して幽霊ノ歸國ト迄嘲」るのであった。この一例をみても、清国軍隊のブザマな姿が想像可能だろう。

 しかも戦場で負傷したところで彼ら傷痍軍人を手当てする病院も、医師も、薬も、宿も、家も、食もカネもない。「徒ラニ道路ニ哀號悲泣」する悲惨な様は「諸外國人ノ親シク目撃セシ所」である。

 かくして「腐敗シタル兵隊ノ下ニ組立テラレタル兵營」の惨憺たる姿は、容易に想像できるだろう。舶来の新式洋式銃は少なく、「其ノ十分ノ七八分ハ皆ナ舊式ノ火縄筒又ハ大刀、楯、刀、ノ如キモノ」が武器で、「夜間ハ毎人提灯ヲ持チ」、「雨中ニ兵卒各個ニ雨傘ヲサシテ進行スルガ如キ其他其ノ擧動ニ至リテハ抱腹絶倒ニ堪エザルモノ有ルナリ」。

 清国軍の時代遅れの「抱腹絶倒ニ堪エザル」姿を、30年前の嘉永年間にやってきたペリー艦隊に対しする江戸幕府の海防の姿に譬える。江戸幕府が続けた「篝火ヲ焼キ高張提灯ヲ立テ弓張提灯馬上提灯等ヲ.點」する夜間海防態勢を目にしたペリー艦隊は、日本「ノ兵ハ未ダ戰ヒヲ知ラズ與シ易キノ敵ナリト笑」ったとのことだ。

 小室は、「今彼ノ支那兵ガ〔中略〕夜間ニ提灯ヲ點シ或ハ夥シキ旗幟ヲ建テ列子(ね)ルガルガ如キハぺルリ氏ヲシテ評セシメバ之ヲ何トカ曰ン實ニ支那兵ハ實用ニ適セザルヲ見ルニ足ルベシ」と評す。時代遅れというのか、時代錯誤というのか。ともかくも「ぺルリ氏」でなくても、驚嘆しつつ抱腹絶倒せざるをえないほどに「實用ニ適セザル」のである。

 小室は上海のみならず天津でも兵士を目にし、練兵場を覗いてみたが、服装・装備・練度からして「支那十八省中ニテ兵ト稱スベキモノ」は李鴻章軍だけと断言する。

 その李鴻章軍こそ、「一昨年朝鮮ニ出張ナシ居タリシ」清国軍だった。「一昨年」、つまり明治15(1882)年7月に李氏朝鮮で発生した壬午政変(壬午軍乱)に際し、李鴻章は隷下の軍隊を送り込み、政変に勝利し政権を掌握した閔妃(1851年〜95年)に加担し朝鮮への影響力強化に努め、日本の前面い立ち塞がった。これが引き金となって、14年後には日清戦争へと繋がることになるが。

 どうやら日本人が最初に目にした生身の清国兵が、「支那十八省中ニテ兵ト稱スベキモノ」である李鴻章軍だった。そこで「支那ノ國情ニ通ゼザルノ日本人」は清国軍全体が「改良セシ」と勝手に思い込み、李鴻章軍並の装備と練度を持っているとオメデタクも勝手に誤解してしまったことになる。だが現地で自ら詳らかに見聞すれば判ることだが、やはりどうしようもなくダメな軍隊だった。たとえば練兵場では旧式火縄筒を闇雲にぶっ放すだけ。これを笑うと、「銃砲ハ音サヘスレバ善シト曰ヒタリ」。嗚呼、処置ナシです。《QED》

posted by 渡邊 at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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